70年代の匂い 「ザ・インタープリター」「ミリオンダラー・ベイビー」を観て
丸山 哲也
ほぼ同時期に公開された「ザ・インタープリター」と「ミリオンダラー・ベイビー」には70年代の匂いが色濃く漂っている。
・・・、かなり独断と偏見に満ちた見解だな、と、我ながら思う。どうかご勘弁いただきたい。何しろ、私自身の映画鑑賞の出発点
が70年代のド真ん中であるため、ちょっとでも“あの頃の匂い”がしようものなら、「これのルーツは70年代にあり!」と思い
込んでしまうクセがあるもので。
ただ、先に挙げた2作品に関して言えば、これはさほど的外れなものではないと思う。なぜなら、「ザ・インタープリター」
「ミリオンダラー・ベイビー」を手掛けた監督、シドニー・ポラックとクリント・イーストウッドの2人は70年代の映画監督の代表
選手と言える存在だからだ。
まず、シドニー・ポラック。この人のデビュー作は1965年の「いのちの紐」。故に、純粋な70年代作家と言えないのでは
ないかという向きもあるだろう。そこで思い出していただきたいのが75年製作の「コンドル」。ド素人と言ってもいいくらいの
CIA下っ端職員がプロの殺し屋を出し抜いて対等に戦うという愉快なプロットの中に、国益のためなら自国の国民を少しくらい犠牲に
してもかまわないという国家のエゴの醜さを織りまぜたこの異色スリラーは、公開当時、あまり評判が芳しくなかった。が、その一方
で、作品自体が持つ洗練されたムードと、従来の巻き込まれ型スリラーにはない、得体の知れない無気味さが買われ、後にカルト的
人気を得るに至った(聞けば、リーガル・サスペンス小説で知られるジョン.グリシャムもファンの1人で、「ペリカン文書」の
セントラル・アイディアは「コンドル」からヒントを得ているとか)。
「ザ・インタープリター」にも、さすが「コンドル」の監督、と思わせる、良心的映画人の底力がありありと見て取れる。「暗殺
計画」によって生きながらえようとする権力者の醜さ、暴力によって世界を変えようとすることの空しさ、どんなに世界が残酷で
あっても捨ててはならない「理想」。そういったものが、この作品には満ち溢れている。そしてそれは70年代半ば、オイルショック
による混乱の直後に作られた「コンドル」からそっくりそのまま受け継がれたものだ。「ザ・インタープリター」に70年代の匂いが
感じられるのは、シドニー・ポラックという監督が、「コンドル」という優れた政治サスペンスを手掛けた頃と全く変わらぬスタンス
を保ち続けているからなのだろう。
次はクリント・イーストウッド。この人の監督としてのデビュー作は71年の「恐怖のメロディ」。ポラックと違って、キャリア面
では間違いなく「70年代の人」である。しかし、彼の最新作「ミリオンダラー・ベイビー」に漂う70年代臭は、それだけでは説明
できない。
イーストウッドの監督作品は、よく言えば「腰が据わっている」。悪く言えば「鈍重」。この姿勢がプラスに働けば本作や「ペイル
ライダー」のように重厚で見応えある作品が生まれるが、マイナスに働くと「アイガー・サンクション」や「ルーキー」のような、
弾みのない中途半端な活劇に仕上がってしまう。
ここでちょっと、私が考える「70年代的なるもの」について説明しておく。
80年代以降、映画は邦画も洋画も(アジア、中東の一部の作品を除いて)あまりにもテンポアップされ過ぎてきた。少しばかり
物語の流れを止めてでも役者の芝居をじっくり眺めさせようとか、観客を非日常のムードに浸らせようという手法が切り捨てられ、
スピード重視の作品づくりが主流になってしまった。今の全ての映画がそうであるとは言わない。じっくりとドラマを味わわせる作品
もないではない。しかしそれらは現在のスタジオのシステムの中では明らかに少数派である。殆どの作品はトントンと快テンポで物語
は進むけれども、味わいもコクもない消耗品的娯楽作でしかない。
映画が誕生した頃の手作り感やストーリー・テリングの約束事がまだ守られ、俳優の演技を心ゆくまで堪能させる「余白」を保って
いた時代。映画が「人の手」の中にあり、良き伝統と技術革新がギリギリのバランスを取っていた最後の時代。そしてその時代が生み
出したものこそ「70年代的なるもの」なのではないかと思う。
イーストウッドの作品は、それを愚直なまでに守り続けている。目眩を起こしそうなミュージック・クリップ的手法や、まるで子供
がはしゃいでいるが如きカメラワークなど一切無縁。どっしりと腰を据えて役者の芝居を追い、物語の持つ力を信じてドラマを紡ぎ
出そうとする姿勢に、私は「70年代のカツドウ屋」の心意気を感じずにはいられない。
シドニー・ポラック71歳。クリント・イーストウッド75歳。2人とも70年代に働き盛りを迎えた世代である。こういう人々が
現役で映画を作り続けていることに、畏敬の念を抱かずにはいられない。そして、あの頃と変わらぬ技術と姿勢を保ち続けていると
いうことにも。
映画がまだ「映画」であった時代の作風を継承しようとする、心ある映画人が多く現れんことを。