平和に関する私の原体験  2000.8.11. up

平和に関する私の原体験

〜 21世紀に引き継いでいけるために 〜


20世紀最後の原爆忌を迎えて

 20世紀最後の原爆忌が終わった。平和のことを考える時、戦争も飢えも苦しみも知らない幸せを思う反面、それらを知らないことへの後ろめたさのようなものも感じる。
 だからこそ今、21世紀に繋がるために、私だって何かを書かなければ…という気持ちだけが先行していた。この原稿の着手動機は、全く得手勝手な(えせ)義務感なのだろうが、とにかく何かを書き始めてみよう…。そう思ってパソコンに向かった時、出てきたのは、平和な20世紀後半に、日本という国に存在した私の、子どもから青年期にかけて私の中に生じた、平和に関する「原体験」のようなものだった。
 以下のことは私的体験にすぎない。でも私にとっては、振り返ってみての事実であり、忘れたくないこと、忘れてはいけないことだ。だから、外部に向けても、21世紀に向けても、伝えたいと思う。

平和への3つの動機

 私にとって、平和を考える際の原体験がいくつかあります。一つは幼い頃より母から何度も聞かされた神戸大空襲の話。母は焼夷弾で焼ける神戸の町を逃げたと言います。
 もう一つは「不思議な鉄条網の写真」や「靴の山の写真」などが載っていた本を、確か幼稚園の時に見た記憶。なんだかすごく強い印象があったのを今でも鮮明に思い起こすことができます。この写真が何なのかを確か母に尋ねたと思うのですが、きちっと説明してくれなかったような記憶も残っています。そしてその本はその後見なくなったので、きっとどこかから借りてきた本だったのでしょう...。ずっと後(確か大学生の頃)になって、「夜と霧」(フランクル著)を読んだ時に、その昔に見たことがあって、それが何なのかずっと気がかりだったのが、この本のこの写真なのだとすぐに気づきました。
 これらは、耳で聞き、そして目で見た、遠い日の鮮明な記憶です。そして、最後の一つがヒロシマ・ナガサキなのでした。

祖母がくれた長崎の写真

 私が小学校の2年生の頃(記憶が曖昧ですが、確かそのころです)に、カトリックの信者であった母方祖母が長崎方面に旅行に行き、その時撮ってきた美しい大浦天主堂の写真や、二十六聖人の殉教の丘の写真と共に、原爆でつぶされた浦上天主堂の写真(共に白黒の小さな写真です)などを、なぜか私にもくれたのですが、その時から、私の中では長崎は特別な町であったと思います。「原爆でつぶされた大きい聖堂の跡でね…」と話してくれたのをかすかに覚えています。
 下の写真が、もらった写真です。私の一番最初のアルバムに貼られています。当時は大浦天主堂が好きでした。そして一番わからなかったのが、浦上天主堂後の写真でした。私が「大浦天主堂が大きいね」というと、祖母は「でもこっちの方がもっと大きかったんよ」と繰り返し言うのですが、その意味がよくわかりませんでした。

            

長崎への想い

 中学校1年の時、長崎から転校してきた一人の女の子がいましたが、小学校時代は平和公園のすぐ下に住んでいたそうです。私にとって、長崎はなんだか特別な町でしたから、長崎の町のことをたくさん尋ねた記憶があります。その子も尋ねられるままに何でもたくさんはなしてくれました。その後中公新書で「長崎」というのを買ってきて、何度も読んだものでした。その本で知識を仕入れて、その子から聞いた話を本でたどり直し、またその女の子に話すと、「よく知ってるね」と更に長崎の話をしてくれました。本の中では、原爆の話はもちろんですが、そのほかに、その時初めて知った「浦上四番崩れ」という迫害の歴史が印象に強かったのを思い出します。

高校時代に初めて訪れたときのこと

 高校2年の修学旅行で、あこがれの長崎に初めて行ったのですが、このときの印象はなぜか薄いのです。祖母から聞き、写真や本で見た<実物>という感動はあっても、平和記念館を含めて、素通りしたような印象しかありません。平和祈念像との初対面は、像の発する存在感の大きさだけが思い出に残っています。
 高校2年が終了した春休みに、瀬戸内方面への一人旅行に出ました。多感だった青春時代の<センチメンタルジャーニー>だったのですが、尋ねた町の一つが広島でした。ここは行きたいと決めて、めざした町です。大江健三郎の「ヒロシマノート」を繰り返し読んだのもちょうどこの頃で、原爆ドーム・元安川・死の影・平和公園…、すべて感傷に浸りながら歩いたのを思い出します。原爆資料館にも立ち寄って、長い時間をかけて見て回りました。修学旅行の長崎の時とは全く違ったひとときでした。なにやらいろんな事をたくさん思ったのですが、具体的には思い出せません。しかし、慰霊碑の碑文に「そうだ、そうなんだ」と納得した覚えがあります。そして、うまく表現できないのですが、ヒロシマ・ナガサキに対する原体験のような核が、この旅で私の心の中に形成されたのではないかという思いが今もあります。

再び訪れた長崎...

 様々なことがあった高校時代・大学時代の後、就職して間もない頃に長崎を再度訪ね、一人で長崎の町中をたくさん歩いた旅をしました。浦上の丘一帯を、確か二周ほど歩きました。その途中で浦上天主堂にも立ち寄りましたが、たまたま結婚式が行われていました。聖堂は広く、後ろ半分は立ち入ることができたので、結婚ミサが執り行われる中で、しばし天主堂の中でたたずみました。大きな、決然とした十字架が随分印象的でした。聖堂の外に出てしばらくすると結婚式が終わり、その時になんと「アンジェラスの鐘」が打ち鳴らされました。原子の野の「浦上」(永井博士が思い出されます)へのさすらいの旅の途上で、思わず出くわした結婚式と、聞けるとは思ってもいなかったアンジェラスの鐘の音が聞けたことは、「僥倖」とでも言える出来事で、とても不思議な感覚と共に今でも鮮明に思い返すことができます。平和公園一帯も丹念に歩いて回りました。高校時代の広島とは異なり、いろんなものがそれほど感傷的ではなく受け止められたと思います。

 その後にあと二度長崎を訪れることがありました。そのころ、父が博多にいたので、そこを足場にしながら長崎に行けたのだろうと思います。一度は家族連れで。子どもがまだ小さかったので、これは全くの家庭奉仕でした。もう一度は、職場の労働組合派遣をうまく利用して、父の住まいを足場に、博多発・博多着ということで、「原水禁世界大会」に現地参加するということで長崎に行けたことでした。組合派遣ですから最後はデモ行進に参加させられて、平和公園まで歩いたのですが、その途上で雨が激しく降ってきたので、傘のなかった私は全身びしょぬれになりました。そして、最後にたどり着いたのが祈念像前でした。雨の中、濡れねずみで祈念像を見たのが、今のところ最終です。行きも帰りも団体行動はとらずに、最終の特急「かもめ」で博多の父宅に戻る予定でいたのですが、長崎駅のトイレにたどり着いた時、着替えも持っていなかったので、下着を含む全部の衣類をトイレの中で脱いで手で絞り、もう一度その衣類を着た後に列車に乗り込み、かろうじて残っていた一枚のタオルを座席に下に敷きながら、博多まで戻りました。

 ひどい目にあったからなのではないのですが、私の中では「長崎という町は、なんと過酷な運命を経た厳しい町なのであろうか」という勝手な妄想がありました。二十六聖人を含むキリシタン迫害の歴史、隠れキリシタン、明治になっても続いた「浦上四番崩れ」…、そしてそのような歴史の果てに育った信者の町「浦上」が今度は原爆のターゲットとなるなんて…。この命運はあまりにも厳しすぎる!! しかし、この過酷さ故に、長崎こそは神が選ばれた町なのかも知れない。コルベ神父だって、長崎に居られたのだ。長崎こそ、世界に向かって平和を発信する資格のある町なのだ...。こんな妄想でしたから、「長崎の原爆忌の中に居る自分が、雨打たしになるのは当然なのだし、むしろふさわしいことなのだ」と、列車のシートまで濡れてしまった特急「かもめ」の中で、これまた得手勝手に、妙に納得した気持ちでした。

平和が引き継がれるために

 私は、平和が引き継がれるための大きな事の一つは、一人一人の中にある「感性」ではないかと考えています。そしてその「感性」は、一人一人の中にある平和への「実体験」「原体験」に裏打ちされた、朽ち果てることなく温存され、個々人によって大事に扱われ、あるいはとぎすまされた、具体的な「感性」ではないかと考えています。
 理念はきっと伝承されないのでしょう。逆に「恨み」「怒り」といった感情は、平和とは逆の<悪循環>として根深いのものに発展するか、あるいは忘却という形で鈍化するか、または封印されて抑圧されるか、あるいは昇華という形を取って平和への強い原動力になるのか、まさに様々です。しかし、もろもろの感情が、いいガイドラインをたどって、平和にまで至れるためには、個々人やその社会における「感性」が良質ものものでなければならないと考えています。
 私は私でしかありません。そして、私の中で形成された平和に向けての原体験があれば、これを私なりに21世紀につなぎ発信することが、今できることではないかと思った次第です。      (2000.8.9. 執筆開始)

平和を求めるページに戻る