失われた手に込められた民族の思い・・・・「アララトの聖母」


                                                                               桑島まさき




 

 1915年、ある日突然、消失してしまった町がある。今までそこに存在していたことが幻に思えるほど唐突に、それは、消えた。その歴史
の真実を知る人は今はもう、少ない。
 本作「アララトの聖母」を語るには、まずアルメニア人の悲劇の概略を説明しなくてはならない。現在のアルメニア共和国は、西に
トルコ、北にグルジア、南にイランと接する小さな国だ。19世紀初頭、ロシアがイランの属領であった南コーカサス東部を併合すると、
近隣のイランやトルコに住んでいたアルメニア人が移住するようになった。オスマン帝国東部には、ヴァンを始めとする6州があり、
ここにもアルメニア人が多く住んでいた。しかしここには古くからクルド人が住み着き、新参者のアルメニア人に保護料や婚姻料と称する
不当な要求をつきつけ、アルメニア人を苦しめていた。そこへもってオスマン政府が諸々の税金をアルメニア人に課すようになり、徐々に
クルド人やオスマン政府との間に緊張がうまれ、時には武力衝突さえおこすようになっていった。問題が大きくなるにつれ時のオスマン
皇帝はアルメニア人虐殺によって民族間の紛争を解決しようとした。これが歴史上明らかにされている最初の虐殺である。同様に第一次
世界大戦下の1915年、ロシア軍に壊滅的な敗北をきした政府軍はその責任を「アルメニア人のロシア協力」に転嫁し、民族粛清、つまり
大虐殺が行なわれた。その数、300万人はいた
 といわれるアルメニア人のうち、150万人が迫害の犠牲になったと言われる。運良く迫害を逃れたアルメニア人は北米やロシアやシリア
に避難し、離散の憂き目を余儀なくされた。 

 本作の物語の中心となるヴァンという町は歴史の古い町で聖なる山、アララト山を一望できる。このヴァンに住むアルメニア人達は、
オスマン軍の攻撃に果敢に挑みロシア軍の援護を待ったが、壊滅的な打撃を受けた。この惨劇の記録は、アメリカ人、クラレンス・
アッシャーによる「トルコのアメリカ人宣教師」によって記され、トルコ政府の非道を世界に知らしめることとなったが、政府はいまだに
事実を否認しつづけている。
 歴史の真実はまだまだ埋没している。私たちが歴史教科書で学んだ「歴史」とは、人間の持つ10本の指のうち1本分に過ぎないのでは
ないだろうか。もしトルコ政府が否認する「アルメニア人大虐殺」が広く知らされていたら、後のナチスによる「ユダヤ人大虐殺」は
防げたかもしれないという仮説は考えられないだろうか。ユダヤ人がドイツ人と戦争などしていなかったように、アルメニア人もトルコ人
と戦争などしていなかったのに、民族はむごたらしく同じ人間によって「清算」された。ある日突然、人類史上例をみないむごたらしい
「虐殺」という形で、自分たちが生き残るためにアルメニアの民は無残にも歴史から姿を消されてしまったのだ。

 アルメニア人の悲劇を世に知らせようと願う人々によって、失われた歴史の灰から真実を紡ぐために、<映画>によって歴史の真実を
広く認知させようとする人々。名監督サロヤン(シャルル・アブズナール/フランスの名優)はアッシャーの記録を元に映画化を企画し、
そこへ悲劇の犠牲者の一人である今はなき画家、アーシル・ゴーキーの絵画「芸術家と母親」をモチーフにすることを思いつく。そのため
にはゴーキーの研究に詳しい美術史家のアニ(アーシニー・カンジャン/エキゾッチックな美女)を時代考証として映画製作に参画させる。
脚本家ルーベン(エリック・ボゴシアン/「トーク・レディオ」が懐かしい!)もサロヤンもアニーも皆、海外に住むアルメニア人だ。
 映画の撮影はカナダで行なわれているが物語の舞台はヴァンだ。しかし役者を移動させると経費がかかるので、背景をCG処理するため、
アニの息子のラフィが自身のルーツである町に旅立ち撮影してくる。
 しかし、カナダ税関でフィルムがひっかかりラフィは足止めをくう。ラフィ(デビット・アルペイ/本作が映画デビュー)と税関員
デビット(クルストファー・プラマー/ハリウッドで活躍するカナダ人役者)の問答が続く。ラフィが伝えるアルメニア人の悲劇に熱心に
聞きいる税関員。その間に映画撮影は順調に進み、ラフィの<語り>=<真実>?が<映画>によって描かれていく。その合間に
ニューヨークに移住したゴーキーの「芸術家と母親」の創作風景が挿入される。つまり、現在と過去、現実と虚構が巧みな時間軸の構成に
よって描かれていくのだ。

 映画的手法の巧みさはそれだけではない。アルメニア人の悲劇を<映画>という方法で歴史上の真実を暴くというだけではなく、複雑に
絡み合った人と人との関係性をも織りこみ、絆の強さや脆弱さと浮き彫りにすることで、普遍的なテーマに挑んでいる。
 映画に参画しているのはアルメニア人だけではない。トルコに住むトルコ人の役者もいる。アルメニア人を迫害したトルコの総督役を
演じるアリは、成育する過程でこの悲劇をしらないので事実を受け入れられず役を降板する。迫害の記憶を忘れることのできない監督、
サロヤンはこの報告をうけて彼にシャンパンを持って行くようにという。そして語るのだ。
 「我々の痛みとは、民族や土地が失われたことではなく、今もアルメニア人というだけで憎まれ、民族としてのアイデンティティーを
否定されているということの痛みだ」と。
 アニと息子のラフィは仲睦まじい母子だが、アニの再婚相手の連れ子のシリアがラフィと恋仲になり、シリアはことごとくアニに反発
する。再婚した実父が自殺した原因がアニにあると思い込み義母を恨んでいるシリアは、父の自殺の原因を究明し、父の名誉を証明する
ことが自暴自棄に生きる彼女の生きがいとなっているのだ。
 一方、実父の死に疑問をもつラフィは、義妹であり恋人であるシリアと母であるアニの板ばさみとなり胸を傷めている。何の接点も
持っていないようにみえる人々が作中で関わりをもち、曖昧さや疑問は残るものの、スリリングに展開していく脚本は見事という他ない。

 ゴーキーの絵画は未完だったのか? それとも完成後、つながれた母の手は消されたのか? 画家自身の手によって・・・母の手の
温もりは忘れなくても、あの惨劇だけは忘れたい。なのに忘れようとしても忘れられない凄惨な過去の事実。消された「手」に託された
画家の痛みを汲み取るために、虐殺された大勢のアルメニア人の生命を無駄にしないように、過去と向き合う必要は言うまでもない。
同様のことは個人レベルの歴史についても言える。一人一人が犯した罪や過ちを認めることで開かれる新しい未来。
 <記憶>と<真実>を正しく示すことの困難さを実感した作品だ。謎は沢山残されている印象は否めないものの、登場する人々の解放
感が印象的だ。
 宗教的な音楽、卓抜な脚本、壮大な歴史劇。アトム・エゴヤン、入魂の一作だ。ポランスキーが「戦場のピアニスト」を、
スピルバーグが「シンドラーのリスト」を撮ったように。


  *10月4日より 日比谷シャンテシネ他 全国順次ロードショー


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