もうチョコパイはいらない……「マラソン」
桑島まさき
自閉症の19歳の少年がいる。見たところわからないがこの少年チョウォン(チョ・スンウ)の精神年齢は5歳、他人と意思疎通する
能力がなく、他人の感情を理解できないので、フツーの19歳のように社会に適応することができない。当然、家族の庇護もしくは特殊
学校等で教育や訓練を受けるしかない。チョウォンの母親キョンスク(キム・ミスク)は息子が小さい頃、育てる自信がなく
チョウォンを無意識に捨てようとした過去があるが、今では身障者の息子を育てることを生きがいし、毎日を息子のために生きて
いる。
チョウォンの毎日はいつも母親と一緒だ。走るのが大好きな息子のために何とか才能を伸ばしてやりたい母は、息子にコーチを
つける。ハーフマラソンで3位入賞した息子の次なる目標は、フルマラソンを3時間以内で完走する<サブスリー>に挑戦させること。
そのためにはきちんとマラソンを学ぶ必要があると考えたのだ。コーチはかつて名ランナーだったが今は酒浸りの飲んだくれのソン。
ソンコーチはやる気がなく、夏の炎天下のもと、練習したいチョウォンを適当に走らせ、自分はビールを飲んで、いい加減。
いつしか夫との仲も冷え切った一家は母子家庭のようになっている。チョウォンの世話にあけくれるキョンスクは、もう一人の息子
(チョウォンの弟)にはあまりかまえない。
チョコパイとジャージー麺が好きなチョウォンは、練習から戻ると、好きな動物番組をみ、日記をつけ、母に見守られながら生活
する。シマウマが好きなもんだから、時々シマ模様の服やバッグをもった女性をみると、ついつい近寄り抱きついたりして問題は
起こすものの…。
コミュニケーション能力がないから健常者と共生することはできない。でも、そんなチョウォンだって人の心を動かすことは
できる。いい加減な指導しかしないコーチが百周走れといえばそのとおりにする。言われたことはチョウォンにとって絶対なのだ。
その一途さ、懸命に物事に取り組む姿勢は、人生を諦めていた人たちの心を捉えていく。
コーチはこの少年の力になりたいと思うようになり、マラソンの戦い方を本格的に教えるようになる。二人は二人三脚で目標を
めざしてがんばるのだが、身障者の息子が自分以外の誰かと親密になると今度は母のキョンスクが心配になってしまう。本来ならば
息子が巣立っていくのを喜ばなければいけないのに。ソンコーチの粗野な行動や言動が息子に悪影響を与えていると思ったキョンスク
はコーチと大喧嘩し、マラソンをやめさせようとするのだが……。
好きなマラソンをやめさせられたチョウォンの悲しみ、次男の非行、家族の問題。家族崩壊の危機に瀕し、胃に穴があくほどの痛み
をガマンしていたキョンスクはついに入院となる。母とソンコーチという二人の保護者をなくしたチョウォンはマラソンの日々を
失い、職業訓練校であじけない日々を過ごすのだが…。
この作品は身障者を持つ母の事例として参考になるのは言うまでもないが、それ以前に普遍的な母と子の物語として感動的だ。
それは、チョウォンが自分の意志で一人でバスに乗り目標の会場へ向かい、自分の好きなマラソンを選択するシーンに明らかにみて
とれる。苦しいレースの途中、何故彼は、諦めそうになりつつも苦しい思いをしてまで完走しようとしたのか。目の前にチョコパイを
差し出された(?)からではない。かつて母がそうしたように。
これを成し遂げないと自分は先へ進めないとチョウォンは、自分の人生を自分で決定したのだ。草原を走るシマウマのように
のびやかに。身障者にだって自立する意志、自分の人生を自己決定する権利があることを、彼はマラソンによって示したのだ。
韓国を感動の渦に巻き込んだ本作は実話に基づいているだけに説得力があり、辛い話だがせつなさの中にユーモラスな演出を添え、
随所に笑いを誘う。秀逸な人間ドラマだ。
人生はマラソンだ。チョウォンはこれからの長い人生をきっと自力で乗り越えていくだろう。
*7月2日より 丸の内ルーブル他全国松竹・東急系にて公開予定