1章 日本における東京の位置
1−1 東京の定義
『国勢調査』によると、1990(H.2)年における東京23区の昼間人口は1129万人である。このうち、都心3区(千代田区・中央区・港区)では267万人で、東京23区昼間人口の23.64%を占めている。が、常住人口となると東京23区は810万人で、都心3区にいたっては26万人(3.25%)でしかない(表1-1)。
「雑誌『フォーチュン』によると1985(S.60)年の世界の製造業売上高上位836社の本社所在地を見ると(略)、日本では147社中96社(65%)が、東京23区内に本社を置いている(日本経済新聞社編『東京プロブレム』P.18)。」また、「世界の銀行ランキング(資金量)500位以内の銀行本店所在地は(略)、都心3区は19行にのぼる(同上P.11)。」このように東京23区、特に都心3区は日本経済の中心とされている。
しかし、これらの経済を支えている人たちの多くは、都心3区に、ましてや東京23区に住んでいない。では、日本経済の中心地「東京」を支えている人たちはどこに住んでいるのか。彼らは、東京都市町村部のみならず、埼玉県・千葉県・神奈川県などの周辺地域に住んでいて、その地域は、依然拡大しつつある。また、経済拠点もこれらの地域を中心に拡大しつつある。
では、現在の行政的広がりである「東京都」とは噛み合わない、経済の中心地「東京」と言った場合、どこまでを「東京」として指しているのであろうか。この問いに答えを出すために「東京」が成立するまでの歴史を簡単に振り返ってみたい。
東京の前身は江戸である。江戸の成立には諸説考えられるが、発展を促したのは、徳川幕府である。徳川幕府の中央集権的な特別な封建制は、大名やその家族、そして家臣団を江戸に集住させた。
1867年、大政奉還がなされ、新政府が樹立された。この際、都をどこに定めるかが問題となった。が、最終的には明治新政府の為政者が、江戸幕府の全国支配機構をそのまま受け継ぎたいということで、東西両京併立という建前の元、江戸に移した。東京とはこの際に、「江戸ヲ称シテ東京ニセン」との詔勅で定められたとされる。
当時、東京の繁華街の中心は日本橋周辺だった。が、郊外と都心とを結ぶ交通網はなく、通勤現象というものはまだ生じていない。また、明治新政府が力を注いだ西欧文明の入り口は1872(M.5)年に開業した新橋駅であり、築地居住地であった。近代化の象徴・銀座煉瓦街は、1872(M.5)年2月の大火を機に、東京府知事由利公生によって計画されたものである。
当時日本の代表的な輸出製品は生糸であった。このため鉄道施設面で群馬県が優先された。上州や信州の生糸が鉄道で上野に運ばれ、荷車に積み換えられて新橋へ着くと、ふたたび列車で横浜まで運ばれる。そこから船積みされてアメリカやヨーロッパ諸国に輸出されたのである。この上野・新橋間は文字どおりの都心で建設コストがかさむため、しばらく手がつけられなかった。そこで都心を避け、バイパスのような形で貨物線が敷かれることになるが、これが山手線のおこりである。赤羽から板橋宿、新宿、渋谷を通って品川宿にいたる線で、品川線とよばれ、のちに山手線と呼ばれるようになる。もともと貨物輸送のためのバイパスだから、当時の山手線は旧江戸の市街地の外周部にあたる買収しやすいへんぴな場所が選ばれた。しかし、この山手線が東京の拡大・郊外化に重要な役割を果たすことになる。
江戸庶民の生活空間は都心から半径5キロくらいの徒歩空間だったが、鉄道馬車や路面電車が移動を便利にし、生活圏を拡大した。山手線周辺地域が東京への人口集中の受け皿となり、明治30年代に出現するサラリーマン層の主たる居住地になっていく。さらに明治末から大正末にかけて施設された山手線以遠の私鉄各線が山手線に接続され、新宿、渋谷、池袋、高田馬場といったターミナルが形成されていった。現在の東武、西武、小田急、東急、京浜急行、京成などの前身となった私鉄各線である。そして、関東大震災を機に大量の住民が郊外に移住したことが、それに拍車をかけた。
明治から大正にかけて東京は肥大し、伝統的な下町社会を崩壊させていった。そして、関東大震災は下町とその社会風俗を過去のものとした。つまり、震災後、下町と山の手というはっきりとした区別はなくなり、東京はのっぺりとした大都会になっていく。固有の地域性が消え去られ、機能重視の都市機能が蓄積され、たえず膨張し、周囲を蚕食していく東京の誕生である。
東京の拡大を吸収するかたちで、新宿、渋谷、池袋などのターミナルが繁栄していく。デパートが進出し、商店街、盛り場が形成され、にぎわいの絶えない地域となっていく。戦前、私鉄は山手線内に乗り入れできなかったことも、これらターミナルを繁栄させた要因となった。こうして東京は西へ西へと拡大して、こんにちにいたっているのである。
時代によって、状況によって、「東京」に対するイメージは定まらない。従って、「東京」という場合には、いくつにも定義の方法がある。ここでは7つ考えてみたい。
まず第1は、官庁の集中した都心3区(千代田区・中央区・港区)。常住人口は減少一途であるが、昼間人口は依然として高い水準を維持している。
第2は、1932(S.7)年10月1日以前の東京市にあたる旧15区である。現在の行政区分では、都心3区と新宿区・文京区・台東区・墨田区(一部)・江東区(一部)の8区にあたる。これらの地域では人口の推移に似たような動きがみられる。
第3は、都心3区に新宿区・文京区・台東区・渋谷区・豊島区を加えた都心8区だろう。旧15区と似ているが、都心8区にはターミナルを中心として商業施設の集積がみられる。そのため、旧15区とは別に定義する。
第4は、東京23区である。これは1932(S.7)年10月1日に設定された大東京市(35区)の範域で、1947(S.22)年に組み替えられた。行政区分、また統計資料などではよく東京として用いられる。
第5は、東京都である。1878(M.11)年7月、郡区町村制法によって定められた東京府の範域で、1943(S.18)年東京都とされた。国内全体での対比の時は,東京として用いられる。
第6は、東京圏である。これは、戦後拡大していった東京の人口その他の指標をわかり易くするため用いるもので、一般的には東京都の他に埼玉県・千葉県・神奈川県を含んだ地域をさす。
最後の第7は、首都圏である。これは東京圏同様、拡大していった東京の指標という面もあるが、拡がっていった東京をさらに広域的に整備する観点から地域が定められている。一般的には東京圏の他に茨城県・栃木県・群馬県・山梨県を含んだ地域をさす。
「東京」について論ずるこの文章では,「東京圏」を中心に扱いたい。
1−2 三大都市圏についての検討
日本国内での人口の配分を考えるために、国勢調査の都道府県人口を基に、北海道・東北、関東、中部、近畿、中国・四国、九州の6つのブロックに分けて考えたい。この際に時代を、1920(T.9)年から1940(S.15)年を第一期、1950(S.25)年から1975(S.50)年を第二期、1975(S.50)年から1995(H.7)を第三期とする。1940(S.15)年から1950(S.25)年は別扱いとし、特に1940(S.15)年から1947(S.22)年を戦争による混乱期と定める。
1920(T.9)年の地域毎の構成比率を多い順に並べると、中部の21.04%を筆頭として、関東(19.88%)、九州(15.60%)、北海道・東北(14.57%)、近畿(14.55%)、中国・四国(14.36%)となる。
第一期は全国的に5%を超える人口増加率を示しているが、特に関東は10%を超えていて、近畿も10%に近い増加率であった。しかし、他の地域は、全国の増加率を下回る増加率であるため、構成比率を下げていった。
混乱期においては、関東、近畿で人口が減少し、他地域で人口が増加した。特に近畿では10.09%も減少した。
第二期になると第一期同様な人口の動きがみられた。が、中国・四国は1955(S.30)年から、北海道・東北と九州とは1960(S.35)年から共に10年間人口減少がみられた。1975(S.50)年での人口構成比は、関東(29.34%)、中部(18.61%)、近畿(16.82%)、北海道・東北(13.02%)、九州(12.02%)、中国・四国(10.19%)の順となっている。
第三期は、関東を除く全ての地域で全国の増加率を下回っている。それどころか、1985(S.60)年から1990(H.2)年にかけては、北海道・東北(-0.18%)、中国・四国(-0.30%)、で人口減少を示しているにも関わらず、関東では4.78%の高い増加率を示している。。1995(H.7)年での人口構成比は、関東(31.47%)、中部(18.51%)、近畿(16.43%)、北海道・東北(12.36%)、九州(11.70%)、中国・四国(9.52%)の順となっている。
では次に、今までみてきた上位3つの地域の代表都市、東京23区・名古屋市・大阪市を中心に考えてみたい。各都市を中心とした周辺地域を、東京圏、名古屋圏、大阪圏とし、これらを三大都市圏とする。ここでは、東京圏を埼玉県・千葉県・東京都・神奈川県、名古屋圏を岐阜県・愛知県、大阪圏を京都府・大阪府・兵庫県と定義する。1920(T.9)年における全国に対する三大都市圏の構成比は30.40%で、東京圏が13.72%、名古屋圏が5.64%、大阪圏が11.04%となっている。
第一期では、三大都市圏全体が12%前後で増加し続けた。東京圏は13%前後、名古屋圏は8%台と、あまり大きな変動が無いまま増加した。大阪圏は1925(T.14)年と1935(S.10)年に、三大都市圏内人口構成比を上昇させる増加を見せた。
混乱期には、名古屋圏のみ人口が増加したのだが、大阪圏は三大都市圏内構成比を大きく減少させるほど、人口が減少した。
第二期においては全体で10%を超えて増加し続けたが、東京圏は15%前後で増加し続けた。そのため、名古屋圏・大阪圏の三大都市圏内構成比は減少する一方であった。1975(S.50)年における全国に対する三大都市圏の構成比は44.92%で、東京圏が24.16%、名古屋圏が6.76%、大阪圏が13.79%となっている。
第三期では、大阪圏の増加率が一貫して全国の増加率をも下回っていた。そのため、対全国構成比で、東京圏の増加、名古屋圏の微増、大阪圏の減少という構図がはっきりと見えている。1995(H.7)年における全国に対する三大都市圏の構成比は46.28%で、東京圏が25.94%、名古屋圏が6.94%、大阪圏が13.40%となっている。
最後に、東京圏と首都圏との関係にあたるように、名古屋圏に中京圏、大阪圏に近畿圏を設定し、これら3つを広域三大都市圏と定義し、比較したい。ここでは、首都圏は東京圏に茨城県・栃木県・群馬県・山梨県を、中京圏は名古屋圏に三重県を、近畿圏は大阪圏に滋賀県・奈良県・和歌山県を加えた範域とする。1920(T.9)年における全国に対する広域三大都市圏の構成比は43.04%で、首都圏が20.93%、中京圏が7.56%、近畿圏が14.55%となっている。
第一期では、首都圏・近畿圏共に、広域圏内での比率を微増さている。また、三大都市圏との人口増減率から推察するに、三大都市圏から広域圏への郊外化はみられない。
混乱期には、近畿圏のみ減少している。三大都市圏とのつながりから考えて、東京圏から首都圏の動きに対し、大阪圏から圏外(他地域)という動きが考えられる。
第二期では、三大都市圏時と同様、首都圏の増加率が高く推移している。ところが、近畿圏が1960(S.35)年から1965(S.40)年にかけて広域圏内構成比を横這いにさせてきたことから、他地域より早く郊外化が始まったことが読みとれる。1975(S.50)年における全国に対する広域圏の構成比は55.27%で、首都圏が30.04%、中京圏が8.41%、近畿圏が16.82%となっている。
第三期には、三大都市圏同様近畿圏で、全国の増減率を下回る増加率が読みとれる。郊外化については、近畿圏は20年間を通して、また首都圏は1975(S.50)年から1980(S.55)年と1990(H.2)年から1995(H.7)年に、中京圏は1980(S.55)年から1985(S.60)年にはっきりとみられる。が、首都圏・中京圏においても東京圏と首都圏、名古屋圏と中京圏の増減率の間に大きな差はみられないので、郊外化が無いとも言い切れない。1995(H.7)年における全国に対する広域圏の構成比は57.21%で、首都圏が32.17%、中京圏が8.61%、近畿圏が16.43%となっている。
1−3 東京と大阪との対比と、まとめ
東京と大阪を人口で比較した場合、東京の比率が上昇しつづけた。
三大都市圏の全国に占める人口の割合が、1947(S.22)年を挟んで、4回近い数字をあらわした。その際、三大都市圏内構成比で比べると、1920(T.9)年で東京圏45.13%対大阪圏36.30%だったのが、1947(S.22)年で47.43%対33.74%。1925(T.14)年で45.66%対36.34%だったのが、1950(S.25)年で48.51%対33.45%。1930(S.5)年で46.48%対36.13%だったのが、1955(S.30)年で49.99%対32.98%。1940(S.15)年で47.45%対36.29%だったのが、1960(S.35)年で51.10%対32.62%。いずれの両者を比べても、後年の大阪圏人口比率のほうが、前年のものより小さくなっている。
また、第2期においては、大阪圏も平均11.60%と高い伸び率を見せたのだが、東京圏が平均15.45%という驚異的な増加率で推移したため、三大都市圏全体も平均13.05%で増加し、大阪圏は構成比を下げていってしまった。
第3期においては、全国的に出生率の低下が見られ、東京圏も平均4.78%だったが、大阪圏はもっと低く平均1.77%であった。背景として、大阪の製造業の郊外化や本社機能の東京集積などの要因が考えられる。また、1975(S.50)年山陽新幹線全線開業によって、大阪が通過されていったことも考えられる。この時期になると、人口構成の下げ止まりを見せた名古屋のように、今後の大阪にも人口構成で上昇してもらいたい。
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1998(Webup2005)