明治7年、帰国した兆民はフランス学の私塾「仏蘭西学舎」を開いたが、ここでテキストに用いたのが、ルソーの著書「社会契約論」「学問芸術論」「エミール」だった。兆民はこれらを、それぞれ「民約論」「開化論」「教育論」と訳した。特に「民約論」は、テキストとして用いる一方で、独自に漢文崩しの文体で翻訳も進められた。
この訳文は、「讒謗律」を制定していた政府に警戒され、出版にはかなりの圧力をかけられることになる。心配した板垣退助に兆民が「あの原稿は政府がうるさいので洟を拭いて捨てた」といってのけたというエピソードが伝わっている。
が、「民約論」の原稿は、自由平等論という新しい思想に共感する人々の手によって、出版されるまでもなく写本の形で全国に広がっていく。この写本を読んだ中には、意外な人物もいる。
その名は宮崎八郎。熊本の旧士族であり、明治8年に地元熊本県の植木町で「植木学校」を開いて自由民権思想の啓蒙に努めた人物である。彼は、自作の漢詩の中で「泣いて読むルソーの民約論(
→)」とその感激を歌っている。この宮崎八郎が、後に西南戦争に薩摩軍側の立場で参加することになる。
宮崎のような人物までもが参加していたということから、西南戦争は単なる反動的な不平士族の反乱とはいえないとも考えられている。
また、植木枝盛も明治10年7月26日の日記に「朝民約論を写す」と記しており、この書が自由民権家に与えた大きな影響を垣間見ることができる。
明治15年、兆民は「政理叢談」を刊行し、漢訳版「民約訳解」を半年にわたって連載する。これは「民約訳解巻之一」として出版された。漢訳であったために中国の知識人にも「民約通義一巻」として広く読まれました。これが、中江兆民を「日本の」ではなく「東洋のルソー」と呼ばしめる理由なのである。
明治19年、兆民は4年後の国会開設に向けて盛り上がりを見せる自由民権運動への激励の意味をこめて、フランス革命の様を伝える啓蒙書「革命前法朗西二世紀事」を書き、その中で民約論執筆当時のルソーのことを詳しく紹介もしている。
後に中江兆民が政界を離れて事業の道に入ったときに、民権派文学者北村透谷が「民約論は兆民先生の筆になることによってはじめて我々にとって生きた言葉になった」と評したほど、やはりルソーの思想を東洋に伝えた兆民の功績は大きいものだったといえるだろう。