蝉時雨が始まって,圭太は空を仰いだ.
「はぁ」
 空は鉛のような色で,いかにも雨が降ると言っている.時期外れの雨続きで体調の悪い圭太は,また教官殿に叱られるのだろうなと思うと,頸を持ち上げる力さえ抜けて,また元のようにうな垂れた.うつむいた先にも,水溜りは鉛の空を映し出し,暗い.
「いたいた! あにぃ!」
 圭太が二度目の溜息を吐くのと同時に古い着物を着た少女が駆けて来た.少女の着物にはあちこち継ぎ接ぎがしてあって,しかし溌剌とした雰囲気に良く似合っている.
「かおる.」
 圭太は以前にその事をかおるに言って,防空頭巾で叩かれた事がある.只今昭和17年.かおるはもはや圭太のたった一人の妹である.



<<クロニクル エピソード9>>



 蝉時雨は時雨というだけあって,毎日決まった時刻に急に鳴り始め,決まって圭太の不快感を煽る.圭太が以前どうしようもなく途方に暮れていた日の午後,唯一圭太の耳に届いたのは蝉時雨だけで,圭太を途方に暮れさしてもくれ無かった事がある.
「雨が降りそうだから,むかえに来たんだ!」
 かおるは,家に一つしかない古い傘を持っていた.かおるが跳ねると,先から昨日の雨だれだか水溜りの水だかが滴り落ち滴り落ちする.
 蝉時雨は最近では決まってにわか雨を呼ぶ.通り雨のような物だが,蒸し返すような熱気を冷ましてくれる訳でもなく,ただ圭太の帰り道に湿気を補給して行くだけである.残暑の九月,ただ暑い.
 「ほら,あにぃ? 雨降ってきちゃうよ?」
「大丈夫だよ.にわか雨だから.」
「だめだめ,あにぃ,今風邪気味なんだから.」
 かおるは圭太の鞄を取って肩に斜めがけにすると,圭太の背中を押しながら前へ前へと進ませる.圭太は今日は川に行くつもりだったが,諦めてかおると共に家路に着いた.
「最近やな天気続きだね.早く晴れないかな.」
 かおるが肩にかけた鞄が,着物の胸の部分に食い込んでいる.圭太はかおるの言うことをそらで聞きながら,年甲斐も無く恥ずかしいような気持ちになっていた.この間まで泣いてばかりだった妹が.
 「風邪に気を付けないと,あにぃも……死んじゃうよ?」
 かおるはうつむきながら小さく笑った.この少女は幼くして,非常に哀しい顔をする.圭太だって,今の国の状況では,小さな風邪でもすぐに死に繋がる事を知っている.ある意味かおるより,現実を見てきた.しかしかおるは傷を,痛みを隠そうとはしない.そんな少女を支える人間が,いま,自分以外で誰がありえるのか.圭太は先程まで自分の考えていた事に,今度は別の意味で恥ずかしくなった.
 圭太の親兄弟は,かおるを除いてみんな死んでしまった.兄は太平洋の大海原で,二人の妹は栄養失調で,弟と両親は結核で亡くなった.皆理由は違うが,圭太はこの家族の不幸の根本にある物を知っている.知らない程馬鹿でないし,口にする程子供でもない.
 「ほら,あにぃ」
 かおるは圭太のシャツの,半袖をつかんで引っ張った.右手は,人差し指で別の道を指している.
「ちょっと寄り道していかない?」

 「たまには寄り道も良いよね.」
 圭太が回り道をしたのは本当に久しぶりだ.圭太はまっすぐ生まれ,まっすぐ育ち,まっすぐ国民学校に入り,その道々で家族を亡くしてきた.以前圭太は病状に臥せった父親に,お前はまっすぐな性格だからナオと言う名前にすればよかったと言われて,ああそう,としか言えなかったことを思い出した.
「でも,雨が降りそうだって言ったのはかおるじゃないか.」
「だからさ,どうせ雨が降るなら楽しいほうがいいじゃない?」
「?」
 蝉時雨がやんで,圭太はかおるの声が弾んでいる事が分かった.そして時折立ち止まっては,圭太が先に行くのを待って,圭太が不思議そうにして進まないのを,ほら,雨が降っちゃうよと叱りつける.そうしているうちに雨が降ってきて,かおるは待ってましたと言わんばかりに傘を広げて走り出した.水溜りの泥が跳ねて,
「ほーら降ってきちゃった.あーにぃ,一緒に入ろうよ!」
と言う.それでも圭太は毎日の倦怠感と憂鬱を全く感じず,泥が混じった気持ちの悪い汗を袖で拭いながらかおるの元へ向かった.
 「えへへ,傘が小さいから二人も入らないかなぁ.」
かおるはそう言っているが,圭太は小柄なため二人入るには十分だ.それでも恥ずかしそうに,恥ずかしそうなのに無理やりくっつこうとするかおるを咎める理由は圭太にはない.
 そして,風が吹いた.圭太は自分でも驚くほど風を心地よく感じた.ここの所の雨続きで,圭太は全く風を受けていなかった.汗に雨に濡れたシャツや顔や腕が,本当に涼しい.圭太のシャツ一枚挟んで密着したかおるの肌.その接点だけが余計に蒸れる.涼しくなっただけ,余計に.
 「涼しいねぇ,風が気持ちいい.ね,あにぃ.」
「本当だな…….急いで家に帰らなくてよかった.」
「ねぇあにぃ.この道はいつも風が吹くんだよ.」
「えっ!? 本当!?」
 「あはは,あにぃったら,そんなにがっつかなくても.」
 つい身を乗り出してしまった圭太と,かおるの密着が強くなる.かおるは恥ずかしそうに少し距離を置いて,圭太に傘を握らせた.そしてかおるは雨の中に進み出て,風を顔に受ける.目をつぶり,髪がなびく.圭太の腕は未だ温かい.
「あーあ.」
「何だよ.」
 圭太は少しムキになった.
「何? ほら,あにぃ,川だよ.」
 圭太が行く先に見る,子供の背ほどの小さな川は,雨で活気付いている.
「本当だ…….だから風が吹いたんだね.」
「そうかなぁ.そうかもね.あぁ気持ちいい.」
「知らなかったな……こんなところに川があったなんて.」
「この川,雨が降らないときは枯れちゃうんだよ.えいっ!」
 かおるは川の水をすくって圭太にかけてきた.圭太は傘を向ける.
「こら.かおる.」
「あはは.コラ,だって.」
 ある程度濡れて,涼しくなって来た.圭太は傘をたたんでかおるの元へ近づいた.
 「ほら,今日はあにぃにこれを見せたかったんだ!」
 圭太は半かがみの姿勢のまま,かおるの声のほうを仰いだ.手ですくった水が,やり場無く圭太の指元から零れ落ちる.
 「アジサイだよ! この川,アジサイがまだ咲いてるんだ!」
 廃病院の塀の傍,藤棚の陰に,藤色のアジサイが咲いていた.圭太は花にかおるのことを思った.
「ぼくね,いっつもあそこの廃病院の壁に軟球を投げて遊ぶんだ.」
 圭太は立ち上がって思う.そういえば,かおるは昔から野球が下手だったな.
「でね,雨が降ってきて,雨宿りしてたら,これを見つけたんだ!」
 なるほど,しかしこの花はアジサイに似ているが,葉が違う.
「綺麗だね…….この花,アジサイじゃなさそうだけど.」
「ええっ! そうなの! じゃあ.ぼく,あにぃがアジサイが好きだと思ったから連れて来たのに……」
 アジサイが好きだって? 圭太は自分の記憶を手繰り寄せる.そして思い当たった.アジサイは,圭太母親の好いた花だ.綺麗ね,綺麗ねと言って笑う母に,なぜか圭太も嬉しくなった.そして梅雨が来るたびに花を見て思い出す,梅雨の母.
 「アジサイは好きだよ.母さんを思い出す.」
 かおるは雨の滴る顔を上げた.
「今度からこの花を見たら,かおるを思い出すよ.」
 はっと目をつぶり,かおるは圭太に飛びついた.
 「思い出さないで……!!!」
 かおるは叫ぶ.胸が熱い.胸が蒸れる.
「ぼくは,ずっとあにぃの傍にいるのに…….」
「かおる,」
「忘れないで.ぼくはあにぃを忘れたことなんかないよ.」
 風が吹く.強く吹く.この風は,もしかしたらいつもの帰り道にも届いているかも知れない.
 「あにぃ……傍にいて…….」
 風だけが気持ちよく,かおるの体温は頼りなく暖かい.まったく,戦争はいやだ.圭太はつくづくそう思った.ぼくだって,一つの国より,一人の妹のほうが大切だよ.そう言ってやりたかった.
 ヤマモトイソロクに?トウジョウヒデキに?テンノウヘイカに?いや…….
 誰より,かおるに.

 翌年,圭太はラバウルへ行く.