オキナワの重厚な風が、静かにゆったりと吹き……「風音」

桑島まさき

 

 
 オキナワを舞台に小説を書きつづける芥川賞作家・目取真俊の作品の映画化。戦争の傷跡がいまだ癒えない壮絶な沖縄戦が繰り広げ
られたオキナワならではの題材を、豊かな自然に育まれた中で戦争を知らない世代の子供たちの無邪気な遊びを通して、平和で長閑な
村の重い歴史をさりげなく描いていく。原作者が脚本も書いている点も着眼すべきだろう。
 蒼い空、白い雲、さとうきび畑、広く澄んだ海。海からの風が村を撫でるように一日中吹いている。小さな村に帰ってきた若い母親
(つみきみほ)と息子。幼い息子はすぐに近所の男の子と仲良くなり、仲間たちと釣りをしたり昆虫をとったりと自然と戯れて遊ぶ
のに忙しい。
 少年の母親はDV被害者で夫から逃げるように実家へ戻ってきたことが徐々に明らかになる。ホントに長閑な村だ。作品の鍵となる
清吉おじ(地元の海人の上間宗男さん)は、海にもぐって魚をとり日々の糧を得る。人々は果物や魚や野菜を分け与え助け合って
暮している。

 時折、風がキーンコーンと妙な男をたてる。風葬場の岩の上に置かれている頭蓋骨の穴(沖縄戦で敵の銃弾が頭を貫通したために
あいたもの)を海風が通り抜ける時にたてる音だ。さながら骨が泣いているような音をだすので、地元の人々はこれを<風音>とよび、
頭蓋骨を<泣き御頭(うんかみ)>と名づけ戦争の記憶として畏怖し敬っていた。そう、平和の世がきてもオキナワの人々にとっては
戦争はまだ終わっていないのだ。少年達は戦争をしらないが、家族から聞いてなんとなくわかっている。しかし、子供たちのイタズラ
心が疼く。頭蓋骨の横にガラス瓶を置き、海風が骨を通り過ぎないようにしてしまった。
 風は毎日、村の生活を潤してくれるのになぜか<風音>がならなくなった。人々はいぶかしがり、余所者がきたからだとか、
<泣き御頭>が怒っているからだ、不吉なことが起こるのではないか、と普段は心根の優しい村人だが、土地に古くから根ざしている
信仰心に篤い彼らは危機を感じ取るとつい排他的な感情をもってしまう。

 村にはもう一人、ヤマト(本土)からの客があった。噂にきく頭蓋骨は、沖縄戦で戦死した初恋の人のものではないかと探し
まわっている老婦人(加藤治子)。老婦人はツテで清吉を訪ねるが寡黙な清吉は何も喋らない。老婦人が帰った後、探し人の名前を
聞いた清吉は大事に預かっている万年筆に彫られた名前を確認する。清吉は静かに回想する。子供だった時に体験した沖縄戦の
むごたらしい現実を。そして確かに見たことのある頭蓋骨の主を…。
 その頃、事件が起こった。若い母親の暴力夫が村へ妻と息子を連れ戻しにやってきた。嫌がる妻を夫は無理やり浜辺で犯す。自分の
モンだからトーゼンだとばかりに。事がすんだ後、若い母親は持っていたナイフで男を刺し殺してしまう。
 そこへ助けにやってきたのが清吉だ。何事もなかったように死体を処理し、親子に疑いがかからないようにすぐに村をたたせる。
その手際のよさ。そして清吉は、若い母親が男を刺したナイフとあの万年筆を、頭蓋骨のある風葬場に埋めるのだ。苦い思い出は
すべて土の中に収め、生きていかなければいけない厳しい現実があることを、戦争を知る清吉は誰よりもよく知っているのだ。東陽一
監督に抜擢された地元の海人だという清吉役の上間宗男さんは風格を感じさせ、こんな年の重ね方をしたいと思う人は多いことだろう。

 結局、老婦人は初恋の人の遺骨に会えなかった(そう思っている)。清吉は何も言わない。しかし、頭蓋骨はずっと待っていた、
この日を。村を立つ日、タクシーの中でビリビリにちぎった初恋の人からもらった手紙が、風に吹かれ、手紙の差出人に届くシーンは
感動的だ。生きたくても果たせなかった一つの命の重さ。子供だった清吉はその重みを知っているからこそ、どんなことをしてでも
生きていかなければいけないことを、無言で示唆してみせるのだ。
 東陽一は音楽に過剰なまでもこだわりをもっている。これまで沖縄映画といえば、かならず使用された三線(サンシン)は使用
されず、ジプシーバンド「タラフ・ドゥ・ハイドゥークス」の生命感溢れる楽曲が効果的に使用されている。
 米軍のヘリが上空で轟音をたてながら飛ぶ毎日。頭蓋骨は今日も、静かに音をたてて泣いている。戦争がもたらした哀しみを
忘れないように…。


 *7月31日より ユーロスペース、テアトル新宿にて公開中
 


       


戻る