私の部屋の窓は南向きで、この季節だとちょうど朝7時くらいに、カーテンの隙間から私の
顔にナナメに朝日が差します。
今朝も顔の上に落ちる日の光は、とてもまぶしくて……。雲ひとつない夏晴れの朝。張り替
えたばかりの壁紙のにおい。机の上のポートレートの中で、恥ずかしそうに笑うおにいちゃさ
んと私。普段どおりの、いつもと同じ、春の朝……。
私は軽く朝ごはんを食べて、お向かいの家のスコティッシュテリア、エドワードを連れて、
河原に散歩に来ました。
今日は本当にいいお天気……。風は少し強いけど、お散歩日和の、小春日和って感じかな。
ぽかぽかの公園には、ちっちゃい子たちがお母さんと遊びに来てたし、エドワードもとても気
持ちよさそうに、いつもより少しはやあしで……。
それでも……。それでも、私の心は、なかなか晴れなくて……。
今日は、本当はマラソン大会の日だったんだ。
私が顔を洗って、歯を磨いて、トーストを焼いていた時間は、本当ならもう、学校に行かな
くちゃいけない時間だったの。
学校にはカゼで休みます、ってウソの電話をして……。
体育の見学なんて慣れっこ。私に出来ることなんて、大縄の縄係くらいだし。慣れっこだけ
ど、やっぱりマラソンだけは違う感じがした。目の前を走ってゆく友達の白い息が、タバコの
煙みたいに苦しく感じたんだ。
体育のたかこ先生は、マラソンの練習が始まる前から私を心配して「旋律は、いやだったら
大会当日は休んでもいいぞ」って言ってくれてたんだけど……。
本当は私、最近リハビリもちゃんとしてない……。
病院にいた頃は、おにいちゃさんも毎週来てくれたし、早く歩けるようになりたい、またお
にいちゃさんと元気に遊びたい! って思ってたから、辛いリハビリも頑張れた。
そうして一年くらいたったころ、ゆっくりなら坂道も歩けるようになって、リハビリ頑張っ
たね、退院おめでとう、ってみんなに言われて、すごく嬉しかった。あのときの気持ちは、今
でもまだ覚えてる……。
でも、退院してからはとにかく歩き回れることが嬉しくて。いろんな所に行ったな。動物園
に水族館、博物館に美術館。ひとりで行ったり、おにいちゃさんといっしょだったり。歩きす
ぎると足首に負担がかかることも、それがリハビリを遅らせることも、知ってた。知ってたけ
ど、おにいちゃさんには隠してた。
私はわがままだから……。毎日のお散歩も、おにいちゃさんといっしょのショッピングも、
今の楽しい生活をやめたくない。そう思ったから、リハビリもちゃんとしないで……。「あま
り足首に負担をかけないように」って言われてるのに、毎日雑貨屋さんに寄り道をしたりして
……。
私に「休んでもいいぞ」って言ってくれたあと、たかこ先生は心配そうな顔のままちょっと
笑って、こう呟いたの。
「でも、旋律も早く足が治って、みんなと走れるといいのにな」
たかこ先生は私のことを心配してくれてるのに、私は……って考えると、私は後ろめたくて、
だから、ちゃんと返事をしないまま今日まで来ちゃって……。
結局、私は逃げてるんだ。たかこ先生や、病院の先生を裏切って、こんなところを歩いてる。
もう私、立ち止まれないんだ……。
そうやってうつむいて歩く私を、エドワードはリードでぐいぐい引っ張って……。え? な
にか吠えてる……。何? エドワード?
あ、ここの公園……。
ふふふ、懐かしいな。ちっちゃい頃のアルバム、おにいちゃさんと二人で写ってた公園だ。
アルバム、家にあったっけ? それともおにいちゃさんちかな? そう、あの頃は私も、普通
の子とおんなじように、走り回ったり……。
してたっけ……?
私……怪我する前、何して遊んでた……?
私のちっちゃい頃の思い出、いつでも思い出の中にはおにいちゃさんがいて……。だけど、
私はいない。自分でも思い出せない。
怪我した後のことばっかりで……。あの頃の私のこと、覚えてない!
……どうしよ。めまいがする……。エドワードの鳴き声が頭に響く……。
そしたら……。私がよろめいた瞬間、エドワードは私の手からリードを振り切ると、一回大
きく吠えたあと、凄い速さで走っていっちゃって……。
私はしばらく頭が真っ白で、なぜかその走る姿に見とれていた。でも我に返ったら、急に不
安になったの。どうしよう! 追いかけなきゃ……!
でも、そう思った次の瞬間……。
「痛っ……!!」
今の何……? 電気みたいなしびれが、全身に……。
そうだ、私、エドワードを追いかけようとしたんだ。
走ろうとして、足首に負担、かけちゃったんだ……。
ああ……。もう、だめだな。エドワードも見えなくなっちゃったし、足も痛い。お向かいさ
んに怒られちゃうかな……。私は、悪い子だから……。
涙が出てきた……。どうしよう、止まらない……。おにいちゃさん……。どうしよう……。
涙が止まらないよ……おにいちゃさん……!!!
そしたら……。ほっぺたに、何かあったかいものが……。
「んっく、え……エドワード……? ……!!! おにいちゃさん!?」
エドワードは私の頬をぺろぺろなめてて……。後ろには、おにいちゃさんが、息を切らして、
立ってた……。どうして? どうして……。
「びっくりしたよ。いきなりエドワードが走ってくるから」
おにいちゃさんはそう言うと、私の横に腰を下ろして、何も聞かずに、私の涙をTシャツで
拭ってくれて……。なんだか私、また泣いちゃった。
それから、私は、時間をかけて、何もかも話しました。今日マラソン大会をさぼったこと。
最近リハビリに行っていないこと。それから、歩きすぎが足首に負担をかけることも、全部…
…。
そしたらおにいちゃさんはちょっと笑って、
「僕も今日、学校サボったんだ。今日体育あるし、いい天気だから……」
って……!
「気が合うね」なんてさらっと言って、私の話なんて全然聞いてなかったみたいに……。
まったく、おにいちゃさんはのん気なんだから……! 私はおにいちゃさんに甘えてばっか
りだけど、いろんなこと悩んで、苦しんでるって言うのに……! おにいちゃさんのことも、
心配してるのに……。結局エドワードが走っていったのも、おにいちゃさんがいたからだった
じゃない!
また涙が出ちゃった私の頭をなでながら、おにいちゃさんは
「旋律が走りたくないなら、無理して走ることないんだよ」
って言って、右手でエドワードのリードを、左手で私の手を取ったの。
「さぁ、帰ろう」
って……。
おにいちゃさん? おにいちゃさんは私を許してくれたみたいだけど、私はまだ許してない
んだからね。おにいちゃさんも私ものんびりだけど、私は繊細で、おにいちゃさんのことで泣
いちゃったんだから。だから……。
これからもふたりで、手をつないで、ゆっくり歩いていきましょう♥