落車の鬼



 集団の中で気持ちよく巡航していたらモリがすうっと寄って来て、おれをどやしつけた。
「テメエこんなとこで何やってんだよ」
「えっ? でも何の指示も出てないよ」
 おれは自分の右耳、監督車からの無線のイヤホンを指差した。ここからレースの展開や指揮命令などが適宜流れてくることになっている。
 レースは今のところ、別々のチームの二人が先頭を逃げてはいるが、後続五人が追ってスピードを上げ、その差を一分強まで縮めている。追撃集団の中にはチームメイト、ミズーもいる。おれと同期の新人で、今年からチームに入った日本人のスピードマンだ。無線指示が出ていないから、任せていていいのだろうと思っていた。
「フィンを当てにするな」
「だって監督だろ。それよりモリの方こそ、こんなとこにいて大丈夫なのかい?」
 モリは唇をひん曲げて唸った。
「だからおまえに頼んでるんじゃねえか」
 モリは五年先輩のスーパースプリンター、おれがジュニアチームにいる頃から活躍していた実力派だ。頼みごとをする態度じゃないと思うけどなあ、と思いつつ、彼のために働くのは正直な話やっぱり嬉しい。
 三月、シーズン序盤のワンデーレース。ほぼ平坦のコースで、ゴールは集団でのスプリントが予想される。今日のエースはモリなのだ。チームの皆は彼を勝たせるために働く。
 団子状の大集団の中、隙間を見つけて少しづつ前の方へ位置を進めて行く。途中で同じチームジャージが並んでいるのを見つけた。白地に黒とピンクのアクセント、おれたちのチーム「エリアンタ」の、すっきりしたデザインのジャージ。エリックとニコラだった。モリがタイミングを計って声をかけ、集団の脇へ出て一気にスピードを上げる。おれたちはメイン集団の先頭に出た。青いジャージの連中もくっついてきたが、構わずエリアンタのメンツだけで先頭を取ってさらに加速する。チームTTのような一列縦隊。ゴールまでもう距離がないのでモリはこのまま一気に行くつもりだろう。相変わらずフィン監督からの指示は一切ない。これもモリの人望なのかな?
 すぐに、前を行く集団の尻が見えてきた。みるみる近づく。先に逃げていた二人は既に掴まり、集団の一部になっている。集団の中にちらりとミズーの姿が見えた。そのまま抜き去る。青や黄色のジャージがしつこく食いついてくる。ゴール前一キロ、道幅は広くまっすぐ。エリックが、それからニコラが下がっていった。色とりどりのジャージが入り乱れ雪崩を打ってゴールスプリントに突入、と見えるがその実、それぞれのチームの動きは見事に計算し尽くされたものなのだ。けれどおれは全体を見る余裕もなく、ただ周りの選手にぶつからないようにコースを死守し、ひたすら踏んだ。なんとしてもモリを、誰はばからず走れる位置まで連れて行くのだ。
 真後ろでモリが叫んだ。
「いいぞ、どけ!」
 はっと息をのみ、おれは左にスライドするように退いた。
「うおりゃあー!」
入れ替わりにモリが飛び出す。ロケット点火だ。
 おれはスピードを落とし、ゴールラインをはらはらしながら見守った。モリのスプリントはいつもがむしゃらで、車体が激しく左右に振れる。スプリンター選手の間では「あいつと走ったら命が幾つあっても足りない」と言われている。「落車の鬼」と呼ばれているのだ。自分が落車するのでなく、人を落車させる鬼だと。酷いあだ名だ。それほど怖いなら皆おとなしく王者に道を開けてくれればいいのに。
 などと人の心配をしていたら。
 スカパーンと軽薄な音を立てて後頭部に何かが当たった。赤いボトルが前方へくるくると回りながら飛んで行く。
 振り向くと殺意のこもった目で睨み付けられていたのでぎょっとした。その目を見た瞬間に、考えるまでもなく分かった。おれがモリの前から退いた時、この選手の進路を塞いでしまったのだ。それでボトルを投げつけられた。このまま接近を許してはさらにぶん殴られそうな気がしたので、おれは急いで集団に紛れた。
 そんなことをしているうちに、モリはトップでゴールラインを越えていた。
 優勝シーンを見逃してしまった。ああ、残念。おれはいまだにモリのファンなのだ。

 レース後のビデオ判定で、ボトルを投げた選手は最下位に、おれは進路妨害ということで下から二番目に降格されてしまった。
「おかげさんでありがとうよ」
 モリはレース後みんなで囲む夕食の席で、おれにワインを注いでくれた。そしていつも表彰台で見せるのと同じ、顔中しわくちゃにする全開笑顔で「おまえドジだなー」と笑った。
 笑われてもおれは嬉しかった。


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