「“日常語”と“映画語”」

松村清志




 フランソワ・トリュフォーはそのルイス・ブニュエル論の中で「映画には映画固有の法則があるはずだが、それはまだはっきりと
探りあてられてもいなければ、いわんや言葉として表明されてもいない」と述べているが、僕が批評を書く上での最終目標は、まさに
それである。「映画固有の法則を探りあて、それを言葉として表明する事」なのである。
 したがって僕の志す文章は方向性としては、映画の物語の裏にある特定の政治思想を読み取る“裏目読み”や、映画を時代や社会と
の関わりの中で語る“同時代批評”より、一部では毛嫌いされてもいる“表層批評”や“記号学”の方に寄っている、といっても
いい。
 例えば“男性語”と“女性語”が異なっているように、“日常語”とは異なる“映画語”というのがあるはずだ。僕はその
“映画語”を修得したい。だが“映画語”を喋りたいというのではない。元東京大学総長や80年代のニュー・アカデミズムの活動は
“映画語”に向けてそれなりに言葉を組織しはしてきたが、反面“映画語”が“日常語”から大きく隔たった、まったく別次元の
言葉だという認識のみを浸透させる結果ともなってしまった。
 では、どうすればよいのか。答えは簡単だ。“映画語”を“日常語”に翻訳すればよいのである。僕は“映画語”の名翻訳者と
なりたいと思っている。その割には“シネ・チリ”のお前の文章は大した事がない、といわれそうだが、基礎がなければ応用も
出来ないので、今再び初心に帰って基礎としての“日常語”を学び直しているのだと、弁明しておきたい。
 そんなわけで、いつの日か見事に“日常語”と“映画語”を自由自在に操れるバイリンガルとなる事を目指して、日々、映画を見、
書く事で研鑚を積んでいきたいと思っている。


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