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<中江兆民のさまざまなエピソードを紹介します>
「兆民先生行状記」
は、弟子・幸徳秋水の同名の書に由来します。
<留学を直訴>
岩倉遣欧使節団の随行員募集の話を聞いた中江兆民は、内務卿大久保利通が路上を馬車で通りかかるのを待って自分を留学生に加えてくれるように直訴した。
板垣退助や後藤象二郎など、兆民の同郷の実力者に頼めばといぶかる大久保に、兆民はこう答た。
「私は情実縁故を頼るのはいやである。閣下はわかるはずである」
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<小学校入学>
フランスに留学した中江兆民は、リヨンの小学校に入学した。すでに20代半ばになっていた彼のことを留学生仲間は「大学へも行かずに小学校へいくとは変わっている」と笑ったが、彼は「小学校へ行く前に大学へ行く方がよほど変わっている」と取り合わなかった。彼の本当の目的は、「フランスのことを知るためにはフランスという国の成り立ちの歴史を一から知らなければならない」というところにあったのである。
しかし、小学生たちの騒々しさに耐えかねて彼はほどなくして学校を辞め、代りに小学校の教科書を使って勉強した。
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<All You Need is Love>
「Love」の訳語として「恋愛」という言葉が使われるようになったのは19世紀後半、まさに中江兆民が生きた時代だった。
記録上最初に「恋愛」を使ったのは中村正直「西国立志篇」におけるもののようであるが、兆民もまた、この言葉を積極的に使った先駆的文章家だった。
しかも、当時の他の文学者と違い、兆民は彼を敬慕した北村透谷らと同じく恋愛に高い精神性を見出していた。
僕思ふに英語ロウ(love)、仏語アムール(amour)即ち邦言恋情と云ふの意象は小説の骨子なり。我邦並に漢土の作者の看做す如く鄙鄙たる物質に非ず。(中略)希世の豪傑が畢生の心血を
竭
(
つ
)
くして
纔
(
わずか
)
に其一方面を看得るに過ぎざるも、猶ほ且つ此れを以て万世の後に施すに足る、誰れか恋情を以て鄙猥の物と為す乎、恋情を鄙猥視する間は批評を値ひする小説は産出せられざるべし。
<現代語訳>
僕が思うところでは、英語のラブ(love)、フランス語のアモール(amour)すなわち日本語で言う恋愛というものは、小説の根本である。わが国や中国の小説家が見なすようなちっぽけな物質ではなく、世にも稀な豪傑が渾身の心血を注ぎ尽くして、わずかにその一面を見ることができるに過ぎないが、それでもなお後世に向かって申し述べるに足る値打ちのあるものである。誰が恋愛を卑猥のものと見なすのか。恋愛を卑猥視している間は、評価に値する小説は生まれないであろう。
「文学趣味論の応援」より
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<元祖告別式>
中江兆民の告別式は、明治34年12月17日、東京・青山会葬場で行われた。
中江兆民は自分の葬儀にあたって、一切の宗教色を排するように遺言していた。実は「告別式」という言葉こそ、葬儀に宗教上の儀式を持ち込まないで故人に別れを告げるというこの兆民を送る会から始まったといわれている。
弔辞は板垣退助が読み、大石正巳の追悼演説、門下生総代野村泰亨の永別式辞に続き、1000人を数えた参列者の告別式が行われた。
しかし、その中には民権論から国権論に転向して兆民を裏切った形の人々が多く姿を見せてもいたのである。
大正15年、旧門下生らの手によって、青山霊園に
「兆民中江先生痙骨之標」
が建てられた。
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<新民世界>
明治21年、東雲新聞2月14日号に、大円居士という人物の署名のある「新民世界」という論説が掲載された。
大円居士は自ら「昔日公らの“穢多”と呼びなしたる人物なり」とし、被差別部落に向けられる世間の目をとうとうと語る。実は、この大円居士こそ、兆民が自ら被差別民の立場で差別問題を語るために創られた人物だったのである。
これ以前にも、部落解放問題を説いた民権運動家はいる。しかし、兆民は、自らが被差別民の立場で考えることにより、そんな解放論の根底に、そして当の東雲新聞の記者や読者にも、上に立つものの下にいるものに向ける驕りを隠した憐れみが流れていることを暴いて見せたのだった。
公ら自らの誇るところの平民旨義は何ぞそれ貴族的なるや。公らなんぞ平民的の平の字を去り
易
(
か
)
ふるに新の字を以てして新民的と称するの勇気なきや。平民とは貴族に対するの語なり。これ公ら眼界中なほ貴族なる意象あるなり。新民とは旧民に対するの語なり。卑々屈々自由を奪はれ権理を奪はれ、同一人類なる士族のために打たれ踏まれ軽蔑されて憤発することを知らざりし旧時の民に対するの語なり。
<現代語訳>
あなた方の誇りとしている「平民主義」とは、なんとまあ貴族主義的であることか。あなた方はどうして、「平民的」の「平」の字の変わりに「新民的」と称する勇気がないのか。「平民」とは、「貴族」に対する言葉である。これこそが、あなた方の意識の中にいまだに貴族が厳然として存在している証拠ではないか。「新民」とは「旧民」に対する言葉だ。卑々屈々自由を奪われ権利を奪われ、同じ人間であるはずの士族から打ちのめされ踏みつけにされ軽蔑されても、憤慨することすらできなかった過去の民に対する言葉なのだ。
「新民世界」より
この「新民世界」を発表したことにより、兆民は被差別部落の人々に大きな信頼を得た。第一議会の選挙のときに、大阪4区からの兆民の立候補を熱望し、自分たちには選挙権は与えられていないにもかかわらず、無償で兆民の選挙活動に尽力したのは、兆民の思想に勇気づけられた被差別部落の人たちだったのである。
兆民のこの思想は、弟子の幸徳秋水に受け継がれた。差別の撤廃を目指した「平民社」を築いた幸徳について、部落問題を扱った小説として有名な「橋のない川」を書いた住井すゑ氏は「幸徳先生は我が恋人なり」と言い続けていた。
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<アルコール中毒>
明治22年に発布された大日本帝国憲法の内容が、あまりにも人権を無視した内容であったことに深く絶望していた兆民だが、それでも第一議会で民党(兆民が作った現在の野党に相当する言葉。与党は吏党という)側が多数を占めたことにより、民党議員が一致団結してあたれば憲法改正も夢ではないと一縷の望みをかけていた。ところが。
政府側の示した軍事予算案を2度にわたって否決した議会に対し、政府は裏面での工作を開始した。このとき、政府側と民党とのパイプ役を果たしたのが陸奥宗光だった。結局、植木枝盛らをはじめとする一部の土佐系議員たちが軍事費削減額を縮小するかたちで政府と妥協してしまったのである。
中江兆民は、この事を激しく憤り、立憲自由新聞に「無血虫の陳列場」を発表した。
衆議院彼れは腰を抜かして尻餅を搗きたり。総理大臣の演説に震懾し解散の風説に畏怖し、両度まで否決したる即ち幽霊ともいふべき動議を大多数にて可決したり。衆議院の予算決議案を以て、予め政府の同意を求めて、乃ち政府の同意を哀救して、その鼻息を伺ふて、しかる後に唯々諾々この命これ聴くこととなれり。議一期の議会にして同一事を三度まで議決して、乃ち竜頭蛇尾の文章を書き前後矛盾の論理を述べ、信を天下後世に失することとなれり。無血虫の陳列場・・・已みなん、已みなん。
<現代語訳>
衆議院彼は腰を抜かして尻餅をついた。総理大臣の演説に震え上がり、解散の噂に怯え、二度までも否決したすなわち幽霊とも言うべき動議を大多数で可決してしまった。衆議院の予算を決議する上で、あらかじめ政府の同意を求め、つまり政府の同意を哀願し、その鼻息をうかがって、やがて唯々諾々政府の命令を聞くこととなった。たった1期の国会で同じことを三度も議決し、竜頭蛇尾の文章を書き前後矛盾の論理を述べ、国会への信頼を天下後世に失することとなった。無血虫の陳列場・・・やみなん、やみなん。
立憲自由新聞明治24年2月21日号
さらに兆民は「小生事近日
亜爾格児
(
アルコール
)
中毒病相発し行歩艱難何分裁決の数に列し難く因て辞職仕候。此段及御届候也(自分は最近アルコール中毒にかかり、歩くのも困難で何分採決の列に並ぶこともできず、よって辞職します。この旨をお届けいたします)」と辞表を議長中島信行に提出した。公的な場でアルコール中毒という言葉が使われたのはこれが日本で最初だといわれている。
兆民の辞職は94票対93票で認められた。
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<ちびとさる>
兆民には一人の娘がいました。この名を「千美」という。読み方は「ちび」すなわち、「ちっちゃなやつ」という意味の「チビ」である。こんな名前をつけられた娘の千美もいい迷惑である。
兆民のネーミングセンスに首をかしげてしまう人がもう一人いる。兆民の弟虎馬の子「猿吉」です。実はこの猿吉、れっきとした女性である。早世した虎馬に代わって兆民が幼い彼女を引き取って育てていたのだが、その時にこんな名前をつけてしまったのである。兆民死後、猿吉はさすがに女性でこの名前はあんまりだと思ったらしく、改名を申請している。
ユニークといえばユニークだが、やはり兆民のネーミングセンスのおかしさには苦笑してしまう。
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<元祖献体>
中江兆民はその死に際し、死後自分の体を解剖し死因を確認するように遺言していた。記録に残る限り、医学者以外で自分の体を解剖させることを望んだのは日本人では兆民をもって嚆矢とする。
解剖は、兆民の死の翌日、明治34年12月14日に行われた。兆民を死にいざなった病は生前の診断では喉頭癌だったが、この解剖により、実際には食道癌であることがはっきりしたのである。
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<中江兆民のフェミニズム>
自由民権の時代は、女性たちが初めて、政治的な意見をはっきりと主張するようになった時代でもある。当時、このような風潮を苦々しく思い、女性が政治上の意見を述べるなど生意気だと決めつけた男性は少なくない。しかし、中江兆民は、「婦人改良の一策」で次のような意見を述べ、女性が社会に対して意見を主張する事を応援した。
女人が学問して、漢語混じりの噺が出来て、文芸・政治の考えが出来て男子の談話上にて時々二、三の言句または一両段の文章を吐く事が出来て、それが生意気ならば、我らは女人がなるべく生意気にならん事を望む者なり。この生意気という事は、前日女人が生きたる人形社会に沈淪しいたる時より生じたる慣習の盲雲なり。女人改良に熱心なる男子は、この盲雲を払うて、女人のために勇気を増さしめ、務めて漢語を使わしめ、漢文崩しの噺をなさしめるこそ肝要ならん。
「国民の友」25号(明治21年7月)掲載『婦人改良の一策』より
また、当時女性は男性の後について歩くもの、というのが常識だった時代に、兆民は、後に中島信行の妻となる女性民権家岸田俊子と並んで歩きながら議論をする事がしばしばあり、このため、兆民と俊子は恋愛中であるという噂さえ流れたほどだった(もちろん、これは事実無根である)。
しかしながら、兆民もまた明治の男性。現代の目から見れば、男尊女卑の考え方から完全に自由だったわけではない。留学先からの帰国後間もない頃に書いた文章では「女性が家庭を守るというのは、日本の美しい伝統であり、これを非難するのは単なる新しがりである」というような趣旨の意見を述べているし、実業家時代には、群馬県で娼家を経営しようとして幸徳秋水にたしなめられたりもしている。晩年にいたるまで主張し続けた公娼必要論は有名である。
それでも、時代の制約のなかで、兆民は精一杯のフェミニズム論を展開していたといえるだろう。
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<セクハラ兆民>
一方で、兆民は、いかにも明治的な蛮カラ風のエピソードも残している。
ある酒席で、酔っ払った兆民は、睾丸の袋を広げて酒を注ぎ、酌をしていた芸者に「飲めるか」といってのけてしまったという、現代であればまさしくセクハラとされる行動に出てしまった。しかし、このときは芸者のほうが一枚上手、顔色も変えずに酒を飲み干したかと思うと、ご返杯とばかり、熱燗の酒を同じところに注いだから、さすがの兆民も飛び上がり、「あつ、あつ」と叫びながら降参したとやら。
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<恩賜の民権・回復の民権>
「
三酔人経綸問答
」の中で、兆民が民権を二つに分けて論じた言葉に、「恩賜の民権」「回復の民権」という言葉がある。この二つの言葉は、兆民の民主主義思想の根底を流れる大原則を示すものとして、とても大切な考え方である。
本来、人間は生まれながら誰から与えられるでもなく人権を持っていたのである、というのがその基本的な考え方。しかし、専制政府によってその本来持っていた人権が奪われてしまっているのが、自由民権運動が展開していた時代だというわけである。そこで、本来誰もが天然自然に持っていた人権なら、それを「取り戻す」のも当然であるというのが「回復の民権」である。もともと持っていた人権を、当然の権利として取り返すから「回復」の民権なのだ。植木枝盛らが説いた「天賦人権説」と共通する考えである。回復の民権は、本来民衆のものであったのを当然の権利として取り戻すのだから、その分量は民衆の意思次第である
一方で、兆民はこれと別に「恩賜の民権」という言葉を生んだ。専制政府が、民衆に施しでもするように恵んでやるのが「恩賜の民権」。その民権には、民衆の当然の権利であるというニュアンスは含まれていない。政府のお恵みであり、民衆はありがたがって受け取るしかないものなのである。もちろん、その分量は民衆が決めることなどできない。
来るべき国会開設に向けて、兆民は、政府が認めるのはしょせん恩賜の民権でしかないことを見抜いていた。しかし、兆民はそれでも絶望はしない。恩賜の民権も民権は民権だから、それをよりどころにして、回復の民権に変えていこう、と、兆民は三酔人経綸問答はじめ多くの著書で説きつづけていたのである。
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<通読一遍ただ苦笑するのみ>
政府が決める恩賜の民権を回復の民権に変えるよりどころ、兆民は来るべき日本最初の国会開設と、それに先立つ憲法発布に一縷の望みを託していた。しかし、明治22年に発布された大日本帝国憲法は、その兆民を大きく失望させるものであった。
憲法発布は、国民の間で大きく歓迎されたが、一方で、その実態を知って喜んでいるものが誰もいないという事実がまず兆民を嘆かた。
明治22年春、憲法発布せらるゝ、先生嘆じて曰く、吾人賜ゝの憲法果して玉
耶
(
か
)
将
(
は
)
た瓦耶、未だ其実を見るに及ばずして、先づ其名に酔ふ、我国民の愚にして狂なる、何ぞ
如此
(
かくのごと
)
くなるやと。与せらる
幸徳秋水「兆民先生」より
そして、数日して憲法の条文が届いたとき、兆民は、恩賜の民権を回復の民権に変えるよりどころなどどこにも実現されていないことを知り、ただ苦笑するしかなかったのである。
憲法の全文到達するに及んで、先生通読一遍
唯
(
た
)
だ苦笑する
耳
(
のみ
)
同
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<帰朝報告>
2年余りのフランス留学を終え、兆民が帰国したときのこと。
大久保利通の尽力で留学生に加えてもらった兆民は、すぐに大久保のもとへ帰朝報告に行った。留学生活の模様を逐一報告する兆民に、大久保はその言葉を聞くともなく聞かぬともなく、ずっと目を閉じていた。
せっかくの自分の報告を聞いているのやらいないのやらわからない大久保に、兆民はついに腹を立てた。「いくら自分が若輩とはいえ、人の話を眠って聞くという無礼があるものか」と。すると大久保はおもむろに目を開け、「いや、目を開けていると君が話しにくかろうと思い、目を閉じていたのだ」と答えた。
権力者である自分が威圧するような目を光らせていたのでは、若い兆民がリラックスして話せまいと配慮する、大久保の意外な一面を物語るエピソードである。また、時の最高権力者である大久保利通にも堂々と怒ってみせる兆民も、その反骨精神の現われを見ることのできるエピソードといえるだろう。
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<豆食い書記官>
兆民が元老院
権少
(
ごんのしょう
)
書記官に任ぜられたときのことです。
元老院書記官といえば当時のエリート中のエリート官僚。しかし兆民は、粗末な着物で役所に出勤し、いつもたもとに炒り豆を入れては、ぽりぽりとかじりながら執務していたという。
常に汚れた
単物
(
ひとえもの
)
の上に小倉袴を着け、をまけに煎豆を袂に入れて官署に出かけ(中略)、ひまさえあれば例の豆を出してはぽつりぽつりと喰って居る。遂には、豆喰い書記官と綽名されたそうだ。
岩崎徂堂「中江兆民奇行談」より
かくのごとく、身なりなどまるで構わなかった兆民だが、元老院書記官としての仕事は誠実にこなしていました。明治9年、杉田定一が国会開設・讒謗率廃止建白書を元老院に提出した際、これを受理するかどうかで元老院内でひと騒ぎがあった。しかし兆民は、元老院内の反対意見を押して、建白書受理に尽力したのである。
杉田君は新聞記者をしている人であるから、讒謗律の可否についても、正鵠を射た批評ができるのである。反対の意見を悉く受理しないというのはよろしくない。元老院たるものは、公平に民論を聞かなければならない。
「鶉山直話」より、杉田の伝える兆民の言葉
身なりよりもまず、民衆のために誠実な役人であろうとした兆民の姿が伝わるエピソードである。
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<操守ある理想家>
明治の名翻訳家にしてジャーナリストとしても一流の腕を振るった黒岩涙香は、幸徳秋水が記者として勤める新聞社「万朝報(よろずちょうほう→よろず重宝のもじり)」の社主だったが、兆民が死の床に臥しつつ連載していた「一年有半」を読み、万朝報紙上に兆民評を掲載した。そのときに使われた言葉が、「操守ある理想家」という言葉である。
この言葉を目にした兆民はいたく感激した。
黒岩氏之批評は近年になく面白く相読み申候。(中略)小生を操守ある理想家と看破し呉れたるは、茫々天下、唯黒岩君一人、僕真に愉快を感じ申候。(中略)迂闊に迄理想を守ること、是小生が自慢の処に御座候。然に誰も此処を観破し呉れず、夫れ奇才の、夫れ学者のと、予何の人に出る才あらん。唯自慢する所は理想の一点のみ。
明治34年10月・幸徳秋水宛書簡より
たとえ迂闊だと人にそしられても、ただただひたすらに理想を求めつづけること、そこにこそ兆民のすべての誇りのよりどころがあったということを示唆する手紙である。そして、そんな兆民の理想家としての純粋さを見抜いたあたりにも、涙香の一流ジャーナリストとしての観察眼があったといえるだろう。
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