2003.11.15-2004.01.31 Vol.25-30  カストラートについて(1)〜(6)
About "Castrato"
■バロックオペラなどに多く見られるカウンターテナーの諸役は、嘗てはカストラートと呼ばれる男性の去勢歌手によって歌われていたものが多く含まれます。現在では人道的な見地からもこのカストラートは存在しませんが、当時は絶対的な人気と権勢を誇った存在でした。今回から数回(?)に分けてこの幻の声”カストラート”に関して調べています。第1回はその背景となった誕生に関する歴史的要因についてまとめてみましょう。

■去勢の起源
去勢と言う行為の歴史的起源は大変に古く、もともとは戦いに勝利した部族によって、敗れた部族の男性捕虜の生殖能力を奪い子孫を残さないようにするために始められたとされる。最も古くからこの行為を行っていたのはペルシア人と推測されているが、ギリシア・ローマに於いてもアジア・アフリカの去勢奴隷を売買し、その従順さを利用して過酷な労働につけていたようである。また、この去勢に関しては聖書にも記述が見られる(『申命記』(23・1))。この様な去勢手術に関して、キリスト教会は紀元後になって厳しい戒めを行うようになるが、実際は東ローマ帝国内の要職には去勢者が多く存在していた。

■最初の去勢歌手

アラブの社会ではこの去勢は、ハーレムを中心に定着しており、彼らの役目はハーレムの寝所番であった。オスマン・トルコに於いては、コンスタンティノーブルの後宮に膨大な人数の宦官を擁しており、12世紀の教会法学者テオドーロス・バルサモンの記述によるとコンスタンティノーブル陥落の頃には公然と教会において去勢歌手を用いていたとされ、これが最初の例と考えられている。

■音楽のための去勢

去勢が不道徳でその起源が非人道的な行為であったことは事実としても実際にヨーロッパに於いても様々な形で行われていたことは間違いが無い。その目的は、拷問や刑罰といったものから病気の治療(特にヘルニアの治療に効果あるとされ、これがカストラートを持つ家族の世間的な言い訳にされた。)まで様々であった。実際、もっぱら音楽を目的に行われたのは、スペインにおいてである。12世紀頃にモサラべ文化によってもたらされたカストラートは、次第にスペインのカトリックの典礼においてその地位を確立し16世紀には頂点に達する。イタリア人の公式なカストラート歌手の登場は1599年の教皇聖歌隊メンバーのピエトロ・パオロ・フォリニャーティとジローラ・ロジーニとされる。しかし、ロジーニにおいては正式に認められたのは1601年以降である。これは、当時権勢を持っていたスペイン人によって妨害を受けたためであるが、クレメンス8世の力によって彼は確固たる地位を得ることになる。フォリニャーティとロジーニを迎えたローマ教皇は、それまでのファルセット歌手をソプラノから追放した。更に、彼ら二人の後にもフランス人やスペイン人のカストラートを迎え、1622年には伝説的なカストラート歌手、ロレート・ヴィトーリを加える。この様に当時のローマ教会は、去勢という行為を非難しながらも、次々に有能なカストラートを身内に加える矛盾を行っていた。

■去勢手術の実情

公に去勢手術をすれば、下手をすると教会から破門されてしまう、勿論、正当な理由があれば認められもしようが、子供を歌手にしたいからという理由は正当とは言いがたい。したがって正当とは言いがたい去勢手術をする場所(もっともそれなりに正当性を持たせようと勤めるが・・・)は都会の大病院というわけにはいかなかった。例えばそういった手術は町の床屋で行われた。この当時は床屋と言うのは外科的な手術や歯科医のような仕事を行っていた。しかし当然、器具や衛生状態など良かろう筈も無いし、医師が執刀するわけでもないからリスクは極めて高く、死亡者も多く出た。

■イタリアにおけるカストラート

17世紀に入ってイタリアに広まり始めた去勢手術は18世紀に頂点を極める。クレメンス8世は「神の栄光を讃える」ための去勢を許可した。これによって教会が主導する形で広まっていく。また、間接的ながら、教皇領内の劇場の舞台に女性をあげることを禁じたインノケンティウス11世の布告があった。クレメンス8世のように一端、カストラートの声を聴いてしまった聴衆の熱狂は凄まじいものがあった。したがってこれを見た男児をも親たちは息子の将来と自分達の老後を考えて去勢手術を受けさせようとするものまで現れてくる。実際、カストラートを目指す子供の家庭は極めて貧しい場合が殆どである。去勢手術は7歳以前に行ってはならないし、表面上は子供が自発的に意志を示さなければならないとされていた。この自発的というのが欺瞞であり、わずか7歳ほどの子供が将来のことまで考えて手術を受ける決心ができたとは思えない。一部にはそういう子供がいたかもしれないが、一般的には将来の心理的・肉体的な葛藤を予見できようはずもなく、それが長じて親に対する深い憎しみになるケースを生んだ。

■成功への第一歩

一端、手術を行った子供が音楽の世界で成功するためには、幾つかの道があった。しかし、彼らはこの段階ではあくまでも可能性の卵であって成功するもしないも未だまったく未知の状態である。成功への道の一つは、各国の宮廷などに迎え入れられる道である。この頃には各宮廷はこのカストラートを得ようと躍起になっていた。第二の道はブローカーとの契約である。このブローカーは有名な音楽院などに契約者の子供を斡旋して利得を得ておりイタリア全土にブラックマーケットが存在していたようである。最後の道は、子供自身が音楽院の院長あてに入学願書を書くという道である。当時の音楽院への入学は赤貧の子供を優先していたために、彼らはいかに自分が貧しいかを切々と訴える必要があった。しかし、カストラートはその商品的価値から比較的有利な立場にあったようである。

■当時の音楽院

当時のイタリアに於ける音楽教育の中心地はナポリである。このナポリには16世紀に4つの音楽院が存在していた。
学院名
設立
制服
サンタ・マリア・ディ・ロレート音楽院 1537年 白の通常服・祭服
ピエタ・ディ・トゥルキーニ音楽院 1584年 トゥルキーニ色(ターコイズ)の通常服・祭服
イエス・キリスト貧者音楽院 1589年 赤い通常服・青の祭服
サン・トノフリオ・ア・カプアーナ音楽院 1600年 白の通常服・ベージュの祭服

これらの音楽院での生活は過酷なものであったし、その環境が必ずしもベストのものであったかどうか疑問の余地もあり議論の対象になっているが、その中でもやはりカストラート達は比較的優遇されていた(最も、反面商品価値が下がらないように厳しい監督下に置かれているといった側面はあるが)。この環境下で彼らは厳格な音楽教育を受け、さらに院外活動においてそれを発表する機会を持った。院外での活動の一つは礼拝行進や葬儀、宗教劇への出演などであり、イエス・キリスト貧者音楽院の定例行事となったバッタリーニは感動的な催しであったという。また、このほかには、サン・カルロ王立劇場での合唱などがあったが、これは各音楽院の学院長が世俗との交流によって規律が乱れる事を嫌う傾向があったなるべくなら避ける傾向が強かった。

■音楽院におけるカストラート教育

前述したようにカストラートは他の学生に比べて相当に優遇されていた。またその期間は6年から10年にも及んだ。その期間に絶え間なく施された教育と訓練は主に呼吸法に重点が置かれたものであった。この呼吸法の修練こそが、カストラートの驚異的な声の基礎となった。また、この基礎の上に各種の装飾技法が施される。走狗、連続トリル、メッサ・ディ・ヴォーチェ、アジリタ・マルテッラータ、ゴルゲッジオ、モルデント、アッポジャトゥーラなどの技巧を完璧なまでに身に付けられるように日々訓練を重ねた。しかし、実際は全てのカストラートを目指す子供達がこれを習得し得るはずも無かったし、肉体的な変化によってこの道を断念せざるを得ない不幸な結果もあった。彼らは去勢の効果が期待通りに現れず、声に変化をきたし、カストラートソプラノやコントラルトになる事を断念し何らかの器楽演奏の道を探らざるを得なくなった。

■一部の成功者
4つのナポリの音楽院以外にも幾つかの著名な音楽院はイタリア中に散在していたが、ここで学んだカストラート達が皆、栄光を掴んだかと言うと決してそんなことは無かった。当時はペストが大流行したし、去勢の影響が悪影響となって思うような声を得ることが出来なかったカストラート達も多く存在した。学院は彼らに別の道(器楽奏者など)を目指すように指導しようとしたが、彼らの払った代償は余りに大きなものであった。また、学業を全うできたとしても、その上位に立てるのはほぼ1割程度の極限られたもの達であった。彼らは国内外の劇場や宮廷に雇われた。

■彼らの呼び名

カストラートに限らないが、当時の人気歌手はニックネームを持っているのが普通であった。それは、彼らが演じた役の名前であったり、出身地であったり、または彼らの師の名にちなんだものであったりした。名づけるのは彼ら自身であったり、観客であったりしたが彼らはことのほかこのネックネームを大切に愛したようで生涯にわたって使用した。勿論、中には意にそぐわないニックネームを付けられる者もいたが、大概は親しみを込めて名づけられる場合が多かった。
本名
愛称
由来
ジョヴァンニ・カレスティーニ クザニーノ 庇護者の名
ガエタノ・マヨラーノ カッファレッリ 師の名
カルロ・ブロツキ ファリネッリ 師の名
マテオ・サッサーノ マテウッチォ 観客
ジュゼッペ・アッピアーノ アッピアニーノ 観客
フランチェスコ・ベルナルディ セネジーノ 出生地
ドメニコ・チェッキ コルトーナ 出生地
トマンゾ・イングリラーミ フェードラ 役名
フランチェスコ・グロッシ シファーチェ 役名

■デビュー
一般的に彼らのデビューは驚くほど若い、12歳でデビューしたニコリーノを始め20歳以前でデビューすることが当たり前であった。彼らは舞台に上がる前には必ず教会でのデビューを終えていて、舞台でのデビューはその直後ということが多かった。デビューは女性役で行われ、徐々にキャリアを積んで英雄役を手に入れるプロセスを踏むことになる。彼らにとっての重要な土地としてはローマがまずあげられる。ローマは当時、1世紀以上も女性歌手が舞台に上がる事を禁じていた土地で、ここでの女性役に彼らは必要不可欠な存在であった。実際、カッファレッリなど多くのカストラートがこの地でデビューした。勿論、ナポリやヴェネツィアでデビューしたカストラートも多くいた。ファリネッリはナポリのトレッラ公の館でのメタスタージオの『アンジェリーカとメドーロ』で華々しいデビュー飾った。

■カストラートの声と技巧
カストラートの声は女性の歌うソプラノやコントラルトとどう違ったのか、また彼らの演じた役柄をどうして女性が歌わなかったのか、その疑問は当然におこるが、前述の女性が舞台に立つ事を制約されていたという事実以外にも、カストラート自身の持つ声の魅力が、女性歌手には決してないものであったことが考えられる。彼らの卓越した技巧と声に対する要求は、作曲者・観客そして彼ら自身から際限なく広がっていった。声域的に見れば『アトランティスの宮殿』(ルイージ・ロッシ1642年)での例外的な3点ハを除いては、ソプラノが2点トまで、アルトでは2点ハあたりまでであった。それが17世紀中頃にはソプラノで2点イ、アルトガ2点ホに及び始める。さらにこの傾向は加速して、ファリネッリなどは3点ニまで、ドメニコ・アンニバリに至っては3点ヘまで出すことが出来たという。技巧的にはどういった特徴を持っていたかというと、それは『スピッカートの技巧』と呼ばれ、音階を急激に上下させて、2番目の音を何度か繰り返す「アジリタ・マルテッラータ」やある音をピアニッシモで始め、だんだんと音を大きくして最大になると今度は徐々に声を弱め、最後には吐息で終わらせる「メッサ・ディ・ヴォーチェ」などである。そして、これらの基本的な技巧に更に装飾的なヴァリエーションが加わることになる。このように装飾が多彩になった原因の一つは、17世紀後半に発達したアリア(3部構成)の存在があげられる。A−B−Aの形で作られたアリアは、2回目のAでは単純に最初のAを繰り返すのではなく、そこに装飾を加えたものにすることが盛んに行われた。また、彼らはそれぞれ『アリア・ディ・バウレ』と呼ばれる、自分のお得意のアリアを持っていた。これは極端な話、オペラの筋に関係なく差し挟まれることがあった。しかし、この空虚な技巧の誇示は18世紀後半になると陰を潜めるようになる。そして、繊細さや役に対する理解などに重点が置かれるようになる。このいわば声楽の再生とも言える時代の動きはパッキアロッティやガエタノ・グアダーニらの歌手とヘンデルやグルックなどの作曲家によって指導され『メサイア』やオペラ再興のきっかけとなる『オルフェオとエウリディーチェ』を生み出すことになる。

■カストラートの役と曲

カストラートに与えられた役柄というのは、先述のデビュー間もない女性役を別にすると、カサエル、スキピオ、アレクサンドロスなどの所謂英雄に多く見られる。また、作品には定数があり、それは基本的にソプラノとコントラルトを中心に作られていた。
作品の定数
歌手
内容
プリモ・ウオーモ(主役カストラート)
悲壮なアリア、アリア・カンタービレ、アリア・パルランテ、アリア・ディ・メッツォ・カラッテーレ、ヴラヴーラ
プリマドンナ(主役女性歌手)
悲壮なアリア、アリア・カンタービレ、アリア・パルランテ、アリア・ディ・メッツォ・カラッテーレ、ヴラヴーラ
主役テノール
悲壮なアリア、アリア・カンタービレ、アリア・パルランテ、アリア・ディ・メッツォ・カラッテーレ、ヴラヴーラ
脇役カストラート
脇役女性歌手
その他の歌手

更にこれらに加え、興行主や歌手自身が曲を追加することを要求したり、登場のシュチュエーションを要求したり、中には荒唐無稽に寝室に馬に乗って登場することを要求するカストラートも現れた。


■熱狂

当時のイタリアなどの国に於けるカストラートに対する女性の熱狂については想像を絶するものがあったようである。この点において冷静だったのはフランスぐらいなもので殆ど集団的なヒステリー状態と言っても良かった。勿論、彼らに魅せられたのは女性ばかりではないが、特に際限なく熱中を示したのは貴族階級の貴婦人達であった。そして彼らの間には様々な恋愛秘話が後世に伝えられている。その中には滑稽なものから正に悲劇的なものまで様々で真偽の程はともかく、この様に人づてに噂話が残されていること自体、彼らの挙動が人々の関心を集めていたことの証左と言える。

■カストラートの性

生殖機能を失った彼らカストラートではあるが、去勢していない男性に比べれば劣っていたとは言え、性欲は正常にあったし、性行為は正常に営むことが出来た。むしろこのことは当時の女性に関して言えばリスクの無いお遊びには好都合であった。カストラートの相手となったのは、いわゆる貴族階級の貴婦人で、これにはそれなりに必然性がある。カストラートは貴族の邸宅や宮廷に招かれてその声を披露する機会が相当に多かった。彼らはそこで政略結婚やら倦怠期に沈んだ貴婦人達に純粋な恋愛の喜びを与えうる存在となった。中には真摯な愛を育み結婚にまで至る例もあったが、これらの結婚は当時の社会的な理解を得ることは難しく、障害の多いものであった。また、彼らは多くの貴族や高位聖職者に囲われていたので、同性愛の噂は多く囁かれた。性交渉の有無はともかく彼らが見た目も美しく着飾ったカストラートたちに言い寄った例はいくつも見られる。この時期には確かに女装や男装が流行していたとは言え、カストラートのそれは度を過ぎたものが多く、服装はともかく立ち居振る舞いまで女性化してくる者も多くいたようで、それが前述のような風聞を呼び、社会風紀の乱れを怖れる良識人のまゆをひそめさせていた。

■ライバル

絶対的な人気を誇った彼らカストラートのライバルとは一体誰であったのか?テノールやバスなどの男声歌手が彼らに抗しえなかったことは間違いが無い。そうなると彼らのライバルは彼らカストラート自身と劇場のもう一つの華女性主演歌手プリマドンナであった。それまでの女性歌手は環境的にも恵まれない時期が長く、とてもカストラートたちに対抗できる人気や実力を持っていなかった。実際彼らが火花を散らして声の競演を行ったのは18世紀に入ってからでメリギ、クッツオーニ、ボルドーニ、テージなどの傑出した女性歌手が登場してからである。しかし、当時の女性歌手は気まぐれや傲慢さが目立つことも多く、確固たる人気を確保していたカストラートの地位を脅かすには至らないことが多かったようである。一方、同じカストラート同士のライバル意識はどういったものであったのか?むしろこちらの方が壮絶を極めたようである。彼らは一つの劇場の契約を競っていた。また、既に地位を手にしていたカストラートはその地位を護らなければならず、若い才能に対して手厳しい洗礼を与えることもあった。時には舞台の上でつかみ合いの喧嘩になることもあったようである。しかし、真に才能のあった歌手同士は素直に相手の才能を認めるものもおり、ベルナッキとファリネッリやセネジーノとファリネッリのように深い友誼を結ぶこともあった。また、友誼と言う意味ではライバル関係ではないが同じ、ファリネッリとメタスタージオの深く清らかな友誼は感動的でさえある。

■ヨーロッパ各国

イタリアに於けるカストラートに対する熱狂に対して、ヨーロッパ各国でもその獲得に躍起になった。実際、カストラートは極めてイタリア的な現象であって、その他のドイツ、イギリスなどには殆ど存在していない。もっとも冷感していたのはフランスであるが、いずれにしても彼らの供給はもっぱらイタリアから行われた。それは、先に述べた教育機関の有無に負うところが大きかった。結果的に彼らイタリアのカストラートはヨーロッパ各国の需要に対して高額な輸出品とすらなった。

■カストラートの旅

カストラートのデビューは当然、イタリア国内で行われ、彼らはイタリア国内の各地でその驚異的な歌声を披露することになる。その内に彼らのうちの幾人かは評判になり、それを聞いた諸外国の興行主や宮廷から派遣されたスカウトたちがその獲得に動き出す。契約が成立したカストラートはその国に赴くことになるが、フェッリ(ポーランド、ウィーン)、セネジーノ(ロンドン)、ファリネッリ(マドリッド)らの様な特殊な例を除けば、その契約期間は短く1年から2年というところであった。結果的に彼らは頻繁に新しい契約を結び、ヨーロッパ各国を行き来することになる。カッファレッリなどは顕著な例で、ローマ→ヴェネツィア→ミラノ→トリノ→ローマ→ミラノ→ボローニャ→ヴェネツィア→ナポリ→ロンドン→ナポリ→マドリッド→ナポリ→ウィーン→ヴェネツィア→ルッカ→ナポリ→トリノ→パリ→ナポリ→リスボン→ナポリと旅をした。

■ウィーン

音楽の都として知られるウィーンであるが、カストラートの受け容れに極めて積極的な都市でもあった。カストラートの受け容れに関しては、自国において去勢を認めていない国々がオペラ・セリアの流行と強力な庇護者の存在によってなしえた事実がある。庇護者の多くはクリスティーナ女王(スウェーデン)、選帝侯夫人(ザクセン)、女帝エカテリーナ(ロシア)、マリア・テレジアなど女性であったが、男性でのオーストリアのレオポルド1世などがいた。そのレオポルド1世のウィーンでは、カストラートに熱狂した。この時期のウィーンは音楽の都というに相応しく大変に充実した環境を擁していた。詩人のメタスタージオ、作曲家ではハッセ、グルックそしてモーツァルトとカストラートにむけた素晴らしい作品を残している。グルックは『オルフェオとエウリディーチェ』(1762年初演:グアダーニ(オルフェオ))を書いたし、モーツァルトは『イドメネオ』でヴィンチェツォ・デル・プラート(イダマンテ)を『ルーチョ・シッラ』や『エクスルターテ・ユピラーテ』(モテット)をラウツィーニに贈った。

■ロンドン

イギリスのロンドンはヘンデルの存在もあって、18世紀には音楽上重要な都市となった。当初、非好意的であったイギリスのカストラートに対する評価は、一部の閉鎖的な環境でしかその技巧を披露することが出来なかったためで、広く一般の場に現れてからの彼らに対する熱狂はウィーンのそれに劣らないものであった。1707年にロンドンを訪れたヴァレンティーノ・ウルバーニはボノンチーニやスカルラッティ作品をドゥルリー・レーン劇場で歌った。さらに翌年にはニッコリーノが登場して『ピュロスとデメトリウス』(スカルラッティ)をクィーンズ・シアターで歌いイギリス国民に衝撃を与えた。そして、1711年にはヘンデルの『リナルド』がニコリーノのタイトルロール、ウルバーニ、フランチェスカ・ヴァニーニ・ボスキの共演で初演された。そのニコリーノが引退するとヘンデルは全権を委譲されてイタリアへカストラート獲得の為に渡りセネジーノ(ドレスデン)を獲得するなど積極的に活動した。結果的にセネジーノはのべ11年間にわたりロンドンに滞在し『ジューリオ・チェーザレ』など25近くの作品に登場した。セネジーノの後にも続々とカストラート達がロンドンを訪れヘンデルの作品に出演した。『セルセ』を初演したのはカッファレッリで有名な『オンブラ・マイ・フ』も彼が歌った。ファリネッリもロンドンを訪れたが、彼はヘンデルらとは敵対する「貴族オペラ」に属した。しかし、両陣営の激しい対立に嫌気がしたのか数ヶ月でこの都市を去ってしまう。

■フランス

先述したようにフランス人はカストラートに冷淡な、というより明らかに非好意的な姿勢をとった。ルイ14世や15世、マリー・アントワネットは彼らを賞賛したが、一般的には去勢鶏となどと言って明らかに蔑んだ態度を取った。フランス人のイタリア音楽に対する嫌悪はこのカストラートの件に限定されるものではなかった。1779年には『トーリードのイフィジェニー』でグリュックとピッチンニの両派が争ったし、実際フランスはイタリア音楽に対して常に対抗しえた唯一の国であった。そして、フランス人の攻撃の矢面に立たされたのがカストラート達であった。当時のフランスに於ける文化人たちはこぞって彼らと彼らを生み出したイタリア音楽を厳しく糾弾した。しかし、この頑なな姿勢は結果的にフランスに於ける声楽技術の進歩の遅れを生むことになる。実際、カストラートの超絶的な技巧に触れることによって触発された女性ソプラノ歌手や男性歌手は多く存在し、それによって彼らの技巧が磨かれたことは紛れも無い事実であった。結果的にはフランスもカストラートを受け入れる事にはなり、数多くのカストラートがパリを訪れることになるが、他の都市とは違って常にどこか冷淡な部分が残った。勿論、ルイ14世らの庇護もあって中には恵まれた報酬を得ることの出来たカストラートもおりファリネッリなどもルイ15世から多額の報酬を受け取っている。

■啓蒙主義の名の下に

イタリアからヨーロッパへ広まったカストラート達の活躍だったが、18世紀の終わりと共に急速にその栄光は影を潜めるようになっていく。そして19世紀に入るともはや激しい攻撃の対象になっていってしまう。最初はフランスが急先鋒ではあったが、ヴォルテールなどの啓蒙主義者の非難は理性的側面に訴えるものであり、その啓蒙主義的な発言が勢力を強めていくことになった。この矛先は実はフランス啓蒙主義のイタリア音楽全体に対する攻撃であったが、カストラートという不道徳な存在が格好の攻撃の対象となりえたことは間違いがない。実際、フランスのこの攻撃に対してイタリア国内の世論も大きく影響を受けることになり、問題はもっぱらその道徳的な側面に向けられるようになる。ローマ教会のベネディクトゥス14世は『司教会議』のなかで医学的な必要性の無い去勢を禁じる宣言をした。これらの内外の圧力に屈するようにナポリの音楽院はひとつまたひとつと姿を消していくことになる。この様にしてカストラート教育の殿堂ともいうべきナポリの音楽院は姿を消していったことは、歌唱技術の教育の衰退を意味した。この時代はフランス革命とナポレオンによってもたらされた思想もイタリアに於ける声楽の伝統に致命傷を与えることになった。貴族的な趣味から市民の文化への流れはカストラートのような軟弱な男性を受け容れる社会では無かった。

■去勢の禁止とカストラート追放

1798年教皇はそれまで禁じていた領内の劇場での女性歌手の舞台登場を許した。これは必然的にカストラートと女性歌手の競争生むことになった。ナポレオンやその兄であるナポリ王のジョゼフは去勢行為の徹底的な廃絶を目指した。ジョゼフは去勢した子供を音楽院に入学させる事を具体的に禁じた。ナポレオンらのこの措置に呼応する形で1817年ロンバルド=ヴェネト王国フランチェスコ1世が今度はカストラートを舞台から追放する。実際はこれは有名無実化するし、世間一般のカストラート礼賛は依然続いていたが、それまで近寄りがたいほどの光輝に充ちていたカストラートが地上に引きづり降ろされたことには変わりが無かった。

■オペラにおける最後のカストラート

地上に降ろされた天使達の最後に名を連ねるのは、ジローラモ・クレシェンティーニとジョヴァンニ・バッティスタ・ヴェルーティの二人のオペラ歌手である。彼らが全盛の輝かしい声を誇ってした時代は、既にオペラセリアが衰退をはじめ19世紀初頭には彼らの先輩カストラートたちが既にその歌手生活にピリオドを打ち始めていた。結果的に彼らは孤立することになったが、それでも彼らの優れた歌唱はヨーロッパ各地において大きな評価を得た。クレシェンティーニは1812年、ヴェルーティは1830年いずれも50歳で引退し、80歳でこの世を去っている。クレシェンティーニは皮肉なことにその現役をフランスで終えている。しかも、現役最後の段階になってナポレオンの御前でその美声を披露し大成功を収め、女性歌手のジュゼッピーナ・グラッシーニとともにナポレオンの側に仕えた。『ロメオとジュリエット』を得意とした彼は1812年に鉄王冠勲章を授与された後に健康上の理由を告げナポレオンの下を去り、イタリアに戻り音楽学校での教育に携わった。ヴェルーティはオペラ舞台に上がった本当の意味での最後のカストラートとなった。彼の活躍はクレシェンティーニよりも後になるので、ますます環境は厳しくなっていた。実際にバロックの衰退に伴うオペラ・セリアの消失は彼の活躍するべき舞台そのものを奪っていった。それでもヴェルーティは多くの賞賛を浴びることになる。しかし、それは単純なものではなかった。彼の歌唱技術や声に対する純粋な評価の中に、好奇の目がかなりの割合で含まれていたことは間違いが無い。また、作曲家もカストラートを使わなくなっていた。彼らカストラートの代わりにメゾ・ソプラノやテノールを重要視する傾向は益々強まっていく。グルック、モーツァルトさらにベッリーニとどんどんカストラートから遠ざかって行く様は最早留めようが無かった。唯一、この問題を比較的寛容に扱ったのがロッシーニであったが彼は嘗てのカストラートのような自由というより勝手な楽譜からの逸脱を一切禁じた。『アウレリアーノ』に登場したヴェルーティは結果的に観衆を感動させることは出来なかった。後年、マイヤベーヤによって起用されたヴェルーティはもはや完全に道具として扱われいた。ヴェルーティは引退後ブレンタ川の豪華な別荘で余生を過ごした。

■ヴァチカンにおける最後のカストラート
オペラの世界からはカストラートが追放されたものの、カストラート自体が消滅したわけではなかったし、去勢手術は相変わらず続けられていた。教会の聖歌隊には相変わらずカストラートは起用され続けていたし19世紀末のムスタファなどはおそらく1840年頃に去勢の手術を受けているし、モレスキは1865年に手術を受けた。1870年ローマ教会の世上権の終焉後には去勢手術が駆逐されるから正にこの二人、特にモレスキは最後の最後になって手術を受けたカストラートの一人である。1870年以降は世俗の悪徳の多くが彼らカストラートに向けられた。不道徳と不謹慎の極みとして糾弾された彼らに向けられた攻撃は偏執的でさえあった。イタリア国民はカストラートという不名誉を回復するためにも激しいものになった。暫くして彼らが姿を消し始めると残った数少ないカストラートには興味の視線が集まり始めることになった。そのころ彼らの声を聴くことの出来る唯一の場所といえばシスティナ礼拝堂でのミサしかなかった。ここでは已然カストラートがロッシーニやベッリーニの作品を歌っていた。しかし、僅かに残った彼らの歌手としての質は残念ながら決して高いものとはいえなかった。人びとの熱は急速にさめていくことになった。自身カストラートだったドメニコ・ムスタファは1878年に聖歌隊の終身指揮者になったが、就任後は楽長のペロージとの対立を生んだ。ムスタファはカストラートを擁護する立場に立ったが、反対派のペロージは熱心にレオ13世に働きかけ、カストラートを教会で使用する事を禁じる教皇令を発令させることに成功する。翻意を願ったムスタファであったがそれが徒労に終わったあとはペロージに後を譲って聖歌隊を去った。1898年、礼拝堂の聖歌隊の人数は28人。そのうちカストラートは7人であった。彼ら最後のカストラートも次第に聖歌隊を去り、本当の最後のカストラートアレッサンドロ・モレスキ聖歌隊を去ったのは1913年のことである。『ローマの天使』といわれたモレスキは何枚かの録音を残し、1922年64歳でこの世を去った。

■最後に

随分長期連載になってしまいましたが、実はまだまだ興味が尽きないというのが本音です。特にファリネッリについてはもう少し詳しく調べてみたい欲求にかられますが・・カストラートは20世紀初頭まで存在し、録音も残しているのです。彼らの存在が道徳的に悪であった稼動かは分かりませんが、少なくとも彼ら自身の存在そのものを否定したり、罪を着せることは出来ないと思います。彼らが残した偉大な資産は今、形を変えて再現する試みが必死に続けられています。彼らの消滅と共に作品そのものがこの世から消え去ることが無いように続けられている努力を批判することは容易いでしょうが、新たな可能性を生んでいることも忘れてはならないと思います。

→カストラート参考文献資料一覧