フルトヴェングラーをもじって、「振ると面食らう…」とよく言われる。彼の指揮はそれほど分かりにくかったらしい。特に、アインザッツは全く分からなかったという。だからオーケストラは、ほどほどの所でドンと出るらしいのだが、それで1947年の<運命>や、ベルリンフィルを振ったブラームスの4番のはじめのような 音が出るのだから、神業のごとく不思議としかいいようがない。
だから私は、一度でいいから彼の指揮ぶりを見てみたいと願うのだが、それは果たせない。確か<フルトヴェングラーと二十世紀の大指揮者達>とかいった映画でちらっと見たり、TVでやっていた<第9>の4楽章の映像(1分ぐらいだったかなぁ)を見たことがあるのだが、今いちピンとこない。他の指揮者の指揮ぶりはTVでじっくりと見たし、フルトヴェングラーを直接知っているという我らが朝比奈隆氏は身近なコンサートに出かけていってよく知っている。カラヤンも、バーンスタインも、ベームも、小澤征爾も知っている。C.クライバーなどはその身のこなしや棒が、そのまま音楽そのもので凄い。高校生の時に来日したK.リヒターは、深い感銘を受けた<マタイ受難曲>の演奏と共に未だに強い印象を記憶にとどめている。
そうなれば文献に頼るしかない。「フルトヴェングラー頌」(ダニエル・ギリス編、仙北谷晃一訳。音楽之友社。S44.)の中で、ジェフリー・シャープは次のように語る。「フルトヴェングラーには、型にはまった癖が、沢山あった。たとえば、時々、進行中の模型の蒸気機関車よろしく、頑固なまでにリズミカルに、「シュ、シュ、シュ、シュ」と息を洩らす。頭を激しく、ほとんど狂信的に垂直に振る。また静かなところへくると、不思議にもきっと、左手を心持ち斜めに下げて、汗ばんだ手を乾かすようにする…」
フルトヴェングラーの写真を見ていると、その顔の形は、<茄子>か、はたまた<白熱電球>を連想させる(失礼!!)。それが激しく動くのだ。
他の所ではこうも述べる。「ベートーベンのあまりにも有名な交響曲の冒頭で、フルトヴェングラーが決まってやったあの身ぶり…、何か害虫でも目がけてするように、最初、何度か、タクトを「突き刺した」のを、コンサートの常連たちは覚えているだろう。ヴェテランの楽員たちは、どの拍で実際に始めるかについて、かならずしも確実である必要はなかったというではないか…」もしTV中継されていて、そこで音をカットしてフルトヴェングラーの身ぶりだけを見たら、ヒステリックな変なおじさんに見えたのだろうか(ちなみに、カラヤンをそうすると、ドラキュラ伯爵に見える)。
私が「信じるに足る」と思っている演奏評のひとつに、「レコードのフルトヴェングラー」(ピーター・ピリー著、横山一雄訳、音楽之友社。S58.)という本がある(もちろん宇野功芳氏の本も面白いが…)。この中にも彼の指揮風景のスケッチが出てくる。「フルトヴェングラーの指揮法は、彼の指揮ぶりをまのあたりにみた人ならばだれしも証言できるように、きわめて風変わりなものだった。それは指揮というよりは、むしろてんかんの発作に似ていた。彼はオーケストラの前に、首を突き出し、両腕を硬直したように差し出したままつま先立ちすると、突如として全身を震わせ、曲が進むにつれ、彼の身振りは、リズムのない指揮棒の奇妙な振り方で中断される以外は、一連のけいれんするような全身の揺れをとめることはなかった…」
指揮する彼は、<哲学的な顔をした茄子のけいれん>だったのだろうか。こう言ってしまうとどうしようもない。自らの感情にまかせただけのものであれば、CDやレコードで聞く様な演奏には決してならないだろう。どんなにテンポを動かしたり、アッチェレランドやリタルダンドをかけたとしても、構造的にもまたしっかりとした凄い演奏である(彼のベートーベンがいいのは、この故だと私は考えている)。
やはり謎のままである。今、見ることのできる形で彼の演奏を聴けたら…と思うこと自体が、無意味なことなのかも知れない。でも、やはりそれが邪道だとしても、夢と妄想は天駆けて、やはり一度指揮台上のフルトヴェングラーを垣間みたいのである。