慶応年間、土佐藩公費留学生として長崎に出た中江篤介は、そこで海援隊を主宰していた坂本竜馬と運命的な出会いをする。兆民は、竜馬に生涯変わらぬ敬慕の念を抱き続けた。
当時長崎の地は、独り西欧文明の中心として、書生の留学する者多きのみならず、故坂本竜馬君等の組織する所の海援隊、亦運動の根拠を此地に置き、土佐藩士の来往極めて頻繁なりき。先生かつて坂本君の状を述べて曰く、豪傑は自ら人をして崇拝の念を生ぜしむ、予は当時少年なりしも、彼を見て何となくエラキ人なりと信ぜるが故に、彼が純然たる土佐訛りの方言もて、「中江のニイさん煙草を買ふてきてオーセ」などと命ぜらるれば、快然として使いせしこと屡々なりき。彼の眼は細くして其額は梅毒の為め抜上がり居たりきと。
奇なる哉、坂本竜馬君を崇拝したる当時の一少年は、他日実に第二の坂本君たらんとしたりき。坂本竜馬君が薩長二藩の連鎖となって、幕府顛覆の気運を促進し得たるが如く、自由改進の二党を打て一丸となし、以て藩閥を勦滅するは、是れ先生が畢生の事業とするところなりき。而して坂本君は成功せり、先生は失敗せり、成敗の懸る所、天耶、将た人耶。
中江兆民が坂本竜馬に出会ったことが記録上に現れるのは、土佐藩の長崎の財務担当役であった岩崎弥太郎(後、三菱財閥を築く)の慶応3年6月8日の「公用日記」である。
『岩崎弥太郎御用日記』より
八日 薩州邸へ容堂様(中略)、智鏡院様(中略)之御書を持参、中江某に相渡。
この「中江某」が兆民とされ、この日竜馬が岩崎と連れ立っていることが別史料に見えるため、竜馬と兆民もこの日会っているのだろうと推測される。
中江兆民は晩年の著書「一年有半」の中で“近代非凡人三十一人”の一人に「阪本竜馬」の名を挙げてもいる。
幕末期においてすでに立憲国家、二院制の国会の開設などを構想していた坂本竜馬は、その先見性ばかりでなく、人間性の部分でも深く兆民を魅了したのである。
中江兆民は晩年期に各種の事業に手を出すが、日本で最初の総合商社であった海援隊を主宰した坂本竜馬を暗に意識していたのかもしれない。
後の自由民権運動と思想的につながる坂本竜馬の先見性を示す文書として、慶応三年六月に彼が起草した「船中八策」がある。
「船中八策」(抜粋)
一.上下議政局を設け議員を置きて万機を参賛せしめ、万機よろしく公議に決すべきこと(二院制国会の開設)
一.古今の律令を折衷し、新たに無窮の大典を選定すべき事(憲法の制定)
一.外国の交際広く公議を採り、新たに至当の規約を立つべき事(不平等条約の改正)
後に自由民権運動の三大目標とされた「国会開設」「不平等条約改正」「地租改正」のうち2つまでを、坂本竜馬は喝破していたのである。
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<自由民権への遺産>
坂本竜馬自身が果たして自由民権思想と呼べるだけの思想を持っていたか、という点については、実は意見の分かれるところである。船中八策に盛り込まれた「上下議政局を設けて万機を公議に決する」というのも、解釈によっては、福岡孝悌の書いた五箇条の御誓文の第二草案(第一草案は、竜馬の盟友由利公正による)に「列侯会議を興し」とあるような、大名の合議制を意味しているとも受け取れるためである。また、後に自由民権の敵といっていい存在になった岩倉具視さえ、王政復古直後には、早期の国会開設は必然であると考えていたような事実もある。
しかし、竜馬自身が果たして自由民権という境地にまで達していたかどうかは別にして、彼の人格と理想を信じ、彼の周囲に集った人々の中から、自由民権運動に身を投じる人物が何人も輩出されたことは事実である。中江兆民はその一人といっていいだろう。
坂本竜馬が自由民権運動に残した最大の遺産は、こうした数々の人材を育てて来るべき時代に遺したことにあるのではないだろうか。
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