・子どもをめぐる<強い>コンテンツ
・養護相談の増加
・重症心身障害相談も増えている
・いじめ相談は…
・学校が危ない!?
・スクールカウンセラー制度
・病気の親たち
・虐待相談が増えてきている
・地域福祉とネットワーク
・児童相談所の足場
子どもをめぐる<強い>コンテンツ
少子化、いじめ、子どもの虐待の増加、心のケア、心の教育、行為障害、ナイフ殺傷事件、少年法改正、<切れやすい>子ども、スクールカウンセラー、神戸の少年、子ども110番の家、AC、LD、普通の子…。
近未来にどう変化してゆくのかは分からないが、まさに現代社会の主要なキーワードになっている。今の子どもに関する様々なことが、マスコミなどを通して、”子どもをめぐる様々なセンセーショナルな言葉”に置きなおされ、それらが社会の中に拡がり、様々な言葉や意味が社会の中で一人歩きをし始める。そして、<捉えどころのない、社会的モンスター的存在としての子ども…>ということが、世間の描くイメージの中に固定化する。
児相は評論する機関ではない。児童福祉の原理原則も、児童臨床のありようも、一つ一つの相談実践の中で点検していかなければならない。その実践を確保できるためのチーム処遇体制が、現在の児童相談所の財産である。そのことを十分ふまえた上で、児相現場から感じたことを、あえて総花的に述べてみよう。
養護相談の増加
平成5年度から五年間に私の所属する児相で受理した養護相談件数の推移である。管内人口が30万人強、児童福祉司が3名の小さな児相での継時変化が、全国的に見てどのようなところに位置するのか定かではないが、過去五年の間に二倍半に膨れ上がったような相談は他にない。しかもそれが養護相談である。このことをどう評価すればよいのか。
児童相談所の根幹は養護相談にあるといわれ続けてきた。また、種別としては<養護相談>に入れないが、家族関係や家族構造上の課題を背景とした児童相談は、広義の養護問題である。
虐待を含め、何らかの理由で「家庭で子どもの養育ができない」という訴えは丁寧に受けとめていかなければならない。過去にあったサラ金等による経済的破綻をベースにとした相談は、今ではあまり目につかなくなった(ごく最近また出てきてはいるが)。多いのは家族内の人間関係の問題であり、家族(特に母親)の精神科領域の疾患を含む病気の問題であった。いわゆる<孤児>は皆無に近い。
ここに来ての養護相談の増加は、戦後の貧困さをベースとするようなものではない。あえて一言で述べるならば、家族の中での、問題を引き受ける事への許容量の狭さである。状況が少しでも変化すると、それだけで家族内で持ちこたえられなくなってしまうキャパシティーの狭さといっていいだろうか。それらが、核家族化・少子化の流れと呼応するのかどうかはわからないのだが、家族の中で<待ちの幅>を少しでも大きくするような取り組みが、「子育て・家庭支援」の方法ではないかと考えたりする。
重症心身障害相談も増えている
しかし、受理件数がいちばん伸びたのは、実は養護相談ではなく、重症心身障害相談であった。重症心身障害相談のほとんどは短期入所(いわゆるショートステイ)に関するものである。衆知のように重症心身障害児施設あるいは国立療養所は常に満床の状態で、スムーズな入所ができない。また、在宅支援の方向が現在の潮流である。医療技術その他の進歩で、障害者の平均寿命は随分延びたものと思われるが、介護者である障害児・者の両親は、介護のためにいくつになってもその子の<親>でなければならない。しかし、両親の高齢化によっていつか必ず介護のできない日がやってくる。
施設入所というせっぱ詰まった事態ではなくても、<障害>という問題を常に背負ったまま、家族としての営みを続けていくことは、慢性的な広義の養護問題を常に抱えながら生活していることに他ならない。<養護の視点=家庭支援の視点>というのなら、障害児者問題、とりわけ重症心身障害児・者問題に取り組むことは、純粋に<子育て・家庭支援>をおこなうことになるのであり、広い意味での養護問題への実践であろう。
いじめ相談は…
一方、学校現場でいじめ問題が解消されたとはとても思われない。どのような対応をされているのか気になるところである。ある事件の後で、それぞれの子どもの保護者たちの関係が次第に緊張をはらむものとなり、親たちが学校以外の関係者をも巻き込んで抜き差しならぬ状態になるという話を時折聞くことがある。こんな時の学校の対応はさぞかし大変であろう。事件をめぐって、学校内で、あるいは外部との関係をめぐって、開かれた対応ができるかどうかが、今後に向けてすごく重要だと感じることが多い。そのような場合に、相談機関としては、<学校コンサルテーション>という視点が大切になってくる。
学校が危ない!?
先ほど述べたいじめ事件に関しても、管理職の側と一般教員側の受けとめが異なり、学校として一枚岩になっていないと思われることも時折みられる。そのことが足場になって、更に火の手が大きくなったらそれこそ大変である。
神戸の事件の少し後、「軽度の障害を持つ神戸の子どもと似通った年齢の子どもがおり、家庭に養育能力が全くなく、家からは放置され、地域を徘徊し始めているから(危ないから)、夏休み中は保護すべきだ」という相談が学校から入ってきた。「はい、わかりました」という対応ではない児相に対して、「もし何かが起こればどうするのですか…」と詰め寄られたが、関係者の危機感がかなり高い。それに反して当の家族には相談ニーズがほとんどない。その落差こそが学校の心配の源泉なのだろう。
保護者も関係者も随分不安が高い相談を受けたが、面接で「一番不安の高い人は誰ですか?」と保護者に尋ねると、「**先生です」と答えた。これは予測に反した返事だった。しかし同時に、「不安がどんどんと拡がった時は、きっとそうなるのだろう」と納得できた。”不安の社会化”とでもいったらいいのかも知れないが、関係者の中である危惧が芽生え、それが一人歩きし、心配は過剰に膨張する。もしもマスコミ等で社会的に知れ渡ったケースと自分のケースとが似ていたりすると、それらが二重写しになり、関係者の不安はますます加速度的に膨らむ。何かといえば学校が取りざたされる時代である。今、学校の中で過度な不安が拡がっていないだろうか。
学級崩壊という話も時々耳にする。教師自身のメンタルヘルスについて、真剣に考えなければならない時代になってきている。それぞれの教師の大変さを、現場の中でオープンに取り扱えているのだろうか。児童福祉の現場から見ていて、とても気がかりなのである。
スクールカウンセラー制度
スクールカウンセラーと児童相談所とは、今のところあまり直接的なお取り引きはない。また、配置されたスクールカウンセラーの個々人の考え方により(あるいは配置された学校の個々の取り組み方により)、活動のなされ方は様々なものであると聞く。
もしこの制度が学校教育一般とはかけ離れた別立ての取り組みになってしまうのなら、気がかりである。これは教師が…、これは特殊だからスクールカウンセラーに…。校内でこのような振り分けを行い、学校としてのトータルな関与を検討できないまま、事象ごとに処理する形でけりをつけるのならば、いずれかの時点で、その<つけ>が学校に一斉に差し戻されないだろうか。
学校は、言うまでもなく子どもにとって一番大きな現場である。そこが今の子どものことをトータルに受けとめきれなくなったとしたら、大きな問題である。スクールカウンセラー制度に対立するつもりは毛頭ないのだが、児童相談所が学校という現場とどんなチームが組めるかは、古くて新しい課題である。
病気の親たち
少し前までは、思春期の相談において影の薄い父親像がよく取り沙汰されたし、「今こそお父さんの出番…」というキャッチコピーは、家庭教育の推進の目的のもと、世の中にあふれ出した。強くてしっかりした母親は、父親の影の薄さを「仕方ないねぇ」と思いながらも、何とか子どもや家族のことをさばいていく。子どもの症状が不登校であろうと、非行であろうと、この場合は直接的な養護相談にはならない。
しかし、母親の病気に絡んで出てくるケースの場合は、母親が家庭生活全般においてもダウンするので、大なり小なり養護的な色彩を帯びる。そしてこのような相談の場合、相談対象となる子どもの問題は、背景の母親の症状と密接に絡まりあう場合が少なくない。<真の主訴>についての扱いがなかなか難しいのである。母親は、自分の症状を盾に、子育てについてのパワーを低下させ、逆に自分自身のしんどさを訴えるという点で、家族に向けて強力なパワーを向けてくる。そして父親は、それに太刀打ちできないでいる。
病気の母と優しい父。にもかかわらず母親は基本的に孤独で寂しい…。このような印象が漠然と心をよぎる。
虐待相談が増えてきている
「虐待には、公的機関が毅然と対応しなければならない。関係機関がネットワークを形成しなければならない。必要に応じて、警察との連携や法的介入などの手だてを取ることを怖れてはならない…。」
確かにその通りなのであるが、世の中全体が一斉にそのような方向へ、単一的に、無思慮に走りすぎてはいないかという危惧を、どうしても拭いきれない。社会的趨勢という<流行>に対しては警戒しておいた方がよい。
一番危ないのは、因果論的な事例解釈が、マスコミその他に乗っかりながら社会的な賛同を得、その意味づけをふくらませつつ一人歩きしてしまうことである。例えば<AC>といった概念は、数々のベストセラーを産み出しながら、世の中一般に広く浸透し、一種のトレンドとなっている。「私、ACだったのです。だから…」と告白することが、そのことの解釈の真偽はともかくとしても、一種の流行になってはいないか。書店にはその類の書物が数多く平積みにされている。まさに<心の時代>の象徴だと思うが、万人が病気を前提にして生きていってよいものか。
子どもと家族の臨床を扱うのが私たちの機関の役割だからこそ、上のような動きには明確に対峙しなければならない責務がある。私たちの相談の基本姿勢は、あくまでも「健全育成」である。
地域福祉とネットワーク
ケースの内容が変わりつつある中で、このあたりの問題がますます明確になってきていないだろうか。関係者の不安と混乱に対処する方が、ケースに直接対応するよりも骨の折れることが多い。
児童相談所の足場
だからこそ児童相談所は、自らの業務を遂行するための<立脚点>を持たなければならない。社会の流行に組みせず、しかも児童福祉の現場としての意見を持たなければならない。そして私たちに与えられた職業上のフィールドを通して、地域社会の中にそれを浸透させていかなければならない時代ではないだろうか。
我々の立つべき足場は、児童福祉の原理原則に基づく知恵と、児童相談の臨床経験の積み上げによる経験的知見と、相談を遂行していく際のチーム処遇というシステムと、関係機関との開かれた関係によって規定されている。しかし、それ以上に大切なのは、それが確かに<児相の足場>たり得るのかを、相談実践の中で常に反復して検証していく日々の姿勢だろう。
法改正がなされた今の時点は、児童相談所業務の基本姿勢をことさら問い直していかなければならない曲がり角である。児相は行政相談を行う機関なのか、あるいは臨床業務を遂行していく機関なのか。いずれも「然り」である。この自明の事の両立について再度問い直し、答え直していく時期ではないだろうか。この作業はたやすいことではないが、今般の法改正は、そのことを明確に突きつけているような気がする。
「子どもの権利擁護」と「子育て・家族支援」のために、各ケースの各場面において、児童相談所は、どんな視点から、どんな方法論を採るべきなのかを検討し、それを実行可能なものへ移し替えて、相談実践を児相臨床チームで取り組むこと。今さしあたりできることはこの程度なのだが、児相現場の知恵を集結していかなければならない。