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新日本出版社
要約:岡林信一
序文
「人間たちは、これまでいつも、自分自身について、自分たちが何であるか、あるいはなにであるべきかについて、ま
ちがった諸観念をつくってきた」
→ドイツ観念論哲学への批判
<一>
・すべての人類史の第一の前提:生きた人間的諸個人の存在(pp.17-18.)
確認されるべき第一の事実:これら個人の身体的組織と自然に対する彼らの関係
人間自身は、生活手段を生産しはじめるやいなや、みずからを動物から区別し始める。
・これら(ドイツ観念論)の哲学者のだれもが、ドイツ哲学とドイツの現実との関連について、ドイツ哲学の批判とドイツ
哲学自身の物質的環境との関連について、問うことを思いつかなかった(pp.21-22.)。
・様々な諸国民相互間の諸関連は、それらの国民の各々がその生産諸力、分業、内部的交 通をどの程度発展さ
せたかに依存する(p.22-23.)。
農業労働からの工業労働と商業労働の分離→都市と農村の分離・利害対立→工業労働からの商業労働の分離
→各分野内部の分業
分業のそのつどの段階は、労働の材料、用具、産物との関連における諸個人相互の諸関 係をも規定する(部族
所有、古代的な共同体所有・国家所有、封建的・身分的所有)。
・特定のやり方で生産的に働いている特定の諸個人は、これらの特定の社会的、政治的な諸関係を結ぶ(p.26.)。
諸思想、諸観念、意識の生産は、さしあたり直接に、人間たちの物質的な活動と物質邸な交通=現実的生活の言
語の中へ編み込まれている。人間たちの観念作用・思考作用=精神的交通は、ここではまだ彼らの物質的振る舞 いの直接的な流出として現れる(pp.2 6-27)。
道徳、宗教、形而上学、その他のイデオロギー、これらに照応する意識諸形態は、独立しているという外観をこれ以
上保てない。これらが歴史をもったり、それらが発展をもったりするのではなくて、自分の物質的生産と自分の物質的 交通を発展させる人間たちが、この彼らの現実とともに、彼らの思考と彼らの思考の諸産物をも変えるのである。
意識が生活を規定するのではなくて、生活が意識を規定する(pp.27-28.)。
<二>
・「解放」は歴史的な事業であって、思想の事業ではない(p.30.)。
フォイエルバッハの感性的世界の「把握」は、一方では、それの単なる直感に、他方では単なる感覚に限られてお
り、「現実的で、歴史的な人間」のかわりに「人間というもの」を置く(p.31.)。
・分業の発展
性行為における分業→自然的素質(たとえば体力)、諸欲求、偶然などによってひとりでに、あるいは「自然成長的
に」生じる分業→物質的労働と精神労働との分割
この瞬間から、意識は、現存する実践の意識とは何か異なるものであるかのように、何か現実的なものを思い浮か
べることなしに現実的に何かあるものを思い浮かべるかのように、実際思いこむことが出来る(pp.39-40.)。
・個々人または個々の家族の利害と共同的利害との矛盾
人間たちが自然成長的な社会にある限り、したがって、活動が自由意志にではなく自然成長的に分割されている
限り、人間自身の行為が、彼にとって、疎遠な対立する力となり、彼がこの力を支配するのではなく、この力が彼を 抑えつけるという事である(p.45.)
・分業の廃止
各人が活動の排他的な領域をもつのではなく、むしろそれぞれの任意の部門で自分を発達させることが出来る共
産主義社会においては、社会が全般的生産を規制し、そして、まさにそのことによって私は、今日はこれをし、明日 はあれをするということができるようになり、狩人、漁師、牧人、あるいは批判家になることなしに、私がまさに好きな ように、朝には狩りをし、午後には釣りをし、夕方には牧畜を営み、そして食後には批判をするということができるよう になる(p.45.)。
・世界史の展開とは
「自己意識」、世界精神あるいはほかの形而上学的妖怪の単なる抽象的な行為などというものではなくて、まった
くの物質的な、経験的に証明できる行為、あるがままの、食べたり、飲んだり、衣服を着たりするような各個人がそ の証拠を提供する行為である(p.48.)。
・共産主義革命
革命が必要なのは、支配階級が他のどんなやり方でも打倒され得ないからけではなくて、打倒する階級が、革命
のなかでだけ、すべての旧い汚れをとりさり、そして社会を新たに築く能力を持つようになるところにまで、達しうるか らでもある(p.50.)。
◎マルクスのメモ
・普遍的交通による局地的共産主義の廃棄
共産主義は、経験的には、ただ支配的諸国民の事業として「一度に」かつ同時に可能なのであり、そのことは、生
産諸力の普遍的発展とそれに結びついた世界交通を前提とする。
・現実的運動としての共産主義
共産主義は、われわれにとって、つくりだされるべき状態、現実がしたがわなければならない理想ではない。われ
われが共産主義と呼ぶのは、現在の状態を廃棄する現実的運動である。この運動の諸条件は、いま現存する前提 から生じる。
<三>
・支配的階級の諸思想は、どの時代でも、支配的諸思想である。
社会の支配的な物質的力である階級は、同時にその社会の支配的な精神的力である。物質的生産のための諸手
段を自由にできる階級は、それとともに精神的生産のための諸手段を意のままにするのであるから、それとともに、 精神的生産のための諸手段を欠いている人々の諸思想は、概してこの階級の支配下にある。支配的な物質的諸関 係の観念的表現(p.59.)。例えば、諸権力の分割(三権分立)
・自由、平等
自分より先に支配していた階級に取って替わるどの新しい階級も、その目的を遂行する ためだけでも、その利害
を社会の全成員の共通の利害としてしめさざるを得ない、すな わち、観念的表現すれば、その諸思想に普遍性の 形式を与え、それらの思想をただひと つ理性的で、普遍妥当的な諸思想としてしめさざるを得ない(p.61.)。
・日常生活では、どんな小売商人でも、ある人が自分はこうであると称するところと、彼 が実際にそうであるところと
を非常によく区別することができるのに、われわれの歴史 記述は、まだこのありきたりの認識に達したことがない。 その歴史記述は、それぞれの 時代がそれ自身について語り、思い描いていることを、その言葉通りに信じる(pp.63 - 64.)。
<四>
・生産諸力と交通形態とのこの矛盾は、諸衝突の総体、様々な階級の諸衝突、意識の矛盾、 思想闘争、政治闘争
などといった、様々な副次的形態をとった(p.81.)。
・分業の廃止→共同社会の実現
共同社会においてはじめて、各個人にとって、彼の諸素質をあらゆる方面へ発展させる諸手段が存在するのであ
り、共同社会においてはじめて人格的自由が可能になる。共同社会のこれまでの代用物=国家などにおいては、人 格的自由は、支配階級の諸関係のなかで育成された諸個人にとってだけ、そして、彼らがこの階級の諸個人であっ た限りでだけ、存在した。・・・真の共同社会においては、諸個人は、彼らのアソシエーションのなかで、またアソシエ ーションをとおして、同時に彼らの自由を獲得する(p.85.)。
・革命的プロレタリアたちの共同体の場合には、共同体に諸個人が諸個人として参加する。
諸個人の自由な発展と運動の諸条件をその制御のもとにおく諸個人の結合(p.pp.88-89.)
・共産主義がこれまでの運動から区別されるのは、それが、これまでの全ての生産諸関係 とりわけ交通諸関係の
基礎をくつがえし、すべての自然成長的な前提を、はじめて意識的にこれまでの人間たちの所産として取り扱い、そ れらの前提の自然成長性をはぎ取り、そして、結合した諸個人の力に服させる点においてである(p.89.)。
・法律は、意志に、しかも、それの現実的土台から引き離された意志である自由な意志にもとづくかのような幻想が
生ずる(pp.101-102.)。
◎市民社会概念
「これまでのすべての歴史的段階に存在した生産諸力によって条件づけられ、またそれを再び条件づける交通形
態は、市民社会であり、・・・。この市民社会があらゆる歴史の真のかまどであり舞台であるということ、また、現実的 諸関係を無視し、大げさな政治劇に限定されたこれまでの歴史観がいかにばかげたことかということである。」(pp.46 -47.)
「この歴史把握は、次のことに基づいている。すなわち、それは、現実的な生産過程を、しかも直接的生活の物質
的生産から出発して展開すること、しかも直接的生活の物質的生産から出発して展開すること、そして、この生産様 式と結びつき、それによって生み出された交通形態を、したがって市民社会をその様々な段階において歴史全体の 基礎として捉えること、そして、市民社会を国家としてのその行動においてしめし、かつ、宗教、哲学、道徳などという 意識の全ての様々な理論的な産出物と形態を、市民社会から説明し、それらの成立過程をそれらから後づけること であり・・・。」(pp.50-51.)
「市民社会は、生産諸力の一定の発展段階の内部における諸個人の物質的交通全体を包括する。それは、ある
段階の商業的および工業的な生活全体を包括し、その限りで国家と国民を超える。・・・・市民社会という言葉は、所 有諸関係がすでに古代的および中世的な共同体から抜け出していた18世紀に現れた。市民社会としての市民社会 は、ようやくブルジョワジーとともに発展するが、しかし、あらゆる時代に国家およびその他の観念論的上部構造の土 台をなしていて、生産および交通から直接に発展する社会的組織は、たえず同じ名前で呼ばれてきた。」(p.100.)
「国家は、支配階級の諸個人が彼らの共通の諸利害を貫徹し、ある時代の市民社会全体が
総括される形態」(p.101.)
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