
2004年6月20日、「ローマ教皇、動く 〜イラク戦争とバチカン外交〜」と題する番組がNHKスペシャルで放映されました。2003年のイラク戦争を前に、「平和は自らが構築していくもの、神の名において殺すな!!」と全世界に訴え、また戦争回避に向けて積極的に行動されたローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世を取り上げた番組でした。教皇は、全世界の戦跡を訪れ、1981年の広島訪問の際には、「戦争は死です!!」と日本語で訴えられたことが未だに強い印象として残っています。
かつて希望を持ち続けた21世紀が、戦争と暴力が満ちあふれた現実となっていることを顧みる時、私たちの平和への願いや祈りは、ますます強いものになっていかなければなりません。この放送に強い感銘を受けた者として、この放送の内容を少しでも多くの方にお伝えしたくて、このようなページを作成しました。
2003年3月20日未明、米英軍はバグダッドへの空爆を開始。ブッシュ大統領は大量破壊兵器を取り除き、イラク国民を解放すると宣言した。フセイン独裁下のバグダッド市民は逃れる自由もなく、ただ猛烈な爆撃に耐え、夜を明かした。
この時、バグダッドの多くの大使館が閉鎖される中で、ローマカトリックのバチカン大使館は、空爆の間も扉を閉ざすことがなかった。その日、バチカンのラジオ放送局は、「イエス・キリストに祈りをささげましょう」というメッセージとともに、バグダッドに留まった大使と電話でつなぎ、惨状を世界に伝え続けた。
バグダッドのフィローニ・バチカン大使: 「3月20日の夜は、礼拝堂の中でサイレンの音を聞きました。首都に対する攻撃がまた始まったのです。キリスト教徒も、イスラム教徒も区別なく、数百人の人間が教会に避難しました。」
アメリカは、テロの脅威を排除するためには、先制攻撃も辞さないとするブッシュ・ドクトリンを掲げ、イラク戦争に突き進んだ。ブッシュ大統領は、さかんに「神」という言葉を使い、神の名の下に正義の戦いが行われると訴えた。
ブッシュ大統領:「あなたと家族に神の祝福を、そしてアメリカに神の祝福を」
一方、イラクのフセイン大統領も、神を前面に打ち出している。
フセイン大統領:「偉大なるイラク国民は、ジハード(聖戦)の魂で、敵を攻撃しろ」
イラクの民衆もまた、神の名の下に、正義は自分たちにあると戦いに立ち上がった。
イラク戦争前夜、互いに神の名を掲げて譲らないブッシュとフセイン。そして、その間に割って入ったのが、バチカンの最高指導者、ヨハネ・パウロ2世だった。ローマ教皇は、病をおして、戦いの当事者に戦争を回避するよう、これまでにない重い口調で説いた。国際社会が無力をさらす中、神に仕えるローマ教皇が、「神の名を用いて殺すな!!」と訴えた。
2003年1月、教皇は年頭にあたり、その年の外交方針をバチカン駐在の外交官にむけて発表する。その中で、ヨハネ・パウロ2世は、イラク攻撃を固めるブッシュ大統領を強く牽制した。
ヨハネ・パウロ2世: 「戦争反対!! 戦争は常に人類にとって敗北です。国際法の尊重、正直な対話、諸国間の連帯、外交の行使…。これこそが、個人や国家間の違いを解決するのにふさわしい方法です。」
この時世界は、イラク戦争回避にかけるローマ教皇の強い意志を知った。
2003年1月20日、国連安保理は、イラクの大量破壊兵器の査察を巡って紛糾していた。アメリカは、国連の査察は有効ではない、武力行使によるほかはないと訴えた。イラクでの査察は「安保理決議1441」に基づいて行われていた。
アメリカは、「イラクがもし決議違反をした場合は、深刻な事態に至るであろう」という「1441決議」の文言を引き合いにし、「その時が来た」と主張した。
アメリカ・パウエル国務長官:「査察の結果が出たとき、われわれは果たすべき責務から逃げてはなりません。イラクの対応が明らかになったとき、結果を恐れるあまり、必要な対抗処置を控えてはならないのです」
一方、フランスやドイツなどは、バチカンと同じく査察の継続による平和的解決を強く求めた。
フランス・ドビルバン外相(当時):「現時点では、武力行使を正当化するものはなにひとつないと考えています」
暴力を前に、ヨハネ・パウロ2世は、対話の重要性を唱えている。平和の祈りを捧げるために、教皇はアシジに向かった。アシジの聖フランチェスコは、カトリックにとっては平和の象徴である。ヨハネ・パウロ2世は、この地に世界の諸宗教の代表を招いた。宗教間の対話を通じて、あらゆる暴力に対抗しようと呼びかけた。
ヨハネ・パウロ2世:「私達は、この数ヶ月間に特に濃くなってきたテロや憎しみ、武力の行使の暗雲を遠ざけるために、役割を果たしたいのです」
2003年1月末、アメリカのイラク攻撃避けがたしという情報を入手したバチカンは、戦争回避に向けて動き始めた。
バチカン、アンジェロ・ソダーノ国務長官(枢機卿):「今日、アメリカの人々に対して、よく考えるように言いました。戦争では問題は解決できないのです。イラクの現状を見れば、まさにそのとおりになっています。
父親は子どもたちにメッセージを送りますが、子どもたちはそれを聞かないかも知れません。バチカンのやることは、常にうまくいくとは限りませんが、うまくいくという時にだけ父親が口を出すということではいけません。話す義務があると思うときには、口を出すべきなのです」
一方、アメリカのニコルソン駐バチカン大使は、アメリカの大統領は、国際政治において特別な存在であることをアピールした。
ニコルソン大使:「ローマ教皇は、世界の舞台で重要な存在です。アメリカはそれをよく知っており、尊重しています。同じく大きな存在であるアメリカ大統領は、大きな存在であるローマ教皇に、十分な意思の疎通を図ることが重大なことだと考えています」
ニコルソン大使が出したパンフレットには、「バチカンは精神的な支え(精神的支持者)であり、アメリカのテロとの戦いを支持している(反テロ・キャンペーンへのバチカンの支持)」と書かれている。ローマ教皇が、必ずしも絶対的平和主義者でないことを印象づけようとした。
イラク戦争が起こる前に、ニコルソン大使は、しばしばバチカンを訪れた。バチカンでは、外務大臣に当たるジャン・ルイ枢機卿が大使を迎えた。
ジャン・ルイ・トーテン外務局長(枢機卿):「バチカンは、国連と同じように、自衛権の行使を認めています。誰だってテロリズムと戦う必要は認めるはずです。だから私は、アメリカの大使に繰り返し言いました。『確かにバチカンは、絶対的平和主義者ではありません。しかし、平和は自ら構築してゆくものだ』、と」
9・11をきっかけに、アメリカはなぜテロが起きたのかを問うことなく、より大きな力でテロを押さえ込もうとしていく。
アメリカ、ニコルソン駐バチカン大使:「戦争するかどうかを最終的に決めるのは、市民に正当に選ばれた政権です。アメリカの場合、それは大統領です。これはカトリックの教義にも矛盾しないはずです」
2003年2月、アメリカはインド洋からペルシャ湾に、続々と兵力を送り込み、臨戦態勢を整えていった。このような事態に対し、永年国連大使を勤めたマルチーノ枢機卿は、雑誌インタビューで次のように語った。
「イラク攻撃の真実にアメリカ市民が気づくのは、親戚や友人が入った棺桶が帰ってきたときだ。私はこの数日間に、シゴネッラの米軍基地に、死体を入れる10万枚の死体袋と、6000の棺桶が運ばれたと聞いた」と。
レナート・マルティーノ枢機卿:「もちろんバチカンだって、魔法のような解決策を持っている訳ではありません。解決策は、全ての国が心を開いて、ちゃんと人の話を聞いて、頭をしっかり使って探し求めなければなりません。より強い大きな国の場合は、特にそうする必要があります。なぜなら、国連の決定には、強い国が影響を与えています。強い国は、国連の了解がなくても行動してしまいます。このことが国連の一番の弱点になっているのです」
2003年2月5日、アメリカは国連に攻勢をかけた。イラクの大量破壊兵器がいかに危険かをアピールし、イラクへの武力行使を訴えた。
一方、まだ国連の査察は続いていた。
アシジに住むひとりの神父であるベンジャミン神父が、イラクとバチカン両者の対話のきっかけを作った。イラクでの人権擁護活動の中で、イラクのアジズ副首相と同神父との親交が生まれた。教皇との会談の場を設けて、平和的解決を図ろうと考えた。1月にバチカン当局にこの提案を送ると、バチカン当局から返事が来た。バチカンは面会に応じることを示唆した内容だった。
ベンジャミン神父:「サダム・フセインとアジズの立場は違っていました。アジズはこう言いました。『フセインは、アメリカは空爆はしても、地上軍の侵攻は必ずしもしないだろうと考えていた』と。ではあなたは、と問いかけると、アジズは、『アメリカはイラクに侵攻して占領するに違いない』と言いました」
アジズは、バチカンに平和のための仲介を求めた。2003年2月14日、アジズ副首相がバチカンを訪れ、教皇に会見した。
アジズ副首相:「ここに来るのは、いつも大変な時です」
ヨハネ・パウロ2世:「今が一番大変ですね」
この時、アジズ副首相は、国連の査察に協力を約束する一方で、イスラム教徒の間に、西欧社会に対する悪しき記憶があることをほのめかした。教皇は、「イラクの神に祝福を」とアジズ副首相の手を握った。
バチカン、トーラン外務局長(当時):「アジズは、サダム・フセインのメッセージを伝えました。『イラクの市民は、アメリカの不正義の犠牲者だと思っている。言われているような大量破壊兵器なんてないのだ』 そして、彼は非常に大切なことを付け加えました。イラク攻撃が行われれば、イスラム世界でキリスト教に対する宗教戦争が勃発するだろう、と」 アジズ副首相は、記者会見で次ぎのように述べた。
アジズ副首相:「キリスト教の国々が、この侵略戦争に参加すれば、アラブ諸国は、イスラムの国々は、これは自分たちへの十字軍と見なすのです」
十字軍とは、11世紀から200年間、聖地エルサレムの奪還をめざした軍事行動である。十字軍は、バチカンにとって消すことのできない記憶である。当時の教皇によって提唱され、イスラム教徒に対して多くの残虐行為が行われた。キリスト教徒にとっては神の名による戦いであっても、イスラム教徒にとっては忌まわしい暴力と記憶された。
カトリックが「ゆるしと和解の年」とした2000年3月、バチカンのサン・ピエトロ大聖堂で特別のミサが行われ、その中でヨハネ・パウロ2世は十字軍の過ちを初めて認め、許しを請い願った。
ヨハネ・パウロ2世:「過去のキリスト教徒が起こしたいさかいに対して許しを求めます。一部の信者が、真実を求めようとして振るった暴力と、他宗教の信者に不信感と敵意を向けたことに許しを求めます」
ヨハネ・パウロ2世は、神の名において「記憶の浄化」をしようとした。イラク戦争前夜、許しの意味が真に問われた。
ローマ教皇は動いた。2003年2月15日、平和の特使としてエチェガレイ枢機卿をバグダッドに派遣し、自らの意思をサダム・フセインに伝えようとした。エチェガレイ枢機卿はフセイン大統領に会見し、アメリカのイラク攻撃が近づいていることを伝え、甘い見通しを棄て、戦争回避に努めるべきだと訴えた。
バチカン、ロジェ・エチェガレイ枢機卿: 「私はサダム・フセインに言いました。イラク国民に責任を負っているサダム、あなたが国民のために本当に平和と幸せを望んでいるのなら、そのために必要なことを全てなさい。あなたの国民に戦争を仕掛ける口実や理由を、他の者たちに与えないように。彼は私の言うことを聞いてくれました。
どんな人間にも良心があります。私は、サダムを彼の良心と共に残して去りました。そして、人間の歴史にとって恐らく最も神秘的なものである〈自由〉も残してきたのです。神は自由な人間を創造しました。人間に尊厳を与えているものは〈自由〉です。しかし、自由な人間を創造した時、神は危険を冒しました。神と言えども、自らが創造したものを自由にできないからです。人は結局自分の良心にゆだねて、〈イエス〉ということも〈ノー〉と言うこともできるからです」
「他の宗教を尊重する中で自らも生きる」 これがバチカンの外交方針の基本である。1962年、ヨハネ23世の呼びかけで全世界の司教がローマに集まって、第2バチカン公会議が開かれ、ローマ・カトリックは自己革新に着手した。会議当時もまた、ベルリン危機・キューバ危機などのさなかにあった。現教皇のヨハネ・パウロ2世は、ポーランドの司教としてこの会議に参加し、中心的な役割を果たした。
公会議文書の中には、カトリックはイスラムやユダヤ教など世界の諸宗教と対話をし、協力すること。そして平和を築くために国際機関による調整を進めることなどを決定した。
バチカンは、あくまで国連の枠組みの中でイラク問題の解決を求めた。2003年2月18日、イラク問題を回避するために、国連のアナン事務総長がバチカンを訪れ、教皇と会談した。2003年は、アナン事務総長をして、国連の歴史の中で最も困難な年だと言わしめた年であった。2人は、以前からお互いに信頼を寄せ合っていた。2人は、困難な中で、国連の平和的解決への努力を最後まであきらめないことを確認し合った。
ヨハネ・パウロ2世は決断を下した。これまで政治への直接介入を控えてきたが、急遽翌日の安保理にバチカンの代表を送り、全世界へ平和のメッセージを伝えようとした。
2003年2月19日、この時の安保理では、普段発言の機会のない68の国、実に全世界の3分の1に当たる国の代表が発言した。大半の国は、査察は有効であり、武力行使を早まるべきではないという意見であった。そして、バチカン代表が安保理で発言するのは異例のことであった。バチカン代表は、外交と対話による解決を強く支持すると述べ、ローマ特使がフセイン大統領に伝えた言葉を披露した。
バチカン、ミリオーネ大使: 「イラクでは平和は可能です。今後の数日の小さな歩みが、平和への偉大な跳躍になるかもしれないのです」
続いて、イラク大使が発言した。
イラク、アルドゥーリ大使(当時): 「多くの皆さんが、平和を望んでくれていることに感謝しています。同時に、アメリカやイギリスの極端な立場に味方している国々のことも理解できます。そうした国々には、この問題を冷静に考え、今後じっくり時間をかけて決断してほしいと言いたいのです」
2004年2月24日、アメリカは体勢不利と見て、新たな行動に出た。アメリカは安保理決議1441に加えて、新たな決議案を提出した。新決議案には、「イラクは1441で与えられた最後の機会を逸した」ということが盛り込まれた。これが採択されれば、イラク攻撃が確実なものになるという内容であった。
新決議案をめぐっての安保理理事国の態度は以下の通りであった。
賛成:4 アメリカ・イギリス・スペイン・ブルガリア
中間:6 メキシコ・チリ・パキスタン・アンゴラ・ギニア・カメルーン
反対:5 フランス・ロシア・中国・ドイツ・シリア
決議は、15票中9票を獲得しなければならない。中間派のうち、メキシコは態度を決めかねていた。また、中南米国のチリは、メキシコと歩調を合わすことを決めていた。従って、決議のキャスティング・ボードをメキシコが握ることとなった。
カトリック教徒の多いメキシコ。バチカンからの何らかのサインを受けたのだろうか?
バチカン、トーアン外務局長(当時): 「各国政府は、自分の政治的立場を決める自由があります。バチカンは関係ありません。メキシコ政府にきいてください。私には答えられません」
メキシコは、人口の9割がカトリック信者である。ヨハネ・パウロ2世は、これまで100回を越える外交訪問を行い、「空飛ぶ教皇」といわれている。そして、メキシコにもこれまで5回訪れている。
メキシコの国連大使は、バチカン代表としばしば意見交換したといわれる。
メキシコ、シンセール国連大使(当時): 「バチカンの外交官は、安保理のメンバーの我々に、戦争についてのローマ教皇やバチカンの意思を伝えました。非常に明白に、そして慎重に、彼らが戦争を支持していないことを我々に知らせました。特に中南米においては、ローマ教皇は精神的な法のようなものです。バチカンが戦争を支持していないということは、我々にとって精神的な支えとなりました」
メキシコ、フォックス大統領:(平和ミサに参加した後のインタビューで)「平和は望むのではなく、作るもの。全力をつくすよう政府に指示しました。平和・平和・平和。これがみんなの望みです」
イラク攻撃の支持を求めるアメリカに対して、最後までメキシコは首を縦に振らなかった。
2003年3月5日、ヨハネ・パウロ2世は、ついにブッシュ大統領本人に特使を送った。開戦2週間前のことだった。ホワイトハウスを訪れたのは、ブッシュの父親とも親しい、元駐米大使のピオ・ラギ枢機卿だった。ラギ枢機卿は、道徳的な観点から予防的先制攻撃は決して正当化できないと訴えた。会談は40分にわたったが、ブッシュ大統領は、戦争するかしないかを決めるのは大統領権限であるという考えを変えなかった。
バチカン、ピオ・ラギ枢機卿: 「大統領は、我々の対談に同席していた海兵隊の将校に、『枢機卿様、心配しないでください。我々は、すばやく、手際よくやりますから』と言わせました。私は背筋が寒くなりました。本当に強い不安を覚えました。彼らがすでに攻撃を始める決定をしていたことが分かったからです。しかし、残念ながら、彼らが予想するように、すばやく、手際よく攻撃ができるなどとは思いませんでした」
すでにイラク攻撃を決めているアメリカ。新決議案採択の見通しが立たないと見るや、自らが出した提案を取り下げた。1441決議のみによる開戦は、後にイラク戦争が大義なき戦いと批判される理由の一つとなった。
2003年3月16日、ヨハネ・パウロ2世は、世界に向けて平和を訴えた。開戦の4日前であった。
ヨハネ・パウロ2世: 「私は、第2次世界大戦を体験し、神のおかげで生き延びた世代です。だから若い人に訴える義務がある。『二度と戦争をしてはいけない』 全てのことをしなければならない。何かの犠牲の上には。いかなる平和も達成できないか、その責任の大きさを知っています。それゆえ、祈りと罪のあがないが必要なのです」
2003年3月20日、米英軍によるイラク攻撃が始まった。ローマ教皇の訴えにもかかわらず、戦争は回避されなかった。バグダッドのバチカン大使館や教会は、その土地の人々の苦難と共にあれという教えに従って、被災者の保護にあたった。
ブッシュ大統領が、主たる戦争の終結宣言をした後も、暴力の連鎖はとどまることを知らず、アメリカとイスラムとの溝は深まるばかりである。
2003年10月、ヨハネ・パウロ2世は、在位25年の祝いを受けた。
ヨハネ・パウロ2世は、教皇就任後、数多くの戦争の現場で平和の祈りを捧げてきた。
1979年 アウシュビッツ訪問
1981年 広島訪問
21世紀初頭、世界には市民を巻き込む無差別テロと報復の嵐が吹き荒れている。戦争が終わる日に向かって、人々はいばらの道を歩んでいる。その荒れ果てた風景に、ヨハネ・パウロ2世は、「神の名において殺すな」、そして「平和はつくるもの」という言葉を、最後の一息まで送り届けようとしている。