| 事項 |
| 弘化4年(1847) | 土佐国高知城下下山田町部屋町に生まれる。父は土佐藩足軽元助。母は柳。 |
| 文久元年(1861) | 父元助の死により家督を相続。 |
| 文久2年(1862) | 4月、土佐藩校文武館に入学。萩原三奎、細川潤次郎に英学・蘭学を学ぶ。 |
| 慶応元年(1865) | 土佐藩藩費留学生として長崎に出る。坂本竜馬と出会い、また、フランス語とも出会う。 |
| 慶応2年(1866) | 江戸に出て村上英俊にフランス語を学ぶ。 |
| 慶応3年(1867) | 12月、フランス公使レオン・ロッシュの通訳となり、兵庫・大阪へおもむく。 |
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慶応4年(明治元年:1868)〜 明治4年(1871) | 箕作麟祥塾、日新塾塾頭、大阪南校大得業生など経る |
| 明治4年(1871) | 大久保利通に働きかけ、岩倉遣欧使節団の一員に加わって留学生となる。 |
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明治5年(1872)〜 明治7年(1874) | アメリカを経てフランスにいたり、リヨン、パリなどにまなぶ。この頃、ルソーの著書に出会う。西園寺公望、光妙寺三郎などと交流する。 |
| 明治7年(1874) | 6月に帰国。仏学の私塾「仏蘭西学舎」を開く。ルソーの著書「民約論」「エミール」等をテキストとして用いる。 |
| 明治8年(1875) | 政府より東京外国語学校校長を命じられるが、程なく辞職。元老院権少書記官に任命される。 |
| 明治9年(1876) | 元老院を辞職。「英国財産相続法」等の翻訳書を出版する。 |
| 明治10年(1877) | 西南戦争に薩摩側で参加していた宮崎八郎と熊本であったとされる。 |
| 明治14年(1881) | 3月、「東洋自由新聞」を創刊、主筆となる。「自由」の名を冠した東洋最初の新聞だったが、政府の圧力などにより34号で廃刊。明治23年の国会開設などを盛り込んだ「明治14年の詔勅」が出されるが、実質的には上からの押し付けの国会にすぎないとして多くの民権家を嘆かせた。 |
| 明治15年(1882) |
仏学塾再開。「政理叢談」発行し、「民約論」の抄訳である「民約訳解」を連載。6月、「自由新聞」創刊。 10月、「民約訳解」単行本巻之一出版。11月、赤岡海浜漁民懇親会参加。 |
| 明治16年(1883) | 「非開化論」「維氏美学」翻訳出版。「欧米政理叢談」を55号で廃刊。 |
| 明治19年(1886) | 「理学沿革史」翻訳出版。「理学鉤玄」「革命前法朗西二世紀事」出版。 |
| 明治20年(1887) | 「三酔人経綸問答」「平民の目さまし」出版。長女千美誕生。12月25日、保安条例公布により東京追放となり、大阪に赴く。 |
| 明治21年(1888) | 「東雲新聞」創刊。8月頃一時帰郷。10月、幸徳伝次郎(後の秋水)門下生となる。「国家論」出版。 |
| 明治22年(1889) | 大日本帝国憲法発布。憲法の内容を深く憂える。発布による特赦で追放解除。長男丑吉誕生。 |
| 明治23年(1890) | 第一回衆議院議員選挙で、大阪4区よりトップ当選。「選挙人目さまし」出版。 |
| 明治24年(1891) | 政府側に妥協した国会土佐派の裏切りを怒り、「無血虫の陳列場」と称して国会議員辞職。「自由平等経綸」「民権新聞」発刊。 |
| 明治25年(1892) | 北海道で紙店、山林業などに手を染めるが失敗。 |
| 明治26年(1893) | この頃から鉄道会社等さまざまな事業を手がけるが何れも失敗。 |
| 明治27年(1894) | 「道徳学大原論」翻訳出版。植木枝盛墓碑銘を書く。 |
| 明治33年(1900) | 幸徳秋水に「自由党を祭る文」を書かせる。12月、喉頭癌宣告。 |
| 明治34年(1901) | 医師に宣告された余命1年半から、“生前の遺書”こと「一年有半」、無神無霊魂の哲学書「続一年有半」を書く。12月13日死去。遺言により遺体は解剖され、宗教的な葬儀は行われず、墓も建てられなかった |