2001年12月 

 崇貞学園  (報告者 簡淑循)


 桜美林学園の創設者清水安三は終戦までの25年間、北京朝陽門外で崇貞学園を経営していた。
 清水は中学に入学して、すぐ米人英語教師兼宣教師ヴォーリスに出会い、生涯の師と仰ぐようになった。身近に接して、祈りこそ全てと確信、又近江八幡一帯の福祉施設建設の不撓不屈の精神も学んだ。
 清水は直ちにキリスト教に入信、やがて牧師たるべく、同志社大学神学部に進学。鑑真和上の渡来や義和団事件の米人宣教師ペトキンの殉難に感動して中国に渡る決心をした。
 清水の日曜学校の生徒であった同志社女専家政科出身の横田美穂と結婚、北京に移住した時、丁度未曽有の飢饉が華北を襲い、日本側が官民共に英米の救助を傍観しているなかを、東京の渋沢男爵に訴えて救済事業に着手。餓死寸前の災害児799名を北京に集めて、翌年麦の豊収まで手厚く保護した。栄養失調、内臓疾患、皮膚病、はては天然痘まで発生する喧噪の収容所で医療、食料、衣料品を与え、美穂の気高さ、優しさ、強さは後々まで北京の聖女と称えられた。親が餓死した20名は東京へ丁稚に送り出した。
 その頃、貧民街の朝陽門外の家庭では、少女の売春以外に生計の道がなく、その悲惨な状況に清水夫妻は、災害救助の残金500元で救済を始めた。美穂は少女達に手工芸を教えて収入を得る方法として小さな半工半読の崇貞学園を立ち上げた。
手工芸は少女達を救っただけではなく、無為徒食の人々にも広まり、朝陽門外はだんだん豊かになっていった。崇貞は経済基盤が脆弱で、寄付や清水の家庭教師、原稿料に頼るばかりで常に経費不足に悩んだ。美穂は孤軍奮闘の清水を助け、心身、物質を崇貞に捧げ尽くして清貧のうちに亡くなった。
 小泉郁子は日本で既に著名な教育者だったが、その地位を投げ棄て、清水の後妻となり、その積極性が時局の進展と相俟って、崇貞は大きく飛躍し、内容設備共に充実した。
 崇貞はミッションスクールで、校則はなく、毎日聖書を読み、礼拝を守り、聖書の教えで自らを律した。又モットーの「学而事人」は学んで人に仕える意味であり、建校以来の労働重視は最後まで変わらなかった。外界に影響されることなく、学園内では自由や正義の言動が認められ、朝鮮人生徒は創氏改名でも日本式名前で呼ばれることがなく、朝鮮の歴史、文化についても学ぶことが出来た。人種の差別がなく、国際人としての気風が培われる。

1920年 崇貞平民工読学校
1921年 崇貞女子学園と改名
1923年 全日制
1933年 崇貞小学校を北平市政府に登録
1936年 崇貞女子中学校設立
1938年 男女共学の小学校として崇貞学園と改名
1939年 崇貞日本女子中学校設立
1943年 崇貞高等女学校設立

 崇貞は開校当時は米穀倉庫、半年後から10年間は神路街の仮校舎、1936年7,000坪の校地に校舎を建設。終戦時学校の敷地は14,000坪、建築物は22棟、とりわけ映画上映可能やシャワー室完備の体育館、地下に書庫を備えた3階建の図書館は豪華なものであった。
1938年には遠隔地の生徒を収容する寄宿舎が完成した。卒業生は小学部だけで2,000名を越えた。教科は中国教育部制定の教育令に基づき、又高等女学校は内地の女学校と同じく文部省令による。
 清水と二人の夫人の外、崇貞を愛し、一緒に働いた女性達の写真は現在陳経倫中学として存続している校史陳列室に掲げられている。
 中国一の貧民窟(天橋付近)に矯風会の献金によって中国最初のセッツルメント「天橋愛隣館」が開設され、清水夫妻がその運営に当たった。戦争が終わるまでの6年間、医療、識字運動、手工芸に日本の若い女性が奉仕した。


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