人生芝居は、ぶっつけ本番…「ジャンプ」

                                                                           桑島まさき
                             
 


人気小説家・佐藤正午の同名小説の映画化。筆者が原作を読んだのは数年前だが、ミステリー、恋愛小説、純文学、それぞれの要素
を均等に含んだ秀逸な作品に感服したものだ。読後感としていつまでも残る作品は少ない。本作は“何か”がいつまでも筆者の
頭にはびこって離れなかった。それは、男と女の意識のズレだ。もしもあの時…タラレバを言っても仕方がないのにどうしても
言いたくなる人生の矛盾。リハーサルなし、ぶっつけ本番の人生だからこそ、その時々の選択や決断が深い意味を持つ。
 男性読者を前にして敢えて言わせてもらうと、男の単純さに比して自分が選択した人生に潔く身を投じていく女の逞しさだ。
恐らく、それは大方の男女が実感しているであろう現実だろう。映画はほぼ原作どおりに描かれている。
 三谷純之輔(原田泰造)とみはる(笛木優子)は恋人(?)同士だった。いつものように日曜日にデートをした帰り、次の日の
出張に控えて羽田に近いみはるのマンションに泊めてもらうことになった三谷は、その日飲んだに飲み慣れないカクテルにひどく
酔っていた。三谷がグーグー寝ている間、毎朝欠かさず彼が食べるリンゴを買いにみはるは近くのコンビニへ走った。
 しかし、翌朝、三谷が起きるとみはるの姿はなかった。心配だったが三谷は出張へいかねばならないのでそのまま飛行機に乗った。
 それっきり三谷はみはると逢えなくなってしまった。みはるはアパートに戻らず、会社をやめ、三谷に電話ひとつよこさない。
みはるの不在を心配した彼女の姉もアパートに様子をみにくるが杳として行方がしれない。突然の恋人の失踪にとまどい三谷は足跡
を辿るのだが…。

 ところで二人は恋人同士だったのだろうか? 結婚の約束の有無は別として大人の男女が交際をしてそれなりの関係が深まれば
必然的に恋人と呼ぶべきだろう。二人はキスをかわしマンションに泊まりあう仲だが、みはるは三谷のことを<三谷さん>と
よそよそしくよんでいる。みはるの足跡をおう三谷は探せば探すほど、分っているつもりでいた恋人について知らないことが沢山
あったことに気づいていく。
 小説と映画に接していない人のためにネタばれにならないように気をつけて書くと、二人が離れ離れになった触媒…リンゴ、
カクテル、手紙…については、心が通い合い、深い絆で結ばれた恋人同士であれば難なくクリアできたはずではなかっただろうか。
 なぜ、三谷は恋人の不在を気にかけながらも鳴り響く<電話>にもです飛行機に乗ったのか? 何故、みはるは気になる<手紙>を
三谷にみせて真相を迫らなかったのか? そして、何故三谷は“その日”も<リンゴ>を食べなければいけなかったのか?
 つまり、恋人同士だと思っていた二人の間に介在していた絆は有るようで無いものであり、しっかりと結ばれていたものでは
なかったとしか言えない。

 やがて二人が再会する瞬間がきた時、三谷は会社の同僚だった鈴乃木早苗(牧瀬里穂)と結婚し一児のパパになっている。そして
過去のいくつもの「事実」の積み重ねを経て「真相」を知るのだが、その他人事ではない現実の成り立ち方を前に、観る者は衝撃を
受けるだろう。巧みな伏線をはりめぐらしていた作者の見事なプロットを知るにつれ、二人の<すれ違い>の過程を知るにつれ、
佐藤正午の小説家としての手腕に舌を巻くことだろう。
 そして過去へジャンプしても遅すぎる人生の厳しさを突きつけられるのだ。原作と比べて、三谷の妻になる鈴乃木早苗がしっかり
と描かれている。原作での鈴乃木早苗はどちらかというと目的のためには手段を選ばない怖い女のイメージが強かったが、本作では、
楚々とした中に強さとしたたかさを秘めた女性として好感がもてる描かれ方をしている。近頃しっかり大人の女の雰囲気が漂って
きた牧瀬里穂の、自分の望む人生は自分でつかんでいく強さの前に、三谷とみはるという恋人同士の関係性はあまりにも儚すぎた
ような気がする。それが幸か不幸は別として。
 今一度、あなたの大事な人との絆について考えてみてはいかがだろうか? そんな提案をしたくなる作品だ。


 *5月8日より テアトル新宿にて公開予定
     
   


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