子どもたちの豊饒な世界……「誰も知らない」
桑島まさき
本作を試写室で観る前日、本年度カンヌ国際映画祭で日本から出品された本作「誰も知らない」(是枝裕和監督)に出演した柳楽
優弥(やぎら ゆうや)君が、史上最年少で主演男優賞を受賞した、という吉報が飛び込んできた。そんなこともあってか試写が
始まる30分前に余裕をもって入ったにもかかわらず補助席での観賞となり、補助席にも座ることができないプレス関係者は仕方なく
退散していった。公開までまだたっぷりと時間はあるのにだ。いかにカンヌでの“日本人受賞”が影響したかは想像に難くない。
ところで、この柳楽優弥君は平成2年生まれの14歳。TVやCMに出演したものの映画出演は本作が初めてである。切れ長の目が
利発そうな印象を与え、ハンサムな少年というよりも味のある少年だ。この年にして“味のある”少年というのはなかなか想像
できないのではないだろうか? 母親に捨てられた幼い妹弟たちの精神的支柱となる長男の役どころで、代わって「母親」と
なった責任感と、遊びたいさかりの思春期の鬱屈したエネルギーとの狭間で必死に感情をコントロールしている様が健気で、作品
自体が実際に起きた事件を題材にしているだけにその恩恵を被り同情票を集めた感は否めないものの、本当にイイのだ! 恐らく、
実際の事件の「長男」は柳楽君が演じた「明」そのものだったのではないかと思えてくる。
12歳の明は母と新しいアパートに引っ越した。世間一般のフツーの住民のように母のけい子は明をつれて隣人に挨拶をする。主人
は海外赴任で忙しく、長男の明は小学校6年生で勉強もよくできて…何も問題のない家庭のように。が、荷物のトランクから、次男
の茂と次女のゆきが登場する。この瞬間、この家族にはなにか理由があることがピンとくる。ほどなく明が、トランクに入りきれ
ない長女の京子を駅に迎えにいく。そして福島家は引越し後初めての夕餉を家族一緒に和気藹々とした雰囲気の中食べる。
福島家は母子家庭で、子ども4人の父親は皆違う。特別説明はないが、結婚できない相手とそれぞれ関係し子どもを産み、認知
してもらえないまま母のけい子がデパートで働きながら子ども4人を育てている。しかし…。
子どもたちは出生届を出されていない。つまり、戸籍に表記されない「存在しない子どもたち」なのだ。母親のけい子は何故それ
を怠ったのか? 日本特有の戸籍制度では、未婚者が子どもを産んだ場合、戸籍には非嫡出子(婚外子)と記される。非嫡出子と
表記された子どもが世間からイジメられることを恐れたからだと思われるし、けい子自身にシングルマザーだと世間の偏見に
晒されることに対する恐怖心があったのではないだろうか?
実際、仕事をもち相当な給料をとり、シングルマザーとなって子どもを育てているたくましい女たちは数多く存在する。彼女たち
は自分の選択に自信と誇りを持っている。しっかりと<産む>選択をし<育てる>決意をし、親としての<義務>を果たしている女たちだ。
当然の如く腹を傷めて生んだ自分の分身である子どもに充分な教育をうけさせ、世間一般の子どもとかわらないように子どもの権利
を重視し、親としての義務を果たそうと努力する。時には市民集会などに出て、シングルマザーの会に入ったり差別的な<非嫡出子>
に対する戸籍改正を求める声を大にしたりしている。筆者はそういう女たちの集会に仕事で何度か参加したことがあるが、皆、自分
の生き方に恥じない立派なお母さんたちだと心底感じた。
本作の母親けい子は、彼女たちほど強くはない。けい子役を演じるのYOUのチャーミングな魅力も手伝って、この母親はとても
可愛らしく憎めない。実際の事件が発覚した後にマスコミが次々と書きたてた「子どもを置き去りにした鬼のような母親」像とは
かけ離れている。学校に行きたがる子どもたちの願いを、イジメられるよ、の一言でかたづけてしまう身勝手さはあるもののの、
子どもたちを大事にしているし惜しみなく愛情を注いでいる。だから子どもたちも母親が大好きだ。
しかしながら、日本では子どもの権利として中学まで教育を受けることが義務づけられている。市民の<義務>を怠ることは非市民
的行為であることは間違いないし、出生届けをだしていないから学校に行かせない、というのはあまりにも非常識すぎる。これでは
自分の人生の失敗としての<お荷物>=<子ども>が誕生した、と解釈されても仕方がないのではないだろうか?
けい子が働きにでている間、長男の明が一家の母親のように買い物をし料理をし家計簿をつける。明だけが外出を許されている
のだ。長女は洗濯係だが、ベランダにおいてある洗濯機の傍までの「外出」だ。福島家が住んでいるのは2DKのアパートだ。
広くはない。そんな中で遊びたいさかりの子どもたちは日がな箱庭のような空間で過ごすしかない…家族以外の人たちと接する機会
がない…大きな声をだすと隣人に気づかれるのでいけない…フツーでは考えられない“誰も知らない”生活を送っている特別な家族
なのだ。
それでも子どもたちはとても楽しそうだ。(4人共みな可愛らしい!)時々、学校へいきたいと思うことはあっても物資的に事たり
ているし、優しい母が注いでくれる愛情が家庭には満ち溢れているから。
しかし、ある日、母は明に「好きな人ができたの」と打ち明け、しばらくしてわずかな現金とメモを残し家をでていってしまった。
優しくチャーミングな母は仄かな女の色気をプンプン発散させ男にモテることを窺わせる。その日から子どもたち4人だけの生活が
はじまる…。
母と一緒に住んでいた頃は生活苦は微塵も感じられなかったが、母からの仕送りがなくなり生活費が尽きると、子どもたちは食べ
られず、衣服はすりきれ、電気や水道をとめられ、無人島での生活のように悲壮感を帯びてくる。しかし子どもたちがこんな生活を
しているとは“誰も知らない”。それでも心優しい外の世界の人々もいる。
明は母の昔の男に借金を依頼し、コンビニのお兄さんに余ったおにぎりを恵んでもらう。イジメられている同年齢の女の子と仲良く
なり心の支えになってもらう。「行政の力をかりたら」とコンビニのお姉さんにアドバイスされるが、4人一緒に暮らせなくなります
からいやだ、ときっぱりと断る。アルバイトをすることもできない明が、破綻した生活を何とか支えようとする姿が胸を打つ。
困窮し乞食同然の生活を強いられているのに、それを拒否する明のかたくなさには外からは窺いしれない満ち足りた家族
(4人だけだが)の世界があるからだろう。恐らくそれは“誰も知らない”精神的に豊かな世界だ。だから、イジメられて学校に
いっていない紗希は経済的に恵まれた生活を送っているように見えるが、精神的な欠落感を埋めるかのように明のアパートへやって
きてその距離を縮めていく。
それでも明が野球チームに参加し子ども“らしく”何かに夢中になり、笑い、叫び、汗を流すのを見るにつれ、そしてその間、
次女が事故で死に、その死の責任をしょいこんで自分を責める明の不幸を思うと、外界と接する機会を与えられなかった母のエゴを
感じずにはいられない。さらには葬式もだしてもらえず“誰にも知ら”れず冷たい土の中で眠る次女の短い生命を思うと。
様々な問題を内包し充分な議論を要する作品だが、それはもしかしたら大人の偏狭な視点だろうかと思われてくる。逆境に生きる
子どもたちなのに悲壮感がなく明るく、思ったほどヤワではない子どもたちの強さ。もしかしたら少子化傾向にある私たちは子ども
たちを勝手な枠組みで解釈しているのかもしれない。中東の貧しい子どもたちは“働かなければいけない子ども”たちだということ
を私たちはマジッド・マジディやバフマン・ゴバティの作品を通してしっているはずだ。ホームレスの人々の中には、金銭的な理由
からではなく、精神的な自由を求めてその生活を選択した人も、実は多いのだ。
外からは窺いしれない“誰も知らない”自由でのびのびとした世界を明がそこに感じ取ったのは確かだ。だからこそ、聡明で
責任感の強い「家長」としての彼は、その世界を持続させる道を選んだのだ。
*7月末もしくは8月初旬
シネカノン有楽町、シネ・アミューズにて公開予定