以下の文章は、私が「メンタルヘルス・京都」という京都府の精神保健に関する機関が発行しているミニコミ誌(平成7年10月号)に投稿した「いじめ問題」に関する原稿です。
少なくとも私の児童相談所では「いじめ」を主訴にした相談はほとんどありません。それは昨年の大河内君事件の後でも同じでした。電話相談には時々「いじめ」に関する相談があります。表だった相談になりにくいというのがこの問題の特徴なのかもしれません。
しかし、日常の不登校相談や非行相談などの中に「いじめ」の問題が含まれていることはよくあります。また、「いじめ」の話は中学生だけでなく幼稚園時代から聞かれますし、「いじめ」は必ずしも弱い子ばかりに起こるわけでもないようです。教護院に措置するようなある意味では強い子どもが、実は執拗な「いじめ」にあっていたという例もあります。あることをきっかけに元々リーダーであった交友グループ内での地位が逆転し、その時から元の仲間にいじめられ、その結果他校生との交友に自分の居場所を求めて非行に至ったという事例です。
私は小学生を対象としたグループワークを10年ほど続けており、この夏にも十人あまりの子ども達が集まったのですが、子ども同士のいざこざが起きた時に、その当事者からも、まわりにいた子ども達からも「いじめだ 」と囃したてることが何度もありました。別に深刻な事態でも何でもないのですが、このような囃し言葉を聞いたのは今年が初めてでした。現代の子ども達の間で、「いじめ」という言葉や事象が流行しているのではないかといった印象をもちました。
昨年の事件報道以来、世の中でも「いじめ」がクローズアップされてきており、PTAの子育て講演会に招かれた時にも「いじめ」のことに触れて下さいというリクエストが増えています。ある講演会の準備に際して、「いじめ」という事象の本質が今一つよく分からなかったので、短大生の娘に「いじめ」とは何なのかを尋ねてみました。すると彼女は次のように答えました。「いじめは、自分たちの属している仲間の境界線や、その内外をはっきりさせるために起こる。いじめられる者は必ずひとりに決まっている。そのひとりは別に誰でもいい。いじめている側のリーダーは別としても、いじめている側の全てが必ずしもいじめられている者を嫌いだとは思っていない。しかし仲間の維持のためには態度を共にする。態度を共にしなければいつ自分が外されるかもしれないという不安が誰にもあるからだ。そして、いじめる対象が変わった時には、いじめた側はこれまでいじめていた者に『ごめんな』と必ず謝る。そしていじめられていた者も『ごめんな』と謝る。そしてこれまでいじめられていた者が、その時から仲間の内側に入っていく…」
現代の子どもは、子ども社会の中で〈他者からどのように見られているのか〉についてかなり気にしています。それゆえ他者のことをかなり気にし、他者への気遣いも強く、持ち物・服装から行動や態度まで、みんなと同じでなければならない風潮が強いようです。また、ある種の清潔感の維持(シャンプーや体臭の除去など)をかなり気にします。集団の中で目立ってはいけないし、みんなと異なってもいけないのです。誰かから不快感を持たれるようなことを作ってもいけません。そうでないと自分がやっていけないし、みんなの中でもいることができないのではないか…、そんな不安感です。そして不調和事態を回避する傾向が強く、どうも不調和に対して対面・対決したがらないのです。
他者への気遣いと調和の遵守があれば「いじめ」は起こらないと思われるのですが、どうもそうではないようです。自信のなさや自己評価の低さと、そのことへの曖昧な不安が子ども達全体の背景に存在します。そしてその子ども社会全体の不安が、「いじめ」に関しては傍観者や同調者としての力動を形成しているように思われます。
グループ同士がぶつかることが少なくなったと言われています。あるいは子ども達が縦集団で遊ぶことがなくなってきています。兄弟の数が少なくなっています。これらは子ども集団の中に、異質なものと対決し、あるいは異質なものを内包していくことが少なくなったことを示すのでしょうか。これらのことと上に述べた現代の子ども達の特徴とは関連しているのではないかと思われるのです。そして、共同の不安を背負いながら、それでも子ども達自身で自らの社会的な関係を形成・維持しなければならない時に、ひとりのスケープゴートを作らなければ自らの人間関係のつながりや輪郭を守れないのなら悲劇です。
「いじめ」にはさしたる理由はいらないのですから、誰にでも、どこからでも排除されるチャンスがあります。それゆえ「いじめ」は昔の「村八分」とは異なり、対人力動がそうなっていくような明確な因果関係がありません。だから「いじめ」は、時間経過を持つ対人関係の結果などではなくて、匿名性の高い子ども社会の現象のようにも思えるのです。
しかし、「いじめ」が単なる子ども社会の〈現象〉にとどまらず、ひとりの子どもを自殺に追いやる〈事件〉にまで発展するにはもっと他の要因が関係していそうです。そのことを考える時に、「浮浪者虐殺事件」のことを連想します。事の最初は浮浪者をみて腹が立つというだけだったのかもしれませんが、その腹立たしさをある集団行為で表現したことの結果が〈面白かった〉ということにつながってはいないかという点です。そして面白いことは仲間内に拡がり、みんなでやればもっと面白いということにエスカレートしていきます。しかしそこにはある種の〈やばさ〉が存在するので、そのことが外部に漏れたり内部から覆されないためにルールやしばりが強くなり、それらがどんどん閉鎖的なものになっていきます。「いじめ事件」にしてもそうなのですが、生じている事態が陰惨であるのに、事態が陰惨であるほど、〈面白さ〉へのゲーム感覚もまた強くなるといった落差が存在します。誰をいじめるかではなくて、いじめることそのものが目的になってしまっています。しかし、そのゲームを面白く遂行するためには、ゲームの対象を特定化しなければならないのでしょう。そしてそれが事件にまで発展しても、行為する者や行為される者へ対面することのない周囲の傍観者的感覚は、先に述べた不調和回避の傍観者的態度のそれと余り変わらなかったように思われます。「いじめ」という強烈な対人関係場面が現存するのに、そこに特定人や特定の人間関係がクローズアップされてこないような印象がぬぐい去れません。
面白いことのない子が増えていないでしょうか。自己実現感や自己充足感の持てない子ども達です。私は「いじめ」が流行する背景には、不調和に対峙せず他者のことを極端に気にする他者意識の特徴と、自己評価の低さと、自己実現感のなさの3つが存在すると推定しています。だから「いじめ」の問題は特殊なことではなく、基本的には古今東西から普遍的な「自我形成の問題」(注)と「健全育成の問題」ではないかと考えています。ただ、「いじめ」の問題が厄介なのは、個々の子どもの個別の問題ではなく、子ども社会の問題であるという点です。
そして「いじめ」が形成される背景にあることがらは、子ども達だけでなく、家族や教師集団や社会全般といった大人社会の中にも、それと似たような構造が存在するのではないかと思われます。ある種の不調和や困った事態に、きちっと対面対決できることがこの種の問題解決の基本ではないかと思います。やや飛躍しますが、調和を重んじる人権感覚だけではなくて、不調和や問題事態をきちっと扱えるような人権感覚が、誰に対しても求められているのではないでしょうか。問題に直面することによって、自分が属する様々なな関係の中に新たな不調和が生じ、またそれをあえて自分が引き受けなければならないといったことに対する不安との戦いが、「いじめ」問題に立ち向かう際の最大の敵ではないかと思います。