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<ためになる法話>
『どっこいしょ』
「どっこいしょ」年齢を重ねるごとに、使う頻度が多くなる言葉ではないでしょうか。この言葉は「六根清浄(ろっこんしょうじょう」と言う言葉が念仏のように唱えている間に、角が取れ、「どっこいしょ」となった仏教用語である。般若心経の中にも出てきます。六根(六感)とは、眼、耳、鼻、舌、身、意である。
まずは五根から、学んで観よう眼はものを観て文句はいわない、耳も音声を聞いて、鼻も香りを嗅いで、舌も味を感じて、身もいろんなものに触れて熱い寒い痛い、という働きがあるが文句はいわない。わずかに感じた後、頭の中でいろんなものを集めて比較して苦しむのである。
人間は今しか生きられない、一秒あとも一秒先も考え方の世界である。心の中で作った物差しは要らない。
その考え方、自分のご都合主義の勝手な物差しで比較の生活をしているから悩むのである。
では、考え方抜きの生活とは、皆こなしているのである。
そのことに気が付いたとき、自然体で悟りの世界にどっぷり浸かっている事実に、目覚める事が悟りである。
今、私たちが、六感で触れているものだけが事実であり、真実である。人間が正しく生きている道である。この六根の機能は私達の考え抜きで100%事実を受けて、次の瞬間流してくれているのである。まさに諸行無常で、救われているのである。
この機能は右を見れば、右のもの、左を見れば、先の様子がなくなり、左のものが見える。耳は「バカ」と言われれば其のまま聞こえ、鐘の音が鳴れば、耳は鐘の音に、先ほどの様子は跡形もなく、まさに清浄なのである。しかも自分の考え抜きですべての真実を受けて、とどまることなく流してくれているのである。
あ―どっこいしょ。これほど救われた道は他にあるだろうか。
『主人公』
ドラマの主人公の事を言うのではない。この言葉はれっきとした禅語である中国の禅僧で、毎日自ら「主人公」と喚び、自ら「はい」と返事をする。自らが仏であることを確認し返事をする。さらに
「ぼんやりしているな」
「はい」
「他時、異日、人の満を受くること莫れ」
「はいはい」
と自ら返事をする。山岡鉄舟居士は、富士山になぞらえて
「晴れてよし曇りてもよし冨士の山もとの姿は変わらざりけり」
と、歌われました。生死の雲がかかる時もあり、憎愛の霧にとざさるゝ時があっても、本来の主人公の姿はいさゝかも変わらないのである。人生はいろんな事がある病気をしたり、人につまらぬ事を言われたり、そんなことに騙されるな。
他と比較することを止めたとき、また今だけに徹した時、自らが、主人公であることに目覚めてほしい。
『鐵樹枝抽 石樹花開』
祖院仏殿 山岡鉄舟居士揮毫
鐵の樹がこの世に果たして有るのだろうか、ましてそのような樹から枝が抽ん出て来るのだろうか? 同じく石の樹が、そして花が開くのだろうか?常識では考えられない。だが人間のご都合主義で、ものを観なければ鐵の樹に枝が、石の樹に花が自由自在に開くのである。
六月は雨の季節である。雨の日は只雨、晴れの日は只晴れ、人はややもすれば、この只に満足出来ない、色々と詮索したくなる。只ものを見るとき、雨の時は考え抜きで雨になり、晴れの時は晴れになる。まさに自分の勝手な都合を捨てれば自由自在である。
六月の雨のなかに自在に活動する龍を見いだしたき人。己の自在な無常なる機能を師として下さい。
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