フェミニズム映画の決定版、男はいらない!・・・
「アントニアの食卓」
桑島まさき
96年度米国アカデミー賞最優秀外国語映画賞に輝いたオランダ、ベルギー合作映画「アントニアの食卓」は、近年における
「フェミニズム映画」の金字塔と私は思っている。
監督は「ダロウェイ夫人」のマルレーン・ゴリスで、「ダロウェイ夫人」にみられる”意識の流れ”的作風ではないが、
脈々と受け継がれる女たちの生命力の逞しさを描いた御伽噺のような作品だ。 物語はアントニアという中年女が娘のダニエルを連れ、
母の危篤を見舞うために実家のオランダの村を久しぶりに訪れるシーンから始まる。アントニアは美人ではないが、働き者で気のいい
肝っ玉母さんタイプだ。足首がキューと締まっていて、何人でも子供を産めそうながっしりした体型をしている。
ダニエルの父親については何も語られない。昔、故郷を出ていったアントニアの突然の帰郷について閉鎖的な村の人々はすぐに噂にする。
? しかしアントニアは気にもかけない。娘のダニエルも母の気質や思想をしっかり受け継いでいるようだ。
? 村には、”月に吠えるロシア女”のオルガ、”曲がった指”の異名をもつ博学の中年男、子供たちからもバカにされている”ウスノロ”と
呼ばれている若い男、兄たちにイジメられているデイデイという若い女、など個性的な人たちでいっぱいだ。
最初はアントニア母子を警戒していた村の人々は、やがて二人の寛容さに触れ集まってくるようになる。農作業をしない日のアントニアの
庭での食卓の人数は次第に増え笑いに包まれる。
ある日、娘のダニエルが「子供がほしい、でも夫はいらない」と言い出す。
アントニアは思案した挙句、「村では無理だから街で探そう」といい二人で都会に出て男、つまり精子の提供者を探す。そこで訪れた先が、
シングルマザーの集会所みたいな所。そこには「男は不要、妊娠している時が快楽」と豪語するレッタという女を筆頭に、逞しく先進的な
生き方をしている女たちばかりが集っていた。ちょっと事情が違うが、デ・シーカの「昨日・今日・明日」では、ソフィア・ローレンも
同じようなことを言っていたことを思い出す。「妊娠が性にあうようなの」と言い、妊娠するたびに艶を増し成熟していく。
対照的に夫役のマルチェロ・マストロヤンニは生気を吸いとられしょぼくれるばかり・・・。
つまり、ここでの女たちは自然の摂理に忠実に子供を産みたいと希望し出産し、子供を育てる逞しく自然体の女たちばかりなのだ。
男に捨てられ仕方なくお腹の子供を産まねばならない女たちは一人もいないのだ。頼もしいと思わないだろうか。
オランダという国の社会構造的な違いによるものなのか。「映画で読む21世紀」(長坂寿久著・明石書店)に「オランダ映画の魅力」
という章がある。それによると「寛容性こそがオランダ文化のコア」であり「異質な人々が自分の責任において自分の生き方を生きられ、
干渉しない成熟した国だからこそ、ユーモアとしての『覗き』が可能なのである」とある。
安楽死を認め、ヨーロッパの同性愛者の天国ともなっているオランダという国。
そこに生きる女たちは、その「責任」という名の元にこんなにも自由な選択を享受することができるとは、羨ましいとは思わないだろうか?
ダニエルはレッタの紹介で、ステキな男と子作りのためのセックスをする。
一日何回も励み、幸運にも妊娠に成功する(ちょっとあざとい感じもするが・・・)。
そして出来たダニエルの娘はテレーズと名づけられる。アントニアにとって孫にあたるテレーズは、早くから神童ぶりを発揮し、
村の子供たちと外で遊ぶよりも”曲がった指”の部屋で本を読んだり博学家の話を聞くことに興味を覚えはじめる。
その間、ダニエルは娘の小学校の担任である女教師とレズ関係に陥り、アントニアも女を卒業した訳ではなく、「又、セックスが必要に
なったの」といい好意を持ってくれていた村の男といい仲になる。男に依存するのではなく、自分の本能に逆らわず、イニシアティブは
自分がとる。徹底的に女が主流の気持ちよさ。あちこちに愛の花が咲く村。
アントニアの食卓は、自然体で生きる女たち、その関係者でいつも和やかだ。ユートピアそのものだ。
成人してテレーズは数学と音楽の権威となる。”知性の人”テレーズは男よりは本の人。どんなセックスも彼女を喜ばせはしない。
そんなテレーズが幼馴染のシモンの子供を妊娠した時、彼女は世のフェミニストのように子供より仕事が大事だから、と迷うのだが「産む」
選択をする。つまり、女としての本能に任せるのだ。
そして生まれた子供がサラとなり、本作のナレーションをしていたことが、この時になってようやく知らされる。
永遠の輪廻。「生」ある者は「死」の運命は免れないが、ここには女たちの意志で累々と繋がってきた
確かな命の輪廻がある。