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  D  7月21日 カンブリア地方、グラスミア/ワーズワース博物館

ここはカンブリア地方、アノマノカリス(シャコエビの足のような物が、お腹の辺りでヘラヘラして泳いでいるのみたいなの=テレビで見て驚きました)5億5000万年前、カンブリア紀の海に異変が起こった。単純で原始的だった動物たちに、爆発的な進化が起こった。
動物たちは、その数と種類を急激に、そして大はばにふやしました。ほんの1000万年ほどの短い時間のなかで、現在私たちが目にすることのできる、ほとんどすべての動物グループが出そろったと言われている。
それだけでなく、ほかの時代には見出すことのできない奇妙な姿のさまざまな動物たちも、この時代に大量に生み出されていたのです。このカンブリア紀の動物たちの爆発的な進化は、「カンブリア紀の大爆発」または「カンブリア爆発」と呼ばれています。当時の動物たちは、カナダのバージェス頁岩層や中国の澄江層から、化石となって発見されている。(イギリスのウエールズ地方の古い呼び名「カンブリア」からその名前がつきました)
6:55
グラスミア ワーズワースホテルの素晴らしい朝 朝食前に村を散策
7:01
「コブルストーン」 優しいグレー色のコブルストーンです。 石畳となります。
「カンブリアスレート」 湖水地方で採れるブルーグレー色の天然スレート瓦です。
ホテルのマダムに10ポンド、小銭に替えていただく。5ポンド札入っても良いわよ、と言ったけれど「OK]とホテルの小銭箱殆ど空になった。出かけるときマダムは5ポンド札で「小銭頂戴」と。私は勿論OK。
「カンブリアストーン」 同じく湖水地方で採れる石材です。
これは、写真のような平石をモルタルなしで積んで,一番上に「コピーングストーン」という笠石を縦に並べて乗せます。(日本では建築許可がおりません)   
8:23
ホテルのロビー
ワーズワースホテルの玄関
「The grasmere gingerbread shop」(グラスミア ジンジャーブレッドショップ)150年前から伝わる秘伝のレシピで今も作られているジンジャーブレッドです。店は9:00からしか開きません。それでワーズワース博物館へ行く時、大きいのと小さい包みを買いました。
飴のような硬い生地に、いろんな物がまぶしてあって、割ってから食べてください。
粉が飛ばないため。
墓の向こうはロセイ川 ホテルの隣の墓、ケルトのお墓、写真でしか見た事が無かった。ようやく実物に辿り着いた。

ドルメンとはテーブル状に丸石を載せた古代の墓と言われているもの、これは各地にあって日本にもある。
 
ワーズワースの墓 ワーズワースと妻メアリー、妹ドロシーが眠る
セント・オズワルズ教会の裏にワーズワースのお墓があります ワーズワーズの名前とサインをそのままとったロッジ風のホテルである。 ワーズワーズがこよなく愛したグラスミア村の中心、グラスミア湖に注ぐ清涼なロセイ川に沿ったところにある。ホテルの隣の墓地には、詩人がその妻と眠る質素な墓がある。
  
                     
ダヴ・コテージ&ワーズワース博物館のショップとチケット売り場
ワーズワースホテルの朝食、メニューは、この辺の定番となっている
  
                            
本屋さん ヒートン・コッパー・スタジオ
     
                           斜め格子のガラス窓
ダヴ・コテージ ダヴ・コテージのお姉さんと一緒に撮影。

●ワーズワース

 1770〜1850 イギリスの大ロマン派を代表する詩人。イングランド北西部の“湖水地方”として有名な美しい風景の丘陵地帯、カンバーランドのコッカーマスに生まれた。
この湖沼地方の自然が彼を育て,彼の詩のなかに生き続け彼の救いとなった。
父は地主の訴訟代理人兼地代取立人であり、母は町の商家の出。
兄が一人、すぐ下に妹ドロシー(1771〜1855)、その下に弟二人がいたがドロシーは詩人と年子であり、また一番長生きをして生涯兄の身近で彼を支えた。
詩人が数え年8歳のとき母が、13歳のとき父が貧窮のうちに死んだために、兄妹は親戚や知人に別々に預けられた。
ワーズワースがケンブリッジのシンジャン=カレッジに在学中にフランス大革命が起こり、在学中と卒業後と二度フランスに渡り、革命の輝しい理想に若い情熱を燃え上がらせた。
そのころ,1792年22歳のときに、ブロワの外科医の娘で25歳のアネット=バロン(1766〜1841)と恋に落ち、その年のうちにキャロラインという娘をもうけた。
だが恐怖政治が進み、イギリス・フランスが交戦状態になり、詩人は革命への大きな幻滅と、アネット母子との生き別れの苦悩をなめねばならなかった。
そのとき彼の魂を救ったのがイングランドの故郷の田園であり、妹のドロシーであり、親友の詩人コールリッジであった。
彼は田園に住みながら、コールリッジとの共編で『抒情民謡集』(1798)を初め,ルーシーという名の娘を主題にした何篇かの珠玉の小篇のバラッドや、『テインターン修道院』『霊魂の不滅を思う歌』、そして半生の自伝を素材にした瞑想詩の大作『序曲』(1805)を著した。
これらはみな1810年ごろまでに書かれたものである。
1843年ロバート=サウジー(1774〜1843)の後を受けて桂冠詩人となった。なお妹のドロシーの日記(“Journals of Dorothy Wordsworth”2vols, 1941)はワーズワースを知る上で大事な、そして興味深いものである。

〔参考文献〕加納秀夫『ワーズワース』新英米文学評伝叢書 1955、研究社加納秀夫『英国ロマン派の詩と想像力』1978、研究社

「ダヴ・コテージ」
ワーズワースが1799年から1808年にかけてワーズワースが創作活動に励んだ家。
ダヴ・コテージは、17世紀初め「ダ・ダヴ・アンド・オリーヴ」という名の宿屋として建てられたものらしい。
この地方独特の建材を使用。石壁、スレート屋根、石の組み合わせ煙突、ちいさな格子の小窓が、
ここは9:30分オープンですが、まず外で待つグループ。そして一番目の部屋で説明を受けるグループ、二番目の部屋で一グループ、そして二階へ。グループ単位で動いていくのです。もちろん撮影禁止。二階へ行くのはやめました。

ワーズワースは国語の教科書で習ったはずなんだけど、思い出せない・・・・のは。
思い出した・・・・詩が英文だったから。

この頃は、小泉首相と同じで、ラブミーテンダー、ブルーハワイ他、英語で歌っていたのに・・・・プレスリーが若くて美しく、恥ずかしげな瞳がチャーミングだった頃。
色違いのアザミ
アザミと西洋松虫草


 
この後、ダブ・コテージの前から「ワーズワースの散歩道」45分のウォーキングをお楽しみください。 と、旅程表に書いてあった。
散歩道は広い道と思い込んでしまっていた。
最初は広い道であった。
ところがだんだん狭くなって石がたがたの人一人しか通れない上り下りで、車椅子は使えない。おっちゃんは車椅子を引っ張り上げ下げ、悪戦苦闘しながら、私のバランスを支えている。
引き帰せない、もう行くしかない。その時私の腕を支えてくださった女性の方がいた。又もう一人の方も。
  「神様だ! 神様だ!・・・・・」    
      切に、こんなに困った事はなかった。山道なんだから。
  「神様に、おすがりした・・・・」 お二人は両方から腕を支えてくださって、大きな石をどけたり、歩きやすい道を見つけてくださって何とか「ライダル・マウント」に辿り着けた。
  「お二人さん、本当に有難う」 

この山ですれ違った人々は、ハイキングの格好をしていてここはハイキングコースなのだ。ガイドは、がたがた道や、じくじく道があると説明したが、車椅子が使えない狭い道だとは、言わなかった。

今まで、どんな坂道でも、二人でやってきた。
今回は、私達の手に余る事になってしまった。
私の「神様達」、お世話になりました
グラスミア湖を望む
ワーズワースが晩年住んだ、ライダルマウントの家
ライダル・マウント(大きな家に住むようになりました)

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