『クリント・イーストウッドについて語ってみよう〜「許されざる者」「ホワイトハンター、ブラックハート」〜』
松村清志
先ず最初におことわりしておきたい。以下の文は「ミリオン・ダラー・ベイビー」を観る前に執筆したものである。「ミリオン〜」
を観た後で少し加筆したいことや関連付けて語りたいこともあるのだが、きりがなくなるのでそのまま発表することとした。
「ミリオン・ダラー・ベイビー」については又、機会を改めてミリオンだらだらトーキングしたい。
シネアストとしてのクリント・イーストウッドの評価を決定づけた「許されざる者」(92)から、あえてひとつ$ュ治的といって
いいテーマを取り出すならそれは「銃規制」である。これはもはや゙定説゙といってもよい。「銃規制」は簡単なテーマではない。
簡単なテーマなら何故「ボーリング・フォー・コロンバイン」(03)のような映画が作られてしまうのか。「エレファント」(04)という
カンヌ映画祭グランプリ作品も記憶に新しい。
では、「許されざる者」は「銃規制」について賛成しているのか、反対しているのかという点に言及する前に、前々作「ホワイト
ハンター、ブラックハート」(04)がどんな映画であったのかを振り返ってみたい。ひとことでいえば「ホワイトハンター〜」は
エレファントを撃ちにいく映画であった。映画撮影そっちのけでエレファントを撃ちにいこうとする監督ウイルソンに対して脚本家
ペーターは「それは犯罪(CRIME)ではないか」と問う。それに対してウィルソンは「罪(sin)」と答える。そしてラストでディレクター・
チェアに腰を降ろした彼が「shoot」と発語して画面はフェイド・アウトする。
しいていえば「ホワイトハンター〜」はキリスト教のモラルを背負いつつあえて罪を犯すことで神に挑戦するという形而上的・実存
哲学的なものと、銃を撃つこと(-shoot)と映画を撮影すること(=shoot)を重ね合わせた映画論とを渾然一体化させようとした作品では
なかったのかと思われるのである。
ボクシング好きで猿好きの変人監督の物語を、知る人ゾ知る60〜70年代初頭にかけてコメディ・ウェスタンの監督であったバート・
ケネディが脚本して、イーストウッド作品としては「ダーティ・ファイター」(78)タイプのエンターティンメントとなるかと思いきや、
何とも深刻めいた仕上がりにいささか面食らったものだが、76年に映画界をフェイド・アウトしていったケネディの最後の監督作は
日本未公開のパルプ・ノワールの巨匠であり゛安雑貨屋のドストエフスキー゛と形容されるジム・トンプスンの小説「内なる殺人者」
の映画化であったから、おそらく「ホワイトハンター〜」はそうした゛裏ケネディ゛の手になる脚本だと解釈してよいのではないか。
ドライヤーやブレッソンじゃあるまいし神など持ち出すなという声も聞こえてきそうだが、アメリカ人の8割はクリスチャンであり
「ペイル・ライダー」(85)の主人公はプリーチャーと呼ばれていたことを忘れてはなるまい。
そして犯罪(CRIME)と罪(sin)の違いについて考察してみるならば、犯罪はあくまで地上のモラルにもとずくものであり、罪はもっと
根源的・本質的な神の前に立った時にそれは許されるのか?ということになるのではないか。
そうして、銃を撃つことも映画を撮影することも、共々、shootというのは決して偶然ではなく、ほとんど宿命的な必然なのだと
イーストウッドは本気で信じているのではないかと思われるのだ。
さて、「許されざる者」である。この「銃規制」を強権発動して町を仕切るサディスティックな保安官を、かって銃によって多くの
人を殺めてきたそのことに罪の意識を抱いて一度は銃を捨てた主人公が,再び銃を手にして殺しにいくという物語から読み取るべき
ものはもはや明白であろう。
要約すれば、「銃は罪である。銃を手にして人を殺めてしまった者は罪深き許されざる者である。しかし,それでも銃は規制しては
ならぬ。何故なら、銃を規制することは銃によって発展したアメリカという国、銃による神話である西部劇というジャンル、さらには
shootされる映画というメディアをも否定することになりかねないからだ」とでもいった風にまとまるであろうか。
罪であり許されぬと認識しながらも規制してはならぬという矛盾、「許されざる者」はそのことのやりきれなさが全編に重く
まとわりついたような映画である。西部劇史の陥没点であると同時に突出点でもあるかのような映画、はたしてこのようなものが
作られてしまってよいのだろうかとハスミ虫してしまうべきか。あるいは黒沢清のように映画は恐ろしいといってしまおうか。
最後に演技者としてのイーストウッドについても少しだけ述べておきたい。イーストウッドは演技が出来ないという意見がいまだに
根強いようだが、僕はそれには異論がある。セルジオ・レオーネの評伝でイーストウッドはイタリアに渡ったあたりからマリリン・
モンローの男版のようなセクシー・ボイスを心がけて意識的に喋り方を変えていったという記述を読んだ時は「やっぱり!」と
思ったし、「スペース・カウボーイ」(00)の主人公の若き日の声はイーストウッドが若々しいイントネーション(?)で吹き替えており、
実はかなり演技の出来る人なのではないか。
「ホワイトハンター〜」で演技者としてのイーストウッドはラストの決め台詞にいちばん惹かれたのではあるまいか。あの「shoot」
という微妙かつ重々しく響く声を耳にした者が、何故イーストウッドは大根だなどと口にしうるのか。
以上、shootにこだわる映画ファンのshoot根性を付け加えてこの一文をしめくくるとしよう。