<中浜万次郎>(1828〜1898)
いわゆる「ジョン万次郎」。土佐・中浜村の漁師出身。15歳のときに漁に出て漂流し、アメリカの捕鯨船に助けられる。10年後、帰国したのはペリー来航の直前であり、彼の知識が多いに求められる時代になっていた事が幸いし、幕臣にまで取りたてられるが、出自による差別を受ける事も少なからずあり、その才覚のわりには不遇であった。
万次郎が帰国したのは中江兆民が3歳の頃であり、子供心にアメリカの話を伝え聞いたといわれる。
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<幸徳秋水>(1871.9.23〜1911.1.24)
土佐・中村出身。本名は伝次郎。晩年期における中江兆民の一番弟子で、「兆民先生」をはじめとして、中江兆民について多くかたり残している。秋水とはもともと中江兆民自身が使っていた号である。号をつけてほしいという幸徳の求めに応じて、兆民はこの号を与えた。
社会主義思想に傾倒し「社会主義神髄」の出版、社会民主党の設立、平民社の設立等に活躍する。天皇暗殺を企てたとされる「大逆事件」の嫌疑をかけられて獄死するが、現在ではこれはまったくの冤罪であった事が明らかになっている。
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<坂本竜馬>(1835.11.15〜1867.11.15)
土佐・高知城下出身。倒幕の志士として脱藩して勝海舟の門下となる。倒幕活動を続ける一方、海運貿易商社の設立を目指し、亀山社中(後の海援隊)を長崎に結成。
中江兆民は土佐藩公費留学生として長崎に赴いたときに竜馬と出会い大きな影響を受ける。生涯特別に誰かを尊敬することなどなかったといわれる兆民だが、その中にあって唯一の例外として、この坂本竜馬だけは終生変わらず敬愛しつづけたのである。
この頃竜馬が画策していた薩長同盟と、その後の大政奉還は倒幕運動に大きな役割を果たした。
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<植木枝盛>(1857.1.20〜1892.1.23)
土佐出身で、独学で自由民権思想を学ぶ。上京後板垣退助の学僕となる。若くして自由民権運動の理論的指導者としての才覚を発揮。植木が起草した「東洋大日本国国憲案」は、200条を超え、基本的人権をあらゆる権威・権力に優るものと規定した極めて先進的、民主的なものであった。
中江兆民も議員として参加していた第1回衆議院では、予算案の議決で政府側に妥協し、兆民をはじめとする他の民権派からは裏切りとされ、自由党を脱退した。
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<板垣退助>(1837.4.17〜1919.7.16)
幕末期の土佐の上級武士出身で、戊辰戦争のときには土佐軍の総司令官として軍才を発揮した。維新後参議となり、中江兆民の渡欧にも尽力する。
征韓論争に敗れて下野した後、後藤象二郎らと「民撰議院設立建白書」を呈示し、民権運動に入る。立志社、愛国社などの土佐系民権結社の中心的人物であり、自由党総理となる。が、一方で底辺層とは遊離した「士族の民権」にとどまり、ときとして政府側との妥協、癒着を見せることも多々あったため、その評価は分かれるところである。
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<後藤象二郎>(1838.3.19〜1897.8.4)
幕末の土佐で家老を務め、長崎担当重役として坂本竜馬を抱き込んで海援隊を組織する。この頃留学生の中江兆民と出会っている。 江戸に出てフランス学を学びたいといった兆民の申し出に応じ、25両を気前よくだしたというエピソードは広く知られる。
板垣と行動を共にして自由民権運動に入る。国会開設を前に分裂した自由党系民権家と立憲改進党系民権家を糾合しようとした「大同団結運動」の旗手となり、中江兆民もこの目的のために奔走していた。しかし、当の後藤自身が入閣してしまうという失態を演じたためにこの運動も頓挫してしまう。
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<松田正久>(1845.4〜1914.3.5)
佐賀出身。陸軍省派遣の留学生としてフランスに赴き、帰国後九州地方を中心とした政治活動に従事。中江兆民の興した「東洋自由新聞」の編纂にも関わる。
第1回の衆議院選挙にも当選。その後、大隈内閣や伊藤内閣の大臣を歴任する。政友会設立に貢献。
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<村上英俊>(1811.4.8〜1890.1.10)
下野国出身の、我が国初のフランス学者。はじめ蘭学を学ぶが、松代真田藩士佐久間象山にフランス語の「化学提要」(ベルサリウス著)の翻訳を頼まれたことからフランス学の道に入り、ほとんど独学でフランス語の文法をマスターする。
後に江戸・深川真田邸内でフランス学の私塾「達理堂」を開き、慶応2年〜3年頃、中江兆民も入門する。しかし、このころの兆民はすでに師を凌ぐほどのフランス学の実力を身につけており、あまり真面目に講義を受けようとしなかったために、程なくして破門になってしまう。
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<三島通庸>(1835.6.1〜1888.10.23)
薩摩藩出身。酒田・鶴岡・山形・福島・栃木などの県令を歴任し、後に警視総監になる。
県令時代、彼は県民を使って道路の整備などの公共事業を進めるが、一方でそれは、ほとんど賃金も払わずに県民を使役するという、まるで奴隷を扱うような姿勢であった。これに反対した河野広中ら自由民権派に対して徹底した弾圧の姿勢で臨んだ。特に福島県令時代には「自分の在職中は県内に自由民権家と火付け盗賊は一人も置かない」とまで公言した。
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<大久保利通>(1830.8.10〜1878.5.14)>
薩摩藩出身で、明治維新で陰に陽に活躍し、西郷隆盛・木戸孝允とともに「維新三傑」と呼ばれる。
維新後、参議・内務卿などを歴任。近代国家としての日本成立に全力を注ぐが、一方でそれをあまりに強引に推し進めすぎたために冷徹な印象はぬぐい得ない。
中江兆民が、渡欧の際大久保に直訴してこれを認めさせたエピソードはよく知られるが、大久保はその後、「有司専制」「薩長藩閥政府」の象徴的存在として、新聞紙条例や讒謗律の施行など高圧的な態度で自由民権派に臨み、初期自由民権運動の最大最強の敵役ともいえる。
明治11年5月14日、東京紀尾井坂で暗殺される。
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<西園寺公望>(1849.10.23〜1940.11.24)
公卿の名家西園寺家出身で、戊辰戦争のときには、年少ながら名目上の山陰・北陸戦線の鎮撫総督となる。
明治4年からフランスに留学するが、翌年やはりフランスに留学生としてやってきた中江兆民と親交を結ぶ。
明治13年、帰国した彼は、松沢求策や中江兆民から自分たちの発行する新聞の社主になることを要請され(一説には、逆に西園寺や松沢が創刊した新聞の主筆に兆民を招いたともされる)、翌年、これを受けて「東洋自由新聞」社長となる。が、公家の名家の出身である西園寺が民権系の新聞の社長を務めることを危惧した政府側からの圧力は厳しく、わずか15号を出したところで彼は社長を辞任する。この顛末を、兆民は東洋自由新聞社説に「西園寺君公望東洋自由新聞を去る」として発表している。
この後、西園寺は伊藤内閣の大臣を何度も歴任した後、政友会総裁として何度か首相を務め、桂太郎内閣と交互に政権の座に就いて「桂園時代」という言葉を生んだ。
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<陸奥宗光>(1844.7.7〜1897.8.24)
幕末の紀州藩の家老・伊達自得の次男として生まれる。15歳のときに脱藩して勤王活動に加わる。坂本竜馬と知り合い、勝海舟の神戸海軍塾に入塾。その後も竜馬と行動を共にして、海援隊に加わる。
竜馬の死後、海援隊と袂を分かった陸奥は外務大丞、大蔵省租税頭、元老院議官などを歴任する。元老院時代、やはり元老院で書記官だった中江兆民と同僚となるが、二人の仲は悪く、兆民は直接的にはこれが原因で元老院を去っている。
西南戦争の頃、元陸援隊隊士の大江卓らと語らって薩長閥政府顛覆をもくろむが、これが発覚して5年の獄中生活を送る。特赦により出獄した陸奥は、駐米大使などを経て、薩長閥政府の閣僚として大きな力を握ることになる。日清戦争後の講和条約締結を見事に裁ききった名外務大臣として名を残している。海援隊時代の人脈から自由党などへも大きな影響力を持ち、第一議会で土佐派に裏切りを演じさせたのも彼の力だったといわれる。
晩年期、偶然兆民に会った陸奥は、体調が悪いことを案じられ、逆に兆民の体調のいい事に驚いたというエピソードが伝わっている。
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<徳富蘇峰>(1863.1.25〜1957.11.2)
肥後出身。本名は猪一郎。熊本洋学校を経て同志社に学び、大江義塾経営などを経て雑誌「国民之友」を創刊。この「国民之友」に蘇峰の勧めで中江兆民が連載したのが「酔人之奇論」であり、これを単行本にまとめたのが「三酔人経綸問答」である。
後に平民主義を唱えることで言論人としての地位を確立するが、戦後はA級戦犯容疑者ともなった。
なお、弟の作家徳富蘆花と共に兆民の弟子幸徳秋水とも親交があり、蘆花は秋水が大逆事件の嫌疑をかけられたとき、彼の潔白を訴える直訴状を公表してもいる。また、蘇峰・蘆花兄弟の父である淇水(一敬)は肥後の学者横井小楠の高弟であり、幕末、小楠の許を訪れた坂本竜馬と遭遇している。
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<勝海舟>(1823.1.13〜1899.1.19)
海舟は号。本名麟太郎安芳。幕臣でありながら幕府のみならず日本全体を視野に入れた幕末随一の識見で知られる。
咸臨丸艦長として渡米後、神戸海軍塾で坂本竜馬らを育てた後、江戸城無血開城などに活躍。維新後、海軍大輔、海軍卿、枢密院顧問などを歴任する。
中江兆民もまた勝海舟を深く敬慕した。「海舟日記」によれば最初に出会ったのは明治8年頃とされる。金銭の貸し借りや兆民の縁談まで海舟から持ち掛けられているところから見ても、二人の交友関係はかなり深かったとみてよい。やはり勝の識見に打たれて大きく開眼した坂本竜馬と同様、兆民もまた「勝思想」の洗礼を受けたのだろうか。
なお、勝から話のあった嘉納次郎の娘との縁談は、兆民の母が反対したために成立しなかった。
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<内村鑑三>(1861.2.13〜1930.3.28)
高崎藩出身で、明治・大正期にキリスト教伝道者として活躍した。札幌農学校を経て札幌独立教会の設立に尽力し、後に第一高等学校教員となる
明治24年、偶像崇拝拒否の立場から教育勅語に敬礼することを拒み、これが不敬に当たると世論の非難を集めたため、引責の形で依願退職する。
幸徳秋水は、中江兆民の勧めにより、勤めていた新聞「万朝報」に「廿世紀之怪物帝国主義」を連載したが、これが単行本として出版されるとき、「万朝報」の記者として同僚でもあった内村鑑三に序文を書くことを依頼した。キリスト者とはいえ、内村の非国民と呼ばれてまで偶像崇拝を拒否する姿勢に、ナカエニスム(兆民の無神無霊魂の哲学)と相通じるものを見出していたのかもしれない。
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<箕作麟祥>(1846.7.29〜1897.11.29)
幕末から明治期の洋学者・法学者。江戸後期の蘭学者として名高い箕作阮甫の孫にあたる。維新後政府に出仕し、翻訳御用掛、司法大書記官などを経て明治23年に和仏法律学校校長となる。明治6年頃には明六社の一員として啓蒙活動にも従事した。>
中江兆民は明治初年、短期間麟祥の私塾に在籍していた。
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<北村透谷>(1868.12.29〜1894.5.16)
本名門太郎。小田原の藩医の家に生まれる。小学校在学中(現在の学制では中学2年に相当)に自由民権運動に傾倒し、年少ながら当時は神奈川県だった多摩地方の民権家と交わる。東京専門学校(早稲田大学の前身)政治科や英語科で学ぶ。明治18年の大阪事件を機に自由民権運動からも心を離しはじめるが、多摩の民権家たちとの交流はその後も続いた。
町田の自由民権運動の中心的存在であった石阪昌孝の娘美那子と壮絶な恋愛の果てに結婚する。この経験から、その後の文学活動において恋愛に大きな意義を見出す姿勢を保ちつづけた。
明治26年9月、透谷は雑誌「評論」に「兆民居士安くにかある」を書いた。第一議会での土佐派の裏切りを怒って議員を辞職し、政界を去って事業家の道を歩き出していた当時の中江兆民であったが、かねて兆民を深く敬慕していた透谷は、兆民の理想と才覚が埋もれてしまうことを心から惜しみ、彼の言論の復活を願ってやまないこの文章を発表したのである。この半年ほどあとに、透谷は25歳の若さで自ら命を絶つことになる。
なお、透谷の義父にあたる石阪昌孝は、第一議会で議員として兆民の同僚でもあった。兆民の辞表提出の際、兆民の見識を充分知り抜いてはいたが、「中江君ほどの高邁な人物に、この薄汚れた国会は似合わない」としてあえて辞職に賛成の票を投じた。
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<平井収二郎>(1835〜1863.6.8)
幕末の土佐出身。土佐勤王党に所属し、武市半平太らと共に尊攘活動に尽力した。土佐藩主に無断で青蓮院宮の令旨を得て藩政改革を行おうとしたことが、前藩主山内容堂の怒りに触れ、同じく土佐勤王党で青蓮院宮令旨事件に関わった間崎哲馬と共に、土佐に召還されて切腹を命じられた。
当時満16歳の少年であった兆民は、この切腹の模様を逐一眺めていた。そして、明治25年に「平井収二郎君切腹の現状」という文章に、そのときの様子を詳しく書き残している。この文章には、事件から30年ほども経てなおありありとそのときの様子を思い出されるほど、立派に切腹した平井収二郎への感動が書きあらわされるが、一方で兆民はこの事件を醒めた傍観者としてみており、幕末の勤王倒幕活動に一定の距離をおいていた兆民の姿勢が現れてもいる。
なお、この「平井収二郎君切腹の現状」の執筆を依頼したのは、収二郎の妹の加尾であり、坂本竜馬の初恋の人として知られる女性である。加尾は、慶応2年にやはり土佐勤王党員であった西山志澄と結婚するが、この西山志澄もまた、後に自由民権運動に尽力することとなる。
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<岡松甕谷>(1820〜1895)
熊本藩儒学者。豊後日出藩の儒学者帆足万里に学び、門下の十傑に数えられた。維新後、昌平黌教授などを経て、紹成書院を開き、東京大学文学部教授となった。中江兆民は、明治11年頃この紹成書院で漢学を学んでいる。後に幸徳秋水が「兆民先生」の中で「先生の文章大いに進めるは、其欧州より帰る後、故岡松甕谷先生の塾に学べるの時に在るが如し」と述べているように、「民約訳解」を漢訳書として訳し下ろし中国の知識人まで影響を与えた兆民の漢学の素養は、この岡松甕谷の力に負うところが大きい。兆民自身も晩年に至るまで甕谷に深く敬意を表しつづけ、「一年有半」では「(荻生)徂徠と雖もおそらくは筆を投じて膝前に平伏せざる能はざる可し」と評している。
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<浅川範彦>(1865〜1907)
中江兆民の従弟にあたる医学博士。学閥に属さず、36歳の若さで医学博士号を授与されたのは当時としては珍しく、「一年有半」にもその授与を兆民が我がことのように喜ぶ様子が登場している。不治の病の床にあった晩年の兆民にとっては、よき相談相手となっていた。
有名な細菌学者北里柴三郎の高弟で、細菌学を専門とし、特に破傷風毒素の研究で知られる。後に浅川範彦の業績を記念し、日本細菌学会の最高の賞として浅川賞が設けられている。
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<馬場辰猪>(1850.5.15〜1888.11.1)
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<ジャンジャック・ルソー>()
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