健全育成標語

健全育成ということ

柴 田 長 生


 町の中を歩いていると、子どもにまつわるいろんな掲示物に出会う。出張で地域に出向いたり、あるいは旅行で遠くへ行った時など、どんなものが町の中にあるのか少々興味があり、目にとまればそれを読んでいる。

 仕事柄、時々家庭裁判所に行くことがある。「少年に光を、家庭に愛を」と書かれている。これは余りにも決まりすぎているが、これはまさに「家元」のそれだ。通勤途上で、ダークグリーンの背景に白い文字で「落とせ! カミナリ」と書かれた立看板が電柱に建てられているのをみつけた。本家雷様がこれを見つけたら、この電柱をターゲットにするのだろうかと考えた時、思わず苦笑してしまった。それ以来、私はこの看板を毎日見てしまう。

 家庭教育・健全育成・少年補導・・。目的はそのようなことなのだろうが、それがどの程度の効果をあげているのか、どの程度読まれているのか、誰が読んでいるのか(誰に読ませたいのか)、そのあたりははっきりしない。標語を作った人や、その看板を立てた人にはきっと強い思いがあるだろうが、町の人や子ども達にとってはどうだろう。あるいは、その地域を担当する学校の先生方にとってはどうだろうか。

 標語や立看板のことを別に批判しているのではない。その功罪を問いかけているのでもない。効果のほどは別にしても、各地域にそのような看板があることに全く違和感がないのだなあと気づくだけである。郡部の学校や施設に二宮金次郎像を見かけることがあるが、これも違和感を覚えない。「なくそう、非行!」「正しい子どもは、あたたかい家庭から」こんな立看板の横を二人乗りのバイクが走り去っても、大きな違和感や不安が高まってもこない。

 ところが最近町を歩いていると、別の看板がよく目にとまる。「こども110番のいえ」と書かれた緑色の少し小さなプラスチックボードである。この看板はどうも全国共通らしい。そしてこの看板が普及していった速度と、その単一性に、少なからず違和感を覚える。これが普及したのは、もちろん神戸の殺人事件以後のことである。

 いじめ問題でもそうだったのだが、世の中全般が急速な不安に陥った時、人は、そして社会はどう動くのであろうか。そしてこの神戸の事件は加害者も被害者も義務教育年齢の子どもであるのだから、学校にとって、あるいは教師にとってはただならぬ事なのだ。発達したマスメディアによって社会全体が大きな不安に巻き込こまれ、そして今度は、社会の側の不安が学校批判につながる。その時学校はどうであったのだろうということが非常に気になる。

 色々なことが束となって学校に一挙に飛んで来る。そのことで、学校現場の中では、不安や混乱は当然大きく倍増されるであろう。そしてその事を受けての教育サイドからの新たなリアクションには、不安や混乱を核とする更に大きな「意味」が含まれることになり、規格統一された形でどんどん大きなものに膨らみ、それらが逆に学校現場を「等身大の状態以上」の不安と混乱におとしめている側面はないだろうか。

 その渦の中で画一的なシンボルとして登場したのが、先程述べた「こども110番のいえ」の看板に思われてならないのである。だから、私には違和感がある。まさかナチス党旗でもあるまいが、時代的不安を背景にした、画一的なシンボルの登場は、社会に大きな意味を生じさせる可能性がある故に、警戒しておいたほうがよい。

 それとは別に、いくつかの家の内の一軒にだけ看板が掲げてあるのも妙な話だ。本当に逃げ込まなければならない時があったとしたら、その看板のある家などではなくて、最寄りの家であるはずだ。それとも学校現場では、「危険な時があれば、看板の家に逃げましょう」とでも指導されているのだろうか。もしそうならば、それは随分リアリティーのない話である。

 この夏、神戸の事件の影響がそれぞれの学校でどうであっただろうか。学校が焦点になっているだけに、衷心より心配なのである。個々の子どもが心配なのではなく、学校という子どもの場が心配だったのである。

 家庭教育や健全育成ということは、時として教条的になることはあるにせよ、決して全体的・画一的になってはならないのだろう。

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