長保元年,文月の酉の刻の頃,もう陽も沈みかけた屋敷の西の対の西の端.庭先の朱塗りの階段に腰掛けて,白い白橡を纏った一人の男が唐来の横笛を吹いていた.そこへ,単を引きずって来る女の影が一人あった.男が気付いて目をやるも,夕刻の渡りは暗い.
「なんだ,香枝ではないか.」
 男は笛を止め,立ち上がって少女に手を貸した.少女は足元がおぼつかなく,汗もかいている.
「嵩人さまが笛を奏でていらっしゃるのが聞こえたのです.」
 それを聞くと,男は淋しそうに笑った.
「一人遊びだよ,しかし,もう兄とは呼んでくれないのだね.」
 香枝は悲しそうに言う.
「私の兄は,伊藤道永だけですから.」
 庭先は静か.鳥の鳴くのも聞こえない.



<<クロニクル エピソード2>>



 文月も中ごろ,日が傾くのは早くなったが日が沈むまでが遅い.
「最初は誰が来たのか分からなかったよ.」
 香枝は顔を上げる.
「誰そ彼どきですからね…….」
「綺麗になったね,香枝.美しくなった.」
「そんな…….」
 香枝はまた俯く.陽が香枝の顔を覗き込むように傾く.
「でも,誰だか分からなかった.」
 香枝はずっと俯いている.在る者には,罪を負った者のように見えたかも知れない.
 「あの,嵩人さまは,横笛がお上手でいらっしゃいますね.」
 香枝が顔を上げて言うと,今度は嵩人が俯いた.
「私には文才とかがないからね.」
「でも,私は,嵩人さまの笛の音が好きです.」
 嵩人は,自分自身を香枝と言っていた頃の香枝を思い出してまた少し淋しくなったが,口には出さなかった.
「私も,吹いていると楽しいよ.」
 「あの,兄上も時々こっそり聴いているんです.」
 嵩人は道長のことに驚く来つつも,香枝が兄と自然に言おうとしているように聞こえた.もっとも,それは後ろ向きな嫉妬である事は,嵩人が一番知っている.
 「そうなのかい…….それは光栄の限りだ.
 香枝は黙っている.
「私も文才が無い等と言わずに,道永どのに文を師事しようかな.」
「本当にそう思ってますか?」
 香枝は笑う.少し肩の力を抜けたみたいだと思った.
 「私,兄上の歌はよくわかりません.」
「女性には分からない物なのかも知れないね.」
「いえ,兄上は恋の歌が一番得意なんです.」
「それは困った.私には恋の歌が一番苦手だな.」
「困ってないくせに.」
 香枝が初めて楽しそうに笑った.こんな香枝をみるのは半年ぶりか,一年か.
 「ねぇ,さっき奏でられていたのは藤原様の曲でしょう?」
「知っているのだね.」
 藤原寄親は,嵩人の遊び仲間というか,嵩人を自分の仲間に誘った人である.
 「兄上が好きなのはね,藤原様の曲なの.」
 香枝は言う.少し昔の香枝に戻ったようで,嵩人は嬉しく思った.
「兄上が好きなのは曲で,私が好きなのは笛の音なんです.」
 風がそよいで,陽は沈みかけている.香枝の顔は真っ赤に燃える.
「私,藤原様の曲は嫌いです.」
 嵩人は顔を驚かせた.驚かせたが,香枝からは逆光で分からない.香枝は嵩人の隣に座り直した.
「そんな事を言ったら,道永どのに怒られるよ.」
「平気です.」
 香枝は平気かもしれないがと嵩人は思った.
 「兄は……好きなの?」
 嵩人は呼吸をするのを忘れた.今度はその顔をしかと見られた.真っ赤に燃える.
「兄は,藤原様の曲が……」
「困ったな.」
 香枝は嵩人の顔を見つめる.
「母が違っても,兄妹とは,似るものだね.」
 嵩人は笑って呟く.香枝は目を見開く.日が傾けど,その顔は陰ろうとしない.
「困らないで.」
 香枝は笑って囁く.周りの景色は静かで,闇が淵を飲み込んで行く.
「わたしは,兄の曲が聴きたいな.」

 平安の都に,日が沈んだ.
 月が満ちた夜に,香枝は笛の音を聞く.