かなり前のこと、私の勤務先に実習生としてやってきたY君もクラシック音楽が好きで、最近クレンペラーと朝比奈隆などにはまっているとのことである。そしてその彼が時々メールを送ってくる。最近彼は朝比奈隆=大フィルでベートーベンの1番と3番を聴いたという(2000.7.8. ザ・シンフォニーホール)。そしてその放送が8月18日深夜にあるというので、VTRに録画して聴いてみた。エロイカの2楽章と4楽章が特によかった。そして彼に感想メールを送ったのだが、その中で次のようなことを書いた。
(2楽章の感想を書いた後で)…でも、今回聴いた範囲でより朝比奈隆らしく思ったのは、実は4楽章でした。ある意味ではフルトヴェングラーの対極にあるような運び方でした。あんな演奏(遅いテンポで、テンポをあまり動かさず、連続する音楽をじっくり積み上げていき、そしてクライマックスを迎えるような演奏だった)ができるから(というよりあんな音楽性だから)、ブルックナーが絶品なのでしょう。そんなことを思ったりしていました。
朝比奈の場合は、フレーズの積み上げがすごいのだと思いました。それに反して、フレーズのつなぎはあまり上手ではないのでしょう。ですから、音楽が豊かに流れるという「その流れ」は、フルトヴェングラーなどとは結構異なるのだろうと思いました。そして彼はその事の代わりに、「スコアに対する全幅の信頼」すなわちスコア通りにやるということを徹底していますから、そこが全体的な様式感を支えるのでしょう。スコアの通りにやれば、自然に「やまかわ」ができるのですね。さすがに年の功で、これは昔の朝比奈から見ると大進歩なのでしょうね…。
ところで私は、音楽評論家で、最近はアーティストでもある宇野功芳氏による魅力的かつ主観的な演奏評にずっと呪縛されてきた感がある。宇野氏はその評論の中で、フルトヴェングラーのモーツァルト・ワーグナー・ブルックナーをよく評価せず、その対比として出てくるのが、ワルターとクナッパーツブシュである。最近私は、別の動機があってブルックナーの8番をいくつか聴き比べてみた。そして好みなのかも知れないが、8番に限らずブルックナーの緩徐楽章に関しては、やはりフルトヴェングラーがダントツによいのである。しかし、8番の4楽章はそうではなかった。聴いた限りではクナ=ミュンヘンがやはり一番いい。そして我がフルトヴェングラーといえば、この楽章に関しては、何かに命じられるようにひた進んでいくのである。それはなぜなのか。逆にこのことの訳が分かれば、フルトヴェングラーの本質に近づけるのかも知れない。話は突然飛躍するが、このことを考えるうちに、「とき」と「響き」という言葉が思い起こされた。音楽は時間進行の芸術である(絵画は異なる)。
まず「とき」ということについて考えてみよう。歌・フレーズ・パッセージ…、時間経過の中でこれらが展開される時、その時間経過の中にどんな音が包含されながら「ある流れとつながり」を作り出すかによって、人は様々な感動を持つのであろう。流れには「緩急」も、「高低」も、「強弱」も、「音色の絡まり」もある。フルトヴェングラーはこれらの音楽要素の展開において、実に卓抜している。では、「とき」の要素のない(というより薄い、あるいは「とき」が停止した)音楽状況はないのであろうか。私はあるように思う。例えば「大伽藍」における法要の読経の連続のような場面を想像していただきたい。そこには、いつ果てるかわからない「音場」があるだけである。そして両者を1分間だけタイムサンプリングしてみればどうなるのか。前者には時間の流れに従った「うた」が聞き取れるのに、後者では「ウァーン・ウァーン…」という固まりが抽出されるだけなのかも知れない。しかし後者の場面にも、トータルには「緩急」も、「高低」も、「強弱」も、「音の絡まり」もある。例えば時折鳴る「カーン」というりんの音は、フレーズの区切りと聞き取れるかも知れないし、持続して流れる「木魚」は、まさに時間を埋めつくすリズムである。しかし、そこに存在するのは、「とき」の固まりのようなものではあっても、「ときの流れ」という感覚は薄い(というよりも、流れるように経過する「とき」というものとは、きっと別物なのであろう)。
では、両者はどう違うのであろう。私見では、前者においては「とき」の要素が全面に出るのだが、後者ではそうではないといった違いなのではないかと考える。そして音楽は、基本的に前者の要素が強いのだが、しかしそうではない音楽場面だってきっとあるのだろう。例えば、雅楽などは後者の例なのかも知れない。話は再び飛躍するが、ブルックナーの8番の4楽章は、「ときの流れ」という観点から見ると、実は相当に難物なのかもしれない。スコアから個々の楽器のその時々のフレーズを見ると、時間進行だけしか与えないような音型をとる部分が結構多い(例えば楽章冒頭の弦楽器パート)。そして、時間推進の動きに乗っかるように様々なメロディーが重なり合う。ところが、実際の演奏において、その時間推進力に乗って、「とき」の要素を全面に出しながら音楽を進めていくと、フルトヴェングラーのような演奏になる。彼の4楽章は、全体構成の隈取りは決して悪くもないし、破綻もしていないと思うのだが、結果は聴いての通りである。この楽章においては、時間推進力を活かしながら、「とき」の要素でもって音楽を描ききろうとしては行けないのかも知れない。朝比奈隆の音づくりのところで述べた、「テンポをあまり動かさず、連続する音楽をじっくり積み上げていき、そしてクライマックスを迎えるような演奏」が、この楽章を表現するときには不可欠なのである。そして、クナッパーツブッシュの4楽章の特徴は、まさにこのことが活かされた演奏であった。そんな感想を持った。そしてこのようなものを要求する音楽は、その音楽の持つ作曲様式の問題ではなく、作曲者の創作特徴というか、その音楽がしめす音楽の基本性格によるところが大きいのだと思った。だから、宇野氏が「ブルックナーをソナタ形式で扱うとダメ…」といっている批評は、すべてにおいて当たっていないと思われた。
次に「響き」に関して述べよう。「シビレるような響き」という表現がある。実はフルトヴェングラーは、このことでも卓抜している。「フルトヴェングラー式アインザッツ」という言葉があるが、それを聞くと実にシビレる。彼の運命交響曲の冒頭を連想すれば十分なイメージが湧こう。またまた突然だが、「響き」を聴いた私たちの側の反応について、「からだ」ということから考えてみよう。ここでの反応は、筋肉系における「緊張性の活動」、言い換えるならば「けいれんに繋がるような身体・筋肉活動」と連動する。神経学によれば、けいれんは「瀰漫性にじわじわと進行する」し、「一度生じたものは、同一状態が生じると次にはより素早く立ち上がる」。また、その「身体感覚は自らに蓄積されて保持され」、「緊張性の感覚はある種の情動と深く連動する」のである。
難しいことを書いてしまったが、このことは私たちの「情動の根源」でもある。そしてこれらの身振りや、けいれんや、情動は、私たちの身体や身体の有する感覚を通じて、秀でて他者へ伝播していく性質を有する。フルトヴェングラーの場合、「とき」の要素に裏打ちされた卓抜した音楽性が、身体による「緊張性活動」を秘密とする指揮法によって、オーケストラに伝播され、それらが「響き」となって聴衆に伝わり、この一体的な体感覚が、流れ続き・持続する「音楽全体というときの流れ」によって強化されるのであろう。彼の場合、フレージングのうまさだけで深い感動を呼ぶのではない。「とき」と「響き」の総和によって(あるいは、身振りその他の視覚情報がとても重要なのかも知れない)、深い感動を導くのであろう。緩徐楽章の感動も、基本的にはこのメカニズムによっているのであろう。
しかし、「響き」にはもう一つの要素があるように思われた。「ときの流れ」によらず、緊張性活動を鼓舞したりもしない「響き」である。再び先ほどの大伽藍の読経の「音場」を思い起こしてほしい。そしてその場に再び私たちの身体をおいた場合の、私たちの身体反応について考えてみよう。腹式呼吸ということがあるが、そこでの「音場」と一体になって、もし法悦に域に達したというようなことを想定した時に、私たちの身体はどうなるのであろうか。一定のリズムを崩さずに、延々と続きながら、少しづつ高揚してくる「音場」…。それに身を置いたときに、私たちの呼吸はどうなるだろうか。息づかいは一定になり、次第に深いものになり、自分で呼吸の速度を整えることをもはやしなくなり、そしてついには場に同化したなら…。これが法悦の世界なのであろうが、言葉を換えると「トランス状態」であるとも言える。そして、この感覚は前記の「緊張性活動」が導く世界とは全く異なる。
「緊張性活動」が導く体感にも、「呼吸」は関係する。しかしその場合は、身構えるように呼吸を停止したり、「情動興奮」によって呼吸が荒立てられたり、たおやかな瀰漫性緊張の反復によって、心地よく揺れ動いたりする感動であろう。これらは、「トランス状態」のそれとは異なる。そして、音楽の中にも、後者の要素でもって人を導こうとする要素が含まれるのではないか。「再生される音楽の息づかい」という表現が適切なのかどうかわからないが、指揮者によって、「息づかい」は随分異なるように思われる。そして、そのことと、表現される音楽の「響き」とはきっと関連するのではないかと考えている。
宇野氏が、その著作の中で、クナッパーツブッシュの特徴を言い表す表現の一つに「実在のひびき」という言葉を使った。文学的な表現で、随分気持ちをそそられる言い回しなのだが、一体何を表現した言葉なのだろう。私流に言えば、「響き」というものが聴衆に与える影響は、上記の通りなのであり、それらはそこにある「音楽作品」を用いて、それを実体化させる行為としての演奏があり、それらが満ちる「場」があり、「場」には、ホールの様子、その時の実態、参加した聴衆…など、様々な要素が加味される。そしてトータルな音楽状況がそこに生じるのであるが、これらを媒介するのが「響き」なのだと思う。
フルトヴェングラーの秘密は、「とき」と「響き」の扱いに非常な特徴があることではなかろうか。そして、彼はそれを音楽として具現する方法を持ち合わせていた。独特の指揮法の中に包含された風変わりな「身振り」がそうである。彼は、言葉を用いても、随分音楽を語った。そして「身振り」が楽員や聴衆と一体のものになっていくと、その時々で描出される身振りと、それと一体になる楽員と、そしてその結果生み出される音楽とは、一つの輪として閉じ、そして良循環が生まれていく。しかも、尊敬を集めるに至った指揮者は、その時々の天啓によって、微妙にかつ大胆に身振りを変えていくのである。これをきっと「即興」と呼ぶのであろう。
身振りと音楽が一体になった指揮者を他に知っている。カルロス・クライバーの指揮は、描出される身振りの豊かさとしては比類がない。でも、あの身振りがあるからあの音楽が生まれるのか、あの音楽を産出できるからあの身振りが出てくるのか、リハーサルと本番とで身振りが異なるのか…、等々について、是非知ってみたい気がする。