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客家文化
客家は文字通り先住民族からみると、他所からやってきた“客”であるというところから名付けられた。現在、広東省東北部、福建省西部、江西省南部、および湖南省、広西チワン族自治区、四川省、台湾省、海南省などに分布している客家は、もともと中国北方の黄河中流域に暮らしていた。戦乱を逃れて中国南方の山間僻地に住み着いた。その歴史は古く、過去5回の大移動を経ている。秦の始皇帝が中国を統一した頃から南下が始まり、4~5世紀、9~10世紀、12~13世紀に移動が行われ、明から清代の17~19世紀にも移動があった.
客家語は、中国七大方言の一つといわれていて、客家の目印ともなっている。ほかの方言に比べ、客家語には、中原の古語が多く残っている。客家は「先祖の田畑を売っても、先祖の言葉は売るな」として独自の客家語を話し、固有の習慣や文化を保持し続けている人々なのである。
客家は福建省永定県(中国東南部の沿海地帯)に、巨大なとりでのような環形および方形の建物を作り上げていた。その独特の構造は、世界建築文化の奇跡と呼ばれる。その移動の歴史や独特の風俗習慣が世界の注目を集め、今では観光を目的に訪れる人も多い。
客家人の住居となる土楼は福建省永定県だけで大小合わせ円楼が360棟、方楼が400棟もあるという。客家人の土楼はすべて要塞として設計されており、先住民との争いや盗賊の略奪、またトラなどの襲撃に備えて一族が集団で暮らすようになったという。豚や鶏を飼い、井戸もあるので、1年近くはたてこもっていられるのだそうである。
大規模な土楼の例としては、四重(囲屋)に囲まれた承啓楼がある。一番外側、一列目の囲屋は一周229・4メートル、高さ12・4メートル。4階建てで、各階に72の部屋があり、あわせて部屋数は288にもなる。 建物全体に大門が一、中門が三、脇門が八ある。総部屋数は、412となり、毎日暮らす部屋を変えても、一年以上かかるほどだ。一階は、厨房、食堂、客間として使い、二階は、倉庫として、穀物、ラッカセイ、サツマイモ、タロイモなどを貯蔵する。三、四階は寝室となる。この地域では土壁を生土(シュントウ)壁と呼んでおり、 補強には細い竹を入れるので、生土のなかには、食べようとすればそのまま食べられる蒸したもち米と水で溶いた赤砂糖を混入する。これは生土に粘りを持たせるためである。
客家人が円楼や方楼である土楼を建築するときは、必ず風水(フォンシュイ)という日本の家相と似て非なるルールに則って決められるのだという。まず土楼に適した地形を選択して決めるわけであるが、概して川が流れている平野部と山との境目あたりに建てられることが多いようだ。それは農耕に適し、井戸水が湧く所。そこに建てる土楼を円にするか方形にするかは風水しだいである。
共同生活の営み
土楼の中央堂は、土楼の心臓部ともいえる場所で、住人たちの話し合いがここで行われる。お客が訪れれば、ここが応接間となる。嫁取りの時には、ここが結婚式場になる。老人が亡くなれば、通夜の場所となり、旧正月には、みなが集まり、年越しの宴会を開き、芝居を見て、賑やかに楽しむ。このように、一つの場所に一族が集まるのはまさに団欒の喜びといえるだろう。
何よりも教育を優先
客家は元来家柄の良い人達で家族の絆が強く、教育を重視する。「詩書を読まねば、目が見えぬに同じ」という言葉が村には伝えられ、子供たちに学ぶ意欲があれば、家庭はどんなに貧しくても最大限の努力をして、学問をさせる。 また一族には、一族の祖先が残した共有の畑や山があり、その収入の大部分は、子弟たちの教育に使われる、僻地にあって貧しくとも教育を重んじる。その為多くの著名人孫文,鄧小平などを輩出している。
信仰
中国には祖先崇拝の伝統があるが、この、かつての霊魂崇拝に基づく古い習俗は、流浪のなかで、自ら事業を起こし奮闘する客家に特に守られている。それは、一族が集まって、祖先の墓や、祠、家系図を作る習慣にも見られるし、子供の誕生、就学、就職、昇進、遠出からの行き帰りなどの時に、必ず祖先の位牌が飾られた祠堂に参り、焼香し、拝礼する日常的な礼儀作法にも見られる。
祝日にはいつにもまして、ふだん離れている家族や親戚のことが思われるのは、よくあることだが、伝統行事にあたって一族が集い、祖先を偲ぶ習慣のある客家にとっては、なおさらのことである。一年のうち、最も盛大な行事である旧正月では、年越しの食事をしたり、年始の挨拶回りをしたり、獅子舞や、竜の舞を行ったりするほかに、最も重要なのは、やはり祖先をまつる行事である。
独特の葬儀
客家の葬儀特徴は、一旦葬式を終えて3~5年にして、遺骨を拾って再び埋葬する「二次葬」を行うことだ。陰暦の8月1日から寒露までの20日間に、遺族は、ふさわしい日を選んで、墓を掘り起こし,棺を開け、遺骨を拾い、これを椿油で清め、「金オウ」という瓶におさめる。その後、死者の名前と生没年月日を丸い蓋に記して「金オウ」を封じ、レンガと土で墓を作る。
このような習慣は、客家の大移動と関係があるといわれている。彼らはどこに移動しようとも、先祖の遺骨を瓶に入れ持ち運び、定住してのち、それを埋葬した。遠くまで墓参りにいけない彼らは、このような方法をとるしかなかった。早くも六千年前、陝西省西安の半坡人は、瓶を用いて未成年者を葬る習慣があったという。客家には、このような古代からの埋葬の習慣がずっと継承されているのかもしれない。
江南水郷
江南地方というと,一般的には長江下流の南岸で,江蘇省南部,浙江省北部、上海郊外の長江デルタ地帯を指します。土地は肥沃で、気候は温暖湿潤、お米の生産地として発展しています。「南船北馬」という言葉のとおり、南では人々は川や運河に沿って住み、普段の交通手段に船を使います。水路が交差するところに町が発達しました。そこには人が集まり、市が立ち、茶館が繁盛し、娯楽のための芝居がかかり、独特な文化が醸成されました。今日は江南水郷を代表する町三つをご紹介します。
「天に極楽があるように地には蘇州と杭州がある」と称えられた地上の楽園は蘇州と杭州。二つとも歴史の名都です.蘇州は春秋戦国時代に呉の都として栄えた町。その後蘇州は、唐代において商業の中心地へと発展しました.元代にはマルコポーロも訪れており、「東洋のベニス」とその美しさを称えています。蘇州は、最盛期を迎えた明清には大小の庭園が200個以上もあったと言われています.現在、世界文化遺産にも数えられる4大庭園があります。「拙政園」「留園」「獅子林」「滄浪亭」の4つです.蘇州の庭は、水を中心にしたものが多く、江南水郷の雅趣が感じられるものが多いのです。構造は精巧で、限られたスペースの中に、山水や田園を表現し、田舎の風景を楽しめるよう配置されています。見かけは小さくとも、限りなく変化していく景色を思わせます。蘇州の庭園は文人の庭です,中央政治の世界から身を引いた文人たち隠棲の場です.隠れ家のように入り口はうっかりすると見過ごしてしまうほど目立たない.周りは高い塀に囲まれ,中を覗くことができません.直線と曲線の対比調和を多用されています.池にせり出した庁や館前の平台は力強い直線で,洞門,漏窓や屋根は曲線による造形です.こうした直線と曲線の併用の根底には,中国古来の陰陽思想をみることができます.留園に使われている巨大な石は地面を凍らせて,太湖から滑らせて運んだそうです.(明代万歴年間に徐秦時の私家庭園として建設され、清代の嘉慶年代に改修、園主の姓にちなんで劉園、のちに留園と呼ばれるようになりました.)太湖石は穴が多く,奇怪な石ですが,その穴には,中国人がもっとも重視する気が宿っています.洞窟も重要な働きをします.中国には洞窟は天に通じるという思いがあるからです.迷路のような洞窟をくぐり抜けた時,現実から遠く離れた仙界に運ばれた気分になります.
寒山寺は森鴎外の小説「寒山拾得」と張継の詩「楓橋夜泊」で知られ,弘法大師空海が修行した寺でもあり,日本人にもなじみ深い。当時寒山寺の鐘の音は素晴らしく、その余韻は夜明けまで続いたと伝えられています。「月落ち烏啼いて霜天に満つ、江楓の漁火愁眠に対す、姑蘇城外の寒山寺、夜半の鐘の音客船に到る」.現在使われている鐘は、日本の山田寒山によって送られたものです。一回撞くとその余韻が約2分も続き、あの詩に読まれた情緒を感じることができます。近年、寒山寺で大晦日の夜に除夜の鐘を聞く会が行われ、多くの日本人が百八つの鐘の音を聞きながら新年を迎えています。
「魚米之郷」と称される蘇州。気候に恵まれ、土壌も肥沃。水稲を中心に多種類の農作物が生産されている。また周囲に多くの湖沼、河川があり、漁業も発達。さまざまな淡水魚やエビが獲れ、特に陽澄湖のカニ、太湖三宝と称されるシラウオ、エツ、エビは有名。また碧螺春茶、ビワ、ミカン、楊梅なども特産として知られる。蘇州の人たちは料理にはこだわる。新鮮な農産物、魚類の素材の味を生かし、見た目にも美しい多様な料理が作られる。味はやや甘めです。
杭州
春秋戦国時代、杭州は古越文化の中心でした。南宋時代に、異民族の侵入により、中国北方民族が戦乱を逃れて次々と南に移りました。当時、杭州一帯には商人が大勢集まり、商業がかつてない繁栄時代を迎えていました。このほか杭州は、多数の歴史的人物や文人墨客が集まる場所でもありました。唐・宋代の大詩人・白居易、蘇東坡(蘇軾)をはじめ、母の手により背中に「精忠報国」と入れ墨をした英雄・岳飛、近代の文豪・魯迅、郁達夫などが、みな貴重な文化遺産をここに残しました。杭州は京杭大運河の終点です,隋の煬帝が江南に遊びに行くため,古来の運河を開通して,北京から杭州まで南北を一つに結ぶように,万里の長城に並び,第2の土木工事を遂行したのです.
西湖は、宋代の詩人・蘇東坡が、「西湖をもって西子に比せんと欲すれば、淡粧 濃抹 総て相宜し」との詩を残し、絶世の美女にたとえられるほど絶景の枚挙にいとまがない.李白が「憶江南、最憶是杭州」という句に西湖を忘れられない心情を託しています。特に、「三潭の印月」「雷峰の夕照」「蘇堤の春暁」などの西湖十景は、中国人なら誰でも知っています。 西湖は、杭州の西に位置し、三方を山に囲まれている。古く西湖は杭州湾に通じる入り江で、砂が堆積してその口をふさぎ、残った内海が西湖となりました。その後も砂州は成長し、その上にできたのは杭州です。かつての西湖は、今の倍の大きさがありました。
杭州の名菜 ?菜湯(ジュンサイスープ), 東坡肉(豚の角煮)、西湖醋魚(草魚の甘酢煮)、蜜汁火方(金華ハムの蜜煮)
紹興(命名:南宋)
呉越争覇の舞台で、越の都ですす。ここには越の美女の西施(古代中国の「四大美人」の一人)の物語が伝えられています。 当時、呉に敗れた越国の王・勾践は、敗国の辱をすすごうとしました。范蠡は国の復興のため、涙をのんで恋人の西施を呉王夫差のもとへ送りこみました。夫差は色におぼれて、政治をおろそかにしました。越王勾践は臥薪嘗胆して、雪辱を期すときを待ちました。10年の辛抱をへた勾践は、范蠡らの協力のもと呉を破り、都(今の蘇州)を攻落、ついに呉を併合したのです。その後、范蠡は西施とともに太湖のほとりに落ちつき,商いに生き、のちに商家の始祖として祭られるようになった――といわれています。
文学者魯迅の故郷として知られる紹興は、杭州の東60km、浙江平原に位置する浙江省の代表的な都市のひとつです。文豪魯迅,書道家王義之,清末の女性革命家秋瑾を生み出しており、周恩来の原籍地としても有名です。また酒好きの人には忘れてはならない紹興酒の故郷でもあります。町の一割をしめるのが河であり,その上にかかる橋が3000を超え、著名な橋も70を数えます。石橋の博物館とも言われています.
420万人余りの紹興市は人口1万4000人の福井県芦原町と友好都市です。2つの都市の友情のきっかけは、今から100年前のある出会いにまでさかのぼります。
明治37年、仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)へやって来た中国人留学生・周樹人は、解剖学の講義で1人の教授と出会いました.その教授は、色が黒くやせており、八の字ひげを生やし、眼鏡をかけていました。大小とりどりの書物を抱えて教室に入ってきた彼は、それを教壇の上に置くと、緩やかなとても抑揚のある口調で「私は藤野厳九郎という者で」と自己紹介をしました。これが、後に中国で偉大な文豪で思想家と尊敬される魯迅と、藤野厳九郎との最初の出会いであった。この時、日本語の講義に慣れていない魯迅のために授業のノートを添削するなどいろいろと便宜をはかっており、魯迅はこの恩を終生忘れることがなかった。このエピソードを記した魯迅著「藤野先生」は、中国の中学校の教科書に採用されており、藤野厳九郎のことを知らない中国人はまずいないとまでいわれています。
紹興名物 干菜肉、そらまめ、臭豆腐
薬膳料理
陰陽五行説の論理
陰陽五行説とは宇宙は天地未分化の混沌たる状態(太極)であったが、この「混沌」の中から光明に満ちた、軽い澄んだ気、つまり「陽」の気がまず上昇して「天」となり、次に重く濁った気、すなわち「陰」の気が下降して「地」になったという。世のなかの事象はすべて、それだけで独立してあるのではなく、陰と陽という対立した形で世界ができあがっていると考える原理である。要するに、世界というものは、明暗、火水、天地、表裏、上下、凸凹、男女、剛柔、善悪、吉凶などの一対から成り立っていると考え、たとえば人間の精神は天の気、つまり陽で、肉体は地の気、つまり陰だということになり、生はその精神と肉体との結合、死は両者の分離であると説く。
「五行説」というのは、夏の国の聖王、禹がつくったといわれ、禹の治世のときに洛水からはい上ってきた一匹の亀の甲羅に書かれた文様から五という数を悟り、国を治めるのに五つの基本原理を思いついたというのである。禹が定めた五行というのは、「水は土地を潤おし、穀物を養い、集まって川となって流れ、海に入って鹹(かん:しお)となる。火は上に燃えあがり、焦げて苦くなる。木は曲ったものも真直ぐなものもあり、その実は酸ぱい。金は形を変えて刀や鍬となり、味は辛い。土は種を実らせ、その実は甘い。この考えかたが、のちに斉国の陰陽家鄒衍(すうえん)によって、五つの惑星と結びつけられ、さらにまた万物に当てはめられて、観念的な五行説として完成する。
それゆえ陰陽という二つの対立、これと五つの数とを観念的に組み合わせて、万物に当てたのが『陰陽五行説』ということができる。
| 天地万物 |
五行 |
木 |
火 |
土 |
金 |
水 |
| 惑星 |
五星 |
木星 |
火星 |
土星 |
金星 |
水星 |
| 方角 |
五方 |
東 |
南 |
中央 |
西 |
北 |
| 季節 |
五時 |
春 |
夏 |
土用 |
秋 |
冬 |
| 色 |
五色 |
青 |
赤 |
黄 |
白 |
黒 |
| 味 |
五味 |
酸 |
苦 |
甘 |
辛 |
鹹 |
| 感覚 |
五感 |
視 |
聴 |
嗅 |
味 |
触 |
| 臓器 |
五臓 |
肝臓 |
心臓 |
脾臓 |
肺臓 |
腎臓 |
| 食べ物 |
五性 |
温性 |
熱性 |
平性 |
涼性 |
寒性 |
薬膳料理とは、この陰陽五行説を基礎とし、中国数千年の歴史で育まれた健康のためのお料理です.ただ単に薬草を入れた料理を指すわけではありません。薬草にも食べ物にも、私達の体に色々な影響を及ぼす成分が入っています。この成分の調和を上手くはかり、人間が健康に生きていくための食べ物に変えていくのが薬膳料理です。唐代の名医孫思?は、「身を安らげるもとは必ず食に有り、疾を速やかに救うは必ず薬にある。食の宜しきを知らぬものは生存に足りず。薬の忌が明らかならぬものは病を除き得ず。・・・・・・それは、食が邪を排し、臓腑を安らげ、精神を悦ばせ、気分をさわやかにしうるからである。」とのべています。この言葉は、人間にとって食がいかに大切であるか、そしてその事実を常に意識して日々の食生活に気を配るべきであることを教えています。すなわち、日常の食事こそまさに良薬という医食同源の極意です。
陰陽五行説に基づき、食べ物も五性に分かれ,涼性と寒性は陰性に属します.陰性のものは身体を冷やす効果があります.暑い地域でよく育つ食べ物,野菜の中ではより陰性です。温性と熱性は陽性に属します.陽性のものは身体を温める効果があります,寒い地域でよく育つ野菜はより陽性です.その中間にあるものは平性のものです.
食べる人の体質、状況などにより、陰陽のバランスをとらなければなりません。肉(陽)があれば野菜(陰)を加えるようにする。また、夏の暑い時期(陽)や発熱時の体温が上がったときの熱冷ましとして,身体を冷やす働きのあるトマトや生野菜、寒い冬(陰)には身体を暖める温野菜や鍋物(陽)のほうが良いのです。身体の弱っている人や老人(陰)には、身体を暖める料理法(陽)が良いでしょう。あとは組み合わせによって、元気にしてくれるはずの食べ物を台無しにしてしまう事もあります。例えば、体にいいと言われている食べ物でも、クルミは中国では漢方薬の原料としても用いられますが、濃い緑茶と一緒に摂らない方がいいと言われています。
季節毎に体調も変わる事が多いため、その季節に応じて食養生をする事が必要です.この事については、中国の古典の優れた書物と専門家の間で評される「黄帝内経」にも記されています。
四川風光
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四川省の面積は日本の1.5倍、人口は直轄市の重慶を含めれば、1億を超える。歴史的には巴蜀(はしょく)と呼ばれていた。蜀の字形は、カイコを表すともいわれ、古来錦の産地として有名である。巴はヘビの形である。
1986年に広漢市で三星堆遺跡、2001年に金沙遺跡、2000年にも大型船棺(せんかん)遺跡と重要な発見が相次ぎ、古代四川の文明史が3000年前にさかのぼることとなった。周の武王が殷(いん)を滅ぼしたときに、討伐軍の中に蜀が加わっていた。始皇帝よりも4代前の恵文王の時代、秦(しん)は蜀を滅ぼした。劉邦の国が蜀漢から起こり、漢帝国をうち立てたのは、紀元前3世紀の末。三国時代、劉備(りゅうび)と諸葛孔明(しょかつこうめい)の蜀は3世紀、五代十国時代には前蜀、後蜀が独立王国を形成した。1001年に北宋が川峡路を4つの路に分けて四川の名が始まる。元代に入り、四川行省、明代に四川布政使司となり、清代に四川省となった。
重慶は古代の巴国の地である。巴国は紀元前316年に秦国に滅ぼされた。南北朝時代に宋が渝州と命名した。これを略した「渝」は現在も重慶の簡称として使われる。1189年(淳熙16年)南宋の光宗により重慶と命名された。1929年重慶市政府が成立し、1938年日中戦争で南京が陥落すると蒋介石の中国国民党は首都機能を重慶に移転させた。
四川盆地は亜熱帯性気候で1年中湿潤で曇天が多く、古来からの治水工事のおかげで「天府の国」と呼ばれる穀倉地帯。 現在の成都も水の都といってよいほど岷江から引いた水路が街を駆け巡っている。平原に注ぐ入り口には世界遺産にも登録された都江堰(とこうえん)の水利施設があり、蜀の生命線になっている。都江堰がなければ、扇状地上の成都は、水の恩恵を受けることも、また洪水の危険をまぬがれることもできなかった。さらに上流には、黄龍や九寨溝(きゅうさいこう)といった世界遺産に登録された自然の森林の美しさを見ることができる。原生林と豊富な水、湖沼が散在し、まさに四川省の秘境である。現在絶滅の危機に瀕(ひん)するパンダも、こうした豊かな四川の自然の中で生き延びてきた貴重な動物である
四川名物ーパンダ
パンダは中国では大熊猫と呼ばれるが、台湾では大猫熊で、海外ではパンダと称されている。この可愛い動物は、1869年フ ランスのキリスト教の宣教師・ダイヴェが初めて発見した。1930年代のあるアメリカ人が生きたままのパンダをアメリカまで連れて行って展覧会を行ったことなどを通じて中国西部奥地方で生息してたパンダが世界的に注目されるようになった。
パンダは凡そ7百、8百万年前に地球上に現れた動物で、パンダと同じ時代に生息していた動物が殆ど絶滅していることもあり、かなり研究価値の高い動物だと思われ、「生きている化石」とも称されている。現在、世界の野生のパンダの数はわずか1000頭にも足らず、その中の85%が四川省に生息してるのである。
パンダの平均寿命は25歳、平均身長が1・5メートル、平均体重は100キロ、一日の平均笹消費量は30キロ~50キロぐらい。野生のパンダの一日の60%ぐらいの時間は竹を探すと食べることに費やされ、
35%は寝る時間、残りの5%は遊ぶ時間。なぜかというと、パンダの腸はまず一本しかなく、また、非常に短いため、栄養吸収が極めて弱い。そのため、常に食べ続ければならないのである。
新生のパンダ体重は重くても100グラムで、軽いと50グラムぐらい。ちょっと体重が軽すぎるので死亡率が高い。パンダは5歳ぐらいで大人になる。
道教の発祥の地-青城山
2002年世界文化遺産に登録された青城山は成都西北部に位置し、成都から約60キロ離れている。山麓の海抜は726m、主峰の老宵頂海抜は2434m、一年中茂っている原始林と城壁のように繋がる連峰から青城山と名付けた。人が立ち入ることが少なくが、数多くの野生動物、壮美な瀑布、聳え立っている原始林などが青城山の「青城天下幽」の独特な景観を成している。
紀元 143 年、百歳を超えた老人・張陵がここで昔から伝わってきた「黄老学説」を研究、発展させ、中国の伝統宗教・道教を創建した。やがて中国全土に広がり、今でも中国人を深く影響している伝統宗教になった。
お寺が皆山の形に沿って建造していて、建物の屋根や内部建造などが皆数字の「三」を表現している。全ての建築が「一から二が生まれ、二から三が生まれ、三から世界万物が生まれる」の道教の基本考えに基づいて建立されたのである。また、建物には精美に造った壁画や浮き彫りなどは道教の「清静無為、健康長寿」思想を表している。特に一番高い峰にある「上清宮」の正門入り口に彫刻されてた「道教太極図」が道教の「天人合一、陰陽合一」の基本哲学観を集中的に表現した。
仏教の名山ー峨眉山
1996年世界文化自然複合遺産に登録された峨眉山は、成都市から約156キロ、バスで約2時間のところにあり、晋時代からずっと中国四大仏教名山の一つとしてその名が知られています。峨眉山の最高峰万仏頂は海抜3099m、雄大壮美な仏教聖山景色を成している。峨眉山はキョウライ山脈に属し、群峰は合わせて72を超える。山全体の形が少女の眉毛に似ていることから「峨眉山」と名づけられた。
前漢時代、峨眉山にはまだ道教の道館しかなかったが、紀元3世紀半ば、インドから仏教修行者が峨眉山に修行しに訪れ、初めて仏教の寺院が現れた。紀元420年(東晋時代)、新しく訳された仏教経典・華厳経では峨眉山を普賢菩薩の修行山と見られ、仏教の寺院がどんどん造られるようになった。唐時代の終わりから、宋の時代、峨眉山の道教が衰えてきて、仏教が盛んになり仏教発展の頂点を迎えた。最盛期には151箇所の仏教寺院もあった。北宋時代紀元980年、宋太宗の命令で高さ7、85m,重さ62トンの普賢菩薩銅像を造られ、万年寺に安置された。それがきっかけで峨眉山が正式的に普賢菩薩の修行道場と認められ、五台山、普陀山と九華山と共に中国四大仏教名山となった。
世界一の大仏ー楽山大仏
1996年峨眉山と共に世界文化遺産と自然遺産に登録された楽山大仏は、成都市から約130キロ離れ、バスで約1時間半かかる楽山市町郊外にある。大仏全体の高さ71m、頭部の長さ14.7m、頭部の直径10m,首の長さ3m,耳の長さ7m,耳の中は二人が並べて立てるぐらい広い。そのほか、指が8、3m、足の長さが11m、幅が9mで、足の上には100人ぐらい座れるそうだ。
楽山大仏が彫られた凌雲山はちょうど楽山市町郊外を流れる3本の河:岷江、青衣江と大渡河の合流点に位置し、河の流れが非常に急なため、楽山町を往来する船にとっては大変な危険地帯だ。唐の時代、楽山市は成都近辺の一番大きな港で、成都を中心とする四川省西部の人が四川省の東部に行く或いは四川省を出る時、もっとも便の良い楽山から船に乗っていた。数多くの商船と客船が楽山大仏手前の三江合流点を通る際には、しばし大波が起こり、船の沈没事件が絶えず発生した。紀元713年、唐の則天武後時代の末期、凌雲山で修行している海通和尚は楽山大仏手前の三江合流点には悪い龍がいるため船が沈没するのだと考え、その悪龍を追い払い、衆生を災難から救い出す最善の方法はやはり仏像を造り、仏様の力を借りて、悪龍を鎮めることだと思った。同年、海通和尚の主催で、三江合流点に位置している凌雲山で巨大な仏像造像工事が着工された。あまりにも大きすぎる工事なので、紀元803年、工事着工90年間後、ようやく完成した。造像中、三江合流点の河床に捨てられた凌雲山から削られた沢山の岩石が、河の流れを緩やかにし、楽山大仏の完成後は楽山三江合流点での船の沈没事件がなくなった。この点から言うと、楽山大仏の造像工事は一つの治水工事でもある。
歴史の記録や考古学者の研究によると、紀元803年にできた楽山大仏像は弥勒菩薩であったそうた。なぜ造った仏像はほかの仏(例えば釈迦像、観音像)ではなく、弥勒菩薩像なのか?これはその時代の社会事情と関係ある。当時は中国唯一の女皇帝・則天武后時代であった。紀元690年、東衛国寺の住職和尚・法明などが「大雲経」を書き、その中に則天武後が弥勒菩薩の化身と見られる説経があった。その経典を読んだ則天武後が大喜び、全国に仏教寺院を多く造る命令を出し、また自身にも弥勒菩薩の名前が含まれた新しい皇帝号を付けた。それで、その時代は中国全土で、弥勒信仰と弥勒菩薩造像が盛んに行われ、楽山大仏も誕生したのだ。
弥勒菩薩の名前は同じだが、楽山大仏の弥勒菩薩は普通のお寺の山門祀られている弥勒菩薩とはまったく違う。インドから伝わってきた仏教において、弥勒菩薩は釈迦の後継ぎの未来仏であり、弥勒とは「慈」の意味で、つまり人々に喜びを与える菩薩である。一方寺院山門に祀られている弥勒菩薩は本来の名前を布袋弥勒菩薩という中国産。日本では布袋さんと呼ばれている。実在した和尚だそうだ。この和尚は晩唐時代の浙江省辺りで修行し、名前は「契化」。彼はお腹が大きく、いつも布袋を背負って仏教信者から寄付をもらっていた。当時の民間の噂によると彼が弥勒菩薩の化身だそうだ。それで、彼の後死後、浙江省、江蘇省辺りの仏教寺院に彼を原型にして弥勒菩薩が造られた、それがつまり現在中国の仏教寺院山門に祀られている弥勒菩薩像である。この弥勒菩薩像は慈眉善目、福耳が大きい、豊かなな笑顔を持つなど中国人の好むタイプなので、信者に大人気であった。
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少数民族の話
中国は多民族国家で、認定された55の民族がいる。少数民族は人口政策を緩和されており、二人目三人目の出産が認められ、人口の増加率は漢民族より大きい。2000年の人口調査によると、総人口10643万、全国の8.4%をしめる。その内100万以上の民族は18、10万以上は15、10万以下は15、1万以下は7であり、まだ73.4万人は未認定である。中国全土に分散し、分布面積は国土面積の64.2%をしめる。主に西部と国境近くに集中する。広西、雲南、貴州、新疆4つの省区の少数民族は全国少数民族人口の半分以上を占める。全国で五つの自治区、30の自治州、120の自治県、1256の自治郷。といっても、内モンゴルー、寧夏、広西三つの自治区は漢民族の人口のほうが多い。新疆ウイグル自治区の漢族人口は40%。
漢民族は自らの言語と文字がある。漢語は現在中国の共通語である。書面用の文字として現われる頻度の99%を占めているのは約3000の漢字である。55の少数民族のうち、53の少数民族は自民族の言語を使用しており、そのうち21の少数民族は自民族の文字を持っており27種類の文字が使用されている。
服装は南北二つに分かれ、北方民族は分厚い長い中国服で、服装の材料は毛皮、フェルトとシルクを主として、装飾物は豪華な金銀、数珠、サンゴ。南方の各民族は上下着に分かれ、服装の材料は綿と麻を主とし、デザインと装飾は大変変化に富んでいる。
今回の講座では人口の一番多い民族と少ない民族を選んで具体的に紹介する。
中国の少数民族の中で人口の最も多い民族ーチワン族人口は16178811(2000年第4回人口調査によって)。
チワン族は少数民族の中で人口の最も多い民族である。主に広西チワン族自治区、雲南省の文山チワン族ミャオ族自治州に集まり住み、ごく一部が広東省、湖南省、貴州省、四川省などに散在している。
チワン語は漢・チベット語系のチワン・トン語族チワン・タイ語分支に属し、南北二大方言に分かれる。
南宋の時代に漢字をもとに独自の文字がつくられたが、標準にはならなかった。1955年にはローマ字をもとにしたチワン語の文字が作られた。チワン族の人たちのほとんどは漢語(中国語)を使用している。
昔、チワン族の人たちは自然崇拝と多神崇拝などの原始宗教を信じていた。唐・宋以降、仏教、道教が前後にしてチワン族地区に入ってきた。近代になって、キリスト教とカトリックもチワン族地区に入ってきたが、大きな影響を及ぼすには至らなかった。
数万年前から、チワン族の祖先たちはすでに中国の南方で生活していた。春秋戦国の頃は百越の一部であった。宋朝以降においては、「僮」、「土」などの呼称で史書に記載されている。各地のチワン族の人たちは20余りの自称をもち、新中国の成立後に「僮」に統一した。1964年に、周恩来総理の提案により、国務院の認可を得て、「僮」を「チワン」に変えた。
チワン族は歌に長けている民族だ。山歌会を定期的に開催し、「歌の海」、「地面に鍵盤を敷き詰めている」と詩人たちに称えられている。旧暦の3月初三が最も盛大である。一万人以上は参加する。また男女間で刺繍入りのまりを投げたりし、娯楽の活動を行い、結婚相手を探す。この日に五色のご飯、五色の卵を食べて、五穀豊穣を祈るのだ。
五色というのは黒、黄色、赤、紫、白で、白以外はそれぞれの植物を煮出してその汁でご飯を炊いて作るのである。
民族の最大な祭りは春節で、蛙をあがめる民族として、お正月に蛙節も行う。また7月15日の鬼節も盛大に行う。
黒は一番高貴な色とされ、黒の服は正装である。白は働く時に、藍は歌の市に行くときに着用する。
人口の最も少ない民族ーローバ族 (1956年に認定された)
人口は約2965人。
主にチベット自治区南東部の洛渝地区および近隣の察隅、墨脱、米林などの県に分布している。
墨脱県北部に住んでいるローバ族はチベット語を使用し、ほかのローバ族はローバの言葉を使っている。ローバの言葉は漢・チベット語系、チベット・ミャンマー語派(どの言葉の分支かまだ確認されていない)に属する。ローバ族の方言は地域によって違っている。新中国成立前、ローバ族はまだ木を刻み、縄を結ぶやり方で物事を記録していた。自民族の文字を持たず、少数の人たちがチベット語に精通している。
ローバ族の人びとは万物に魂があるとする原始宗教を信奉している。
ローバという言葉の語源はチベット語で、「南部の人」の意味で、チベット族の彼らに対する呼称である。地域によってローバ族の自称は異なっている。ローバ族は昔からヒマラヤ山脈の山麓で生活していたが、高い山がローバ族の人たちと外部との交流をさえぎり、社会の発展がおそかった。20世紀50年代になってもローバ族はまだ原始社会末期の家父長奴隷制度の段階にあり、チベット封建農奴主の統治の下で生活していた。各部落はまだ焼き畑農法という原始的なやり方で農業に従事し、トウモロコシ、陸稲およびその他の雑穀を栽培していた。ローバ族の男子はみんな優れた猟師でもある。
ローバ族は客好きな民族で、接待の礼儀作法がある。客は部屋に入ったら、彼らはいつも暖炉側の席を譲って、それから好きな干し肉、チーズ、麦餅とバター茶を取り出して客をねんごろにもてなす。客が口をつける前に、主人は先に酒を一口、ご飯を一口食べて、酒とご飯に毒がないと示す。もし祝い事にちょうどであったら、客も村人と一緒に主人の家に行って祝賀の意を表さなければならない。酒を飲んで歌を歌う。客を引きとめることを礼儀だと見なし、もし客に対して親切ではないと軽蔑される。
埋葬方式は土葬する。墓のそばで七日間朝晩ご飯と酒を供える。夜は焚き火をする。
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桂林山水

桂林といえば、山水画さながらの景観が広がることで有名な地だ。丸みをおびた円錐状の山々には女性の優雅さがあり、間近で見上げれば切り立つ断崖に男性の雄健さもある。、3億年前までは海の底だった桂林の地だが、地殻の変動に、雨、川の侵食、風化を加えた大自然という造形師の手によって、この世に「人間仙境」の地が生み出された。
桂林を訪れる人の多くは、漓江下りでその魅力を満喫する。約4時間に及ぶ漓江下りでは山水画の世界が延々と広げられる。連なる奇峰は、碧色の水面に鏡のごとく映し出され、その上に竹で出来た質素な小船が浮かんでいる。このきれいな水のためには機動の遊覧船をいかだに換えるべきではないかと船に乗りながら思った。
漓江は、中国三大河川の一つ珠江の支流で、桂林の北にある猫児山(2142m)に源を発する。秦の始皇帝により、長江の支流である湘江と漓江とを結ぶ運河“霊渠”が築かれたのは紀元前の話。霊渠の完成により珠江系と長江系の水路が繋がり至便となった桂林の地は、古の時代から既に観光地として多くの人々を魅了し、名句を残してきた。
九馬画山は漓江の名山で、川に面して絶壁がそそり立っている。長年風雨にさらされて剥落したため、岩石の輪郭はくっきりと多くの層をなしている。これらの岩石は暗くなったり、明るくなったり、また色が変化したりしてまるで数多くの馬が絶壁を走っているようだ。九匹の馬を見分けられる者は昔の官吏登用試験(科挙)に一番で合格できるそうだ。
漓江下りの終点である陽朔は、「陽朔の山水は桂林に甲たり」言われるほど美しい。この落ち着いた小さな町では、民宿に泊まり、自転車を借りて回ることがお勧め。町のメインストリートである西街はカフェ街で、西洋人に人気があるエリアである。英会話スクールの看板も目立つ。
桂林から80km離れた龍脊梯田は急な山地を生かし、何百年もかけて、人と牛の力で作り上げた芸術品である。高度差は500メートル以上もあり、傾斜角度は26度から35度、時に50度に達するところもある。山のふもとから巻きつくように頂上に向かう棚田は無数の層を成して重なり合っている。畦のやわらかい線が伸びやかに続いていく。腰を曲げて苗を植える人々の歌声もそこから聞こえてくるようである。
中国の伝統祭日
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日時(旧暦)
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名称
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内容
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1月1日
1月15日
4月5日
5月5日
7月7日
7月15日
8月15日
9月9日
12月23日
12月31日
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春節
元宵節
清明節
端午節
七夕
中元節
中秋節
重陽節
過小年
除夕
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家族団らん、年始の挨拶にまわる。
上元節。獅子舞、夜は灯会を見る。団子を食べる。
春分後の15日 墓参り、郊外へ「踏青」(散策)する。
竜舟競う 粽を食べる。地方によってはよもぎや菖蒲を玄関に飾って魔よけにする。「雄黄」(鉱物)を酒につけてのむ。
乞巧節とも言う。 若い女の人のための祭りです。裁縫が上手になるように織姫星に願う。
鬼節とも言う。先祖を迎えるための祭りです
月見 月餅をお世話になった人に贈る。月餅や果物を食べる。
高いところに登り菊の酒を飲む。菊の蒸し菓子を食べ長寿を願う。
かまどの神を祭る。かまどの神の口を封じるために餅や甘いものなどを供える。一年間かまどの神様の絵を貼りかえる。
爆竹を鳴らす、「春聯」を貼る、子どもにお年玉を渡す。北のほうでは餃子を食べる。
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