過日、ある方から以下のようなメールを受け取りました。そのメールを読む内に、今や日本中で大流行のベートーベンの第9交響曲はいったい何を歌い上げているのか、はたと考えることとなったのでした。
実はベートーベン関連の検索から貴HPにアスセスしました。ご迷惑でなければ、日頃から心に引っ掛かっていることがありますので、そのことでアドバイスを頂けましたら幸いです。(第九に限らないのですが)
…(第9交響曲の)主題は
1)人類愛を高らかに謳い上げ、
2)苦悩を突き抜け歓喜に至れ。
と言われても、原文と対訳をみると何だか中途半端で日本人の都合のいいように解釈しているような気がしてなりません。何れにしても「神の下で」がハッキリと抜けていると思います。
例えば、「Kusse gab sie uns und Reben,einen Freund gepruft im Tod;」では
「それは私たちに接吻と葡萄酒と、死の試練を受けた一人の友を与えた」
となるのですが、何のことかさっぱり分かりません。
そこで、「死の試練を受けた一人の友」とは誰か。ということになるのですが、「Jesus Christ=イエス・キリスト」以外に考えられないのです。
…しかしながら、主題が少しズレていませんか?
…プロの音楽家、指導者に接する度に、「第九」にしろ「メサイア」、バッハにしろ、その言葉の向こうにある本当のものを知ってほしい、という願いを強くしております。
ご迷惑でないようでしたら、柴田様のお考えをお伺いできれば幸いに存じます。
このようなメールでした。この方は第9の合唱団に属しておられる方だったのですが、私もこのメールを読んで、大いに悩む結果となったのです。そして次のような返事を差し上げました。
メールをいただいて、改めてなぜ日本で第9交響曲がかくも大人気を続けるのかがよく分からなくなってきました。そこで、このメールに触発されてあれこれ考えました。長文のメールになりますがおつきあいください。
まず、日本ではなぜこれほどまでに第9がはやるのでしょうか。お祭り・イベント好きというところはあるのでしょうが、それでもなぜ、第9なのでしょうか。
私の勝手な直感では、歓喜の主題のポピュラリティーとベートーベン一流の<アジテーション力>にあるのではないかと思います。歌詞の意味など全くはずしても、第1楽章から第4楽章までの特徴(流れ)を振り返ってみると、やはりとてつもないものがあると思うのです。
でも、それだけならば随分に陳腐な感じがしてくるのですが、耳の聞こえなくなった彼が、「苦悩を突き抜けて歓喜に至れ」と叫び(このキャッチコピー、一体誰が言い始めたのでしょうか? 私はロマン・ロランのベートーベン解釈が大きく影響しているように思われるのですが…。それと第4楽章冒頭部に関する解釈も…)、人類愛を高らかに歌い上げる(第9の歌詞の一部と、大合唱という行為が象徴するイメージは、明らかに<人類愛>という言葉を惹起させますねぇ。そこに<兄弟達><百万の人々><共に抱きあえ>などのキャッチコピーがくると、根本文脈など関係なく<人類愛>を惹起させます)…。このへんが日本人に受ける理由なのでしょうか。
言葉というのは、すべからく断片だけでも一人歩きすると言うことなのでしょうか。同じくベートーベンの<荘厳ミサ>の扉の言葉「こころから、こころへと伝わらんことを…」というのも、極めて情緒的側面を有しやすい言葉だと思うのです。そのような力=アジテーション力だと思うのです。当のベートーベンは、意図していなかっただろうと思うのですが…。あるいは、緻密な構成力を持つベートーベンが、別の側面で言えば、極めて「情緒の人」だったのだろうと思います。そして、この両者が、最高に重なったのが、シラーの原詩の第4楽章での切り取り方と、扱い方なのだろうという気がしてきました。そこで、改めて理性的に考えると、よく分からなくなってくるのかもしれません。
メールをいただいてから、手元にあるベートーベン関連の本を久々に読み返してみました。ロマン・ロランの著書の一つに「第九交響曲」(蛯原徳夫他訳、みすず書房刊)という本があります。その中で、二つのポイントが気持ちにとまりました。
まずひとつは、オットー・ベンシュという方の以下の著作からの引用部分です。
「そして、オットー・ベンシュは、シラーが「楽園」によって人類史の終末と人間性の理想的完成を考えていることを示しながら、ベートーヴェンが彼の「頌歌」において天国の彼岸という陳腐な意味での解釈をしりぞけ、シラーのいう「楽園」のこの意味を選んだと考えるべきだと精密に示している」
Otto Baensch: Aufbau und Sinn des Chorfinales in Beethovens neunter Symphonie (1930)
私見では、神が前提になっていることは、西洋人にとっては自明のことなのでしょう。その上で、それぞれが生きていた時代の思想背景・時代背景を併せて考えないと、我々にはなかなか理解できないのだとまず思うのです。そしてそれに、個人の生き方が絡んでくるのでしょう。
ロランの著作では、この引用のすぐ後で、「シラーと同様に、若いベートーベンもまた、カントの光のもとに、自己の思想に根本的な修正を加えたことがみとめられる」と述べています。カントについての解釈などをしているととんでもないのですが<真理>についての探求の一大方法論が彼の著作のすべてですから、ともあれ、ベートーベンもまた、こんな時代の人間であったのだと改めて思った次第です。
ドイツ観念論哲学の時代は、同時にフランス革命の時代でもありました。彼がこの時代の人であったのは、「エロイカ」のエピソードを考えれば十分ではないでしょうか。
それと、晩年のベートーベンが、自然信仰にも近い境地に入っていたことも、併せて考えておいた方がよいのでしょう。荘厳ミサの作曲にあれほど没頭したこと、あるいは晩年のピアノソナタや、弦楽四重奏曲などのことも思い起こされます。
それにしても、ご指摘の第3節の歌詞は、とてもわかりにくいですね。この部分の翻訳をレコードジャケットなどでいくつか見たのですが、いずれもすっきりとしてきません。
ロマン・ロランの著書の付録に、シラーの原詩の一部(ベートーベンが引用した部分)が載っていました。意味解釈には、こっちの方がすっきりするように思われました。
私も初めてきっちり知ったのですが、原詩は、象徴的な詩の部分と、それに続くリフレイン(結尾句)の部分が一対となってそれぞれの節をなし、原詩は8節まであるようです。そしてベートーベンはその内の4節までを使用し、それらを自由に並べ替えたり、一部の語句を変えたりしています。それらを少し引用してみます。
第1節 (省略…バリトンが歌う部分です)
第1節のリフレイン
Seid umschlungen, Millionen!
Diesen Kuss der ganzen Welt!
Bruder uberm Sternenzelt
Muss ein lieber Vater wohnen.
第2節 (省略…四重唱の部分です)
第2節のリフレイン
Was den grossen Ring bewohnet,
Huldige der Sympathie!
Zu den Sternen leitet sie,
Wo der Unbekannte thronet.
(これは使用されていないはずです)
訳:大きい圏に住む者は、共感を讃めたたえよ。
共感こそ、「未知なる者」の統治したまう星々へ、導くものである。
第3節
Freude trinken alle Wesen
An den Brusten der Natur,
Alle Guten,alle Bosen
Folgen ihrer Rosenspur.
kusse gab sie uns und Reben,
Einen Frenud, gepruft im Tod.
Wollust ward dem Wurm gegeben,
Und der Cherub steht vor Gott.
第3節のリフレイン
Ihr sturzt nieder, Millionen?
Ahnest du den Schopfer, Welt?
Such ihn uberm Sternenzelt!
uber Sternen muss er wohnen.
第4節 省略します
翻 訳:
第1節 よろこびこそ、神々の美しい火花、楽園の娘、われわれは感激に酔いしれ、おんみの天なる聖所にはいる。世の慣習がむごくもひきわけたものを、御身の魔力はふたたび結びつける。おんみのやさしい翼がはばたくところ、すべてにひと、みな兄弟となる。
リフレイン 抱擁しあえ、無数の人々よ! この接吻を全世界に! 兄弟よ 星々の円蓋のうえに、かならずやいとしい父は住まわれる。
第2節 ひとりの友の友となる幸福にめぐまれたものは、 ひとりの気高い女性をかちえたものは、そのよろこびの声をわれらの声に合わせて挙げよ! たとえひとつであれ、この世で人の魂を、わがものといいうるものも! けれども、そうできなかったものは、泣きながらひそかに、われらの集いより去れ!
リフレイン 大きい圏に住む者は、共感を讃めたたえよ。共感こそ、「未知なる者」の統治したまう星々へ、導くものである。
第3節 すべての生物は、自然の乳房からよろこびを飲む。善いものも、悪いものも、すべて自然のばらの跡をたどる。 自然はわれらに、接吻とぶどうと、死の試練までへた友とを、与えている。虫にも快楽が与えられ、そして天使ケルビムは神のみ前に立っている。
リフレイン おんみらはひれ伏しているか、無数のひとびとよ? 世界よ、創造主を予感しているか? 星々の円蓋のうえに彼を探し求めよ! 星々の上にこそ、かならずや彼は住まわれるのだ。
こうしてみると、「神の下の人類愛」ということが、明白に見えてくると思います。ベートーベンの引用が順接的ではないので、わかりにくくなっているのかもしれません。
問題の第3節の訳は、とてもわかりにくかったです。私はドイツ語がほとんど分からないのでなおのことそうでした。ちなみに手元にたまたま見つかった、3節後半の三つの翻訳文を並べてみます。
1 ロマン・ロランの著書の中から…
自然はわれらに、接吻とぶどうと、死の試練までへた友とを、
与えている。虫にも快楽が与えられ、そして天使ケルビムは神
のみまえに立っている。
2 ベートーベン研究家 諸井三郎氏の著書から…
自然はわれわれに接吻とブドウの房とを与える。また死によ
って試みられた友を。快楽は虫けらに与えられており、そして
天使は神の前に立つ。
3 フルトヴェングラーのレコードジャケットから…
その自然はひとしく我らに、くちづけとぶどうの房と、そし
て死によって試みられた一人の友を与える。虫けらにさえ快楽
が与えられる。そして神のみ前に少年天使が立っている。
これも私の直感なのですが、この節の問題は、どうもNaturという言葉の解釈であるような気がするのです。直訳すれば<自然>なのですが、<万有…神によって支配されたすべて><存在…被造物として与えられた存在><被造物>という意味にとらないとわかりにくいのではないでしょうか。そして、造られた物ということと一対に考えなければならないことは、<造り主=神>です。ですからここでも「神の下で…」ということが明白になります。
そして神から、<被造物>に対して与えられる最高の<神によって造られた物>は、<造られた物の形を取る、神自身>であるところものもの、すなわちイエス・キリストしか考えられないのではないでしょうか。
創造主/被造物という一対の概念が、西洋人の中にはきっと自明なのでしょうね。そして、例外なく与えられるあらゆる神からの賜物を享受しあうことこそが<よろこび>なのだろうと思うのです。
第3節をこのように見ていくと、その後のリフレインとの整合性が、かなりしっくりくるとは思われませんか。
他の曲でも、聖書と自由詩が引用されて作られた楽曲はかなりあります。いちいち解釈していると疲れてしまいますが、その言葉の向こうにある本当のものというのは、実はとても大切なものだと思います。 私は、それに加えて、それが作られた時代的背景というものも大切にしなければならないと思っております。
こんなことを考えてしまいました。