児童福祉司の専門性

〜 朝日新聞記事に寄せて 〜


川崎 二三彦 (京都府京都児童相談所)


  1999. 3. 3. UP

 朝日新聞の記事をめぐって、つい最近まで児童福祉司であった、同僚の川崎氏からも意見が届きました。氏の同意を得て私のページにアップさせていただきました。

 朝日新聞2/7付けの記事が様々な議論を呼んでいます。残念ながら今の私にはこれをじっくり評論する時間的ゆとりがありません。そこで、たまたま昨年書き上げていた「日本の児童福祉第13号」(養問研・児相研共同編集誌)所収の論考「専門性と処遇力、その2」から関連部分を引用しつつ、この記事およびそれに対する柴田・川畑両氏の見解などについて、取り急ぎ私見を書き出してみたいと思います。


引  用 1

 「ともかくこの頃の私は、“専門性→人事政策の問題→児童相談所にきちんと専門家を配置せよ”という論理構造で考えていたのだと思う。もちろんこの基本は今でも変わってはいない。
 だが一方で、このように主張すればするほど気になることがあった。しきりに“その論理ではおさまりきらない現実もありますよ”という囁きが聞こえてくるのである。
 けれど当初、私はその声を無視していた。耳をふさいでいたのである。何故といって、一方では心理職の国家資格問題が取りざたされ、他方では今述べたように児童相談所の専門性に疑義が差し挟まれる世上にあって、この囁き声は何となく不都合、正面から取り上げにくいように思えたから」

(拙著:「専門性と処遇力、その2」(日本の児童福祉第13号)からの引用)

 ここで示したように、「専門職か一般職か」という二者択一の議論には、私たちもついつい引きずり込まれるところがあります。朝日の記事もそこを問題にしているわけですが、正直言ってこの主張は大変わかりやすいし、かつ一面の正しさもあります。
 「専門職を配置せよ」というのは別に間違った主張ではないと思います。

引  用 2

 「ではその声とは何か。以下に述べると、それは、今実際に児童相談所のことを真剣に考え、語り、実践し、リーダーシップをとっている人たちがどんな経過でそこにいるのかを見たとき、必ずしも彼らの全てがオーソドックスな形で福祉の勉強をし、専門職として採用されたわけではないという事実だ。
 例えば全国児相研の運営委員の顔ぶれを見ても、そのような専門職出身組に混じって、大学ではロシア文学を専攻していたとか法学部で発展途上国の問題を考えていたという人がいるし、一般行政職として採用され、それこそ税務などに携わっていたという人もいる。
 先に登場願った××さん(児童福祉司の業務に多大な貢献をされたある女性児童福祉司)でさえ、“児相への異動は不当配転だ”と抗議の末にやって来たわけだし、かく言う私も、名ばかりは一応心理学を専攻していたことになっているが、……行政職試験を受けて公務員になったのである。にもかかわらず京都府の事情で心理判定員を引き受ける羽目になり、いつの間にかこの仕事にのめり込んでそのまま現在に至っているという次第。
 これは一体何を意味するのか。そこのところは是非とも究明しなければなるまい……」

(拙著:「専門性と処遇力、その2」(日本の児童福祉第13号)からの引用)

 この間、久しぶりに岩波ブックレット「いま教育に欠けているもの」を読んだ。そこで分かったのは、この本の著者であり北海道家庭学校長であった谷昌恒氏も東京帝国大学理学部地質学科卒だということだ。かなりの年輩だから、現在とは多少事情が違うかも知れないが、それにしても地質学の専門家が家庭学校長であるとしたら、彼はやはり専門職ではないとして批判を受けねばならないのだろうか。
 振り返って見ると、児童相談所はこれまでずいぶんパイオニア的役割を担わされてきた。例えば不登校が世間を騒がせ始めたとき、まだよく分からない頃から手探りの状態で取り組み、実践してきたのは児童相談所であったと言ってもいいし、オウムの問題だって、マインドコントロールされた子どものケアなんて全く初体験で、解決の方法など何も分からないままそれでも必死になって事に当たってきた。
 虐待への対応だってそうだ。子どもの保護一つとっても、従来の児童福祉法の枠組みでは考えられなかったような新しい事態を前にしてあれこれ模索中だし、阪神大震災の時のPTSDへの対策も、全国の児童相談所から職員が現地に駆けつけて相談援助活動を繰り広げてきた。児童相談所は来る者拒まず、公的機関の責任として応じなければならないから必死になって努力しているのである。
 ところで、そのような困難を担ってきたのは一体誰だったのか。

引  用 3

 「偶然その場に居合わせたような人たちが必死になって児童福祉のために全力を傾けてきた、というのがつまり児童相談所の実際の歴史なのである。換言すれば、全国的に見て児童福祉・児童相談のための十分な組織的保証、人事政策、研修システム、その他あらゆるものが確立しない状態でこの仕事に出会った多くの人たちが、直面した業務の重大性に気づき、やりがいを感じたりはまりこんでしまって、悪条件や困難も顧みずに苦闘し続けた結果として、何とか日本の児童福祉は守られ、児童相談における財産も築かれてきたのである。むろんこの事実が専門職の配置等を否定する理由になり得ないことは明白ではあっても、これは記憶にとどめておいていい、と私は思う。
 だとすると、児童相談所の専門性に疑義がもたれたり批判される根拠は何もない、とまでは言えなくとも、この批判が一体どこに向けられているかによって、その受けとめ方はずいぶん変わるはずである。すなわち、児童相談所に専門性がないという批判が現場の人間に向けられ、現場の人間に責任があるとされるのであれば、児童相談所で長い間働いてきた私のような者に限らず、多くの児童相談所職員は浮かばれまい」

(拙著:「専門性と処遇力、その2」(日本の児童福祉第13号)からの引用)

 児童相談所の職員が朝日の記事に反発したくなるのは、実はこうした苦労や努力が全く捨象され、それどころか専門職ではないというだけでその取り組み自体までもが否定され、児童相談所の問題は全て専門職か否かにあるかのように扱われようとしているからに他なるまい。
 だが私自身は、過去にそのような貴重な歴史があるからといって、専門職を配置する努力を否定するものではない。むしろ専門性を高める一つの手段としては有力な方法であると肯定してもよいと考えている。
 もちろん専門職とか専門性というものに対する必要以上の“拝跪”が世の中に根強くあるためにこの議論が歪んでしまうことは、(ホームページに意見を先に掲載している)柴田・川畑両氏が危惧している点でもあるだろう。

 ここで、児相研(全国児童相談研究会)が、法改正直前に厚生省に提出した要望書を引用して進めた議論の部分へと進めたい。

引  用 4

 「『今、専門機関としての児童相談所への期待は非常に大きなものがあります。ところが一方では、人員の不足や頻繁な人事異動、一般行政事務からの突然の異動など、現場の職員の意向にも背き、専門性の確保とも相矛盾する事態の方が一般的とさえ言える状況が生じています。これらは住民の期待に応えていく上で深刻かつ重大な阻害要因になっていると言わねばならず、抜本的な改善をはかることが急務であると考えます』
 『児童相談所職員の専門性を重視し、慢性的な人員不足を解消して人員増をはかり、頻繁な人事異動などは制限することを要望します。これらのことと関わって、児童福祉司をはじめとする各職種の資格要件を真に業務にふさわしいものに整え、尊重し、専門性を確保することができるような任用制度に改善することを要望します』
 要望書のこの部分には、児童相談所の“我こそは専門家”という人だけの思いではなく、場合によっては意に反するような形で児童相談所の職場にやってきて、それこそ人一倍の苦労を重ねているたくさんの人たちの気持ちをも込めたかった、というのが児相研事務局長としての私の率直な気持ちであった。
 ともかくここに至って、私の児童福祉司発見の旅は一つの区切りを画すことになる。最大の発見、それはつまるところ、あるいは孤立し、あるいは悪条件にもめげず、悩み、迷いながらも奮闘努力している児童福祉司が全国には無数に存在し、彼らこそが日本の児童福祉・児童相談を下支えしているという事実であった。ここから必然的に出てくる結論は、彼らを批判するのでなく、あくまでも励ます取り組みの必要性であろう」

(<児相研>の「厚生省への要望書」より引用)

 朝日記事は、専門職への無批判の拝跪、あるいはそれを誘発するようなところがあり、他方で現場を支えた多くの児童福祉司、児童相談所職員の努力に対しては十分目が向けられていないような気がしてならない。
 だからこそ、児童相談所側から反発も出てくるのだろうけれど、しかしながら現在の児童相談所の現実を深く見据えるならば、この指摘をも一つの力にしながら、児童相談所の専門性を高めるための努力を怠らないことこそが求められているはずである。それは実際にこの業務に従事している私たちがより一層努力することとあわせ、各都道府県の人事を担当する部門が、せめてもう少しは児童相談所業務の複雑さや困難さ、また重要性を理解し、最低でも児童福祉法に定められた任用条件ぐらいは満たすようなまっとうな人事政策をとることである、と私は思う。

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