科学テストのすすめ

科学とシャーマニズム


木山英明 (2003.11.30)


 

  最近、中学生や小学生の子供たちがとんでもない凶悪犯罪を犯します。一体、何が原因なのでしょう。どうしたらこの大問題を解決することができるでしょうか。

  ある識者は、それは子供たちが勉強に追われて心にゆとりがなくなっているからで、学校の教科を大幅に減らして、その分ゆとりの時間に当てなければいけないと言います。  一方別の識者は、今の子供たちはあまりわがまま自由に育てられているからそのようなことが起きるのであって、学校でもっと厳しく教科や道徳の勉強をさせないといけないと言います。  この二人の識者の意見は、私の常識では、そのどちらも、もっともなように思われます。 しかし、この対立する二つの意見が、両方正しいということはないでしょう。どちらにしても、この識者たちの意見の根拠は、自分たちのフィーリング、つまり直観と常識という以外にないように思われます。

  私たちは普段、まわりの出来事を直感常識で判断して、普通に生活しています。この直感と常識がなかったら右も左もわからず、上も下も時間の後先も、正しい論理も何もかもわからなくなります。たしかに直感と常識こそ、すべての判断の基礎だといえるでしょう。しかし、私たちの身のまわりを離れた大きな社会や宇宙の問題になると、その直感と常識が怪しくなってきます。

  たとえば、1632年に、ガリレオ・ガリレイが『天文対話』を書いて、太陽ではなく地球が回転していると主張しました。しかし、当時の人々の直観と常識では、どうしても太陽が毎日東から西へ私たちの回りを回っているとしか考えられませんでした。そこでガリレオは、すんでのところで宗教裁判にかけられそうになりました。直観と常識の失敗です。なぜ、そのようなことが起きるのでしょうか。

  そもそも直感と常識は、私たちの遠い祖先から受け継がれてきたものです。人間は、100万年も、それ以上もの長い進化の産物です。その長い進化のなかで、遺伝子のうえに、あるいは生活知識のなかに、自然淘汰によって形作られてきた知識、それが直感と常識です。この貴重な判断力を武器にして、私たちの祖先は安全に生存を続けることができました。

  しかしその先祖たちは、原始人でした。彼らは、せいぜい数十人の身内だけの、ほんの数十キロメートルの目に見える狭い空間のなかに生まれ、そのなかで生きて、子供を育てて、死んでゆきました。その生活空間は基本的に、猿の群れと変わりありません。そのような小さな世界に生きるかぎり、太陽が私たちの周りを回っていると考えても何ら不都合はありませんし、シャーマンが、明日は雨になりそうだといえば恐らく雨がふったでしょうし、明日の狩りは西ではなく東に行ってみようと言えば、みんなそのように動いたでしょう。直感と常識は、そのような小さな世界で生きる人々のためにつくられたものだから、その枠内のことがらに関するかぎり強力なのです。

  しかし私たちは今日、そのような猿の群れとはほど遠い巨大な、きわめて抽象的な世界に生きています。何億何十億という無数の人間がいる社会に住み、地球だとかビッグバンだとか、ほとんど無限大といってもいい自然環境のなかで生きています。そのような遠い先祖たちとは異なる、まったく新しい異次元の世界は、一人や二人のシャーマンたちの思い通りに動くものではありませんし、直感と常識が正しく働いてくれる保証はありません。というより、そのような判断で行動すると、その結果はみじめな悲劇に終わるという場合がしばしばです。

  そのように世界の地平線が劇的に拡大するなかで、科学が登場してきました。 たとえば、明日の天気がどうだというとき、ただ目に見える雲行きをみて判断するより、気象学に基づいた科学的な天気予報に従う方が何倍も確度が高いことが知られています。あるいは体の調子が思わしくないとき、怪しげな民間療法に頼るより、科学的な西洋医学をおさめた医者の診断に従う方が、何倍も安全性が高いことが知られています。

    しかし、社会の現象についてはどうでしょう。

  社会的な出来ごとについては、私たちは依然として、あたかもあの小さな狩猟群団で暮らしているかのように、科学的な予測というより、ただ、何となくそんな「感じ」がするとか、「常識的に見て」当然だとか、あの古い直感と常識に従い、それだけを頼りにものごとを判断してしまってはいませんか。そのために同じ過ちが、性懲りもなく何度も繰り返されているではありませんか。そうではなく、社会の問題についても、自然現象と同じように、因果関係を科学的にテストするという態度が、今日強く求められているのではないでしょうか。

  直感と常識で一つの思いつきや、ひらめきや、洞察を得ることまではいいでしょう。しかし結論を出すまえに、そうした思いつきの判断が本当にそうなのかどうか、科学的にテストしてみるという手続きが必要です。大きな社会や世界のものごとについては、直感や常識や、評論家や有名人や、現代のシャーマンたちが告げるどのような意見も、それが現実のデータで科学的にテストされるまでは、一つの仮説として深く信じない、という態度が必要なのではないでしょうか。


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