1948年9月2日 三重県に生まれる】

高校までは、三重県にいました。このころから、政治の汚職など、日本の政治に疑問を持っていました。
【大学民主化運動の時代のなかで】

民主化運動で有名な某私立大学
の土木工学科へ進学


大学で学んでいた時には日本の政治に憂い学生運動を始めましたが、この民主化運動という学生運動から私と中国との関わりが始まったわけではありません。
この頃は、毛沢東という崇めるカリスマが存在するような中国は、全体主義社会であり、中国自らが言う「社会主義」の平等の国とはとても思えませんでした。
当時、日本にもいたマオイストの人が、友人の中にもいましたが、考え方は相いれませんでした。当然中国にも興味はありませんでした。
後年になって、日本の封建制の元となった、中国に今も色濃く残る封建制を調べようと思い、中国留学を思い至りました。
都市での家庭生活の中には、かなりなくなっていましたが、政治、官僚制度、社会制度の中には、本当に、日本の封建制の本家本元であることを見ることが出来ました。


明治大学へ入学

民主化運動で1つ目の大学を退学し、本格的に歴史を学びたくなり、2つ目、明治大学に入りました。
しかし、当時、働きながら大学夜間部に在学していたのですが、仕事と生活に忙しく追われる中、卒論まで書き終えたのですが、丁度学費値上げ反対運動があり、自治会執行部の仲間は、卒業拒否をしていたので、自分1人で、その年に卒業するわけには行かないと思い、いつでも卒業はできる状態で、そのままにしていたら、その内、授業料滞納となり退学になってしまいました。
後年には復学して卒業しました


この頃の私の座右の歌
「若者たち」
1,
 君の行く道ははてしなく遠い
 なのになぜ歯を食いしばり
 君は行くのか
 そんなにしてまで

2,
 君の行く道は理想へと続く
 空にまた陽が昇る限り
 若者はまた歩き始める
 空にまた陽が昇る限り
 若者はまた歩き始める

【中国語との出会い】

仕事をしながら日中学院別科へ

中国語学校日中学院には、2年半毎日、仕事が終了後通いました。そして、週末まで含め1日平均5時間くらい勉強しました。

日中学院時代の学習方法は、仕事の終了後、毎日学校に行き(2コースにでてました)授業を受け、授業を録音したテープを、毎晩その日寝るまでに全部ノートに書き起こしていました。
日曜日は、仲間で学習会をしたり、一時、あさ9時から5時の中国語を徹底して暗記で教育する教室にも通いました。
仕事のお昼休みには、朝の時間に録音しておいたNHKのラジオ講座のテープを聴き、毎回その都度理解し終えるようにしました。




当時、外回りの仕事だったので、歩きながらウオークマンで、3冊の厚い、会話、通訳集などの教材本を、音で暗記をしました。歩きながらテープを聴き、人が側にいる時は、口だけをピンインが示す形どおりに、ぱくぱく動かし、人がいないとテープと同時進行で声を上げて読みました。同僚との同行外回りの時もありましたので、ある時「何か新興宗教でもやっているのですか?」ときかれたこともありました。(^_^)

在学中、学校派遣で、2ヶ月間の短期留学にも行きました。その時は、皆よりできたので、通訳係、学校との連絡係を秘書長という名前でやりました。(^_^)職場では無給休暇だったので戒告(?なんだったかの)処分も受けても行きました。
【中国留学 北京大学歴史系(81〜84年)

中国語が聞き取れないショック

日中学院在学中の短期留学では、通訳係も務めた経験があったわけですが、でも、いざその翌年の1981年に中国に長期留学したら、学部の授業、中国人同士の会話が、全く聞き取れないのにはショックでした。

当時の日中学院のクラスメートとか関係者が、このホームページを見てくださっていたらと思いますが、私は、学校の中で、上から数えてかなり上の方でしたよね。でも、長期留学に行って、日常の授業、生活の中で、生の中国語を聞くと、本当に駄目でした。

こちらの、言いたいことを伝える事務連絡程度の会話をやっていた、短期留学の時の経験は、長期留学と全く異なるわけです。別にここで、私は勉強量が多いことを自慢したいわけでなく、留学は、それくらいやって行っても苦しかったということを、中国留学カウンセラーとして言いたいわけです。

「押金」(デポジット)という実用的な中国語とか、歴史学部に入りましたが、日本側では日清戦争といわれるのが、




中国側では「甲午戦争」(=日清戦争)といわれているというような歴史的な専門用語などは、当時の日本の中国語教育レベルでは学んでなかったのです。

何しろ3年間中国語を勉強しただけの人が先生をやっていたくらい中国語教師の人材が不足していた時代だったのです。
 
買い物も時にトラブったり、授業も聞き取れないなどで、日中学院の短期留学の引率と通訳も担ったことがある私は団体の短期留学と異なる長期留学で、聞き取り能力の弱さに気づかされ落ち込みました。
 
当時、家庭教師、個人レッスンは禁止でしたので、やむなく授業はテープに取り書き起こしました。生活は、なるべくボランティアをやって会話をするようにしました。

遅々として進まない勉強に、最初2年間の予定だったのを3年間に延ばしました。北京大学の歴史系で学ぶどころではなく、自分が研究したい資料を収集するくらいで手いっぱいでした。
中国の革命英雄(烈士)の「澎湃」

中国に行った動機は、民主化運動の活動をしてきたので、明治大学、北京大学留学、明治大学大学院と、一貫して中国の現代史を見つめ、中国の地に体制側と異なる民主主義を求め、中国の反体制・民主化派の文章を掘り起こし、封建的官僚主義的手法での毛沢東の中国革命を批判的に研究しようとしたわけです。

しかし、結局、当時の時代情勢としては、中国現代史についての研究には中国側に制限があり、なかなか難しく、これといった成果は出せず、中国の革命英雄(烈士)の「澎湃」について、これは中国が嫌がる内容の小論文ですが、それを書いたくらいです。


内容は、詳しくは当時の文章が今見つからないので、記憶で概略述べます。澎湃は早稲田大学に留学していて、そこには社会主義研究会があり、そこに入り影響を受けたました。澎湃自身もそうであったように、当時の日本の地主の息子である一人の小説家の「理想村」(名前詳しくは忘れました)みたいな理想主義の影響を受けました。帰国してから農民に親から受けた自分の土地を分け与え、革命家への道を走って行ったというようなことを書いたように記憶しています。

つまり、中国の革命家が、日本で育っていると言うことになっている結論を書いたわけですから、中国にとっては面白くないですよね。まあ、当時は、当然、北京大学歴史学部内での非公開の論文集でした。知り合った歴史学部の中国人大学院生に見せたら「私たちはこういう文章を目にすることが出来ない。」と言ってました。
余談

面白いのは、この澎湃の記念館に参観に行ったとき、澎湃を初めとする掲示されていた、いろいろな写真の中で、80年代の時には、妻の写真しか掲示してなかったのが、2度目の90年の留学の時にも再度行ったら、以前にはなかった「愛人」と書いた写真も掲示されていたことです。

よく昔、中国語学校でも留学でも学んだ、台湾以外では、自分の連れ合いのことを「愛人」というのは、実は、昔は、中国でも「愛人」は「愛人」だったのです。


当時の農村の地主階層では、親が決めた妻があって、自分が愛する恋人は「愛人」、つまり「妾」としているのが常識だったわけです。革命家の澎湃も例に漏れずでした。

だから毛沢東も4名?だったかいて、何番目かの妻の「江青」には、夫の「虎の威」を借りられ、この妻江青を中心とする「四人組」(本当にあったか史実は不明です)まで組織され「文化大革命」を引き起こされてしまい、建国後、戦後復興の大切な時期に経済建設を滅茶苦茶にされてしまうということに成ってしまったわけです。
【「中国留学ガイドブック」ができるまで】

4ヶ月滞在延長で取材を

留学の最後の頃に、日本へ帰国したら、中国留学の実態を、これから留学に行こうとする人に、事前に理解してから行ってもらえるようなガイドブックを作ろうと思い至りました。そして、当時としては非常に難しかった、留学終了後、更に中国滞在を4ヶ月延長するということを裏の手でやりのけ、全国にある留学生受け入れ大学の取材に取りかかりました。

取材先の大学で日本人留学生から、恐ろしいことに、当時、自分の留学先もわからず、ただ、当時の唯一の仲介業者であった、ある協会と大学間の連絡があっただけで、「自分が遼寧省の大学に行くのだ、と着いてからわかった。」と言う話しを聞きました。この話は「中国留学ガイドブック」を本気になって作ろうと考えさせた、きっかけとなりました。

こうして、中国歴史研究という本来の目的は、中国の民主派が「文革」と毛沢東について批判した文献資料などの収集以外には、何も成果を持ち帰れませんでした。留学ガイドブック作成の大量の取材資料と、後で、大学院へ入学して研究をしようと思い至ることになる上記資料を持ち帰って、3年間の留学期間が終わりました。




帰国後は、「中国留学ガイドブック」の執筆のために、フルタイムの就職には就かないようにしていました。事前に中国を知っていってもらい、中国に行き「中国を嫌いになる」人を作らないようにするのが、「中国留学ガイドブック」を作る私の目的でした。

中国語専門学校で仕事を始めたときには、中国留学をする学生のための事前研修合宿を担当しました。その研修合宿に当日来なくて、私が写した大学紹介のスライドを見ないで留学して唯一の1人は、留学後、中国の大学の寮とトイレの暗さにがっかりした、という手紙を書いてきました。でも、その他の人も、「確かに中国について先生に聞いてから行っても、見てみると大違いで、行ってみて、がっかりしてしまった。」という声も多かったです。

みんな、何一つ事前に中国のことがわからず、中国留学に来て、ストレスが溜まり、そして、途中で帰国していく人も多くいました。
スパイと間違われながらの取材

当時のほとんどの中国の大学には、キャンパス地図の準備はなく、唯一、広州の中山大学だけが作ってあったのが不思議に思いました。比較的開放的な南方とお堅い北方にある大学の違いですね。

本格的執筆前に出版社から参考に見せてもらった英語圏の大学の留学案内書では、オリジナルをコピーするだけで済ませてるのを見て、うらやましく思ったものです。

仕方なく、各大学では、徒歩で距離を計り、だいたいの形を地図にして、最初の「中国留学ガイドブック」では、大学のキャンパス地図をできるだけ載せるようにしました。スパイと勘違いされながらの取材でした。


今は、大学が、パンフレットにして、そして、校門を直ぐ入ったところに立て看板の地図を置いているので、私が敢えて苦労して、「スパイ」と疑われるようにして、キャンパス地図を作る必要はなくなったわけです。

既に、オフラインの中国留学紹介は使命を負え、オンラインで、多くはすんでいるのかもしれません。しかし、インターネット上に氾濫している中国留学の個的な体験談が、多数からの取材ではなく、個人のものがほとんどなので、主観的間違いも抱えていることだけは頭に置いておいてください。
留学生・友人の協力のなかで

当初から、正式な本の形になると思って取材を始めたのではありません。取材を始めたときは、当時あった「ガリ版刷り」でも良いから作ろうと思って、ひたすら当時留学受け入れを開放していた大学を30校以上回りました。多くの留学生が、各大学で「自分も留学前に、そんな本があったらと思って。」といって積極的に取材に協力してくれました。

留学から帰国後、私が留学に行く前にボランティアで関わっていた日中友好団体の1メンバーが、たまたま出版社関係の人だったので、本の話をしたら、そろそろ中国関係の本を出したいと思っていた、他の国の留学方面の本も出している出版社を紹介してくださいました。また、事前に友人にワープロで目次を打ってもらい持参したので、紹介してもらった、受けての出版社は、原稿はワープロ仕上げと勘違いしてくれ、私が文章下手、悪筆であることを知らずに、この企画を受けてくれました。(^_^)


それが偶然の始まりで、その後、15年間で3冊目まで、「ライスワーク」としてではなく、「ライフワーク」として、孤高の作業で、赤字ずくめで出して来てしまいました。

その出版社が出してくれるということになる前に、ある中国関係書籍専門の書店と出版社を兼ねている所へ、原稿を持ち込んだときには、そんなもの売れるわけがない、とむげに断られ、後に、その書店が例年発表している、売れ筋書籍ベストテンの上位に入ったときには溜飲が下がりました。
【中国留学研究所の活動(86年設立)

日中学院、朝日中国文化学院など、その他、諸々の仕事をこなしながら、中国留学研究所として、10年間ほどボランティアで中国留学相談を受けたり、無料で1,000通近くの、留学最新情報のニュースを1人で発送したりしていました。時には、スライド映写機などの重い荷物を抱え、出前留学準備講座を開きに行ったりしていました。ただただ、中国に行った人に中国を嫌いにならないで、客観的な視野で見てきてくれることを求めんがための活動でした。
この頃、「中国留学ガイドブック」を書くためと中国留学研究所の活動のために、なるべく時間が欲しく、フリーの通訳をしていた時期もありました。


中国留学時代に、いずれ中国は、高速道路時代、インフラの整備が起こるのではと考えていたので、一級土木施工管理技士という国家資格を取っておくと、その方面での通訳が回ってくるのでは、と思い、受験勉強をして、資格を取得しました。結局、通訳は不向きと自分で気づきましたが、この国家資格が後で、思わぬことに、私の収入を助けることになります。
【2回目の中国留学へ(90年)

「歴史決議」の研究

明治大学大学院を修了後、文部省推薦の中国政府奨学金を受け、2回目の研究留学に行きました。大学院と2回目の留学とで研究したのは、中国の「歴史決議」に関連したことでした。
「歴史決議」とは、中国建国の革命、及び毛沢東と彼が発動した「文化大革命」についての評価を、国家、或いは政権党として定め、中国「共産党」の元で行われた革命・共和国建国を肯定的にまとめようとした、中国「共産党」策定の公的文章です。

「歴史決議」が採択されたのは1981年ですが、その作成準備期間中、海外からは見えない中国国内の水面下では、様々な論議が、当時の民主化運動と絡まり行われていました。この議論内容についての研究でした。
中国「共産党」はこの「歴史決議」の決定をもって、国民は以後は、多くの人の生命が犠牲になり、国内の経済をも混乱させた「文化大革命」とそれを起こす主要な要因となった毛沢東崇拝についての論議をやめさせ、「歴史決議」を「国論」とするという、世論を無理矢理に決定することをしたわけです。

このような「歴史決議」は、共産党内では、建国の革命の前に、内部の引き締めをするために、既に2度行われたことがあります。




この3度の「歴史決議」の存在に中国共産党の立脚点と体質を見ることが出来ます。
そして、この3度目の「歴史決議」は言葉を換えていえば、これ以後は、中国「共産党」と「建国の祖」といわれていた毛沢東の評価について論議するなかれ、民主化運動をやめろ、という命を党として下したものであったわけです。

ですから、この「歴史決議」が出る前には、党内外で様々な意見が内部文章として出されていました。これを本来は読むことは許されてなかった外国人として、可能な限り集め、中国「共産党」が言う評価内容とは別に、中国「共産党」、「社会主義革命」、毛沢東、建国革命の評価について様々な異論が出ていたことを、党側の論客と民主化派側論者(中国「共産党」をマルクスの言う労働者階級の「共産党」と見なせないと考える人々)の発表文章の行間に、にじみ出る意味を分析し、両者を比較し、コメントする研究をしました。

当時は、民主化派側の論者は、行間に意味を伏せないと意見を述べられない、正面切っては主張できない時代だったのです。だからこそ、それを探し、行間に臭わせ、言わんとしている意味を分析し、中国国内に中国「共産党」と「社会主義」革命について、いろいろな意見があることを理解し、紹介する価値があったのです。
【CVN設立のきっかけ】

2回目の留学中、東京都が中国語の外国人相談窓口を設立する計画があるということで、日本にいるボランティア仲間に呼び戻され、急ぎ帰国して、外国人支援のボランティア団体の推薦により、東京都外国人労働相談員に就任しました。
結局、11年間勤めたこの仕事が、中国語ボランティア・ネットワーク(CVN)設立のきっかけにもなりました。行政の相談窓口は、昼間一定時間だけ、電話か面接での相談を待って話を聞き、何らかの対処をするだけです。外国人にとって、最も必要な夜間の相談や、相談窓口では解決できず他の部門に行かなければならないときには、相談窓口はそこで見放してしまっていました。行政に意見を出しても、行政は受け入れようとはしないので、夜間相談(対日本人には行っている)、及び同行通訳をする中国語のボランティア団体を作らねば、と相談員になってから間もなく感じたのです。
【中国語ボランティア・ネットワーク(CVN)設立】

そこで、留学経験者などの仲間に呼び掛け、1993年の10月6日にCVNの結成会議を開きました。最初は、四谷にあった「外国人労働者弁護団」の事務所に軒下を借りました。「外国人労働者弁護団」は、有意の弁護士さん達が集まって作っていた会員制の任意団体です。そこが財政困難になり事務所が解散した後は、今度は、中国の帰国者の団体の口利きで、三鷹の行政書士さんの事務所に軒下を借りました。
そこも財政難になり、事務所を閉めるかも知れないと言う話が出始め、そこも出ることにしました。現在は、CVNが団体会員にもなっているMIA(武蔵野市国際交流協会)のロビーに、ただ、誰でもが自由に出入りできるものとされている場所に集まっているという形で、担当者個人の方のPHSで相談を受ける方法で、活動の継続を続けています。この頃、新しい場所が夕方終わるのが、それまでより早いことと、自身の仕事場所の異動の都合で、代表の私は相談窓口にはでられなくなりました。その後を各務さんが担当してくださっています。
CVNはこんな手弁当団体です。詳細は、ホームページを見てください。

 http://www010.upp.so-net.ne.jp/cvn/
【留学カウンセラーとして】

現在の私の幾つかの仕事とボランティアの内、メインとなっているのは、中国留学研究所でボランティアでの留学カウンセラーと文部科学省の外郭団体の日本学生支援機構(旧所属の日本国際教育協会と日本育英会、国際学友会、内外学生センターが合併)留学情報センターでの中国語圏の留学相談員です。この文部科学省の下部機関で、週に3回中国、シンガポール、台湾、香港などの中国語圏の留学相談を受けています。

留学経験が2度、通算約4年間あったこと、「中国留学ガイドブック」を書いていること、中立的な立場でボランティアで中国留学の相談を受けていたことから、営利の斡旋業者関係でない第三者的立場の人間、ということで、文部省(当時)の関係公的機関としては、丁度適合したのかと思います。カウンセラーとして招かれ90年代中盤から就業しています。


斡旋業者以外で、唯一個人の立場で中国留学の本を書いていたのが一番大きな雇用された要因でしょう。しかし、取材、資料収集などの苦労は多いが、英語圏留学との比較でいえば、販売数は圧倒的に少なく、制作のための自己出費ばかりが重なる本を書く人間が、他に誰一人としていなかったことが良かったわけです。(この本書くの誰か引き継ぎませんか?)
米国留学あたりなら、オリジナルのその国の英語本を翻訳引用して、相当楽して作れるわけですが、ご存じのように、中国には、まともな「全国大学案内」の類の本もでていないのが制作作業を大変困難にさせている理由です。
この留学情報センターでの相談の方法は、ホームページの他のページを参照下さい。センターには資料閲覧室もあります


●秦佳朗
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三重県産・1948年9月2日生まれ
明治大学中国史専攻卒業
日中学院別科修了
中国北京大学歴史系留学(81〜84年及び90年)
元日中学院翻訳通訳部担当兼中国語非常勤講師
「中国留学ガイドブック」(三修社刊3冊)著者
明治大学大学院中国史専攻修士修了

元東京都外国人労働相談員・中国語担当

   
◎元東京都外国人労働相談員・中国語担当とは、
     10数年間勤めました。中国の留学生の労働
     災害問題、賃金未払い、解雇の問題について
     中国語で相談を受け、問題の解決に努力する
     相談員の仕事です。




元厚生労働省東京労働局外国人雇用アドバイザー
 
   
◎元厚生労働省東京労働局外国人雇用アドバイザ
    ーとは、外国人の雇用を促進するように契約などの
    労働問題、入管のビザ問題などでアドバイスをする
    役割です。この仕事と東京都の中国語相談員の仕
    事は、近年体調が悪いので、仕事を少し減らすため
    退職し、古くからのボランティアの仲間に、後をお願
    いしました。その後、元気になってしまいましたけどね。



元国立京都工芸繊維大学中国語非常勤講師

◎国立京都工芸繊維大学中国語非常勤講師をしていたのは、母親の長患いで田舎にいたときです。この大学の学生はまじめで、昨今言われている「大学の授業でさえも学級崩壊」ということはありませんでした。


元日本学生支援機構(旧日本国際教育協会)留学情報センター
・中国語圏担当留学相談員(アドバイザー)



●現在
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朝日中国文化学院など中国語講師

中国留学研究所代表兼留学カウンセラー

中国語ボランティアネットワーク(CVN)代表

武蔵野市国際交流教会(MIA)東京外国人相談ネットワーク運営委員

日本北京大学留学校友会・幹事長

◎日本から北京大学へ留学した同窓生の集まりで、北京大学の創立百周年を記念して結成しました。しかし、学校側からは、日本の住所が入っていない、年度別の名簿しかもらっていないので、日本でなかなか多くの人に連絡が取れません。初期の頃に留学した人の年度に偏っていますが、一応の名簿ができているのと、ホームページが開設されていて掲示板で交流をしています。 http://www.rikkyo.ne.jp/univ/tanino/beida/index.html

JAFSA・国際教育交流協議会(旧称・外国人留学生問題研究会)
研修委員会委員(元理事及び渉外委員会中国・東アジア担当副委員長)

◎JAFSA・国際教育交流協議会とは、旧称を外国人留学生問題研究会といい、日本への留学生の受け入れと海外への送り出しを日本の大学の国際交流センター、留学生センターなどで担当している職員の個人会員と大学の団体会員で成り立っている、留学の受け入れと派遣の実務を研究・意見交流するNPO団体です。

趣味
 
    
◎テニス、野球、スポーツクラブでのトレーニング、海外旅行
       などです。(一緒に旅行できる人を募集中!(^_^))
       迫っているリタイア後の夢は、世界のんびり旅行をして、
       終の棲家(日本と半年ごとに住む)ロングステイ先を探し
       出すことです。
       現在、候補は、台湾台中、ケアンズ、タイのサムイ島など
       です。


hataコラム−日中専欄 留学時代 hata@中国 ■自我介紹
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