「放送禁止歌」

 森達也著  デーブ・スペクター監修  解放出版社 



 丸山哲也



 今、私の手元に「放送禁止歌」と書かれたテープがある。収録されているのは「金 太の大冒険」「極め付けお万の方」「吉田松陰の歌」といった、つぼイノリオによる 一連のエロ系ダジャレソングと、なぎら健壱の「悲惨な戦い」(本書に詞の全文が掲 載されている)等。どれもこれも罪のない、おフザケのような歌だが、確かに公共の 電波に乗せるにはふさわしくないだろう。水面下で密かに出回って、そのテのものが 好きな人やシャレのわかる人の腹を抱えさせる…そういう流布のしかたが似合っ ているような気がする。
 が、丸山(現・美輪)明宏の「ヨイトマケの唄」、岡林信康の「手紙」、山平和彦 の「放送禁止歌」あたりになると、ちょっと事情が違う。詞を読んでみた限りではそ れらは実に素晴らしいもので、放送禁止どころか、むしろ積極的に世の中に広めるべ きだと感じる。「ヨイトマケ」は“土方”という言葉(これが差別用語? アホらし い)があるからマズいということらしいが、冗談ではない。私はこの詞を、涙なしに 読むことはできなかった。虐げられながらも、ひたむきに生きようとする人間の強さ をここまで見事に謳い上げた歌を、私は他に知らない。
 このように、本当に優れた歌を放送メディアからシャットアウトしてしまうシステ ムは、いったいどのようにして生まれ、機能してきたのだろう。

 本書を手に取り、一読してまず驚かされるのは、一般に言われる「放送禁止歌」な るものが、現在においても過去においても、全く“存在しなかった”という事実。卑 猥な言葉や差別表現(イヤな言葉だ)があるために放送できないという例を除けば、 放送禁止歌などというものは一切ないのである。
 世間一般では、政治的メッセージの強い曲や風刺的な曲などがテレビやラジオで流 れないのは、それらが国家権力やそれに類似したもの、あるいは一部圧力団体によっ て封じ込められたからだと信じられている。本書は、それが実は大いなる共同幻想で あり、放送禁止歌を生み出しているのが、実は無自覚なメディアであるということを 浮き彫りにしている。

 「放送禁止歌」(正確には「要注意歌謡曲」というらしい)は、日本民間放送連盟 が制定した、単なるガイドラインでしかない。仮にそれらを放送したとして、局側に は何のペナルティもない。放送したければ、放送するのは自由なのである。誰も規制 などしていない。局側が勝手に姿なき圧力を恐れて「あの曲を放送するのはヤバい」 という噂を流しているに過ぎないのだ。
 著者の森達也氏が、自身が演出したテレビドキュメンタリー「放送禁止歌」の取材 過程で調べあげたそれらの事実は、本書に克明に記されている。歌を規制する巨大な 権力の正体を握ってみれば、それは吹けば飛ぶ霧の如きもので、ハナから存在などし ていなかった…。これは、著者のみならず読み手にとっても意外なことであった。

 ただ、本書には一つだけ“見落としているもの”がある。それは、「表現」という ものに病的に反応し、攻撃をしかけてくる偽善者たちの存在である。
 森氏は、すでに形骸化した、姿なき規制を引きずらないようにするためには、メディ アが「自覚性を持つこと。主語を自分にすること」、つまり、曲を流すか流さないか は放送する側が自分の頭で考え、判断すべしとしている。「抗議が来ると鬱陶しいか ら」といって逃げることだけは、メディアはしてはいけない。それはよくわかる。
 しかし、それだけで「放送禁止」(歌だけでなく言葉も含めて)の問題は解決する だろうか。私は、メディア側に「めんどくさい」という気持ちを起こさせるクレーマー 、つまり、正義の側に立ったつもりになっている善良な市民サマにこそ問題があると 思っている。
 映画、テレビ、小説、マンガ等の言葉や言い回しをご丁寧にチェックしては「これ は差別だ」とわめき立て、一切の反論を許さない(何しろ、自分達は世の差別と戦う 正義の味方だと信じ込んでいるのだから)頑迷さがメディア側を萎縮させ、骨抜きに してしまっているのである。
 こういう連中に対する考察がないのが本書の欠点である。もっとも、その問題をほ じくり返すと、それだけで別の本が一冊できてしまうかも知れないが。

 ともあれ、全ての「表現」に携わる人、放送禁止歌に関心のある人には、本書は必 携の一冊である。

 
 

戻る