地下室の手記

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキー

第一部  地下室

手記の著者も『手記』そのものももちろん架空のものだ。それでも、 一般に私たちの社会が形成された状況を考慮すると、 私たちの社会においては、このような手記の作者に類する人物の存在はありうるどころか必然なのである。 私はごく最近の時代の特徴的人物の一人を、普通より少し際立たせて、大衆の面前に引き出したかったのだ。 これはいまだ生きている世代の一つの典型だ。『地下室』と題されたこの断章において、この人物は 自分自身と自身の意見を紹介し、そしてどうやら 彼が我々の中に現れた、そして現れなければならなかった理由を明らかにしようとしているようである。 それに続く断章では彼の人生のいくつかの出来事に関するこの人物の真の『手記』が見られる。 従ってこの最初の断章は本全体の導入部、序言に近いものと考えなければならない。

フョードル・ドストエフスキー

僕は病んだ人間だ・・・僕は人間が意地悪だ。魅力のない僕は人間だ。僕は、 肝臓が悪いのだと思う。しかしである、僕は自分の病気についてちっともわからないし、 どこが悪いのやら確かなことは知らない。医学や医者を尊敬しているとはいえ、治療は受けていないし、 一度も医者にかかったことはない。そのうえ、僕はまた極端なまでに迷信深い。なに、 少なくとも医者を尊敬するぐらいだから。(迷妄に憑かれぬよう十分教育を受けたのに迷信深いのだ。) 違うんだ、うん、僕は意地悪だから治療したくないんだ。 これにはきっと君たちにご理解願えないところがあろう。なにいいさ、僕が理解している。 この場合僕の悪意が誰に意地悪をすることになるのか、僕はもちろん君たちに説明できない。 だって僕は、医者の治療を受けないことで彼らの顔に泥を塗ることなど決してできないと、きわめてよく承知している。 こんなことはみんな、ただ一人自分を傷つけるだけで他には誰も、ということを僕は誰よりもよく承知している。 しかしそれでもやはり、僕が治療しないとしたら、それはそう、意地悪からだ。肝臓が悪い、 それなら結構、こいつめ、ますますひどくなるがいい!
 僕はもう長いことそうやって生きている−二十年。今、僕は四十だ。以前は勤めていたが 今は勤めていない。僕は意地の悪い役人だった。無礼にふるまい、それを楽しんでいた。 なにしろ賄賂を取らないのだから、これぐらいのご褒美をもらうのは当然ではないか。 (下手な警句だ。でも僕はこいつを消さない。僕は大いに気のきいたものになると思ってこれを書いた。 だが今自分で見ても、汚らわしい自慢話にすぎない。だからわざと消さないんだ!) デスクに座っている、とそこへ何か申請をする人が問い合わせにやってくることがある、 そんな時、僕は彼らに当り散らし、誰かを苦しめることができた時は、抑えきれない喜びを感じた。 ほとんどいつもうまくいった。大部分が臆病な人たちだった。そりゃそうだ、申請者だもの。 だがきざな連中もいて特に一人の士官には我慢がならなかった。 その男はどうしても降参しようとせず、いやったらしくサーベルをがちゃがちゃ鳴らすのだ。 その男とは一年半、このサーベルのことで戦争だった。最後は僕が負かしてやった。 彼はがちゃがちゃするのをやめた。しかし、これは僕がまだ若い頃にあったことだ。 だがおわかりだろうか、皆さん、僕の悪意の肝心なところはどこだろう? そう、どこがいちばん重要なところかと言うと、最も下劣な点はどこかと言うと、恥ずかしいことだが、 僕はいつも、かんかんになって怒っている瞬間でさえ、自分は意地悪でもなければ怒りん坊でもない、 ただわけもなく雀を脅かしておもしろがってるにすぎない、てことを意識していたんだ。 口から泡を吹いていても、きれいな娘でも連れてきてごらん、お茶に砂糖をつけて与えてみなさい、 たぶん僕はおとなしくなる。それどころかジーンときてしまうだろう、が、そのくせきっと、 後になって一人歯ぎしりをしたり、恥ずかしさに何ヶ月も 不眠に苦しんだりするのだが。僕はいつもそういうふうだった。
 さっき僕が意地悪な役人だったと言ったのは自分に嘘をついた。意地悪から嘘をついた。 僕は単に申請者とも士官とも悪ふざけにふけっていただけで、実のところ決して意地悪にはなれなかった。 僕はいつも自分の内にあるたくさんの、非常にたくさんの、それとは正反対の要素を意識していた。 僕はその正反対の要素が僕の中であふれかえっているのを感じた。僕はそういうものが生涯、 僕の中であふれかえり、僕の外へ出ようとしているのを知っていたが、僕はそれを許さなかった、 外へ出るのを許さなかった、わざと許さなかった。それらに苦しめられて僕は恥ずかしくなった。 それからひきつけまで起こした。そして、ついに僕はうんざりしてしまった、うんざりなんだ! ねえ諸君、きっと君らには僕が今、君らを前に何かを悔いてている、何かを許してもらおうとしている、 そう見えるんじゃないか?・・・間違いないな、君らにはそう見える・・・ だがね、いや本当のところ、僕にはどうでもいいことだ、そう思われようが・・・
 僕は意地悪どころか、何にもなれなかった。意地悪にも善良にも、卑劣漢にも正直にも、英雄にも 虫けらにも。今では片隅の住まいで余生を送っている。利口な人間は本気で何かになることはできないし、 何かになるのはばかだけだという、意地の悪い、何の役にも立たない慰めで自らを冷やかしながら。 そうなんですよ、十九世紀の利口な人間は、大体において意志を持たない存在であるべきであり、 道徳的にもその義務を負っている。これに対して意志の強い人間、実務家は、大体において愚鈍な存在なのだ。 これは四十年来の僕の信念だ。僕は今四十歳だが、なにしろ四十歳、これは一生涯に値する。 なにしろえらい年寄りってことだ。四十年以上も生きるのは見苦しいし、低俗だし、不道徳だ! 四十年以上も生きているのは誰だ?率直に、正直に答えていただきたい。僕が言おう、誰が生きているか。 ばかと悪党が生きているのだ。僕はすべての老人に面と向かってそう言う、すべての尊敬すべき老人に、 すべての銀髪の、薫り高き老人に!全世界に向かって言うんだ!僕にはそう言う権利がある、 自分が六十歳まで生き長らえるのだから。七十まで生きぬくんだ!八十まで生きぬくんだ!・・・ちょっと待って、 息をいれさせてください・・・・
 きっと君たちは、諸君、僕が君たちを笑わせようとしていると思っているんだろう? それも間違っている。僕は決して君たちが思うような、あるいは思っているかもしれないような 陽気な人間ではない。しかし、もしもこのむだ話にすっかりいらいらした君たちが (いや僕はすでに君たちの苛立ちを感じる)、いいかげん、僕が何者なのか訊きたいとお思いなら、 それにお答えしよう。僕はただの八等官である。僕は食べていくために (ただそのためだけに)勤めていたが、去年、ある遠い親戚が遺言により僕に六千ルーブリ残していった時、 直ちに退職して自分の隅っこに落ち着いた。僕は以前からこの隅っこで暮らしていたが、 今ではこの隅っこを安住の地としたのだ。僕の部屋はみじめな、汚らしいもので、町のはずれにある。 僕の女中は田舎女で、ばあさんで、愚かなせいで意地悪く、そのうえいつもいやなにおいがする。人は言う、 ペテルブルグの気候はからだに悪いし、僕のわずかな財産ではペテルブルグで暮らすのはえらく高くつく。 僕はそんなことはすっかりわかってる、ああいう経験豊かで賢い助言者たちや訳知り顔の連中よりよくわかっている。 でも僕はペテルブルグに残っている。僕はペテルブルグから出て行かないんだ!僕が出て行かないのは・・・ ええい!なんだ、そんなこと、まったく同じことだ、僕が出て行こうと行くまいと。
 だが、しかし、ちゃんとした人間が何より楽しく話せることは何か?
 答え、自分自身について。
 それでは僕も自分自身について話すとしよう。
 

僕が今君たちに話したいのは、諸君、君たちがそれを聞きたいにしろ聞きたくないにしろ、 なぜ僕は虫けらにさえなれなかったかということだ。堂々と言わせてもらおう、 僕は何度も虫けらになりたいと思った。だがそれさえ僕には分に過ぎたのだ。誓ってもいいが、諸君、 あまりにも意識すること、これは病気だ、紛れもない、完全なる病気だ。 人間の日常には普通の人間の意識でも十分すぎるのだろう。すなわち、 この不幸な十九世紀の、しかも、全地球上で最も抽象的で意図的な都市、ペテルブルグ (都市には意図的なものと非意図的なものがある)に住むという特別な不幸を背負う、知的に発達した人間に 分け与えられることになった意識量の半分、四分の一でも。たとえば、 いわゆる猪突猛進型の人や実務家が生きていくうえでの意識でまったく十分だろう。賭けてもいいが、 君たちは思っているだろう、これはすべて、実務家を槍玉にちょっと機知を示そうとして自己顕示欲か ら書いている、それもあの士官のように、悪趣味な自己顕示欲からサーベルをがちゃがちゃ鳴らしている、と。だが諸君、 いったい誰が自分の病気にうぬぼれを抱き、その上見せびらかしたりできるものか?
 しかし、いったい何を僕は?−皆がやっていることだ、その病気ってやつにうぬぼれをいだくのは。 といっても僕はたぶん、だれよりもそうなんだ。議論になりゃしない、僕が反論するのはばかげているもの。しかし、 それでもやはり僕は固く確信している、非常に多量の意識のみならず、あらゆる意識が病気である。 それが僕の立場だ。これはしばらく置くとしますか。そこでひとつ教えて欲しいのだが、何故ああいうことになるのかな、 ほら、まるでわざとのようにあの時、まさしくあの瞬間、つまり以前よく言われた『すべての美しく崇高なもの』の 一切の機微を最も強く意識することができるというあの時に、 僕はもはや意識することなく、することといえばあのような見苦しい行為だ、 あのようなこと・・・なに、ほら、要するに、みんながやっていることだとは思うんだけれど、 僕の場合それはまるでわざとのように、決してそんなことをしてはいけないとこれ以上はなく意識しているまさにその時に 生じるのだ。善とすべてのこの『美しく崇高なもの』を意識すればするほど、 僕は深く深く自分の泥沼に沈み行き、そこに完全にはまっていることも平気になった。だが重要な点は、 これがいつも偶然に僕のうちにあるのではなく、必然的にそうなるらしいと思われることだ。 まるでこれが僕の最も正常な状態であって決して病気や疾患ではないかのようであり、それで 結局、この疾患と戦う気はどこかへ行ってしまうのだ。 とうとう僕は、これがおそらく正常な状態であると危うく信じそうになった(いや、本当に信じたのかもしれない)。 しかし最初、初めのうち、この戦いで僕がどれだけ苦しんだことか! 僕はほかの人もそういうことがあるとは思わなかったので、生涯これを自分だけの秘密として隠してきた。 僕は恥ずかしかった(もしかしたら、今でも恥ずかしい)が、ついには一種、秘密の、異常で、卑しい快楽 を感じるに至った。よく、たまらなくいやなペテルブルグの夜、片隅の自分に立ち返り、 ほら今日もまた下劣なことをしてしまった、それにまたしてしまったことは決して元には戻らない、 と強く意識し、内心ひそかに、ガリガリ、ガリガリとわが身をかじり、 わが身を苛み、苦しめる、するとついには苦い思いが一種、恥ずべき、呪うべき甘美に、 そしてついには確固たる、真剣な快楽にまでなるのだ!そうだ、快楽に、快楽に!それが僕の立脚点だ。 ほかの人たちにもそのような快楽が生じるのだろうか?それを確かめたいといつも思っているので僕は話を 始めた。説明させてもらおう。快楽があるのは自らの恥辱をあまりに鮮やかに意識するからにほかならない。 なぜならば、『最後の壁まで至った、それはいやなことだがそうなるより他にしかたなかった、 もうお前に出口はない、もう決して別の人間には変わらない、 たとえ別の何かに変わるための時間と信念がまだ残されているとしても、おそらく 自分自身が変わりたいと思わないだろう、いや、思ったとしてもそれだからといって何をするわけでもない、 というのは実際それで成り変わろうにも、もしかしたら、その何かがない』と、自らこんなふうに感じる のは間違いないからだ。 しかし大事なのは、とどのつまり、これがすべて強烈な意識の正常かつ基本的な法則、 およびその法則をまっすぐに引き継ぐ惰性に従って生じることである。その結果、 変身どころか、全くどうしようもないということになるのだ。 たとえば強烈な意識の結果、もし人が実際、卑劣漢である、と確かに自分でも感じるなら、 卑劣漢であることは正しいし、いわばそれが卑劣漢にとって慰めである、ということになる。 しかしたくさんだ・・・ええい、こんなたわごとを並べたてて、何を説明した? ・・それで、快楽はどう説明された?だが僕はわかってもらうんだ!何としても僕は最後までやるんだ! ペンだってそのために手に取ったんだ・・・
 たとえば、僕はひどく高慢だ。僕は疑い深く怒りっぽい。だが、 ひょっとしてここで平手打ちを食らったりしたら、それを喜ぶかもしれない、 というような瞬間が僕には時々あった。本当だ。まじめな話、 きっと僕はそこにも僕ならではの快楽を見つけることができるだろうし、もちろん絶望の快楽であるが、 絶望の中にこそ激しく燃えあがる快楽があり、 自分の状況に希望のないことを本当に強く強く意識する時は格別だ。 そこでその平手打ちされた時だが、その時はぺちゃんこにのされたという意識がのしかかってくる。 だが重要なのは、この際いくら考えても、やはりつまるところ、 いつでもどんなことでも僕がいちばん悪いってことになる上、実にいまいましいことに、罪なき罪であり、 それが、いわば自然の法則だってことなんだ。第一の罪は、僕が周りにいる誰よりも頭がいいことだ。 (僕はいつも自分が周りの誰よりも頭がいいと思ってきたし、時には、信用していただけるだろうか、 これに気がとがめさえした。少なくとも、僕は生涯を通じてどこかわきを見て、 決して人の目をまっすぐに見ることができなかった。)そして罪を決定付けるのは、 たとえ僕に寛容さがあるとしても、かえって僕の苦痛を大きくする、 それが全然役に立たないという意識だ。 だって僕は、寛容だからと言って間違いなく何もできやしない。許すことはできない、無礼者は自然の法則 に従って僕を殴ったのかもしれないし、自然の法則を許すなんてできることじゃないから。 忘れるわけにもいかない、自然の法則だとしても、やっぱり不快だから。結局、 たとえ僕が寛容などかなぐり捨てて、反対に、無礼者に復讐してやろうと思ったとしても、 僕は何につけても誰に対しても復讐などできやしない。なぜならばたとえ可能だとしても、 おそらく何かしようなど決断しやしないんだから。なぜ決断しないのだろうか? これについては特に、一言申し上げたい。
 

さて、自ら復讐のできる人、そして一般に自ら立ち上がる人の場合を例にとると、 これはどうなるか?では、復讐の感情が彼らをとらえるとしよう、 するとこの時、もはや彼らの全存在からそれ以外の感情が失われる。そのような紳士は 猛り狂った雄牛のように、角を低く傾けて、ただ壁が彼を止めない限り、 目標に向けてまっすぐに行く。(ところで、壁を前にするとこのような紳士、 すなわち猪突猛進型の人や実務家たちは素直に降参する。彼らにとって壁は−−我々のような考える人間、 従って何もしない人間にとってのような方向転換点にはならない。 我々ならたいてい自分でも信じないのにいつでも大喜びで道を引き返す口実にするのだが、彼らはそうしない。 いいや、彼らは真っ正直に降参する。壁は彼らを静め、 精神的な決まりをつける、最終的なものであり、おそらく神秘的なものでさえあり・・・ だが壁のことはまた後に。)なにね、僕の考えでは、そういう真っ正直な人間こそ、本物の正常な人間で あり、そんな姿を見たくて優しい母なる自然は、親切にも人間を地上に生み出したのだ。 僕はこのような人間がねたましく、憎らしくてたまらない。 そういう人は愚かであり、そのことで君らと議論はしないが、もしかすると、 正常な人間はまた愚かでなければならないかもしれないし、それが君らにわかるはずもない。もしかすると、 これはきわめて美しいこととさえ言えるかもしれない。そして僕が、言ってみればこういう推測をますます 確信するのは、正常な人間の正反対、すなわち強烈な意識を持つ、 自然の子宮からではなく蒸留装置から生まれたにちがいない人間(これはもうほとんど神秘主義だ、諸君、 だが僕はそうじゃないかと思うんだ)を例に取り上げると、この蒸留人間が時々、 自分の正反対の前に屈服したあげく、 強烈な自意識のすべてをあげて自分自身はねずみであって人間ではない、と誠心誠意思いこむからである。 これが強烈に意識するねずみであるとしても、やはりねずみであり、ところがあちらは人間で、 従って・・・、などなど。そして、肝心なのは、彼自身が、 自分で自分をねずみと考えることだ。誰が求めるわけでもない。 これが重要な点だ。ではここで活動中のこのねずみを見てみよう。たとえば、彼もまた恨みを抱き (そして彼はほとんどいつも恨んでいるが)、やはり復讐を望んでいるとしてみよう。 その憎しみが彼には、『自然と真理の人』よりずっとたくさん蓄積しているかもしれない。 無礼者を同じ目に会わせてやろうという下劣で卑しい欲望が、 『自然と真理の人』よりずっと醜く彼をえぐり傷つけているかもしれない。 というのも『自然と真理の人』はその生来の愚かさから自分の復讐を単純に正義と考える。 ところがねずみは、強烈な意識ゆえに、そこに正義を否定する。やっとのこと実行に、 復讐の行為に至る。この間に不幸なねずみはもともと一つだった汚物のほかに、 問題や疑惑の形でたくさんの汚物を自分のまわりに積み上げてしまっている。 一つの問題に未解決の問題をたくさん引き寄せてしまうのだ。まわりには否応なしに一種の宿命的な汚水、 一種の悪臭高き汚泥がたまる。 すなわち、彼の疑惑、動揺がたまったところへ、 裁判官か独裁者といった姿で勝ち誇ったようにまわりを囲み、 思い切り高笑いを浴びせる猪突猛進の実務家たちの飛ばすつばが仕上げとなる。 もちろん、彼としては、 すっかりあきらめたとばかりに前足を振り、自信もないくせに軽蔑の笑みを装い、 恥を忍んで自らの穴に滑り込むよりない。そこで、自分の不潔な悪臭高き地下室で、傷つけられ、 打ちひしがれ、笑いものにされた我らのねずみは直ちに冷たい、 毒のある、そして何よりもまず、永久に続く憎悪に沈むのだ。四十年の間、受けた侮辱を究極の、 最も恥ずべき細部に至るまで思い出し続け、 そしてそのたびに、この上なく恥ずかしい詳細を自分で付け加えては、 自身の空想で意地悪く自らをからかったりいらだたせたりする。 自ら自分の空想を恥じることになるのに、それでもすべてを思い起こし、すべてを思い返し、 そんなことも起こりえたとはずだといって、次々とありもしない被害をでっち上げては、 何一つ許さない。ことによると復讐を始めもするのだが、なんというか断片的で、ちまちました、 ペチカの陰からの、匿名式のものであり、自らの復讐の権利も自らの仕返しの成功も信じることなく、 自らの復讐の企てによりいつだって復讐の相手より百倍も自分が苦しむことになり、 それであっちはおそらく痛くも痒くもないのをあらかじめ承知しながらなのだ。 死の床についても再びすべてを思い出し、この間ずっと蓄積してきた利息もあり・・・ しかしまさしくそこに、その冷たくいまわしい半ば絶望の、半信半疑の状態の中に、 その、悲痛のあまり意識的に自分自身を地下室に四十年間生きながら埋葬したことの中に、 その、どうしようもないと強く意識はしているもののそれもいくぶん疑わしい自分の立場の中に、 その内向する満たされない欲望の毒すべての中に、 その永遠のものとした決意とすぐにまた押し寄せる後悔とでぐらつく絶え間ない心の熱病の中に −−僕が言ったあの奇妙な快楽の果汁があるのだ。それはとても微妙で、時には意識に従わないものなので、 少し鈍い人間にもただたんに神経の図太い人間にもひとかけらも理解できない。 『あるいは、連中もまだわかってないかもしれないな、』君たちとしてはニヤニヤ笑いながら付け加えるところだ、 『一度も平手打ちを受けたことが無い連中も』−−そうやって、僕もまた我が人生において平手打ちを 受けた経験があるのじゃないか、だから知ったようなことを言うんだろうと慇懃にほのめかす。 賭けようか、君たちはそう思っているだろう。しかし落ち着きたまえ、諸君、 僕は平手打ちを頂戴したことは無い。もっとも君たちがそれをどう考えようと僕にはまったく同じことだが。 もしかしたら僕は、こっちこそこの人生で平手打ちを食わせたことが少ないのを後悔しているかもしれない。 しかしたくさん、この非常に君たちにとって興味あるテーマについてはこれ以上一言だって。
 ご存知、快楽の微妙なところを理解しない、神経の図太い人たちについて静かに続けることにする。これらの 諸君はたとえばある特別な場合には、牡牛のごとく声を限りに吠えるけれども、またこれが彼らに 最高の名誉をもたらす、ということにしておくとしても、ところが、すでに僕が言ったように、 彼らは不可能を前にすると直ちにあきらめてしまうのだ。不可能−石の壁の意味か?どんな石の壁か? なに、もちろん、 自然の法則であり、自然科学の結論であり、数学である。たとえば自分が猿から生じたのだと証明された時には、 眉をひそめてももうしょうがない、そうだと認めるよりない。実際、 自分の脂肪の一滴は自分の同類のそれの十万滴より大事であるべきであり、いわゆる美徳とか義務とか その他のたわごととか偏見とかすべてが結局、その結論に落ち着くと証明された時には、それならもうその通りと 認めるよりない、どうしようもないんだ、だから二二が四は数学なんだ。反論してみたまえ。
  『これはしたり、』とどなられるだろう。『反抗は許されません。これは二二が四です!自然はあなたの許可を求め ません。自然はあなたの望みなど、あなたがその法則をお好きかお好きでないかなどかまったりしません。 あなたはそれをあるがまま、従ってその結果もすべて受け入れなければなりません。壁は、 そういうわけで、壁であり・・・云々』 おやおや、だがどうして僕が自然法則や算術を気にするものですか、なぜか僕はその法則やら二二が四やらは 好きでもないというのに?もちろん、 実際そのような壁を額で突き破るだけの力がないとすれば僕はそれを突き破りやしないが、しかし 僕の前に石の壁があり僕に充分な力がないからというだけで、僕はそれに甘んじることはしない。
 そのような石の壁が、本当に安らぎであり、本当にそこに少なくとも一種の和解の言葉を 含むかのように思えるのは、ただ単にそれが二二が四だからなのだ。 ああ、ばかばかしいったってばかばかしいったって! それくらいなら、すべてを、すべての不可能や石の壁を理解し、意識してやろう。 従うのがいやなら、この不可能やら石の壁やらに一つも甘んじることはない。 その先は、まったく避けようがない論理の鎖をたどり、 その石の壁だってどうやら何らかの責任が自分にある、 というような永遠の問題の極めていまわしい結論に至ることになる。 もっともこれもまたはっきり明らかなことだが責任なんかちっともないので、ま、そうなると、 どうしようもないから黙って歯噛みしながら、官能のまま惰性に陥り、夢想すれば、どうやら 腹を立てようにも相手がいないらしい、対象が見つからないし、もしかしたら決して現れない、 ここにあるのはカードのすり替え、ごまかし、いかさまであり、ここにあるのは単なるごたまぜであり、 −−なんだかわからないし誰だかわからない、ところがこれが何から何まではっきりしないことであり ペテンであるにもかかわらず、それでもやはり痛みがある、 そしてわからなければわからないほど痛みは増すばかりなのだ!
 

『は−は−は!さあこうなっては君は歯痛にも快楽を見出すぞ!』と君は笑って叫ぶ。
 −だから何?歯痛にも快楽はある、と僕は答える。僕にはまる一月歯が痛かったことがある。だから僕は あるって知っている。もちろんその時は黙って腹を立てるのではなくうめき声をあげる。ところがこのうめき は素直ではなく、このうめきは悪意を伴い、そしてその悪意が重要なところでもある。 このうめき声にこそ苦しむことの快楽も表現される。そこに快楽を感じないならうめくことにもなるまい。 これはよい例なので諸君、僕はこれを発展させよう。このうめき声の中には、まず第一に、 この意識にとって屈辱的な君らの痛みに目的など存在しないということが丸ごと表現されている。 すなわち丸ごと自然法則が。もちろん君らはそんなものにはつばをかけるだろうが、 それでも君らはそんなもののために苦しみ、一方そんなものの方は苦しみやしない。 敵が見つからないのに痛みは存在するという意識も表れている。さらに、歯医者が総がかりになっても、 君らは完全に自分の歯の奴隷であるという意識、 誰やらが望めば君らの歯痛もおさまるが、望まなければそのままさらに三ヶ月も痛むだろうといういう意識、 そしてとどめには、君らがなおも承知せず、それでも抗議するというなら、君らに残されているのは 自らの慰みにただ我と我が身を鞭打つか、君らの壁を握りこぶしで厭というほど打つことだけであり、 それ以上は絶対に何もないという意識だ。そう、そこで、まさにこの血まみれに傷ついた心から、 まさにこのどこからとも知れぬ嘲弄から、ついに、時には官能の絶頂にまで達する快楽が始まるのだ。 僕は君たちにお願いするが、諸君、いつかそのうちに歯痛で苦しむ十九世紀の教養ある人間のうめき声を 注意深く聞いていただきたい。痛くなって二日目か三日目頃がいい。そうなるともう初日とは違ううめきが 始まる、すなわち単に歯が痛むからではない。 野卑な農夫なんかのようにではなく、発達とヨーロッパの文明の影響を受けた人間がうめくように、 今日の表現で言えば『土地と民族の原点を放棄した』人のようにうめくのだ。 そのうめき声は不快で、下劣な悪意に満ちたものになり、何昼夜も徹して続く。 それでいてうめき声が自分に何の利益も生まないことを自分自身わかっている。いたずらにただ 自分も他人も傷つけ苛立たせていることを誰よりもよくわかっている。さらには彼が精一杯のところを聞 かせている聴衆だって、いや彼の家族全員もすでにうんざりしながらそれを聞いているわけで、 少しもそれを本気にせず、彼が別のやり方で、もっと単純に、小節抜き、酔狂抜きでできるのに ただ腹立ち紛れの意地悪からそんなふうに悪ふざけをしているのを腹のうちではお見通しなことまで、 彼はわかっている。 ところが、こうした意識や恥辱すべての中にこそ官能のにおいも含まれているのだ。 曰く、『僕はおまえたちを悩まし、心をかき乱し、家中眠らせない。そうだほら眠らなけりゃいい、 僕の歯が痛い事をおまえたちも常に感じていればいいじゃないか。 今ではもう、僕はおまえたちにとって前にそう見られるように望んでいた英雄ではなく、単に下劣な人間、 ごろつきにすぎない。なにそれで結構じゃないか!僕は大いに嬉しい、おまえたちにばれちまって。 僕の卑しいうめき声はいやな感じかい?なに不快で結構。そら今度はもっといやな小節をつけてやる・・・』 これでもわからないか、諸君?いや、どうもこれは深く発達を遂げ、意識を掘り下げねばならないらしいぞ、 この官能の味の屈折したところをすっかり理解するには!君らは笑うのか?大いに嬉しいですよ。 僕の冗談は諸君、もちろん、調子は悪いし、ぎくしゃくして、つじつまがあわないし、 自信に欠ける。だがつまるところこれは僕が自分自身を尊敬していないからだ。いったい意識する人間が いくらかでも自分を尊敬できるものだろうか?
 

いやどうしてできる、どうしてできるものか、快楽を探して自らの屈辱感の中にまで踏み入った人間に いくらかでも自分を尊敬するなんてことが? 僕が今こんな事を言うのは甘い甘い後悔のようなものからではない。それに、だいたい僕は耐えられないんだ、 「ごめんなさい、とうさん、これからはしません」なんて言うのは。 というのもそんなことは僕には言えないからではなく、その反対で、たぶん、 そんなことはいくらでも言ってのけられるからであり、それもどうだろう、 僕はよりによって自分が悪いとは夢にも思わない、そんな場合に厄介を背負い込んだものだった。 これがもう何よりたちの悪いところだった。 それにまたその際僕は心から感動し、後悔し、涙を流し、そしてもちろん自分自身をだまし、 といっても演技でもなんでもないのだ。これはもう心の垂れ流しであって・・・ これではもう実際自然法則を責めるわけにはいかないが、それでもやはり生涯を通じていつも、 何よりも僕を傷つけたのは自然法則なのだ。こんなことは皆思い返すのも不快だし、 その当時だって不快なことだった。なにしろ一分かそこらのうちに、 もう僕は腹を立てつつ、これはみんな嘘だ、嘘、胸の悪くなるようなわざとらしい嘘だ、 この後悔も皆、この感動も皆、この再生の誓いもみんな嘘だと考えたものだ。 だが訊いてくれたまえ、何のために僕がこのように自分自身を損ない、苦しめたのか?答え。 それは、何もせずにぶらぶらしているのがもうすっかり退屈だったから、そこで酔狂を始めもしたんだ。 本当にそうなんだ。もうちょっとよく自分を観察してみたまえ、諸君、そうすればそれはそうだとわかる。 せめて何とか生きていけるように、と自分自身で冒険を考え出し、人生を創作したんだ。 僕には何度そんなことがあったろう−つまり、ただ、たとえば、腹を立てるのだ、そんなふうに、何のわけもなく、 わざと。それにまあ自分でも理由もなく腹を立て、そのふりをしたのだとわかっていながら、 最後には実際、本当に腹を立てるまで自分を駆り立てることがよくあった。何か僕は生涯、 そういう悪ふざけをしたくてたまらず、それでとうとう、もう自分を抑えられなくなってしまった。 それから無理やり恋をしてやろうと思ったことが二度もある。それで苦しんだのも、諸君、本当だ。心の奥では、 お前は苦しんでやしないぞと思い、あざけりが沸き起こる、だがそれでもやはり苦しむのだし、それも本物、 型通りにだ。すなわち、嫉妬をして、我を忘れて・・・それもみんな、諸君、退屈から、 みんな退屈からなのだ。惰性にやられたのだ。なにしろ意識の直系、嫡出、直接の胎児はこの惰性、 すなわち意識的に何もしないことだから。僕はこれについては前にもう触れた。 繰り返すと、しつこく繰り返すと、猪突猛進の実務家が例外なく行動的なのは、 彼らが鈍感で偏狭だからだ。これをどう説明するか?こういうことだ。彼らは愚鈍だから、 目前の二次的な原因を根本的なものと思い込み、それゆえ、そうでない人たちよりすみやかに、 簡単に自分の行為の不変の根拠を見つけたと確信し、それで落ち着きを得る。そう、とにかくこれが重要なのだ。 とにかく活動を始めるためには、いかなる疑念も残さぬためにも、 それに先立って完全に不安をなくすことが必要だ、さてさて、では僕などは どうやって不安をなくそう?僕が納得する根本的な動機はどこにある、根拠はどこにある? どこから僕はそれを持ってくる?僕は考える訓練をしている、従って、 僕の場合どのような根本的動機も、直ちにその後ろから別のいっそう根本的なものを引き連れてきて、 そうやって終わることがない。そういうことがまさしく、あらゆる意識と思考の本質である。 これがやはり、またしても、自然法則ということになる。結局のところいったい結果はどうなる? そう、同じだ。思い出してくれたまえ。 さっきほら、僕が復讐について話したろう。(君たちはきっと深く考えもしなかったろう)。 こう言った−−人はそこに正義を見出すから復讐する。つまり、彼は根本的動機を見つけた、 根拠を見つけた、それはすなわち、正義。従って彼はあらゆる面で安心を得て、その結果、 公正な正義の行為をすることを確信しながら、心穏やかに、見事に復讐する。 だが何しろ僕にはそこに正義が見えない、美徳もまた見出すことはない、従って復讐を始めるとしたら、 悪意からというよりない。悪意、もちろんこれはあらゆるものを、僕のあらゆる疑念を圧倒しうる、 そして、それゆえに、それが動機ではないからこそ、 根本的動機の代役をこの上なく見事に務められるかもしれない。しかしいったいどうしたらいいいんだ、 僕に悪意もなかったら(僕はさっきここから始めたんじゃないか。) 僕の敵意はまたもやあの呪わしい意識の法則により化学分解にさらされる。見れば、対象は雲散霧消し、 動機は蒸発し、罪人は見つからず、侮辱は侮辱でなくて運命、 つまり何か歯痛のような誰の罪でもないものとなり、従って、またしても同じ出口、 すなわち壁を厭ってほど殴りつけること、が残される。なに、どうしようもないさ、 根本的動機が見つからなかったのだから。そしてせめて当座は意識を追い出し、議論ぬき、根本的動機ぬきで、 盲目的に自分の感情に溺れてみるがいい。憎しみを抱くなり、恋をするなり、 ただぶらぶらしていないことだ。どんなに遅くても翌々日には、 わかっていながら自分で自分をだましたことで自分で自分を軽蔑し始める。結果は、シャボン玉と惰性。 ああ、諸君、僕がね、自分を知的人間とみなしているのは、ただ生涯を通じて 何一つ始めることも、終えることもできなかったからかもしれない。上等、上等だ、僕はおしゃべりだ、 みんなと同じ無害で煩わしいおしゃべりだ。だがじゃあどうするんだ、あらゆる知的人間に直接かつ唯一 割り当てられたものがおしゃべり、すなわち空から空っぽへわざわざ移し変えること、だとしたら。
 

ああ、僕が何もしないのがただ怠惰からだったら。諸君、それなら僕はどれほど自分を尊敬しただろう。 尊敬するはずだ、せめて怠惰でも自分のものにできれば、せめてひとつでも積極的ともいえる特性があり、 そのことを確信すれば。問い、あれは何者だ?答え、怠け者だ。 こう自分のことを言われたら実に楽しいではないか。つまり、明確な定義であり、 つまり、自分を語る言葉があるのだ。『怠け者!』とにかくこれは肩書きであり役割であり、 そして経歴ですとも。ちゃかさないでくれ、そうなんだから。 僕はそうなったら超一流のクラブの正式な会員となり、たゆまず自分を尊敬することに専念する。 僕は、生涯を通じてラフィットの通であることを自慢にしていた紳士を知っている。 彼はこれを明確な自分の美点と考え、決して自らを疑うことはなかった。 彼は良心安らかに、誇らかに死んでいったが、それでまったく正しかったのだ。 しかし僕ならその場合自分の身上を選ぶだろう。怠け者で大食漢だが、それも単純なのではなく、 そう、たとえば、美しく崇高なものすべてに共感しているとか。これはお気に召すだろうか? 僕はこれを長いこと空想していた。 この『美しく崇高なもの』が四十年間重くのしかかり、僕は頭を上げられなくなってしまった。 しかしそんな四十年ではあっても、そうなったら・・・おお、そうなったら違う! 僕はその瞬間から自分にふさわしい活動を見い出すだろう。すなわち、 すべての美しく崇高なものの健康を祝して乾杯するのだ。あらゆる機会を逃さず、 初めに我がグラスに涙をこぼし、しかる後にすべての美しく崇高なもののためにそれを飲み干すだろう。 僕は世のすべてのものをその時美しく崇高なものに変えるだろう。不快きわまる、 議論の余地ないごみくずの中に美しく崇高なものを見出すだろう。 僕は濡れたスポンジのように涙もろくなるだろう。たとえば画家がゲーのような絵を描いたとする。と、 美しく崇高なものすべてを愛するため、直ちにゲーの絵を描いた画家の健康を祝って杯を上げる。 作家が『誰もがお気に召すままに』を書いた。すると、 『美しく崇高な』ものすべてを愛するために、直ちに『その誰か』の健康を祝って杯を上げる。 そのかわり僕は尊敬を要求し、僕に敬意を示さぬものにはしつこくつきまとってやる。穏やかに生き、 誇らかにに死に、−やあ、なんともすばらしい、まったくすばらしい!そしてその時僕は腹を膨らませ、 あごを三段に建て増しし、赤鼻をこしらえ上げる、そうすると来る人来る人僕を見ながら言うだろう、 『ほら、これぞプラス!これぞ真の積極性そのもの!』まあお好みしだいではあるけどね、 このネガティブな時代にそういうコメントを聞くのは心地よい限りじゃないか、諸君。
 

だがこんなことはみな黄金の夢にすぎない。ああ、教えてくれ、最初に宣言したのは誰だ、 最初に発表したのは誰だ、 人が汚らわしいことをするのはただ真の自分の利益を知らないからだなんて、そして彼を啓発して、 真の、正常な利益に目を開かせれば、人はその時から汚らわしいことをするのをやめ、 その時から善良で高潔になるだろう、なぜなら、啓発され、真の自分の利益を理解しているので、即、 善行に自分自身の利益を見るだろう、で、 自分自身の利益に反すると知りながら行動する人など一人もいるはずのないのは知れたこと、従って、 いわば必然的に善をなすようになるだろう、だなんて、え?ああ、赤ん坊だ!ああ、純で無邪気な子供だ! じゃあ、そもそもこの何千年、いったいいつ、人がただ自分自身の利益だけから行動するようなことがあっただろう? 何百万という事実をいったいどうしてくれよう、人々がわかっていながら、 すなわち自分の真の利益を完全に理解しながら、それをさしおいて、別の道へ、危険を承知で、 万一にかけて、誰にも何にも強制されることなく突進し、 定まった道だけは嫌ですというように、強情に、わがままに、別の、困難な、 ばかげた道を、ほとんど闇を探るようにしながら突破してきた、それを証言する事実を。結局そうなると、 彼らにとって実際この強情とわがままがどんな利益よりも心地よかったのだろう・・・利益! その利益って何だ?それに君たちは人間の利益が正しくはどこに存するか、完全、 正確に定義する任を自ら引き受けるか? そして場合によっては自分の得になることではなく害になることを望む、 まさにそこに人間の利益の存することだって 時にはただありうるばかりかそうならざるを得ない、 もしそんなことになったらどうだろう?そしてもしそうなら、そういう場合がありうるならそれだけで、 すべての規則が灰燼に帰すだろう。君たちはどう思う、そういう場合はないだろうか?君たちは笑うんだね、 笑いたまえ、諸君、だが一つ答えてくれ。人間の利益が完全に正確に計算されたものかどうか? どんな分類にもただ入らないばかりか、入りようがない、そんなのはないかどうか?だってねえ君、諸君、 僕の知る限りでは、君たちの人間の利益の目録はすべて統計上の数字から、科学経済学の公式から、 平均値を取ったものだ。結局君たちの利益、それは福祉、富、自由、平和、そう、などなど、などなどだ。 そうなると、たとえばわかっていながらあからさまにいちいちこの目録に反抗するような人間は、 君たちにとって、なに、そりゃもちろん僕にとってもだが、反啓蒙主義者でありまったくの狂人ということになる、そうだろ? しかしねえ、ここに不思議なことがある。すなわち、そういう統計学者、賢人、人類愛論者がそろいもそろって、 人間の利益の計算にあたっていつもある利益を見逃すことになるのはなぜなのか? 実際取り入れるべきような形で計算に取り入れられてはいないが、これには計算全体が依存しているのだ。 たいして面倒もあるまい、それを、この利益を取り上げて、そのうえで一覧表に書き入れたらよかろうに。 ところがぶちこわしになるんだ、この扱いにくい利益はどんな分類にも当てはまらず、一つの表には納まらないってわけでね。 たとえば僕の友人がいる・・・ええい、諸君!君たちにとっても彼は友人じゃないか。いやもう誰だって、 誰だってみんな彼の友人じゃないか!事の準備にかかったこの紳士はすぐさま君たちに大げさかつ明瞭に 理性と真理の法則に従って行動することがいかに必要とされるかを開陳する。 さらに、感激と情熱をこめて君たちに、人間にとっての真の、正常な利害関係を語るだろう。 自分の利益も美徳の真の意義も理解しない、近視眼的愚か者を冷笑してとがめる。 それがだ、まったく十五分もたたないのに、突然生じた外的な原因など何もないのに、 あらゆる利害を越えた内的な何ものかに従ってまったく別の歌を歌いだす、 すなわち明らかに自分で言ったのと反対のことをやりだす。つまり理性の法則にも反し、自身の利益にも反し、 なに、要するにすべてに反し・・・言っておくが、僕の友人とは集合的人格であるから、 彼一人だけを責めるのは何というか難しい。というわけでね、諸君、実際、 ほとんどどんな人にも自分の利益よりずっと貴重な何物かが存在しはしないか、というか (論理を犯さぬために)言い換えるとそこには最も利益となるような利益 (すっかり無視されている、ほらたった今言った利益)があり、それは他の一切の利益よりも重要で有益で、 そのためには人間、必要なら喜んであらゆる法則に反して行く、すなわち理性、名誉、平和、福祉に反し、 要するに、あらゆる美しく有用なものに反し、ただただ彼にとって何より貴重な、 この根源的な、最も利益となる利益を獲得しさえすればいいのではないか。
 『なあんだ、そうなるとやっぱり利益じゃないか』と君たちは僕をさえぎる。失礼ですがね、 まだ話はあるんだ。それに言葉遊びはどうでもいい。そんなことより驚嘆すべきでははないか、 この利益は、我々の分類をすべて破壊し、 人類を愛する人たちによって人類の幸福のために作られたすべてのシステムを常に粉砕する、 要するにあらゆるものの邪魔をする、まさにそういうものなのだ。だがこの利益の名を君たちに明かす前に、 僕は自分の体面を汚す覚悟で大胆に宣言しよう、すなわち、 真の正しい利益について説明を受ければ、人間はその利益の獲得にと欠くべからざる努力をして ただちに善良で高潔になるだろう、ともくろむ論理はどれもこれも、この美しいシステムはどれもこれも、 さしあたり、僕の意見では、単なる数学的論理だ!そう、数学的論理なのだ! 結局人類自身の利益のシステムによる全人類再生の論理を主張しようだなんて、結局それは、 僕の考えでは、ほとんどその・・・なに、それこそ、たとえば、バックル(ヘンリー・T)の後ろについて、 文明により人間は優しくなり、結果として、流血願望も減じ、 戦闘力も減じると主張するも同じだ。論理の上ではそれはそうなるように見える。 だが人間はシステムや抽象的な結論を偏愛するあまり、ただ自分の論理を正当化するために、 進んで真実を故意にゆがめ、進んで見て見ぬふり、聞いて聞かぬふりをしているんじゃないか。 こんな例を上げるのもこれがあまりにも鮮明な例だからだ。さあまわりを見渡してみたまえ。 血が川となって流れている、それもまるでシャンパンかなにかのように陽気に。どうだろう、 バックルもいた我が十九世紀のすべては。どうだろう、ナポレオンは−−あの偉人と、当代のと。 どうだろう、北アメリカは−−永遠の連邦か。とどめは 漫画のようなシュレスヴィヒ・ホルシュタインでどうだ・・・さあ、文明が我々のどこを優しくするのか? 文明が人間の中に生み出すものは感覚の多様性だけで・・・それ以上、絶対に何もない。 この多様性の発達により人間はさらに、血に快楽を見出すところまで行きつくかもしれない。 これはすでにあったことじゃないか。君たちはお気づきだろうか、 最も洗練された虐殺者は完璧と言っていいほど最も教養ある紳士であったし、それでいて アッチラとかステンカラージンのようなのが総がかりでも歯が立たない場合もあり、 仮に彼らがアッチラやステンカラージンのようにはっきり目立たないとしても、 それは彼らがあまりにも頻繁に登場し、あまりにもありふれていて、慣れてしまったからである。 少なくとも、文明により人間の残虐さが増さないにしても、確かに前より残虐さが悪質で、 汚らわしくはなった。以前、人間は大虐殺に正義を見出して、良心穏やかに滅ぼすべきものを全滅させた。 ところが今や、我々は少なくとも大虐殺を忌まわしいことと考えているのに、 それにもかかわらずこの忌まわしいことを、 それも以前よりさらに大規模に行っている。どちらが悪いか自分で判断してほしい。クレオパトラは (ローマの歴史に例をとらせていただきたい)自分の女奴隷の胸に金の針を突き刺すのを好み、 女たちの悲鳴や身もだえに快楽を見いだしたと言う。君は言う、 これは相対的に言って野蛮な時代のことだ、そして今も野蛮な時代であり、 というのも(これもまた相対的に言えば)今も針が刺されている、また人間は、今では 野蛮な時代よりは物がはっきり見えることがあると知ったとはいえ、 いまだ理性や科学が示すように行動する習慣を身につけるには程遠い、と。 しかし、それにもかかわらず君たちは、 いくつかの古き悪しき慣わしを完全に乗り越えた時、そして健全な感覚と科学が人間の本性を完全に矯正し、 正常な方向に向けた時、人間はきっと習慣を身につける、とすっかり確信している。 その時人間は自由意志で間違いを犯すようなことを自らやめ、いわば、 好むと好まざると自らの意志が正常な自分の利益に反することを望まなくなる、と君たちは確信している。さらに、 その時、君たちに言わせれば、科学そのものが人に教えてくれるのだ (これは僕の考えではあまり贅沢だけれども)。実のところ人間には、意志も、気まぐれもなく、 それどころかかってありもしなかったし、 人間そのものが、ピアノの鍵盤かオルガンのピンのようなもの、それ以上のものではないと。また、 それに加えて、この世には自然の法則も存在する、そういうわけで人のすることはすべて、 決してその望みに基づいてなされるのではなく、ひとりでに自然法則に従ってなされるのであると。 従ってこの自然法則さえ発見されれば、もう人は自分の行為に責任を持つことはないし、 彼にとって生きることも極端に楽になる。一切の人間の行為はその時、ひとりでに、この法則に従って、 数学的に、対数表のように、十万八千まで計算され、カレンダーに書き込まれるようになる。 あるいはさらにうまくいくと、現在の百科事典のような結構な出版物が現れ、 その中ですべてが正確に計算され、示されるので、もはやこの世界には行為も、出来事も存在しなくなるだろう。
 そのときこそ、−これはみんな君の言うことだが、− これもまた数学的正確さで計算済みですでに準備万端の新しい経済関係が生まれ、それゆえ、 ありとあらゆる問題は一瞬にして消え去る、 というのもそれらに対してありとあらゆる答えが出ているからにほかならない。その時、クリスタル・パレスが建つ。 その時・・・なに、要するに、その時、伝説の鳥が舞い降りる。もちろん、その時には、 (これはもう僕が今言うことだが)、たとえばの話、ひどく退屈にならない保証はどこにもない (だっていったい何をするんだ、すべてが表に従って計算済みになった時に)が、一方、 すべてがきわめて道理に適ったものになるだろう。もちろん、退屈からどんなことが考え出されるものやら! なにしろ金の針だって退屈から刺されたものだ、がこれだって全然何でもない。 不快なのは(これもまた僕が言うことだが)、ことによると、案外その時には金の針を嬉しがるかもしれない ことだ。なにしろ愚かだから人間は、愚かと言っても珍しいやつだ。つまり、決して愚かではないにしても、 そのかわりもう恩知らずで、それもどこを捜したって見つからないようなやつだ。 たとえばの話だが、合理的な未来の世界に、突然、前触れもなく、何かこの、 下劣、というかむしろ反動的でいやみな人相を持つ紳士が出現して、 腰に手を当て僕ら全員に向けてこんなことを言ったって、僕はちっとも驚かない。『どうだろ、諸君、 この合理主義をすべてぶっ飛ばしてやったら、いっぺんに、蹴飛ばして、粉々に。その目的といってもただ、 この対数表をすっかり粉砕してやるためだ、そして再び我々が自分の愚かな意志に従って生きるためだ』 これはまだ何でもないとしよう、しかし不愉快なのは、きっと追随するやつが現れることだ。 そのように人間はできているんだ。そしてこれが皆、どうやら、 口にする価値もなさそうなまったく空疎な理由からなんだ。すなわちなぜかというと、人間、 いつでもどこでも、誰だろうが彼だろうが、決して理性や利益が命ずるようにはせず、 欲するままに行動するのを好んできたからだ。自身の利益に反して欲することはありうるし、 時には絶対にそうならざるをえないこともある(これはもう僕の考えだ)。 自分自身の自由で縛られない欲求、自分自身の、野蛮きわまるとも言える気まぐれ、 時には気が狂ってもかまわぬとばかりにたけり立つ自分の空想、こういったものすべてこそ、まさしくあの、 見逃された、最も利益となる利益であり、どのような分類にもあてはまらず、 そのためにいつもすべてのシステム、理論が粉々に飛び散ってしまうものなのだ。 いやどうしてだろう、あの賢人たちが皆、人間には何か正常な、何か有徳の欲求が必要だなどと考えたのは? どうして彼らは、人間は合理的に利益を生む欲求が必要とせざるをえない、と思わずにいられないのか? 人間に必要なのはただ一つ、独自の欲求である。 この独自性が高くつこうとも、何をもたらそうとも。それに欲求なんて何に左右されるか・・・
 

『ハ−ハ−ハ!だがその欲求だって、実は、もしかすると、ないんじゃないか!』 と君は笑いながらさえぎる。『このところの科学による人間の分析解剖の進展の結果、 既にもう我々も知るところとなったが、欲求とかいわゆる自由意志とかいうものはほかでもない、・・・』
 待ってくれ、諸君、僕は自分でもそんなふうに始めたかったんだ。僕は、実を言うと、ぎょっとしたくらいだ。 ちょうど僕は叫ぼうとしたところなんだ、欲求なんてねえ、何に左右されるかは誰にもわからないし、 たぶん、これは結構なものらしいが、と、そこで科学ってやつを思い出して・・・つかえちゃった。 そこへ君が口をはさんだのだ。だって実際問題として、いいかな、 いつの日か現実に我々の欲求や気まぐれすべてについての公式が発見されたら、すなわちそれらが何に左右され、 どのような法則に従って生じ、どのようにふくらみ、これこれの場合はどこに向かおうとし、 など、など、すなわち正真正銘の数学的公式が発見されたら、 そんなことになったらその時には人間直ちに、おそらく欲求することをやめてしまう、いやいや、 おそらく確実にやめてしまうだろう。だいたい表に従って欲求する気になるものか?しかもだ、 直ちにそいつは、人間からオルガンのピンかそんなようなものになるのだ。なぜっていったいそのような 欲望もなく意志もなく欲求もない人間が、どうしてオルガンのバレルのピンではないのか?君たちは どう思う?確率を計算しましょうよ、これがありうることや否や?
 −ふむ・・・君たちは結論を下す、我々の欲求は自分の利益に対する見方が誤っているために 実によく誤りを犯す。我々が時々まったくばかなまねをしたがるのも、 我々は愚かだから、そのばかなまねこそ、あらかじめ想定される何らかの利益を得る、最も楽な方法と思う からだ。ところがだ、これがすべて説明され、紙の上で計算された時 (まったくありそうなことだ、というのも人間がある種の自然法則を決して発見しない とあらかじめ信じてかかるのは恥ずべきだしばかげたことだから)、その時には、もちろん、 いわゆる欲望は存在しなくなる。なにしろもし欲求が、いつか完全に理性との合意に至ったら、 もうその時は我々、論理的に考え、実際に欲求することはないだろう。 だってありえないことじゃないか、たとえば、理性を保っていながらばかなまねをしたがるなんて、 つまりわかってるのに理性に反してわが身を害することを望んだりするなんて・・・ だがいつかはいわゆる我々の自由意志の法則なるものが発見されるわけで、 あらゆる欲求と論理が実際に計算されてしまうかもしれないので、そうなると、冗談抜きで、 一種の数表のようなものが確立し、そこで我々は実際この数表に従い欲求することになるかもしれない。 なにしろ、たとえば、僕が誰かを手つきで侮辱したとして、それはそうせざるをえなかったし、 必ずこれこれの指を使って侮辱しなければならなかったからそうなった、 と計算され証明される日がきたら、 いったいその時僕に自由なるものが残されているのか、 とりわけ僕が学者でどこかで科学の課程を修了していたとしたら? なにしろ僕はその時向こう三十年に渡って僕の全人生を計算できるのだ。要するに、そうと決まったら、 なにしろ我々にはもうすることがなくなる。なんにせよ受け入れざるをえなくなるのだ。 その上常々我々としては、倦まずたゆまず自分に何度も言い聞かせなければならないことがある。 何かの瞬間、何かの状況で自然が我々に許しを求めるはずがないということ。 また自然を我々が空想するようにではなく、あるがままに受け入れなければならないということ。 そしてもし我々が実際に数表を求め、カレンダーを求め、そう、それから ・・そう、あわよくばレトルトさえも求めていくというのなら、あきらめたまえ、 レトルトも受け入れねば! でないとレトルトが自分から、君など抜きにして始める・・・
 そうですな、しかし僕としてはそう、そこのところでコンマだ!諸君、僕が哲学しすぎたのを容赦してほしい。 ここには四十年の地下室があるんだ!空想にふけるのを許してほしい。いいですか、諸君、理性はよいものだ、これに疑いはない。 しかし理性は、ただの理性であり人間の理性的能力を満足させるだけだが、欲求は、あらゆる生の現れ、 すなわちあらゆる人間的な、理性をも伴い、痒いところをかくようなことすべてをも伴う、 生の現れなのだ。こうして現出した我々の人生がしばしばつまらないことになるとしても、 しかしそれでも人生であり、単なる平方根の算出ではないのだ。たとえばこの僕だって きわめて当然のことだが、単に僕の理性的能力だけ、 すなわち僕の生きる能力すべてのやっとこ二十分の一ぐらいを満足させるためではなく、 僕の生きる能力すべてを満足させるために生きたいと思う。理性に何がわかる?理性が知っているのは 理解できたことだけだ(あることは、おそらく決して理解しない。これが慰めにならないとしても、 いったいなぜはっきりそれを言わない?)が、人間性というものは、すべてが全体として、 意識的にせよ無意識的にせよ、その中に存在するもの全部で活動し、間違いをおかすにしても、 そうして生きている。僕はねえ、諸君、君たちが僕を哀れみの目で見ているんじゃないかなと思う。 君たちは僕に繰り返し言う、啓発され発達した人、要するに、未来の人がそうであるような人が わざと自分の不利益になるようなことを望むなどありえない、これは数学である、と。 まったく同意する、実際数学だ。だが君たちに百回でも繰り返そう、唯一の場合が、たった一つ、 人間が故意に、意識的に、自らを害しさえする、愚かな、いやばかげきったことを 望むかもしれない場合があるのだ。すなわちばかげきったことさえ自分のために望む 権利を持ち、分別あることだけを自分のために望む義務にとらわれないために。 いや、このばかばかしいこと、いや、この我々の気まぐれは、諸君、実際、 我々にとって、地球上に存在するあらゆるものの中で、とりわけある場合には、 何より有益かもしれない。そして特に、それが明らかに我々に害をもたらし、 利益についての理性による最も健全な結論を否認する、そんな場合であってもなお、 何よりも有益な利益であるかもしれないのだ。というのもとにかくそれは我々の最も重要なもの、 最も貴重なもの、すなわち我々の個性と我々の独立性を守ってくれるのだから。 そこである人たちは主張する、 それは現実にも人間にとって何より貴重なものだ。そして欲求は、もちろん、 欲すれば理性と一致することがありうる、とりわけそれをあまり甘やかさず、節度をもって用いるならば。 またこれは有益でもありまた時には称賛にさえ値するんだ、と。しかし欲求ははよく、いやしょっちゅう、 完全にそして頑固に理性と衝突し、そして・・・そして・・・そして、おわかりだろうか? それがまた有益でありまた時には大いに称賛にさえ値するんだ。 諸君、人間がばかではないと仮定しよう。(実際、人間をそんなふうに言うことは絶対にできない。 一つ考えてみたまえ。人間がばかだとしたら、それでその時はいったい誰が利口ってことになる?) しかしばかではないとしても、それでも恐るべき恩知らずだ! 恩知らずなこと驚くべし。それこそ僕は考える、最もよい人間の定義とは、こうだ。 二足の恩知らずな生き物。だがまだこれで全部ではない。これはまだその主要な欠点ではない。 その最も主要な欠点−それは常に善悪をわきまえないことだ。 大洪水に始まり、シュレスビヒ・ホルスタインに至るまで人類の存在する間、常にそうだった。 善悪をわきまえないこと、その結果としてまた無分別なこと。なにしろ無分別がほかでもない、 善悪をわきまえないことから生じるのは大昔から知られている。 ではためしに人類の歴史に目をやってみたまえ。さて、君たちに何が見える?荘厳だって?そうだろう、 荘厳と言われるなら。確かにロードス島の巨像一つ例にとってもたいしたものだ! ある人はそれが人間の手による作品であると言い、ところが別のある人は自然自らの産物と主張する、 とゲー・エヌ・アナエフスキーが証言するのも無理からぬことだ。 雑多だって?そうだろう、雑多と言われるなら。あらゆる時代、あらゆる国の軍人、 文民の制服ひとつとって調査する−確かにこれだけでもたいしたことだが、 略服からとなるとまったく足がもたない、 どんな歴史家もすごすご引き下がるだろう。単調だって?なに、そうだろう、単調でもある。戦って、 戦って、今も戦っているし、初めから戦ったし、またその後も戦った−−同意なさるか、 これはもうあまりに単調であると。要するに、世界の歴史については何とでも言うことができる、 ただ思いつく限りのまったくでたらめな空想ならどんなことでも。一つこれだけは言えない−理性的であるとは。 最初の一言でのどを詰まらせてしまう。実際、毎度のように出くわす出来事と言ったら。 なにしろいつの世にも品行正しい理性的な人々、賢人たちや人類愛の人たちが現れては、 まさに自ら生涯すべてを捧げ、できる限り自ら品行正しく理性に従い、 いわば自分の隣人を照らすことを目的とし、身をもってこの世の中で品行正しく 理性的に生きることが実際に可能であると隣人に証明しようとするではないか。それがどうだ? ご存知のように、これら愛の人々の多くが、遅かれ早かれ、人生の終わりに近づくと、逸話の類を、 時にはまったく下品きわまるものさえ作り出して自らを裏切るじゃないか。ここで君たちにお尋ねしよう。 本質からしてそのような奇妙な性質を賦与された人間にいったい何が期待できるのか? ならば彼にありとあらゆるこの世の幸運を浴びせ、幸福を水にたとえれば、 水面には泡だけが踊るように頭まですっぽりと幸福におぼれさせよう。また彼に経済的ゆとりを与え、 それによって寝て、甘い菓子を食べて、世界の歴史を終わりにしないように励む ほかにはもうまったくする事が残らないようにしてみたまえ−それでも彼は君たちに対して、 それでも人間というものは、ただ忘恩から、ただ中傷するために、忌まわしいことをするものなのだ。 甘い菓子さえも危険にさらし、わざわざまったく破滅的なばかなまねを、 まったく非経済的なナンセンスを望む、それもただこの建設的な理性全体に 自分の空想による破滅的な要素を混ぜ込む、それだけのために。どうしても自らの途方もない夢想、自らの 俗悪きわまる愚行にしがみついていたいと思うのは、ただ、人は依然、 人であってピアノの鍵盤ではないことを(それをどうしても必要なこととして)自分自身で確かめるためであり、 そのピアノであれば自然の法則が自らの手で演奏してくれるとしても、 もはやカレンダーによらなければ何事も欲求できなくなるまでとことん弾いてしまう恐れがあるからだ。 いやそれだけではない。人が本当にピアノの鍵盤になってしまったとしても、 自然科学、数学まで用いてこれを彼に証明したとしても、そんな場合でさえ、それでも彼は、 道理をわきまえず、ただもう恩知らずなものだから、わざわざ正反対の何事かをしでかすのだ。 それこそ、自分の主張を通すために。そしてもしも彼に手段が見当たらない場合には、 破壊と混乱をでっちあげ、さまざまな苦痛をでっちあげ、それで結局自己を主張するのだ!世界を呪うにしても、 呪うことができるのは唯一人間だけである(これはもう人とほかの動物との最も主要な相違となる 人の特権である)からで、そうなれば彼はたぶん、呪い一つで自身を達成する、すなわち真に確信するのだ、 自分は人間であってピアノの鍵盤ではない!たとえ、 これらすべてもまた、混乱も、闇も、呪いも、表に従って計算できる、 そしてあらかじめ計算できるという可能性が、それ一つですべてを制し、理性がものを言う、と君たちが言ったところで、 その場合人間はわざと発狂してでも、理性を捨て自己を主張するのだ!僕はこれを信じる、 僕は責任を持ってそう言う、だってとにかく人間の行為はこれすべて、実際、 人間が人間であってピンじゃない!と、一瞬一瞬自分自身に証明する、罪をかぶってでも証明する、 野蛮人になってでも証明する、それだけのためであるように思えるからだ。 こうなったら、誤ちを犯してもいいだろう、そんなものがいまだ存在しないことを、 そしてまだ今のところ欲求が何に依存するのか誰も知らないことを称えたっていいだろう・・・
 君たちはこう叫ぶ(ただしその叫び声をまだ僕に与えてくださろうというのならだが)。 誰も君から意志を取り去る者などいやしない、私たちはただ何とかして君の意志が自分から、 自らの意志で、君の正しい利益や自然法則や算数と一致するようにできないかと努めているだけなのだと。
 −ええい、諸君、事が表にまで、算数にまで行ってしまった時に、二二が四だけがどこにでも顔を出す ようになった時に、どうしてそこに自分の意志などがあるだろうか?二かける二は僕の意志がなくても四 だろう。自分の意志とはそんなものか!

諸君、僕は、もちろん、冗談を言っているんだし、自分でも下手な冗談だとわかっている。 しかしだからといって全部が全部冗談と取ってはいけない。僕は、ことによると歯軋りをしながら 冗談を言っているのかもしれない。諸君、僕を苦しめている疑問がある。僕のためにそれらを解決してくれ。 たとえばほら、君たちは人間に古い習慣を捨てさせ、その意志を正して、科学と健全な感覚の要求する ところに一致させようと望んでいる。しかしどうして君たちに、 人間をそのように作り変えることが可能なだけでなく必要でもある とわかるのか?人間の欲求が正されることがそのように絶対に必要である との結論をどこから下したのか?要するに、どうして君たちに、 そのように矯正することが本当に人間に利益をもたらすとわかるのか?そして、もうすっかり言ってしまうなら、 理性の論理と算数に保証された真の正しい利益に逆らわないことが、 本当に人間にとっていつでも有益であり、全人類のための法則である、と君たちがそこまでの 確信を抱いているのはどうしてなのか?なんといってもこれはまだ今のところ 単に君たちの推測にすぎない。これを論理学の法則と仮定してみるのもいいが、もしかしたら、 まったく人間的な法則ではないかもしれない。君たちは、もしかしたら思っているんだろう、諸君、 僕が気が狂っていると。説明のため、但し書きを入れさせてもらう。 僕は同意しよう、人間は主として創造する動物であり、目的に向かって進むことを意識して 工学技術を修める、すなわち永久にそして絶えることなく自分の道を開いていくよう運命づけられている。 道がたとえどこへ向かうにせよ。しかし、 ことによると、人間が時にわき道にそれたいと思うのはほかでもない、その道を切り開いていくべく 運命づけられているからこそであり、さらに言えば、おそらく、 一般に直情径行な実務家がどんなにばかでも、それにしても時には彼も考えるに至るだろうからだ、 すなわち道というものは、どうやら、ほとんどいつでもどこへ向かうにせよどこかへ通ずるものであり、 また肝心なことは、どこへ行くかではなく、とにかく行くことであり、 育ちのよい子が工学技術を軽蔑して、 すべての悪行の母と知られる無為に身を滅ぼさないようにすることであると。 人間は創造することを、道を建設することを愛する、これは疑いない。 しかしいったい何故破壊と混乱をもまた熱烈に愛するのか?それを教えていただきたいものだ! しかしこれについては僕自身、特に一言、言明したい。人間が破壊と混乱を愛するのは (とにかくこれには疑いはないし、ひどく愛する時があるのも確かなことだが)、もしかしたら、 目的の達成や創造している建物の完成を自ら本能的に恐れるからではないのか?君たちにわかるのか、もしかしたら、 その建物を愛するのはただ遠くの方からで、決して近くからではないかもしれないじゃないか。 もしかしたら、愛しているのはそれを創ることであって、そこに住むことではなく、 できあがったらそれをaux animaux domestiques(家畜たちに)、蟻とか、羊とか、など、 などにやってしまうのではないか。ほら、 蟻はまったくスタイルが違う。彼らには一つ、この種の驚くべき建築物がある、永久に壊れることのない、 蟻塚だ。
 蟻塚から、尊敬に値する蟻たちは始め、蟻塚に、おそらく、また終わる、 それは彼らの不変性と建設的なあり方に大きな栄誉をもたらすものだ。 しかし人間は軽薄で嘆かわしい生き物であり、もしかしたら、チェスのプレイヤーのように、 目的そのものではなく、ただ目的達成の過程だけを愛しているのかもしれない。そして誰にわかるものか、 (保証などできるわけがない)、もしかしたら、人類が求めてやまない地上の目的一切とかも、 ただこの達成の過程の連続の中にのみ、別の言い方をすると生きることそのものの中にあるので、 目的自体の中にはないかもしれないじゃないか。もちろん、この目的とは二二が四、 すなわち公式以外のものではありえないが、何と言っても二二が四はもはや生ではなく、諸君、 死の始まりである。少なくとも人はいつもなぜかこの二二が四を恐れていたし、僕は今も恐れている。 仮に、人間はこの二二が四を探し求めることばかりをして、大洋を渡り、この探求に命をなげうっている ものとしてみよう、だが発見すること、本当に見つけること、それは、誓って、 なぜか恐れている。だって彼は、発見したらもはやそのときには探し求めるものがない、 と気づいている。労働者たちは、仕事を終え、少なくとも金を手にして、酒場へ行き、 その後警察署へ転がり込み、−なに、そこでまた一週間は費やせる。だが人間はどこへ行く?少なくとも そのような目的の達成のたびに人間は居心地の悪さのようなものを見せる。達成することを彼は愛するが、 達成してしまうとなるとまったく違う、で、これはもちろん、ひどくこっけいだ。 要するに人間は喜劇的に創られている。 この一切の中には、明らかに、駄洒落がある。しかし二二が四となると−−やはりとても我慢がならないものだ。 二二が四、とにかくこれは、僕に言わせれば、ただの生意気野郎だ。 二二が四は気取って、両手を腰に君たちの前に立ちはだかり、つばを吐く。僕も同意する、 二二が四はすばらしいものであると。しかし何もかも早いところほめるとあらば、二二が五もまた 時にはとても素敵なものだ。
 ところで何故君たちは唯一正常で建設的なもの、要するに、唯一繁栄だけが人間に有益であると そんなに固く、そんなに誇らしげに確信しているのだろう?理性ってやつは利益を取り違えないのか? だってもしかしたら、人間が愛するのは繁栄だけではないんじゃないか?もしかして、 苦痛を同じように愛するのでは? もしかして、その苦痛が人間にとって、繁栄と同じようにまた有益なのでは? そして人間は時にはひどく苦痛を愛する、熱烈に愛する、これは事実だ。それはもう世界の歴史に問うまでもない。 自分自身に尋ねてみたまえ、君たちが人間なら、そしてとにもかくにも生きてきたなら。 僕個人の意見を言えば、ただ繁栄だけを愛するなんて何というか下品でさえもある。 善いか悪いかはともかく、時には何かを壊すこともまた非常に愉快なことである。 僕自身はだからといってそこで苦痛の側には立たないし、そしてまた繁栄の側にもだ。 僕が支持するのは・・・自分の気まぐれと、それが必要な時に僕に保障されていることだ。苦痛は、 たとえばボードビルなどにはふさわしくない、僕もそれは知っている。 クリスタルパレスの中では考えられもしない。苦痛は疑惑であり、否定である、 が、疑いが存在しうるクリスタルパレスとは何なんだ?一方僕の確信するところ、人間は真の苦痛を、 すなわち破壊と混乱を決して拒絶しない。苦痛は、なにしろただ一つの意識する理由だ。僕は初めに、 意識は、僕の考えでは、人間にとって最大の不幸であると宣言したけれども、 人間がそれを愛していてどのような満足とも取替えないことを僕は知っている。意識は、たとえば、 二かける二より無限に高遠なものだ。二かける二の後にはもう、もちろん、何も残らず、 することがないばかりか知るべきことすらない。そのときにできること、それは、 自分の五感にふたをして黙想にふけることだけである。そう、だが意識においては、 同じ結果になるにしても、すなわちやはりすることがないにしても、 少なくとも時々自分自身を鞭打つことはできるし、それだって生き返れるというもんだ。反動的としても、 何もないよりずっといい。
 

君たちは永久に壊れることのないクリスタルパレスを、すなわちこっそり舌を出したり、ひそかに 軽侮のしぐさをしたりすることの許されない、そのようなものを信じている。だが、 もしかしたら、僕がこの建築物を恐れているのは、それが水晶でできていて、永久に壊れることなく、 こっそり舌を出すことさえ許されないからかもしれない。
 ほらわかるでしょう、宮殿の代わりに鳥小屋があるとして、雨でも降ったら、僕は、もしかしたら、濡れないように 鳥小屋に入り込むかもしれないが、それでも僕を雨から守ってくれたことに感謝して 鳥小屋を宮殿とみなしたりはしないもの。君たちは笑う、それどころか言うだろう、 そういう時は鳥小屋も邸宅もまったく同じだと。そうだ−と僕は答える−濡れない、 それだけのために生きていかねばならないなら。
 だがいったいどうする、もしも僕が、そんなことのためだけに生きるのでもないし、 またどうせ生きるなら、それはもう邸宅で暮らすんだ、との思いに取りつかれたら。それが僕の欲求だ、 それが僕の願望だ。君たちがそれを僕から削りとるには、僕の望みを変えるのみだ。さあ、変えたまえ、 他のもので僕を魅惑したまえ、他の理想を僕に与えたまえ。だがさしあたり、 僕はまだ鳥小屋を宮殿とみなしたりしない。そうさな、クリスタルパレスが蜃気楼であり、 自然の法則に従えばあってはならないものであり、ただ僕が持ち前の愚かさゆえに、 我が世代のいくつかある古くさい不合理な習慣ゆえに考え出したものである、ということにしてもいい。 だがそれがありえないものだということは、僕には関係ない。それが僕の欲望の中に存在する、 いやむしろこう言ったほうがいい、僕の欲望が存在する間存在する、としてもかまわないじゃないか? もしかしてまた笑っているのか、君たちは?どうぞ笑ってくれ。僕はあらゆるあざけりを甘受するが、 それでもやっぱり言いやしない、食べたい時に満腹とは。それでもやっぱりわかっている、 自然の法則にしたがって存在するものだからとか現実に存在するものだから とかいう理由だけで無限に循環するゼロに、妥協に、僕が満足はすることはないと。 貧しい借家人たちのための千年の契約のアパートで、何かの時のために歯科医ワーゲンハイムも看板を 掲げるすばらしい建物、僕はそれを僕の欲望の王冠とはみなさない。僕の願望を破壊したまえ、 僕の理想を消し去りたまえ、僕に何かましなものを示したまえ、そうすれば僕は君たちについていく。君たちは、 あるいは、言うだろうか、かかわりあうに値しないと。 だがそれならそれで僕だってそのまま君たちにお返しできる。僕たちは真剣に議論しているんじゃないか。 が、君たちは僕に注意を向けてくださるのがお嫌ですと、そういうことなら頭を下げてまで頼みはしない。 僕には地下室がある。
 だが今のところ僕はまだ生き、欲求する、−だから、そのすばらしい建物のためにたとえレンガ一つで も運ぶくらいなら、僕の手よ、萎えるがいい!僕がさっき、 舌を出してひやかしてやれないという理由だけでクリスタルパレスを拒絶したことは気にしないでくれ。 僕がそう言ったのは決してそれほどまでに舌を出すのが好きだから、というわけではない。僕は、 もしかしたら、舌を出さずにいられるような建築物が、 今日までどこを見ても君たちの建築物には見出せないことに腹を立てただけかもしれない。逆に、 僕自身がもう二度と舌を出したいと思わないようことが実現したら、それだけでも、 ただただ感謝から、僕は自分の舌をすっかり切り取らせてもいい。 そんなふうにできるはずがないとかアパートの部屋で満足しなければならないとか、 そんなことまで僕には関係ないさ。いったい何のために僕はそのような願望つきで創られているのか? 僕の一切がいかさまでできているという結論に至る、それだけのために僕が創られた なんてことがありうるだろうか?そこに一切の目的があるなんてありうるだろうか?そんなばかな。
 だが、しかし、ご存知だろうか。僕は確信するのだが、僕たち地下室の仲間は くつわで抑えつけておかなければならない。こいつは黙って地下室に四十年間座っていられるけれども、 明るいところに出るやいなやわっとばかりに、それはもうしゃべるわ、しゃべるわ、しゃべるわ・・・
 

十一

結局、諸君、何もしない方がいい!意識を持った惰性がいい!だから地下室万歳! 僕は正常な人を妬んでかんしゃくを起こすほどだと言ったけれども、 見たところ彼らのあの様子では彼らになりたいと思わない (それでも彼らを妬むのをやめはしないのだが。いや、いや、どうあろうと地下室の方が得だ!) 少なくともそこではできる・・・ええ!何と僕はここでも嘘をつくのか!嘘だ、 だって自分でも二かける二のようにわかってるんだから。地下室なんかちっともよくない、 何か別の、まったく別の、僕が渇望するもの、だがどうしても見つからないものがいいんだ。 畜生、地下室なんか!
 この際これがもっとましなものでさえあれば。つまり、もし僕が、今書いたことすべての中の せめて何がしかを自分で信じていたら。だが君たちに誓おう、諸君、僕は今書きなぐったことのうち一言だって、 何しろ一言だって信じていないんだ!すなわち僕はことによると信じてもいるのだが、同時に、 なぜかわからないが、僕はいかさま商人のように嘘をついているとうすうす感じ、気づいている。
 『そうするといったい何のためにこれみんな書いたの?』と君たちは僕に言う。
 『だがここに僕が君たちを四十年の間、何の仕事もなしに座らせる、そして四十年後に君たちを見に、地下室に、 訪ねていくとしたら、君たちはどんなことになっているかな?はたして人間をすることもなく四十年、 一人ほうっておけるものか?』
 『それでも恥ずかしくないのか、それでも屈辱じゃないのか!』と、こんなふうに君たちは僕に、頭を振り振り 軽蔑して言うだろうか。『君は生を渇望し、自ら人生の問題を解こうと論理の混乱をふりかざす。 それになんてうるさいんだ、なんて無礼なんだ君の冗談は。と同時に君の怖がりようと言ったら! 君は無意味なことを言ってそれで嬉しがっている、 君は失礼なことを言っては絶えず自分からそれが心配になって許しを請うている。 君は何も恐れるものはないと力をこめるが、と同時に我々の意見に取り入ろうとする。 君は歯ぎしりをしてやると力をこめるが、と同時に我々を笑わせようと軽口をたたく。 君は君の警句の気がきいていないことを知っている、だがどうやら君はその文学的価値に はご満悦のようだ。君に苦しみが生じたのは、もしかしたら本当かもしれない、 だが君は自分の苦痛を少しも尊敬しない。君には真実もある、だが君には純粋さがない。 君は自らのつまらない虚栄心から真実を見世物にして、恥辱に変えて、安売りをして・・・ 確かに君は何かを言いたいんだが、恐ろしくて君の最後の言葉を隠している、 というのも君には臆病な厚かましさがあるばかりで、それを表明する覚悟がないのだ。君は 意識を自慢する、が、君はぐらついているばかりだ、というのも君の知性は働いているとしても、 君の心は好色に曇っていて、ところが澄んだ心がなければ、完全な、正しい意識は存在しないからだ。 それにどれだけ君はしつこいんだ、なんとも君は無理やりだし、なんとも君は気取ったふりをしているし! 嘘、嘘、嘘だ!』
 もちろん、この君たちの言葉はみんな、僕が自分で今考え出した。これもまた地下室から出たものだ。 僕はそこで四十年間ずっとこの君たちの言葉を隙間からじっと聴いていたのだ。 僕はそれを自分で考え出したのだが、結局こんなことばかりが頭に浮かんできたのだ。 そらで覚えて文学的な形を取ったとしても不思議はない・・・
 しかしまさか、まさか、実際、君たちはそこまでお人好しだろうか、 僕がこれをすべて印刷した上君たちに読ませるつもりだと思うほど? まだそのうえ僕には疑問がある。すなわち、実際何のために僕は君たちを『諸君』と呼び、 何のために本当の読者に対するように君たちに話しかけるのか? 僕がこれから始めようとしているような告白は、印刷したり他人に読ませたりするものではない。 少なくとも僕はそれほど堅固な信念を持ち合わせていないし、持っている必要があるとも考えない。 だがちょっといいだろうか。一つ奇抜な考えが浮かんだのだが、 僕は何としてもそれを実現したくなった。それはこういうことだ。
 どのような人の思い出にも、友人にでもなければ誰にでも打ち明けるようなものではない事柄がある。 友人にも打ち明けず、自分自身にだけ、その上それも内緒で、というような事もある。だが、究極的には、 人には自分にさえ打ち明けるのを恐れるような事があり、 そのような事はどんなちゃんとした人にもたくさん蓄積している。 こういうことだって言える。ちゃんとした人であればあるほど、それがたくさんあると。 少なくとも僕自身はやっと最近になって昔の出来事をいくつか思い返そうと決めたのだが、 今日に至るまで、不安のようなものさえ感じていつもそれを避けてきた。 今こそ僕は思い出すだけでなく書き留める決意さえしたのだから、そこで試してみたいことがある。 すなわち、自分自身に対して絶対に隠し立てをせず、すべての真実を恐れずにいられるだろうか? ついでに言おう、ハイネは主張する、事実に忠実な自叙伝はほとんど不可能だ、 人は自分では自分のことについて必ず嘘を言うと。彼の意見によると、 たとえばルソーはその告白録の中で確かに自分を中傷しているし、それも虚栄心から故意に嘘をついている。 僕は確信する、ハイネは正しい。そう、僕は、時により単なる虚栄心だけから 罪をすべて自分にかぶせて中傷しかねないということを非常によくわかっているし、 さらにそれがどのような類の虚栄心でありうるかも非常によく理解している。 しかしハイネが裁いたのは公衆の前に告白した人だ。僕はといえば一人自分のために書くのだし、 この際きっぱり宣言しておくが、僕がまた読者に訴えるように書くとしても、 それはただ単に見かけ上、その方が僕にとって書きやすいからである。ここには形式、 無意味な形式があるだけで、読者なんて僕には決してありはしない。僕は既にはっきりそう言った・・・
 僕は何の制限もつけずに僕の手記を編集したい。順序や方式によるつもりもない。 思い出すことをまた、書き留める。
 まあここで、たとえばだが、揚げ足をとられてお尋ねを受けるかもしれない。 君が本当に読者を計算に入れていないなら、するといったい君は何のために今、自分自身と、 それもまた紙の上で、そのような合意をしているのだろう、すなわち順序や方式はこれを取らないとか、 思い出されること、それを書くとか、など、など? 何のために君は説明をする?何のために許しを求める?
 『ああ、そこへ来たか』と僕は答える。
 ところがここに、心理の一切があるのだ。もしかしたら、一つには僕が単に臆病なこと。またもしかしたら、 一つには、僕は書き留めるにあたってなるべく自身が見苦しくないように、 わざわざ自分の前に読者を想像するのかもしれない。理由はもしかしたら何千とある。
 だが他にもまだある。何のためだ、僕が書いてみたいわけをつきつめると?読者のためでないとしたら、 紙の上に移したりせずに心の中ですべて思い返せばいいってことにもなるんじゃないか。
 その通りですとも。だが紙の上では何というかより厳粛になる。そこには何かこの、より刺激的なものがあるし、 自分に対してより公正になるし、文体が付け加わる。そのうえ、もしかしたら僕は書くことで実際、 気持ちが楽になるかもしれない。たとえば今日だって、 ある昔々の事を思い出して僕はとりわけふさいでいる。それがこの間はっきりと思い出され、それ以来、 離れようとしないでいらいらさせる音楽のモチーフのように僕にこびりついてしまった。でも、 それから逃れなくてはならないじゃないか。そのような思い出が僕には何百とある。 時々何百から何か一つが飛び出してきてふさがせる。僕はどういうわけか、 それを書き綴れば、離れていくと思うんだ。試してみてはいけないだろうか?
 最後に。僕は退屈している、が、僕はいつだって何もしない。だが書くことは実際、いわば労働だ。 労働は人を善良で正直にすると言う。なに、少なくともチャンスはある。
 今日は雪が降っている、かなり湿って、黄色く、濁っている。昨日もまた降ったし、 数日前もまた降った。ぼた雪が降るから、 今僕から離れようとしないあの話を思い出した、そう僕には思える。そういうわけで、 これを物語、ぼた雪が降るから、としよう。


第二部  ぼた雪が降るから

 
そう、私が迷いの闇より
熱い信の言葉をもって
堕ちた魂引き抜いた時
深い苦悩のあふれるままに
君は両手をねじきるように
君をとらえた悪を呪った
眠りをむさぼるその良心に
追想の中罰与えつつ
私に出会うまでのすべての
話を私に語った時に
不意に両手でその顔おおい
羞恥と恐怖のあふれるままに
怒り、狂憤、衝撃に打たれ
君は涙にその身をまかせた。
・・・
H.A.ネクラーソフの詩より

その当時僕はやっと二十四歳だった。僕の生活はその頃すでに陰気でだらしなく、人間嫌いといえるほ ど孤独だった。僕は誰とも交際せず、話をすることさえ避け、いよいよ自分の隅に身を潜めることが多くなって いた。仕事に行ってもオフィスでは、誰も見ないようにしていたくらいで、 同僚たちが僕を変わった奴と思うだけでなく、どうやら(いつもそういう気がしていたのだが) 僕に嫌悪の目を向けていることにも僕ははっきり気がついていた。僕の頭に浮かぶ考えと言えば、どうし て僕以外のみんなは、嫌悪の目を向けられてる、という気がしないのだろう?そんなことだった。僕の同 僚の一人はぞっとするようなあばた面で、しかもまるで山賊のような顔だった。僕ならあんな見苦しい顔 ではひとの顔を見る勇気もないだろうという気がした。別の一人は制服をすっかり着古して近くによると 確かにひどく臭った。ところがこういう連中は一人としてきまり悪がったりしなかった−−服のことでも、 顔のことでも、なにか精神的なことでも。そのどちらも、嫌悪の目を向けられてるんじゃないかなんて思 わなかった、いや、思ったところで彼らはかまいはしないだろう、上役に目をつけられなければいいんだ。 今なら僕にもはっきりわかることだが、僕自身は際限ない虚栄心のため、そしてその結果、 自分自身に過酷な要求をするため、しょっちゅう胸が悪くなるほどの気違いじみた不満を抱いて自分を眺め、 そんなわけで皆も僕のような見方をすると思っていた。たとえば僕は自分の顔が大嫌いで、嫌悪を誘うも のと考え、その中になにやら卑しい表情があるのではないかとさえ思い、そこでいつも勤めに出 ると、卑しいところに感づかれないようにできる限り独立して行動し、かつできる限り高潔な顔つきに しようと苦しい思いで努めていた。『それはもう美しい顔ではないとしても、−−僕は考えた−−だが その代わり、高潔で、表情豊かで、それに何より並外れて知性的であるように しよう』しかし僕の顔ではこれらすべてを完璧に表すことは決してできないと僕は確実に知り、 苦しかった。だが何よりひどいのは、僕がそれをまったくのばか面と思っていたことだ。 ああ僕は知性に満足したろうに。卑しい表情にさえ、 同時にきわめて知的な顔に見えさえすれば、僕は甘んじたろうに。
 役所の連中みんなを、もちろん僕は、徹頭徹尾憎悪し、みんなを軽蔑もし、しかし同時に彼らを恐れる かのようでもあった。突然彼らが自分より優れていると考えるようなこともあった。僕の場 合はそれが、軽蔑するにせよ尊敬するにせよ、なぜか突然そこでそうなるのだった。 教養ある誠実な人間に虚栄心があるなら、必ずや自分自身に際限ない過酷な要求を突きつけ、 自分を軽蔑して時には憎悪にまで至るはずだ。ところが、軽蔑していようと、 尊敬していようと、僕はほとんど誰を前にしても目を伏せることになった。僕は実験までしてみた。そこ のだれそれの僕に向けられた視線に耐えられるかどうか、そしていつも僕が先に目を伏せた。これに苦し められ、僕は怒り狂った。また僕は滑稽に見えることを病的に恐れ、それで外面に関してはすべてにおい て決まりごとを奴隷のように崇拝した。世間の型にはまることを喜びとし、自分に何か風変わりな点がな いか心底恐れた。だがどうして僕に我慢できるはずがあろう?僕は病的に知性が発達していた。現代人に とって知性が発達するとはそういうことだ。ところが彼らの方は皆愚鈍で、 羊の群れのように互いにそっくりだった。おそらく役所中で僕一人だけだったろう、僕が臆病な奴隷だ といつも思っていたのは。知性が発達しているからこそそう思ったのだ。しかしそう思っただけでなく、 事実また、本当にそうだった。すなわち僕は臆病者で奴隷だった。そう言ってもきまり悪いことなど何もない。 現代のまともな人間は誰しも臆病者で奴隷であり、それが必然なのだ。それが正常な状態なのだ。 これを僕は深く確信している。そうだ、そのように創られ、そうなっているのだ。それも現代に、 偶然そこにあるいくつかの事情により生じるではなく、一般にいつの時代もまともな人は臆病な奴隷でなけ ればならない。これは地上のすべてのまともな人々の自然法則である。ひょっとしてそのうちの誰かが あることに勇気を見せたとしても、それに慰めを得たり夢中になったりさせないことだ。 どうせ他の事になればびくびくものなんだから。昔からそういうことに決まっているのだ。 勇気を奮いおこすのはロバとその混血だけだが、それだってご存知の壁までだ。彼らは注意を向け るに値しない。何の意味もない連中である。
 その頃もう一つ、僕を苦しめることがあった。すなわち、誰一人僕に似ているものがなく、僕が誰にも 似ていないことだ。『僕ときたら一人だが、あいつらときたらみいんなだ』 と僕は思い、そして考え込んだ。
 このことから明らかなのは、僕がまだ全くの青二才だったことだ。
 百八十度の大転換も起こった。急に役所に行くのが本当に厭になることがあった。それがひどくなって 病気になって仕事から戻ることもしょっちゅうあった。ところが突然、だしぬけに懐疑と無関心の期間 (僕の場合何事もずっと続くということはない)がやってくる。そういう時の僕は自分から 自分の我慢の足りなさや気難しさを笑い、自分で自分のロマンティシズム をとがめる。誰とも話したくないと思っていたのが、ある時話を始めるだけでなく、 彼らと親友になってやろうと思い立つところまでいく。気難しさもすっかり、突然、だしぬけに、 たちまち消えてしまうのだった。もしかしたらそんなものは僕には決してありもしなかったし、 書物仕込みの偽ものだったのではないだろうか?この疑問はいまだに解決していない。一度彼らとすっかり 仲良くなったこともあって、家を訪ねるようにもなり、カードで遊び、ウォッカを飲み、昇進の ことを話し合って・・・しかしここでひとつ脱線させていただこうかな。
 我々ロシア人には、一般的に言って、ドイツ人やなかんずくフランス人のような愚かで翔んでるロマン ティストは決していなかった。この人たちは大地が足下で裂けようとも、全フランスがバリケードのもと に滅びようとも何とも思わない。相変わらずそのままで、儀礼上変わってしかるべきでもそうはせず、 それこそ死ぬまで彼らの翔んでる歌を歌い続けるだろう。なぜなら彼らは愚か者だからだ。だが我々には、 ロシアの大地には愚か者はいない。これは周知のことだ。そこが我々をドイツなど他の地と区別するところだ。 従って我々の場合、翔んでる性質もその純粋な状態では見られない。そういうことをすべて我が国のロマンティス トの上にでっち上げたのは我が『実証的な』当時のジャーナリストや批評家たちで、あの頃コスタンジ ョグロやピョートル・イワノビッチおじさんを追いかけては愚かにも彼らを我々の理想と考え、 それをドイツ人やフランス人にあるような翔んでる人たちとみなしたものだ。とんでもない、 我が国のロマンティストの特質はヨーロッパの翔んでるのとはまったく正反対で、 ヨーロッパの尺度はここでは一つとして通用しないのだ。(『ロマンティスト』、 どうかこの言葉を使わせて欲しい。古い、立派な、信任を得、皆に親しまれている言葉だ。) 我が国のロマンティストの特質、それはすべてを理解すること、すべてを 見る、しかも最も実際的な我が国の頭脳たちよりしばしば比較にならぬほどはっきり見ることだ。 誰かや何かと妥協しないが、同時に何事も選り好みをしない。すべてをかわし、すべてに道を譲り、 何を扱うにもそつがない。常に有益で実際的な目的(官舎とか年金とか勲章のようなもの)を見失うこと なく、熱狂することにも叙情詩集にもこの目的を見出し、同時に『美しく崇高なもの』をも死ぬまで 自分のうちに壊れぬよう保持し、ついでのことに自分自身をも、まあそれはたとえば、ほかならぬ 『美しく崇高なもの』を守るためとしてもいいが、それこそ宝石の小物か何かをコットンに包むように大事に保持する。 我が国のロマンティストは広範な人間であり、我が国のあらゆる詐欺師の中でも随一の詐欺師である。 それが確かだということは・・・経験からも言える。もちろん、これはすべて、ロマンティストが聡明 なら、だ。いったい何を僕は!ロマンティストはいつだって聡明である。僕はただ、我が国に愚かなロマンテ ィストがいたとしても、それは数に入らない、というのもただ、彼らはまだ力の盛りにきっぱりとドイツ 人に生まれ変わり、自分の宝石を守るのに便利なように、どこかそこらへ、おおかたワイマールかシュバ ルツバルトに住みついてしまったからである、と言いたかっただけなんだ。僕を例に取れば、自分の 役所の仕事を心から軽蔑していたし、つばを吐きかけたりしなかったのは単にそれが必要だったからであり、 そこに座って、それで金をもらっていたからだ。だが結果として、よろしいかな、やはりつばを吐かなか ったことになる。我が国のロマンティストは他の仕事の当てでもなければ、つばを吐いたりするよりむし ろ発狂してしまうし(といってもめったにあることじゃないが)、首になることも決してなく、おそらく 『スペインの王様』といった体裁で精神病院に連れて行かれることになろうが、それももうよほど彼の頭がい かれたとしたらだ。しかし我が国で頭のいかれるのはひよわな金髪の連中だけである。そして数限りない ロマンティストが後にかなりの地位の人となる。多面性も並みではない!そしてまったく矛盾する 感覚を持ちうることといったら!僕は当時もこれに慰めを感じたが、今も同じ考えでいる。だからこそ 我が国にはそれほどたくさんの『幅広い性質』の人たち、つまり堕落の極にあってさえも決して自分の理想を 失わない人たちがいるのだ。そして彼らがその理想のために指一本も動かさないとしても、常習的な泥棒であり 強盗であるとしても、にもかかわらず、自分の根本にある理想を大事に思うあまり涙を流し、心の中はめったにないくらい正直な のだ。そう、まったくどうにもならない卑劣漢が完全に、高尚なまでに心の中は正直で、 同時にあくまで卑劣漢でいられるのは、我が国にのみありうることだ。繰り返すと、何せしょっちゅう 我が国のロマンティストの中から現れるのは時にあまりにも実際的なワルで(『ワル』という言葉を僕は愛を込めて 使っている)、突然あまりにも現実的な嗅覚、実用的な知識を示すので、びっくりした権力者も 世間もこれには唖然としてただ舌打ちをするばかりなのだ。
 その多面性は本当に驚くべきものであり、その後の状況によってどう変わり、どうなってしまうか、 また我々の未来に何を約束するのかは誰にもわからない。悪くない材料じゃないですか! 何か滑稽な、盲目的な愛国心からそう言うのではない。しかし、僕の確信するところ、 君たちはまた僕がちゃかしていると思っている。だがわからない、もしかしたら反対で、 すなわち僕が本当にそう思っていると確信しているかもしれないじゃないか。いずれにせよ諸君、 君たちのどちらの考えも、僕は、名誉かつ特別な喜びとするだろう。だが脱線して申し訳ない。
 同僚とも僕は、もちろん、交友関係を持ちきれず、あっという間に仲たがいして、まだ若い当時のこと、 世慣れていないので彼らに挨拶することさえぷっつりとやめた。しかしこれは僕の人生にたった一度だけあったことだ。 だいたいにおいて僕は常に一人だった。
 そもそも家での僕はたいてい本を読んでいた。常に僕の内部で沸騰しているものをすっかり外部の感覚 で覆い消してしまいたかったのだ。ところで外的感覚といっても僕に可能なのは唯一読書だけだった。読書は 確かに大いに助けになり、心を揺り動かし、喜びとなり、苦しめた。だが時にはひどく退屈した。や はり動き出したくなる、そして僕はいきなり、暗い、地下の、汚らわしい−−夜遊び、というかけちな夜遊びにふ けり出すのだった。僕のみじめな情欲はいつも病的な僕の苛立ちのために鋭い、焼けつくようなものだった。 衝動は時にヒステリーとなり、涙と痙攣を伴った。読書を除いてどこにも行き場がない、というのはつまり、 その時僕の周囲に尊敬できるもの、僕が惹かれるものがなかったのだ。そのうえ沸き立っていたのが憂鬱だ。 逆のこと、正反対のことへのヒステリックな渇きが顔を出し、そこで僕はいやらしい遊びを始めた。だが僕は決 して自分を正当化するために今くどくど言ったのではない・・・ああでも、違う!嘘を言ってし まった!僕はまさしく自己を正当化したかったんだ。これを僕は自分のために、諸君、書き留めておく。嘘はつ きたくない。誓ったんだ。
 最も忌まわしい瞬間にも僕を去るどころか、かえってそういう瞬間に呪いにまで達する恥ずかしい思いを抱えなが ら僕は一人ぼっちで、夜に紛れて、密かに、おどおどしながら、汚らわしく、いやらしい遊びにふけった。 もうその頃には僕は心のうちに僕の地下室を持っていた。僕はどうかして人に見られたり、出会ったり、知られた りしないようにとひどく気づかっていた。僕が行く所といえばいろいろと非常に曖昧な場所だった。
 ある時ある居酒屋の前を夜通りかかった僕は、明るく灯った窓の中に、紳士たちがビリヤード台のそ ばでキューを持ってけんかをしているのを、そしてそのうちの一人が窓から放り出されるのを見た。他の 時なら僕はすごくいやな気分になっただろう。だがその時は突発的に、この放り出された紳士がうらやましくなり、 あまりうらやましくて居酒屋へ、ビリヤードルームに入ったくらいだった。 『僕もけんかをするかな、それで僕もまた窓から放り出されるんだ』と言って。
 僕は酔ってはいなかった。だがどうしたらいいのか、なにしろこんなヒステリーを起こすほど憂鬱に苦 しめられることがあるんだ!しかし何事もなかった。僕には窓に跳び込むこともできないと判明し、僕はけんかもし ないで立ち去った。
 そこで僕を最初の一歩から封じ込めたのが一人の将校だった。
 僕がビリヤード台のそばに立ち、気づかずに道をふさいでいたところ、そこを通る必要のあった彼は 僕の両肩をつかみ、無言で、−警告もしなければ説明もせず、−僕を立っているその場所から別の場 所へ移し、それでいて自分は何事もなかったかのように通りすぎた。僕は殴られたって許したろうが、 動かしておいてそんなやつにはまったく気がつかないというふうでは絶対に許すことはできなかった。
 その時、本当の、もっと正式なけんかを、もっと見苦しくない、言うなればもっと文学的な けんかをするためなら、僕は何を引き換えにしたろう!僕は蠅のように扱われたのだ。その将校は身長が 十ヴェルショークもあった。僕ときたらちっちゃくて痩せっぽちの男だ。しかしけんかは 僕次第だった。ちょっと抗議すれば、間違いなく僕は窓から放り出されたろう。だが僕は 考えを変えてむしろその・・・憤慨しつつもそっと退くことにした。
 僕は恥ずかしくなり、動揺し、居酒屋からまっすぐ家へ帰り、翌日は前よりさらにおずおずと、抑圧さ れた、悲しい夜遊びを続けた。目に涙するようにして、それでもやはり続けた。といっても、僕が臆病で 将校を怖がっていたと思わないでいただきたい。僕は、たとえ事に当たっていつもびくびくしていたにしても、 心の中も臆病だったことは一度もない、がしかし−−笑うのは待ちたまえ、これには説明があるんだ。僕 は何もかもはっきりさせられるんだ。本当だ。
 ああ、もしこの将校が決闘を承知する部類のやつだったらなあ!しかし違ったのだ。あれはまさしく(悲しいかな、 とうの昔に絶滅してしまったが)キューを持ってのアクションの方を好む、あるいは、ゴーゴリのピロゴ フ中尉のように、権威を頼みとする、そういう連中の一人だった。決闘なんかしやしないし、何があ っても僕らなどと、しろうと風情と決闘するなどみっともないと考えるだろうし、それだけじゃなく一般に決闘 などとんでもない、自由思想の、フランス流のものと考えるくせに、自分は存分に人を侮辱する、まして や大男だから、というやからだ。
 僕がその時恐れたのは臆病からではなく、無限極まりない虚栄心からだった。僕は相手の身長や、 こっぴどくぶたれて窓から放り出されることを怖がったのではない。肉体的勇気は、本当に充分だったの だが、精神的勇気が欠けていた。僕が恐れたこと、それは、僕が抗議をするだろう、で文学的言葉を使って彼らと 話を始める、すると記録係の生意気野朗から、ちょうどそこでぶらぶらし ていた脂まみれのカラーの、にきび面の、最低の腐れ役人に至るまでそこにいるみんなが僕を理解できず に笑いものにする、そのことだった。というのも名誉の問題について、すなわち名誉についてではなく名 誉の問題(point d'honneur)について、僕たちは今日にいたるまで文学的言葉によらなければ話すこと すらできないのだ。普通の言葉では『名誉の問題』について触れようがない。 僕は完全に確信していた(どんなにロマンティシズムがあろうとも、現実的嗅覚っていうものだ!)が、 みんなは大笑いをするばかり、将校は悪気もなく僕をぶつだけではすまさず、僕をひざで蹴とばしてビリ ヤード台をぐるっと一回りし、それからたぶんお情けを示して窓から放り出しす、ということになったに 違いない。もちろん、僕としてはこのみじめなエピソードがこれ一度で終わるはずがなかった。 僕はその後しばしばこの将校と道で行き会い、ちゃんと彼に気がついた。ただあちらが僕に気づいたか どうかはわからない。おそらく、ノーだ。いくつかの兆候からそう結論する。だが、僕の方は、僕は、 怒りと憎しみをこめて彼を見つめる、そういうことが続いた・・・何年も!僕の怒りは年とともに かえって強くなり、増していった。最初僕はこっそりと、この将校について調査を始めた。僕には知り合 いがいないので、難しいことだった。だがある日、彼に引き寄せられるようにして、離れてつけていった 往来で、誰かが彼を名前で呼び止め、それで僕は名前を知った。別のある日、僕は彼の住居まで彼を尾行 し、十コペイカで門番から、彼がどこに住んでいるか、何階か、一人か誰かと一緒か、等−−要するに、 すべて、門番から知れるだけのことを聞き知った。ある朝、僕はそれまで文学づいたことなど なかったのに、突然この将校のことを暴露形式で、戯画として、小説の形で描写しようと思いついた。 僕はこの小説を書くのが楽しかった。僕は暴露し、少しばかり中傷さえした。名前は、初めすぐわかるよ うな偽名にしたが、その後よく考えて変更し、『オテチェストベンニア・ザピスキ』に送った。だが当時 はまだ暴露といったものは存在せず、僕の小説も印刷されなかった。僕にはこれが非常にいまいましかっ た。怒りに息が詰まるばかりのことさえあった。ついに僕は敵に決闘を挑もうと決意した。僕は彼にあて て、僕の前に謝罪するよう懇願する、美しい、魅力的な手紙を書いた。そして拒絶とあらば決闘だと充分 きっぱりとほのめかしたのだ。手紙は、もし将校がほんの少しでも『美しく崇高なもの』を理解するなら、 きっと僕に駆け寄って首に抱きつき友誼を申し出るであろう、そんなふうに書いた。そしてそうなればど んなにすばらしかったろう!そこから僕たちは人生を始めたろうに!そこから始まったのに!彼はその威 厳のあるところで僕を庇護しただろう。僕は彼を高尚にする、その知性の発達と、ええとそれから・・・ 思想によって。それで何かしらいろいろなことができただろう!考えてもみてほしい、彼の侮辱からその 時すでに二年たっていたし、それに僕の挑戦は、時代錯誤を釈明し覆い隠す巧みな手紙を書いたとはいえ、 醜悪きわまる時代錯誤だった。だが、ありがたや(今日に至るまで涙ながらに神に 感謝している)、僕はその手紙を出さなかった。出していたらどんなことになったか、と思い出しても 肌が凍りつく。それが突然・・・それが突然、僕はまったく単純きわまる、まったく天才的なやり方で 復讐を遂げた!突然僕の頭にパッとひらめいた。時折休日に、三時を過ぎると僕はネフスキーに出かけて 日の当たる側を散歩したものだ。といっても僕は決してそこへ散歩に行ったのではなく、無量の苦痛や屈 辱や癇癪を味わっていたんだが。でも僕にはそれが、確かに必要だったのだ。僕は、ある時は将軍に、あ る時は近衛将校や騎兵隊将校に、ある時はレディにと、絶えず道を譲りながら、ドジョウのように、全く 見苦しい有様で、通行人の間をすり抜けていた。僕はそういう時、自分の身なりのみじめなこと、自分の すり抜ける姿のみじめで陳腐なことを考えるだけで胸にひきつけるような痛みを、背中が熱 くなるのを感じた。これはひどい苦痛である。《僕は蠅だ、この社会全体を前にすると、汚らしく、 いやらしい蠅だ、−誰よりも利口で、誰よりも知的で、誰よりも高潔である、それは言うまでもない、 −だが絶えずみんなに道を譲り、みんなに恥をかかされ、みんなに侮辱されている蠅だ》 という、絶え間ない直接感覚へと転化する思いからくる絶え間ない、耐えがたい屈辱である。何のた めに僕はこんな苦痛を自らに蓄積したのか、何のために僕はネフスキーへ行ったのか、−わからない、だが 僕は機会あるごとにそこへただただ引き寄せられていた。
 その頃すでに僕はあの、第一部ですでに話した快楽の奔流を経験し始めていた。将校との出来事の 後はと言えば、僕はますます強くそこへ引き寄せられるようになった。というのも、ネフスキーこそ僕が 彼に最もよく出会うところでもあり、そこでまた僕は彼を眺めては感嘆していたのだ。彼もまた休日にそこへ よく出かけた。彼もまた、将軍の前や高位高官の前では道をそれ、彼らの間をやはりドジョウのように身を かわしていたくせに、ところが僕らの仲間風情、あるいは僕たちより少し身奇麗なものでも、彼は ただ押しつぶすだけだった。つまり相手に向かってまっすぐに、前には誰もいない空間があるかのごとく 進み、どうあろうと道を譲らなかった。僕は彼を眺めては怒りに酔いしれ、そして・・・憤慨しながらも 彼を前にするたびに道をよけていた。僕を苦しめたのは、僕が往来でも決して彼と対等の立場に立てな いことだった。『どうしてお前が必ず先にによけるんだ?』僕は時折夜の二時過ぎに目を覚ますと狂気じ みたヒステリーを起こしてはしつこく自分で自分を悩ませた。『どうしてお前であって、彼では ないんだ?そんな法律はないじゃないか、そんなことどこにも書いてないじゃないか?なに、対等にすれ ばいい、礼儀正しい人々が出会う時、 普通にするように。あっちが半分譲り、お前も半分譲り、互いに尊重し合いながらお前たちは通り過ぎる んだ』だがそうはならず、やはりよけたのは僕で、彼は僕が彼に譲るということに気がつきさえしなか った。と、そこへ実に驚くべき考えが突然僕の心にひらめいた。『だがどうだろう、』僕は思った、『 どうだろう、彼と行き会って・・・脇へ寄らなかったら?わざと脇へ寄らず、彼を押しのけるようなことに なっちまったら。ああ、どうなるかな、これは?』この大胆な考えが少しずつ僕を捕らえて、僕に平穏を与えぬまでに なった。僕は絶えずこれを夢想し、やるとなったらどんなふうにこれをやってのけるかをより鮮明に思い 浮かべるために、わざわざひどく足しげくネフスキーへ出かけた。僕は夢中だった。だんだん僕にはこの 計画が起こりうること、可能なことに思われてきた。『もちろん、完全に押すわけではなく、』 もう早手回しに嬉しさから優しい気持ちになった僕は考えた、『ただ脇に寄らずに、彼とぶつか るんであって、あまりひどくではなく、肩と肩で、ちょうど礼儀の定めるくらいにってことだ。あっちが僕 にぶつかるのと同じだけ、僕も彼にぶつかるんだ』ついに僕は決意を完全なものにした。しかし準備に ずいぶん時間がかかった。まず第一に、遂行の時には、服装にも気をつけてできるだけ見た目を立派にし なければならない。『万一の場合、もし、たとえば、公の事件が持ち上がるとなれば(だってあそこに集 まる人は選りすぐりだ。伯爵夫人も来れば、D公爵も来るし、文学者もみんな来る)、ちゃんとした身なり でなければならない。この印象が即、我々をある意味、上流社会の目から見て同じ立場に立た せることになる』そういうわけで僕は給料を前借してチュルキンで黒い手袋とかなり上等の帽子を買った。 黒の手袋の方が初めに試したレモン色のより落ち着いて上品に思えたのだ。『レモン色じゃあまりにどぎつい、 まるで見せびらかし屋のようだ』、それで僕はレモン色にしなかった。白い象牙のカフスボタンのついた 上等のシャツはもうずいぶん前に用意してあった。だがオーバーコートにはひどく手間取った。僕のオー バーコートそのものはまったく悪くないものだったし、暖かだった。だがそれは綿入れで、 それに襟はアライグマの毛皮、これではもう卑屈の極致だ。どうしても襟は取り替えて、将校のするよう なビーバーを手に入れなければならなかった。そのために僕はアーケード街に通い始め、二、三度行って みた後でドイツ製のビーバーの安い一品に狙いをつけた。こういうドイツのビーバーはあっという間にす りきれてまったくみすぼらしい姿になるけれども、初めは、新しいうちは非常にきちんとしたものにだっ て見える。何しろ僕はたった一度のためだけに必要だったのだ。値段を尋ねてみると、それでもやはり高 かった。実質的な結論として僕は自分のアライグマの襟を売ることに決めた。それでも不足している、 僕には大金といえる額はアントン・アントヌイチ・セトチキンに借りるこ とに決めた。僕の上司で、控えめだがまじめで実際的な人で、人に金を貸したりしないのだが、この人 には、以前、僕が仕事に就く際に、僕を任命した有力な人物が僕を特別に推薦してくれていた。僕はひどく 悩んだ。アントン・アントヌイチに借金を請うなんてけしからぬ、恥ずかしいことに思えた。僕は二晩も 三晩も眠らず、その上だいたいあの頃はよく眠ることがなかったので、熱に浮かされていた。心臓が止ま りそうにおとなしくなるかと思えば不意に踊りだして、踊る、踊る!・・・アントン・アントノヴィチは 初めびっくりし、それから顔をしかめ、それから考え、それでも、二週間後に給料から貸し付けた金を受 け取る権利書を僕から取り、貸してくれた。こうしてやっとすべての準備ができた。美しい ビーバーが汚いアライグマに取って代わり、僕は少しずつ事に着手し始めた。だが初めから当 てもなしに敢行するわけにはいかない。この仕事は巧みに、すなわちだんだんに仕上げなければならない。 だが白状しよう、繰り返し試してみたあげく、僕は絶望的にもなりかけた。どうしてもぶつからないのだ −例外なく!まだ僕に準備ができていないのか、僕にそのつもりがないのか、狙いをつけていないのか、 狙いが悪いのか、−おっと今にもぶつかりそうだ、と見ると−またもや僕が道を譲り、そして彼は通り過ぎ、 僕に気づきもしなかった。僕は彼に近づきながら、神が決意を吹き込むよう、祈りを唱えさえした。 一度はあと少しで今度こそ完全に決行というところだったのに、結局彼に踏みつけられただけだった。 というのもそれこそ最後の最後の瞬間、十センチくらいのところで、気力が足りなかったのだ。 彼は動ずることなく僕を乗り越えて行き、そして僕は、ボールのように、わきへ撥ね飛んだ。 その夜僕はまたも熱病に陥り、うわごとを言った。それが突然、何もかもこれ以上はないという形で 終わりになった。破滅を覚悟の計画は実行に移さず、すべてをむなしく放擲しよう、と前の晩にきっぱり と決めた僕は、そのつもりでこれが最後とネフスキーへ出かけた。僕がすべてをむなしく放擲するとはど ういうことか、ひとつ見てやろうと思ったのだ。突然、我が敵から三歩のところで、僕は思いがけなく 決心がつき、ぎゅっと目をつぶると−僕たちの肩と肩がぴたりと重なった!僕は一寸も 譲らず、まったく対等の立場で通り過ぎた!彼は振り返りもせず、気づかないふりをした。だが彼はふり をしただけだ、それを僕は確信している。僕は今でもそう確信している!もちろん僕が余計に痛い目に あった。彼の方が強かった、が、それは問題じゃなかった。問題は、僕が目的を達し、尊厳を保ち、 一歩も譲らず、公に自分を彼と社会的に対等な立場に置いたことにあった。僕はあらゆる意味で完全に復讐を果たし て家に帰った。僕は有頂天だった。僕は勝ち誇り、イタリアのアリアを歌っていた。もちろん、僕は三日 後に僕に起こったことを君たちに描写するつもりはない。僕の第一部『地下室』を読んでいればご自分で 推測できるだろう。将校はその後どこかへ転任になった。これでもう十四年、僕は彼を見ていない。今は 彼は何をしてるのか、我が友は?誰を押しつぶしているのか?
 

しかし僕の夜遊びの時期は終わり、僕はひどく気分が悪くなった。後悔も訪れたが、僕はそれを追い のけた。もう気分が悪すぎたのだ。だがそれでも、少しずつ僕はそれにも慣れていった。僕が何 にでも慣れるのは、要するに慣れるというより、何となく自分から我慢することを受け入れたのだ。だが 僕には何があっても手打ちにする出口があった。それは『すべての美しく崇高なもの』の中へ、 もちろん、夢の中へと逃げ込むことだった。僕は恐ろしく夢想した、自分の隅に隠れて三ヶ月続けて 夢想した、が、この瞬間の僕が、あの、臆病な心をかき乱しながら自分のオーバーコートの襟にドイツ製のビ ーバーを縫い付けた男とは似たところもないことは信じてもらっていい。僕は突然英雄になった。そうな ったらあの大男の中尉がうちを訪ねてきたって入れやしない。そうなったらあんな男のことを思い浮かべる ことさえありえなかった。僕の夢想がどんなものだったのか、どうして僕がそんなものに満足していたのか、それを 今言うのは難しいが、その時はそれで満足していた。といっても、今だって僕にはそんなものに満足するところがある。 夢想は夜遊びの後にとりわけ甘く、力強く僕のところへやってくる、後悔と涙とともに、呪いと歓喜とと もにやってくるのだった。完全に夢中になる瞬間、あまりに幸福な瞬間が訪れ、僕の内には冷笑などこれ っぽっちも感じられなかった、誓ってもいい。あるのは、信仰、希望、愛だった。というのも僕はその頃盲 目的に信じていた。何かの奇跡により、何らかの外的事情により、この一切が突然開ける、広がる、と。突然、 相応しい活動、有益で美しく、そして何よりまず僕の登場を待つばかりの(正確には どういうものなのか、僕はちっともわからなかった、が何よりまず、完全に準備ができているのだ)活動 の地平が拓かれ、そこで僕は突然、白馬に乗り、月桂樹の栄冠を載かんばかりにしてよき御世に現れるの だ。二次的役割など僕には理解できず、だからこそ現実には落ち着きはらって最後尾を占めていたのだ。 英雄か、泥まみれか、中間はなかった。これが僕をだめにしたのだ。時が来れば英雄になるんだし、英雄 になれば過去の汚泥など覆い隠されてしまう、と考えて泥の中にいる自分を慰めていたからだ。いわく、 普通の人間ならば泥にまみれることが恥となるが、英雄は、すっかり泥に汚れるにはあまりに高貴なもの であり、従って泥にまみれてもかまわない、と。驚くべきことに、夜遊びをしている時にもこうした 『すべての美しく崇高なもの』の波が訪れ、僕がまさしくどん底に落ちてしまった時にも、まるでフラッ シュバックのように心に帰ってくるのだったが、しかし、それが現れたからといって夜遊びが台無しには ならなかった。それどころか、まるで、そのコントラストによってそこに生気を与えるために、うまいソース造りに 必要な量だけ現れるかのようだった。このソースは矛盾と苦痛から、苦しい内的分析から成り、これらすべての苦 悩やら激痛やらがある種ピリッとした風味、意義さえも僕の夜遊びに付け加え、要するに、うまいソース の役目を完璧に果たしたのだ。この一切にはある種の深みさえなくはなかった。それに僕が、 単純で浅薄で直線的で役人式のけちな遊びと承知してこんなまったくの汚泥に耐えられただろうか! いったい何がその時僕をそこへと魅惑し、夜毎街へと誘い出しえたのか? いやいや、僕にはどんなことにでも高潔なる抜け穴があって・・・
 だがどれほど愛を、諸君、どれほど愛を僕は、この夢想の中に、この『すべての美しく崇高なものへの 逃避』の中に経験したことだろう。空想上の愛であり、現実にはどんな人間にも決して適用されることはな かったけれども、この愛はあふれるほどであったので、そうなるともう、現実にそれを適用する必要 さえ感じなかった。これはもう余計な贅沢だったのだが。しかし、すべてがいつもきわめて見事に芸術へと、 すなわち人生の美しい形式へとけだるく、うっとりと転化して終るのだった。有り体に言えば、まったく出来合いの ものを、詩人や小説家から巧みに盗んできて、あらゆる用途や要求に合わせるだけのことだった。たとえば、 僕はすべての戦いに勝利する。皆は、もちろん、ぼろぼろになって自分から僕がすべてにおいて完璧であると 認めざるをえず、そこで僕は彼ら全員を許してやる。僕は有名な詩人となり式武官となって恋に落ちる。 巨万の富を手に入れるが直ちにそれを人類に寄贈し、そこで、すべての民衆を前に我が恥辱を告白する、 が、それはもちろん、単なる恥辱ではなく、そこには非常に多くの『美しく崇高なもの』、 マンフレッド的なものが含まれている。みんなが泣いて僕にキスする(そうでなけりゃ彼らは何たる阿呆 だろう)、だが僕は裸足で飢えながら新しい思想を説いて歩き、アウステルリッツで反動主義者を打ち負 かす。そこでマーチが演奏され、特赦が発せられ、教皇はローマからブラジルへの遷都を受諾する。そ して全イタリアのための舞踏会が、ボルゲーゼ家の邸宅、それもコモ湖畔で催される。というのもコモ湖 はこのイベントのためにわざわざローマに移されているのだ。それから茂みの中の一幕などなど、などな ど−ご存知でしょう?あのような歓喜と涙について自分から告白しておいて、こういうことをあらいざら い今ここで市場へ持ち出すなど、俗悪で下劣だと君たちは言う。だがどうして下劣ですか? 僕がこういうことをすっかり恥じている、いくらいろいろあると言っても君たちの人生にはこんなばかげ たことはひとつもない、そんなふうに思われては困る。それに信じてほし いのだが、決して悪くないできのものもあったし・・・全部がコモ湖畔の出来事ではない。だがしかし、 君たちが正しい。実際、俗悪で下劣だ。それに何より下劣なのは僕が今、君たちの前で正当化し始めたこ とだ。いやもっと下劣なのは僕が今、こんな非難をすることだ。ああしかしもうたくさん、これじゃあ切 りがない。いつまでたってもだんだん下劣になるばかり・・・
 三ヶ月を過ぎると僕も夢想ばかりはしていられず、社会に飛び込もうという抑えがたい要求を感じ始め た。社会に飛び込むというのは僕の場合、上司のアントン・アントヌイチ・セトチキンを訪ねることを意味 した。これは唯一、僕の生涯を通じて変わらぬ知人で、僕は今この事実に自分でも驚きさえ感じる。だが 僕が彼のところへ行くのも、そういう時期が来て、僕の夢想による幸福が行くところまで行って、どうし ても直ちに人間と、全人類と抱き合わなければならなくなる時に限るのだった。つまりそのためには少なくと も一人、現実に存在する人間が目の前に必要だった。しかしアントン・アントヌイチの所へ顔を出すのは 火曜日(彼の面会日)でなければならないし、従って、全人類と抱き合う要求もいつも火曜日に合わ せる必要があった。このアントン・アントヌイチはピャチ・ウグロフのそばの四階の、天井が低くどれも これも小さく、まったく経済優先の黄ばんで見える四部屋に住んでいた。彼には娘が二人と、茶を入れて くれる彼女たちの伯母がいた。娘たちの一人は十三、もう一人は十四歳で、二人とも獅子鼻だったが、二 人がいつも自分たちだけでひそひそ話をしてくすくす笑うので、僕はひどくきまり悪い思いをしていた。 主人は通例、書斎の革張りのソファに、テーブルを前にして、誰だか白髪の客と一緒に腰掛けていた。そ れは我々と同じ、あるいは別の部局の役人だった。二、三人のいつも同じ客のほか、僕はそこで見たこと がなかった。話していたのは物品税について、上院の競売について、サラリーのこと、昇進のこと、閣下 のこと、気に入られる方法等、等。僕は、何によらず自分から話を始めることはあえてせず、またできもせず、 ばかみたいに四時間もこういう人たちのそばにとどまって彼らの言うことを聞く忍耐力を持っていた。僕 はぼんやりして、幾度か汗をかき始めたり、麻痺状態に陥ったりした。だがこれは結構だし有益だった。 家に帰ると、僕はしばらくの間、人類と抱き合おうという欲望を先延ばしにした。
 しかし僕にはもう一人、同窓のシモノフという、知人のようなものがあった。同窓生ならたぶん、ペテ ルブルグにたくさんいたのだが、僕は彼らと付き合わず、路上で挨拶するのさえやめてしまった。もしか したら僕が勤めを別の部局に変えたのも、彼らと一緒にならないようにするため、と同時に憎むべき僕の 子供時代をすべて断ち切るためかもしれない。あんな学校なんか、あんなひどい囚人のような日々なんか くそくらえだ!要するに、僕は娑婆に出るや直ちに、友達と絶交したのだ。僕がまだ出会えば挨拶はする、 そういう人が二、三残った。その中にシモノフもいた。学校での彼は少しも目立たず、落ち着いて穏やか だったが、僕は彼の性格に独立心と誠実さを見分けた。実際、それほどばかな男だったとは思わない。僕 と彼とはかって楽しく付き合った時期もあったが、長くは続かず、突然霧に閉ざされたようになって しまった。彼はどうやら、この思い出が重荷になっているらしく、僕が以前の調子に陥るのをいつも恐れ ているようだった。僕は、彼にひどく嫌な思いをさせているのではないかと思っていたが、それでも確かにそ うとの確信もないので、彼のところへ出かけていた。
 そんなある日、木曜日のこと、僕は孤独に耐えられず、木曜日にはアントン・アントヌイチのところも門戸を閉 ざしているのがわかっていたので、シモノフを思い出した。四階の彼のところへ上りながら、この男は 僕のことでうっとうしい思いをしている、僕はここに来たってしょうがない、と僕は考えていたものだ。 しかし、いつでもこの類の考えはわざとのように、さらに僕をそそのかしてどっちつかずの立場に 陥らせることになるのであり、結局僕は中に入った。その前、最後にシモノフに会ってからほぼ一年がたっていた。
 

彼のところにはさらに二人、同窓生が来ていた。彼らは見るからに何か重要なことを話し 合っていた。僕が来たのに誰一人、全然といっていいほど注意も払わず、それは僕がもう何年も彼らに会わ ないことからすると奇妙なことだった。明らかに、僕のことをまったくどこにでもいる蠅ぐらいに 考えたのだ。皆に憎まれていたとはいえ、学校でもこんなふうに軽んじられはしなかった。もちろん、 僕はわかっていた、ぱっとしない役所の経歴やら もうすっかり落ちぶれてひどい服を着ていることなど、彼らからすれば僕は無能でつまらない人物の看 板を下げているわけで、彼らが今の僕を軽蔑するのは当然だった。 しかし、それでも僕はそれほどまで蔑まれるとは思ってもみなかった。シモノフは僕が来たことに 驚きさえ見せた。彼は以前もいつだって僕が来たというと驚くように見えた。こういうことすべてが 僕を当惑させた。僕はなんだか憂鬱な気分で腰を下ろし、彼らが話し合っていることを聞き始めた。
 進行中の話はまじめで熱のこもったもので、遠く地方へ行く彼らの友人のズヴェルコ フという将校のための送別会をこの紳士たちが一緒になってその翌日、催そうというのであった。 ムッシュ・ズヴェルコフは学校で全学年、僕と同級だった。 僕は上級生になってからとりわけ彼を憎むようになった。下級生の頃、 彼は皆に愛されるかわいい陽気な少年というだけだった。しかし僕は下級生の頃も、まさしく彼がかわいい陽気 な少年であるがために彼を憎んでいた。勉強はずうっとだめで、上に行くほど悪くなっ た。けれどもコネがあってうまく卒業した。最終学年に彼は農奴二百人つきの遺産を手にしたが、僕らの 方はほとんど皆貧乏だったから、彼は僕らの前でも自慢を始めた。これはどこまでも俗物だったが、それ でも善良な少年であり、それはほらを吹いている時でさえそうだった。ところが我々の方は、 名誉と自負心について建前では空想的な型どおりのポーズをとるくせに、ごく少数を除いて 皆がズヴェルコフを前にして取り入ろうとさえするものだから、ますます彼は自慢するのだった。それも 打算か何かで取り入ろうとするのではなく、実のところ、彼が自然の恩恵に浴す人間であるからなのだ。 その上、どういうわけか我々の間で、ズヴェルコフを身のこなしや正しいマナーについては専門家である とみなすのが一般的になっていた。マナーというやつが僕は特に腹が立った。僕は耳障りで自分を疑わな い彼の声、歯に衣を着せぬというよりはばかまるだしに終わるのに警句を発するのが好きでたまらない彼を憎んだ。 僕は彼の美しいがばかくさい顔(でもそれと、自分の聡明なのとを 僕は喜んで取り替えたろうが)、四十年代風のあまりになれなれしげな将校らしさを憎んだ。 僕は、彼の、未来の自分が女とうまくやるという話(彼は、まだ将校の肩章をつけないうちに女に 手を出す決心がつかず、期待にじりじりしていた)、それで彼が始終決闘をすることになるという話を憎んだ。 思えば、いつも無口な僕が突然ズヴェルコフにつっかかっていったことがある。あれは、彼が自由時間に 仲間と将来の話で猥談に及び、ついには陽を浴びた子犬のように浮かれ騒いでいて、自分の村の村娘は一 人としてほうってはおかないとか、これは領主の初夜権であり、農奴なんか生意気にも抗議するならみ んな鞭打って、やつらみんなの、あごひげのならず者どもの年貢を倍にしてやるとか宣言した時のこと だった。ばかな連中は拍手喝采したが、僕は口論を仕掛けた。決して生娘やその父親が気の毒だからでは なく、ただそんな雑魚がそんな喝采を受けたからだった。その時は僕がやっつけたのだが、ズヴェルコフ はばかとはいえ、陽気ではあるし厚かましさもあり、そこで笑いとばして、実際には僕がやっつけたわけではな いようなことにさえしてしまった。笑ったのは結局彼の方だったのだ。彼はその後 何度も僕に嫌な思いをさせたが、悪意はなく、言ってみれば冗談まぎれに笑いながらのことだった。 僕は意地悪と軽蔑の意味で相手にしてやらなかった。卒業の時、彼が僕に一歩近づこうとした。これには僕も悪 い気はしないのであまり逆らわなかった。しかし僕らはまもなく自然に疎遠になった。その後僕は彼が中尉 としてうまくやっていることや彼が浮かれ騒いでいる様子を耳にした。その後別の噂も入ってき た。彼の出世振りについてだった。彼はもう道で僕に挨拶することもしなくなり、そ れで僕は、彼が僕のような取るに足らない人物とお辞儀を交わして自分の体面を汚すことを恐れてい るのではないかと思った。一度劇場の三階席で僕は彼を見たが、すでに肩章をつけていた。彼はある老齢 の将軍の娘たちに付きっ切りでへいこらしていた。以前同様、なかなかハンサムで如才ないとはいえ、 三年のうちに彼はすっかりしまりがなくなっていた。何だかむくんだように太ってきたのだ。三十までに 彼もすっかり肥えてたるんでしまうことは明らかだった。さて、そこでつまりこの旅立つズヴェルコフのために、僕の学友た ちは食事会を催そうというのだった。彼らは三年の間ずっと彼と交際をしていた。もっとも彼ら自身、 内心では、自分たちは彼と対等の立場にはないと考えていた。これを僕は確信する。
 シモノフの二人の客のうち一人はフェルフィチキンという、ドイツ系ロシア人で、背は小さく、サルの ような顔、人をからかってばかりいるばか者で、低学年の時分から僕の最大の敵で、卑しい、厚かましい 奴で、大ぼらを吹いて偉そうに見せることに必死に気を配り、とはいえもちろん、心の中は臆病野朗だっ た。彼はズヴェルコフを崇拝する連中の一人だったが、連中はいろいろ目算があって彼に取り入り、しょ っちゅうズヴェルコフから金を借りていた。シモノフのもう一人の客、トゥルドリューボフは、目立たな い人物で、軍にいるやつで、背は高く、冷たい顔つきで、なかなか正直だが、成功であればどんなことで もすばらしいという方で、話題にできることと言えば昇進のことだけだった。ズヴェルコフとは何だか遠 い親類にあたっていて、これが、ばかな話だが、我々 の間で彼にある種の重要性を与えていた。僕のことを彼は常に数にも入れなかった。で、あまり礼儀正しい扱い ではなかったが、我慢はできた。
 「どうだい、七ルーブリずつにしたら、」まずトゥルドリューボフが言った、「我々三人で、二十一ル ーブリ、結構な食事ができる。もちろんズヴェルコフは払わない」
 「そりゃ当たり前だろ、こっちが彼を招待するなら」とシモノフが決めた。
 「まさかお前ら」まるで自分の主人の将軍の勲章を自慢する厚かましい下男のように、偉そ うに、かつ熱心にフェルフィチキンがしゃしゃり出た。「まさかお前ら、ズヴェルコフが我々にだけ払い をさせると思うのか?デリカシーから受けるにしても、代わりに自分も半ダースはよこすぜ」
 「え、我々四人に半ダースも」と半ダースにだけ注意を向けてトゥルドリューボフが言った。
 「それじゃ、三人、ズヴェルコフを入れて四人、オテル・ド・パリで二十一ルーブリ、明日五時に」と、 幹事に選ばれていたシモノフが最後に締めくくった。
 「いったいどうして二十一です?」僕はちょっと興奮して、見た目にも気を悪くして言った。 「僕を勘定に入れれば二十一じゃなくて二十八ルーブリになります」
 突然、こんなふうに思いがけなく申し出るのが非常に美的でさえあり、彼ら全員いっぺんに、負けたと感じ、僕を 尊敬の目で見るだろう、と僕には思えたのだ。
 「本当に君も望みですか?」不快そうにシモノフは、何だか僕を見るのを避けながら言った。彼は僕 をそらで知っていた。
 彼が僕をそらで知っていることが僕を憤激させた。
 「いったいなぜなんです?僕だってねえ、友達だと思うし、それに、正直不愉快なくらいだな、 除け者にされては」と一段と興奮しだした。
 「でもどこで君を見つけたもんです?」フェルフィチキンが乱暴にしゃしゃり出た。
 「君はいつだってズヴェルコフと反目していたね」とトゥルドリューボフが顔をしかめながら付け加えた。 だが僕はもう食いついて放さなかった。
 「そう決めつける権利は誰にもないと思いますが」と僕は声を震わせながら、なにかとんでもないこと になったかのように反論した。「まさに前に反目していたからこそ僕は、もしかしたら、 今したいのかもしれないです」
 「まあ、誰が君を理解するか・・・その高尚なところを・・・」トゥルドリューボフはニヤッと笑った。
 「君のことも言っておくよ」僕の方を向いてシモノフが決めた。「明日五時、オテル・ド・パリで。間違えない ように」
 「金、金!」シモノフに僕をあごでしゃくりながらフェルフィチキンは小声で言いかけたが、シモノフまでが狼狽 してしまったので、やめてしまった。
 「いいじゃないかもう」とトゥルドリューボフが立ち上がりながら言った。「彼がそんなにまで来たいなら、 来てもらえばいい」
 「だってさあ僕たちは仲間だけで、親しく、」とフェルフィチキンはかっかしながら、こちらも帽子をつか んだ。「これは公的な集まりじゃないんだから。僕たちは君に、もしかすると、ちっと も来て欲しくないというか・・・」
 彼らは立ち去った。フェルフィチキンは出て行くのに僕に全然挨拶をせず、トゥルドリューボフは見も しないでかすかにうなずいただけだった。シモノフは、僕と差し向かいで残され、いまいましさをも てあますように、僕に奇妙な目を向けた。彼は腰を下ろさず、僕にも勧めなかった。
 「フム・・・そう・・・それじゃ明日そういうことで。その金だけど君、今出してくれますか?僕は、 確かめときたいものだから」と彼はまごつきながらもぐもぐ言った。
 僕は赤くなった、いや、顔を赤らめながら思い出した、ずっと昔からシモノフに十五ルーブリ借りがあ り、でもそれを決して忘れもしなかったけれども、決して返しもしなかったとを。
 「だってそうでしょう、シモノフ、ここへ来る時、僕にわかるはずがなかったし・・・まずったなあ ほんとに、僕忘れてしまって・・・」
 「オーケー、オーケー、どっちでもいいんだ。明日食事の時払ってくれ。僕はとにかくただ、知っとこ うとね・・・君、どうかその・・・」
 彼は急に話をやめ、さらにいっそういまいましそうに部屋を行き来しだした。歩くといっても、彼はかかと に重心をかけて、力をこめて踏み鳴らし始めた。
 「僕は君の邪魔をしてるんじゃないですか?」二分の沈黙の後、僕は尋ねた。
 「ああ、いや!」彼は不意にびくっとした。「つまり、ほんとはその、そうなんだ。だってねえ、僕 にはまだ行かなくちゃいけないところが・・・ほんのすぐそこだけど・・・」と彼はなにやらすまなそう な声でいくぶん恥ずかしそうに付け足した。
 「ああ、ほんとに!どうしてぇ君はぁ言ってくれないんです!」と僕はハンチングをつかみながら、 だが、いったい何が乗り移ったものやら、驚くほど磊落な態度で叫んだ。
 「いやまあ遠くじゃないんだ・・・ほんのすぐそこにね・・・」とシモノフは、ちっとも彼に似合わぬせ かせかした様子で僕を玄関まで見送りながら繰り返した。「それじゃ明日五時きっかりに!」彼は階段をおりる 僕に叫んだ。彼は僕が帰るというのですっかり喜んでいた。僕の方は、憤激していた。
 『いやいったいどうして、いったいどうしてまた出しゃばるんだ!』通りを歩きながら僕は 歯ぎしりした。『それもあんな卑劣漢の、豚の、ズヴェルコフのために!もちろん、行くことはない。もちろん、 知ったこっちゃない。僕に何の、関係が、なあんで?明日シモノフに市内郵便で知らせよう・・・』
 だが僕が憤激したのは、僕は行く、わざとでも行く、ということを知り抜いていたからにほかならない。 行くのは気が利かない、みっともない、ということになればなるほど、かえって出かけるのだ。
 しかもまた行こうにも明らかな障害があった。金がないのだ。僕には全部で九ルーブリしかなかった。とこ ろがそのうち七ルーブリは明日にも、僕の下男で、食費こみ、七ルーブリで僕のところに住んでいるアポロンに月 給としてやらなければならなかった。
 アポロンの性格から言って、やらずに済ますのは無理だった。だがこのいかさま野郎については、この 僕の寄生虫については、いずれ後で話そう。
 しかし、僕が、それでもやらずに、必ず行くということはわかっていた。
 この夜、僕は実にいやな夢を見た。無理もない、一晩中、学校時代の囚人生活の思い出が僕にのしかか り、僕はそれから逃れることができなかったのだ。僕をこの学校に放り込んだのは遠い親戚で、僕はその 人たちの世話になったのだが、その人たちのことはそれ以来何も聞いていない。その時僕は孤独で、親戚た ちの叱責のせいで脅えがちで、既に考え込みがちで、無口で、むっつりとあたりを窺ってばかりだった。 友達は、僕が彼らの誰とも似ていないため、意地の悪い、残酷なあざけりで僕を迎えた。だが僕は あざけりを我慢できなかった。ほかの連中は互いにうまく調子を合わせていたが、僕には簡単に調子を合 わせていくことはできなかった。僕はすぐに彼らを憎むようになり、皆を避け、傷つきおびえた度外れな 自尊心に閉じこもった。彼らの無礼は僕を憤激させた。彼らは僕の顔に、僕の不細工な姿に冷笑を浴びせ た。ところが、自分たちだってひどいばか面だったのだ!あの学校にいると顔つきがなぜかひどくばかく さく、醜くなっていくのだった。たくさんの美少年が学校に入ってきた。それが数年で見るも嫌な顔にな るのだった。まだ十六歳というのに僕は憂鬱だった。彼らにびっくりしていたのだ。彼らの考えること の瑣末なこと、勉強にしても遊びにしても話すことにしてもばかみたいであることに、その頃既に唖然とさせら れていたのだ。彼らがぜひとも必要なことを理解せず、感動的、印象的なものに興味を示さないので、 否応なしに僕は彼らを自分より劣るものとみなすようになった。傷つけられた虚栄心がそうさせたので はないし、それにお願いだから、『僕はただ夢想していただけだが、彼らはもうその頃現実の生活を理解 していた』などなど、吐き気がするほど飽き飽きした陳腐な反論を持ち出さないでほしい。彼らはなんに も、現実の生活などなんにも理解していなかったし、誓ってもいい、そのことが何より僕を憤慨させたの だ。それどころか、明々白々な、目に痛いほどの現実を彼らは信じられないほど愚かしく解釈し、 その頃既に、成功だけを崇め奉るのがあたりまえになっていた。正しいものを、虐げられ踏みにじられて いると見ればあざ笑う、冷酷で恥知らずな奴らだった。地位を知性とみなし、十六歳なのにもう、何が楽 な仕事かを話題にしていた。もちろん、その大部分は愚かさのせい、彼らの幼年期、思春期を通して常に 周りにあった悪い例のせいだった。彼らの堕落ぶりは見苦しいほどだった。もちろん、これも多くはうわ べのもの、多くはシニシズムを装っていたのだ。もちろん、若さやある種のさわやかさが彼らの堕落の陰 にさえきらめいていた。だが彼らの場合、さわやかささえ魅力に欠け、なんだかいやらしい現れ方をする のだった。僕はもしかするとその彼らよりなお悪いかもしれないくせに彼らをひどく嫌悪した。彼らもお 返しに僕に対して同じようにふるまい、自分たちの僕への嫌悪を隠さなかった。 だが僕はもう彼らに愛されたいとは思わなかった。それどころか、僕はいつも彼らの侮辱を渇望していた。 彼らのあざけりから逃れるため、僕は目的を定めて全力で勉強に取りかかり、トップクラスにはい上がった。 これは彼らに動揺を与えた。さらに彼ら全員が次第に理解し始めた。僕が既に彼らには読めない 本を読んでいること、彼らの聞いたこともない(僕たちの特別クラスにも課されていない)ことを理解 していることを。野蛮なあざけりの目で彼らはこれを見ていたが、精神的には服従し、教師たちまでこ のために僕に注目していたものだからなおさらだった。あざけりはやんだが、敵意は残り、冷たく張り詰 めた関係が定着した。結局僕自身が我慢できなかった。年とともに人恋しさ、友達欲しさが募っていった のだ。僕は何人かと親しくしてみようと試みもしたが、いつもこの親しさは不自然なものに なり、それでひとりでに終るのだった。僕にも一度だけ友達ができた。だが僕は何せ生来専制君主だった。 僕は彼の心を無制限に支配することを欲した。僕は彼に周囲に対する軽蔑を植えつけようとした。僕は彼 に周囲との傲慢で決定的な決別を要求した。僕は激しい友情で彼を怯えさせた。僕のせいで彼は涙を流し、 ひきつけを起こした。彼は純朴で献身的だった。だが彼がすべてを僕に委ねると、僕はすぐに彼に憎しみ を抱き、彼をはねつけ、−−それはまるで彼が僕にとってただ彼に対する勝利を得るため、単に彼を服従 させるためだけに必要であったかのようだった。しかしみんなを征服することは僕にはできなかった。僕 の友もまた、彼らの誰とも似ていない、きわめてまれな例外だったのだ。学校を出るにあたって僕はまず 第一に、前から決まっていた専門職を捨てた。なぜかといえば、すべての糸を断ち切り、過去を呪い、そ れを塵芥となし・・・それなのに一体なぜ僕はあのシモノフのところへ出かけちまったんだ!・・・
 僕は朝早くベッドからつかみ出されるようにして、興奮して飛び起きた。まるでああしたことすべてが 今すぐ始まろうとしているかのような気分だった。でも僕は、僕の人生に革命的転機のようなものが訪れ る、確かに今日こそ訪れると思っていた。おそらく不慣れなせいだが、生涯を通じていつも僕は、たとえ ちょっとしたことでも外的な出来事があると、すぐにも僕の人生に一種の革命的転機が訪れる、という気 がしたものだ。それでも僕は普段どおりに勤めに出たが、準備もあるので、二時間早めにそっと帰宅した。 僕は考えた、なによりまず、一番に到着してはいけない、でないと僕がもうすっかり喜んでいると思われ る。だがそういう大事な事柄は何千とあって、いちいちそういうことが心配になり、僕はぐったりとして しまった。僕は自分の手でもう一度ブーツを磨いた。なにしろ、アポロンは日に二度も靴を磨くようなこ とは秩序を乱すと考え、どんなことがあってもやらなかった。それで僕が、ふと彼に気づかれて後で僕を 軽蔑されることのないように、玄関からブラシをくすね、磨いた。それから僕は仔細に洋服を点検し、ど れもこれも古く、みすぼらしく、すりきれていることに気づいた。あまりにも僕は身なりにかまわなくな っていたのだ。制服は、たぶん、ちゃんとしていたが、制服なんかで食事に行くものではない。だが一番 の問題はズボンだ、ちょうどひざのところに大きな黄色いしみがあったのだ。このしみ一つだけで僕の尊 厳は九割方奪われると僕は予感していた。またそんなふうに考えるのは実に卑しいということも僕はわかっていた。 『だが今は考えるまでもない。今、現実が訪れるんだ』と考えると僕は意気消沈した。僕はまた同時にこ ういう事柄すべてを恐ろしく誇張していることもよくわかっていた。だからといっていったいどうしよう。 僕はもう自分を抑えることができず、熱性の興奮に胴震いしていた。絶望の中で僕は空想した。あの『卑 劣漢』のズヴェルコフがどれほど傲慢に、冷淡に僕を迎えるか。愚鈍なトゥルドリューボフの僕を見る、 鈍い、どうしても抑えきれない軽蔑の目はどんなだろうか。雑魚のフェルフィチキンがズヴェルコフの機 嫌を取るために僕を槍玉にあげてくすくす笑う下劣、無礼はどんなだろうか。シモノフがこういうことす べてを内心どれほどよく理解しているか、そして卑しむべき僕の虚栄心や意気地のなさゆえどれだけ僕を 軽蔑するだろうか。そして、何よりも、この何もかもがどれほどみじめで、 非文学的で、平々凡々たることになるか。もちろん、一番いいのは絶対出か けないことだ。だがそれこそもう何より不可能なことだった。つまり僕は一歩引き込まれるとなるともう、 きっとそうやってとことん引きずり込まれることになるのだった。なにしろ僕はその後一生自分をいたぶ るかもしれないのだ。『なんとまあ、怖くなった、現実が怖くなった、怖く なったんだ!』反対に、僕が決して自分で思っているような臆病者ではないことをあの『有象無象』みん なに証明してやろう、と僕は燃えていた。それどころか、臆病からくる熱病の発作が最高潮に達した時、 僕が夢見たのは、彼らを打ち負かし、征服し、魅惑し、僕を愛するように仕向けることだった−なに、少 なくとも『高尚な考えと疑う余地なき理知ゆえに』。彼らはズヴェルコフを放り出し、彼は傍らに座り、 黙って恥じ入ることになるが、僕はズヴェルコフをぺちゃんこにするのだ。それから、たぶん、彼と和解 し、俺お前の仲で祝杯を挙げるのだが、僕にとって何より不愉快で腹立たしいのは、夢見ながらも、実はこんなことなど 僕にはひとつも必要がないこと、実は彼らを打ち砕き、征服し、惹きつけることなど決して僕は望んで いないこと、第一そうした結果をすべて実現できるとしても、そのためにこの僕が一文も出さないことを 僕が完全に知っていた、間違いなく知っていたことだ。ああ、どんなに僕は神に祈ったろう、どうかもう この日が少しも早く過ぎますように!言いようのない憂愁に僕は窓辺に 寄り、小窓を開け、激しくぼた雪の降る濁ったかすみの中を一心に見つめた・・・
 とうとう僕のおんぼろ掛け時計がシュッシュと五時を告げた。僕は帽子をつかみ、アポロンを見ないよ うに努め、−あっちはもう朝からずっと僕が給料を支払うのを待っているくせに、自尊心から自分が先に口を 切ろうとしないのだ−彼には知らん顔でドアからすり抜け、最後の五十コペイカでわざわざ雇った馬車で、 旦那然としてオテル・ド・パリへ乗り付けた。
 

僕はまだ前夜のうちに、一番に着くことを知っていた。ところが一番乗りがどうとか言ってる場合で はなかった。
 連中がひとりもいないどころか、部屋がどこかわからないくらいだった。テーブルの準備もまだ済んで いなかった。いったいこれはどういうことだ?いろいろとボーイを問い詰めて僕はやっと食事は五時で なく六時に予約されていることを聞き出した。これはビュッフェでも確かめられた。あれこれ訊いている のが恥ずかしくなるほどだった。まだ五時二十五分にしかならなかった。時間を変更したなら、 何にしても知らせるべきだ。それには市内郵便があるし、僕に恥をかかせることはないし・・・せめてボ ーイたちになど。僕は座った。ボーイは並べ始めた。ボーイ がいると何だか余計にいまいましくなった。六時が近づくとランプが燃えていたのに、部屋にろうそくが持ち込 まれた。だがしかし、ボーイは思わなかったんだ、僕が着いたらすぐその時にろうそくを持ってこようとは。 隣室では二人の何だか陰気な客が、別々のテーブルで、怒ったような顔で黙々として食事をしていた。 どこか遠くの部屋がばかにやかましかった。叫び声までした。大勢がみんなで笑っているのが聞こえた。 なにやら不快な、フランス語のキーキー言う声も聞こえた。ご婦人方同席の宴会だ。要するに、非常 にいやな感じだった。これほど不快な時を過ごすことはめったになく、彼らが、六時ちょうどに、みん な一緒に現れた時、僕は、最初の瞬間、彼らが解放者かなにかであるかのように喜び、腹を立てて見せな ければならないことを危うく忘れるところだった。
 ズヴェルコフは皆の先に立ち、リーダーのようにして入ってきた。彼も彼らみんなも笑っていた。だが、 僕を見ると、ズヴェルコフはもったいをつけて、まるで媚びるかのように少し腰をかがめながら悠然と 近寄り、そして、優しく、といってもそこそこに、まるで手を差し出すことで自分を何かから守るかのよ うに、どこか用心深く、将軍のように慇懃に僕に手を差し出した。僕の想像では、反対に、 彼は入ってくるとすぐに、あの以前のような、薄っぺらなキーキー声のばか笑いを始め、第一声から お得意のつまらないジョークや警句を口にすると思っていた。そんなことなら僕はもう昨日のうちから準 備していたが、このような傲慢な態度、このような将官のごとき親愛の情を僕はもうまったく予期していなかった。 となると、彼はもう今やすっかり自分が僕よりもあらゆる点において限りなく高等であると思っているの か?彼がこの将軍気取りで僕を侮辱したいと思っただけなら、まだ何でもない、と僕は思った。いずれ僕はどうにかして つばを吐きかけてやるんだから。だがどうだ、もしも本当に、一切侮辱する気持ちはなく、彼が僕より計り知れないほど高等であり、 僕を恩人気取りで見るよりほかにはできない、という考えがまじめに彼の羊並みのおつむに這いこんだら? こう仮定しただけで僕はもう息が詰まってきた。
 「僕は君が参加をお望みと聞いて驚きました」と彼は始めた。シューシューと歯擦音を立て、言葉を引 き伸ばしながら。それは前にはなかったことだ。「僕たちは君とどういうわけか全然会いませんでしたね。 君は僕たちを避けていた。無益なことです。僕たちは君が思われるほど恐ろしくありませんよ。 まあね、とにかく嬉しいです、またぁ以前のぉようにい・・・」
 それから彼は無頓着に振りかえりざま帽子を窓際に置いた。
 「だいぶ待ちましたか?」トゥルドリューボフが尋ねた。
 「僕は昨日指定された通り、五時ぴったりに着きました」と僕は大声で、今にも爆発しそうな苛立ち もあらわに答えた。
 「え、時間が変わったことを彼に知らせなかったのか?」とトゥルドリューボフはシモノフの方を向いた。
 「しなかった。忘れた」と彼は答えたが、少しも後悔の色はなく、僕に謝ろうとさえせずにオードブル を注文しにいった。
 「すると君はここにもう一時間、ああ、気の毒に!」とズヴェルコフは小ばかにして叫んだが、こんなことは彼の考え では実際、ひどく滑稽なことにちがいないからだ。これに続いて卑しい、犬ころのようなよく響く 声を卑劣野朗のフェルフィチキンがたて始めた。もう彼にしてみれば僕の立場の滑稽、きまり悪さ がきわまったように思えたのだ。
 「これはちっともおかしくないです!」僕はますます苛立ちながらフェルフィチキンに叫んだ。「悪 いのは誰かで、僕じゃない。僕に知らせるのを怠ったんだから。これはこれはこれは・・・まったくばか げてます」
 「ただばかげているだけじゃなく、その上何というか」とトゥルドリューボフはばか正直に僕の肩を持ち、ぶつぶつ言 った。「君はもうあまりにも温厚すぎます。まったく無礼だ。もちろんわざとじゃあないが。それにどう してシモノフがそんな・・・フム!」
 「もし僕がこんなふうにあしらわれたら」とフェルフィチキンが言った。「僕なら・・・」
 「だが君もご自身で注文して何か持ってこさせればよかったのに」とズヴェルコフがさえぎった。「あるいは 待たずに食事を頼むだけでも」
 「僕はそうしたってかまわなかった、誰かのお許しをいただかなくてもね、そうでしょうが」と僕はすかさず言った。「僕が 待ったとしたってそれは・・・」
 「座ろう、諸君」とシモノフが入ってきて叫んだ。「すっかり準備できた。シャンパンは責任持つよ、 すごくよく冷えてる・・・だってねえ僕は君の下宿を知らないし、いったいどこを捜すんです?」と 彼は不意に僕の方へ振り向いたが、またもやどうかして僕を見ないようにしていた。明らかに彼は承服しかねて いた。昨日のあれからいろいろ考えたようだ。
 全員座った。僕も座った。テーブルは円形だった。僕の左手がトゥルドリューボフ、右手がシモノフにな った。ズヴェルコフは向かい側に座った。フェルフィチキンは彼の横、彼とトゥルドリューボフの間だった。
 「ええーとお、君は・・・官庁に?」ズヴェルコフは引き続き僕にかかずらっていた。僕がまごついて いるのを見て、僕に親切なところを示し、いわば元気付けてやらなければならない、と本気で思ったのだ。 『なんだよこいつ、ひょっとして僕に瓶でもぶつけられたいのか』と僕はかっとなって思った。僕は 不慣れなため、なぜか異常に早くいらいらしだした。
 「**局に」と僕は皿を見つめながらぶっきらぼうに答えた。
 「で・・・君ぃの得ぅにぃ?さぁてねぇ、なにゆえぇに君は前の仕事をやめなけりゃならなくなったん でしょう?」
 「そうしたぁいゆえぇえに、前の仕事をやめなけりゃならなくなったんです」僕はもうほとんど自制できず、 三倍も余計に引き伸ばした。フェルフィチキンは鼻で笑った。シモノフは僕に皮肉な目を向けた。ト ルドリューボフは食べるのをやめ、物珍しそうに僕をつくづく見始めた。
 ズヴェルコフは気に障ったのに、気づくまいとした。
 「えぇえぇとぅ、で君報酬はどうです?」
 「報酬ってそりゃどんな?」
 「つまりぃ給料は?」
 「だがこれでは試験ですね!」
 そのくせ、僕は即座にいくら給料をもらっているか明かした。僕は真っ赤になった。
 「つつましいね」とズヴェルコフはもったいをつけて意見を言った。
 「そうね、うん、カフェレストランで食事するのは無理です!」フェルフィチキンが厚かましく付け加えた。
 「僕の考えではそりゃ実際貧乏そのものだな」とトゥルドリューボフはまじめに言った。
 「それに君はなんてやせて、なんて面変わりして・・・あれから・・・」とズヴェルコフは、もはや毒を含んで、 厚かましいような同情を示し、僕と僕の服装をつくづく見ながら付け加えた。
 「ああ、そこまで恥ずかしい思いをさせちゃ」とフェルフィチキンがくすくす笑いながら叫んだ。
 「君、言わせていただきますが、僕は恥ずかしくなんかないんです」、とうとう僕は爆発した。「聞きたまえ、ん! 僕はここで食事する、『カフェレストランで』、僕の金で、自前で、他の誰のでもなく、そこにご注意 願いたいですね、ムッシュー・フェルフィチキン」
 「えぇええ!ここで自前で食事をしてない、っていったい誰のことです?君はまるで・・・」と フェルフィチキンは、ザリガニのように赤くなり、逆上して僕の顔をにらみながら食ってかかった。
 「へぇええ」僕は度が過ぎたと感じながら答えた。「それに思うんですが、もちっと知的な話をしたらよ さそうなもんだ」
 「君はどうやら君の知性を示すつもりらしいですね?」
 「ご心配なく、それはここではまったく無用のようです」
 「だが君はなぜそんな、ねえ君、キイキイ言うんです、え?君はまったく頭をおかしくされたんじゃないですか、お勤めのたん庁で?」
 「もうたくさんだ、諸君、たくさんだよ!」ズヴェルコフが絶対に有無を言わさぬように叫んだ。
 「なんてばかな!」とシモノフがつぶやいた。
 「ほんとだよ、ばからしい、僕たちは親友を旅に送り出そうと仲のいい同士で集まったのに、君は計算 ずくで」とトゥルドリューボフは僕一人に向かって乱暴に言い出した。「君は昨日自分で我々んとこにねじ込ん できたのに、みんなの和を乱してもらっちゃ・・・」
 「たくさんだ、たくさん」とズヴェルコフが叫んだ。「やめたまえ、諸君、そりゃいけない。ひとつそれ より僕が君たちに聞かせよう、実は一昨日僕は危うく結婚して・・・」
 そこでこの紳士が一昨日危うく結婚するところだったという、一種の風刺話が始まった。しかし、結婚 のことなど一言もなく、話を全編、将軍やら大佐、そして侍従武官までが彩り、それにズヴェルコフがその人たち の中でほとんど先頭に立っているのだった。賞賛の笑いが始まった。フェルフィチキンはキーキー叫び声 まで立てた。
 みんな僕を放ったらかし、僕は押しつぶされ、打ち砕かれて座っていた。
 『あぁあ、ぼくがこの仲間か!』僕は考えた。『それになんとまあこいつらの前で自分を笑いものにしちまっ て!しかし、フェルフィチキンには大きな顔をさせすぎた。まぬけどもめ、自分たちのテーブルに席を与 えて僕の名誉になると思うとは、どっこい、わかってないんだ、それは僕が、僕がやつらにとって名誉に なるんで、やつらが僕にじゃない!《やせた!服装!》ああ、いまいましいズボン!ズヴェルコフはさっき もう膝の黄色いしみに気がついた・・・だがここにいて何になる!今すぐだ、この瞬間席を立ち、一言も発 することなく、帽子をつかんでただ立ち去る・・・軽蔑からだ!明日は決闘、にしたところで。卑劣な野朗ども。 だって七ルーブリっぱかりが惜しいんじゃないからなあ。たぶん、そう思って・・・えいくそ!七ルーブ リが惜しいんじゃない!今すぐ出ていくんだ!・・』
 もちろん、僕は残っていた。
 僕は苦し紛れにラフィットやシェリーをグラスであおった。不慣れなためすぐに酔っ払い、酔ったため に苛立ちもつのった。僕は突然むらむらっときた、彼ら皆をひどく無礼なやり方で侮辱し、その後本当に 立ち去ってやる。タイミングをつかんで自分を誇示する、それで言わせてやる、おかしなやつだが利口だ、と ・・・そして・・・そして・・・要するに、やつらなんかくそくらえだ!
 僕はすっかりとろんとした目で彼らを横柄に見回した。だが彼らはもう僕などすっかり忘れた かのようだった。彼らは大声で、騒々しく、はしゃいでいた。 しゃべっているのはいつもズヴェルコフだった。僕は注意して聞き始めた。 ズヴェルコフの話しているのはある素敵な貴婦人のことで、ついに最後には彼女の方から 告白させてやった(もちろん、真っ赤な嘘だ)が、この件では彼の親友のある公爵、三千人持ちの軽 騎兵、コーリャが特別彼のために骨を折ったそうだ。
 「ところでそのコーリャ、三千人持ちとかは、君を見送るというのにここにはいまだ影もなし、ですね」と僕 は突然話に首を突っ込んだ。瞬間、みんなが静かになった。
 「君はきっともう酔ってるんだね、」やっとトゥルドリューボフが僕に注意を向ける気になり、軽蔑する ように僕を横目で見やった。ズヴェルコフは黙って僕を虫でも見るようにじろじろ見た。僕は目を 伏せた。シモノフは急いでシャンパンを注ぎ始めた。
 トゥルドリューボフがグラスを挙げ、僕を除き、皆が彼に続いた。
 「君の健康と道中無事を祈って!」と彼はズヴェルコフに叫んだ。「懐かしい日々に、諸君、我々の未 来に、ウラー!」
 皆が飲み干し、ズヴェルコフにキスしようと押し寄せた。僕は動こうとしなかった。なみなみとしたグラスが そっくりそのまま僕の前に立っていた。
 「じゃあ君は乾杯しようとしないんだな?」と忍耐を失ったトゥルドリューボフが険悪な目を僕に向けて ほえ始めた。
 「僕は僕の方でスピーチしたいんです、別にね・・・それから飲みますよ、トゥルドリューボフさん」
 「ひねくれ者の意地悪!」シモノフがつぶやいた。
 僕は椅子の上で居住まいを正し、興奮しつつグラスをつかんだ。何か尋常でないことをする心構えをしなが ら、自分でも何を話すことやらまだ知らなかった。
 「静粛に!」フェルフィチキンがフランス語で叫んだ。「さあさあ機知とやらのおでまし!」
 ズヴェルコフは、事の何たるやを理解して、非常に厳粛に待ち構えていた。
 「ズヴェルコフ中尉殿、」僕は始めた、「ご承知願いますが、僕は警句、美辞麗句を使う人、めかしこんだ野 朗のウェストを憎みます・・・これが第一点、そしてこれに続いて二番目」
 みんなが激しくざわめいた。
 「第二点。情事と色男を憎みます。それも特に色男を!」
 「第三点。真理、正直、誠実を愛します、」僕はほとんど機械的に続けていた。どうしてこんなふ うに話しているのかわからないまま、もう恐怖のあまり凍りつき始めたからだ・・・「僕は思想を愛しま す、ムッシュー・ズヴェルコフ。僕は真の友愛を愛します、対等の立場の、そして非・・・フム・・・僕は愛します・・・だが しかし、いいやもう。それでは僕は君の健康を祝して乾杯します、ムッシュー・ズヴェルコフ。チェル ケス女を魅惑したまえ、祖国の敵を撃ちたまえ、そして・・・そして・・・君の健康に、ムッシュー・ズ ヴェルコフ!」
 ズヴェルコフは椅子から立ち上がり、僕にお辞儀をして言った。
 「大変感謝します」
 彼はひどく腹を立て、真っ青になるほどだった。
 「くそ」トゥルドリューボフはテーブルをこぶしで叩いて吠えた。
 「いや、うん、こうなったら面をひっぱたいてやろう!」フェルフィチキンがキーキー言った。
 「追い出してやらなくちゃ!」とシモノフは小声でぶつぶつ言った。
 「何も言うな、諸君、何もするな!」とズヴェルコフがものものしく叫び、広がる憤激を押しとどめた。 「君たちみんなに感謝する、だが僕が彼の言葉をどのくらい評価するかは自分で彼に示すことができる」
 「フェルフィチキン殿、あなたのただ今の言葉に対して明日にも名誉回復の機会を求めます!」僕はもった いぶってフェルフィチキンの方を向き、大声で言った。
 「つまり決闘、かな?どうぞ」と彼は答えたが、おそらく、挑戦する僕がこっけいだったから、そしてそ れが僕の姿に似合わなかったからだろう、みんなが、皆に続いてフェルフィチキンも、笑いころげたのだ った。
 「そうだよ、もちろん、こいつはほっとけ!だってさ、すっかりもう酔っ払ってるんだ!」とトゥルドリ ューボフが嫌悪もあらわに言明した。
 「絶対自分を許せない、彼を入れたりして!」シモノフがまたつぶやいた。
 『さてここいらでみんなに瓶を投げつけるかな』と僕は瓶をつかみながら考え、そして・・・自分のグ ラスいっぱいに注いだ。
 『・・・いや、最後までいた方がいいんだ!』僕は考え続けた。『君らは嬉しいだろうなあ、諸君、僕 が行っちまったら。だあれがそんな。わざと最後まで座って飲むんだ、君たちなんかまったく取るに足り ないんだっていうしるしに。座って飲んでいよう、ここは酒場で、僕は木戸銭を払ってるんだからな。座って 飲んでいよう、君たちなんかチェスのポーン、実在しないポーンと思ってるんだから。座って飲んでいよう・・・それから 歌だ、歌いたかったら、そうだ、うん、歌も歌う、そういう権利があるんだから・・・歌うだけの・・・フム』
 だが僕は歌わなかった。僕は彼らの誰をも見ないように見ないようにとしていただけだった。独立独歩の態度 を装い、彼らが自分から先に、僕に話しかけるのをやきもき しながら待っていた。しかし、悲しいかな、彼らは話しかけてこなかった。そしてどんなに、どんなに僕がこ の時彼らとの仲直りを望んだろう!八時を打ち、とうとう九時になった。彼らはテーブルからソファへ移 った。ズヴェルコフは片足を丸テーブルにのせ、カウチの上に手足を伸ばした。そこへワインも運ばれた。 彼は実際、自分で三本出してみせた。僕はもちろん呼ばれなかった。皆が彼を囲んでソファに座った。彼 らはほとんど恭しげに彼に耳を傾けていた。明らかに彼は愛されていた。『なぜだ?なぜだ?』僕は一人 で考えた。時々彼らは酔いにまかせ、夢中になって互いにキスをしていた。彼らはコーカサスについて、 真の情熱とは何かについて、ガリビクについて、有利な仕事上の地位について話していた。それからポドハ ルジェフスキーという軽騎兵の収入がいくらかについて、そして彼らの誰もこの男を個人的には知らないのに、 その収入の多いのを喜んでいた。それからこれもまた彼らのうち誰一人、一度も見たことのないD公爵令嬢の驚く ほどの美しさと優雅さについて。最後はシェークスピアは不朽だというところまで行った。
 僕はさげすむように笑みを浮かべ、部屋の別の側を、ソファの正反対を、壁に沿って、テーブルからペ チカまで、そしてまた戻り、と歩いた。全力を傾けて僕が彼らなしでもやっていけることを見せてやろうとした のだ。だがその間もかかとに重心を置いてわざと靴音をやかましく鳴らした。しかしすべて無駄だった。 彼らの方は気にもしなかった。僕は我慢して、彼らの真ん前を、八時から 十一時まで、ただ同じところをずっと、テーブルからペチカまで、ペチカから逆にテーブルまで、そうやっ て歩いた。『自分がそうしたいんだもの、誰も禁止することはできない』部屋に入ってきた給仕が何度か立ち 止まって僕を眺めた。頻繁に回転して僕は目が回ってきた。時によっては自分が錯乱しているように思わ れた。この三時間に僕は三度汗をかき、乾いた。時々、深い深い、毒のある痛みとともに僕の心をある考 えが突き刺した。すなわち、十年、二十年、四十年が過ぎゆくとて、僕はやはり、四十年に渡って、嫌悪 を、屈辱を抱きながら、僕の全生涯の中からこの最も下劣な、最も滑稽な、最もひどい時を思い起こすこと だろうと。自身に恥をかかせるその破廉恥ぶりも自由意志も既に限界であり、僕もそれを完全に、完全に わかっていながら、それでもテーブルからペチカまで、そしてその逆、と歩き続けた。 『ああ、君たちが知りさえすれば、どんな感情、思想を僕が持ちうるか、どんなに僕が発達しているか!』 と時々僕は思った。心の中で僕の敵どもが座るソファの方を向きながら。だが僕の敵どもは僕など部屋に いないかのようにふるまっていた。一度、たった一度だけ彼らが僕の方を振り向いたのは、ちょうどズヴェルコ フがシェークスピアについて話し始め、僕が突然ばかにしたように高笑いをした時だった。僕が鼻を鳴らしてあまり 卑しいつくり笑いをしたので、彼らははたと話を中断し、二分間というもの黙って、真面目な顔で、 笑いもせず、僕が壁に沿ってテーブルからペチカまで歩く様子を、そして僕が 彼らに何の注意も払おうとしない様子をじっと見ていた。だが何も起こらなか った。彼らは話しかけず、二分後にはまた僕を見捨てた。十一時を打った。
 「諸君」とズヴェルコフがソファから立ち上がりながら叫んだ。「さあみんなであそこだ」
 「もちろん、もちろんさ!」と他の連中が言った。
 僕は唐突にズヴェルコフの方を向いた。こんなにへとへとなんだ、こんなにくじけちまったんだ、たとえ 何があろうと、終らせるんだ!僕は熱があった。汗に濡れた髪が額やこめかみにくっついていた。
 「ズヴェルコフ!許してください」僕ははっきり、決然として言った。「フェルフィチキン、君にも、み んなに、みんなに、僕はみんなを侮辱したんだ!」
 「アハ!決闘となるとお好みじゃないんだ!」フェルフィチキンが毒々しく吐き出した。
 胸を切り裂かれる苦痛が走った。
 「いや、僕は決闘は怖くないんだ、フェルフィチキン!僕は喜んで君と明日でも戦いますよ、もう和解した その後で。僕はあえてそう主張する、君も拒否できないでしょう。僕は君に証明したい、決闘を恐れ ていないことを。君がまず先に撃つでしょう、そして僕が空に向けて撃つ」
 「自己満足だ」とシモノフが批評した。
 「ただのたわごとだ!」とトゥルドリューボフが応じた。
 「だがどうか通してください、なんです、君は通り道をまたいで立って!・・・やれやれ君はどうして欲 しいんです?」ズヴェルコフはさげすむように応えた。彼らは皆真っ赤だった。皆の目がぎらついていた。厭 というほど飲んだのだ。
 「僕は君の友誼を求めます、ズヴェルコフ、僕は君を侮辱した、だが・・・」
 「侮辱した?き−君が!ぶぉくをぉ!いいですか、君ねえ、どんな状況にもせよ、君が僕を侮辱するの は不可能です!」
 「君はたくさんですよ、どきたまえ!」トゥルドリューボフが締めくくった。「行こう」
 「オリンピアは僕のものだ、諸君、いいだろ!」とズヴェルコフが叫んだ。  「異議なし!異議なし!」彼らは笑いながら答えた。
 僕は屈辱にまみれて立っていた。一同は騒々しく部屋を出て行き、トゥルドリューボ フは何かばかげた歌を歌いだした。シモノフは給仕たちにチップをやるためにちょっと残った。僕は いきなり彼に近づいた。
 「シモノフ!六ルーブリ僕にください!」僕は決然として、死に物狂いで言った。
 彼はひどくびっくりしてなんだか鈍い目つきで僕を見ていた。彼もまた酔っていた。
 「ええー君はあそこへも我々と?」
 「ええ!」
 「僕には金はない!」と彼はピシャリと言って、蔑むようにニヤッと笑い、部屋から出た。
 僕は彼のオーバーをつかんだ。悪夢だった。
 「シモノフ!僕は君に金があるのを見たんだ、なぜ断るんです?僕が卑劣漢でしょうか?拒絶しな いで。君にわかったらなあ、君にわかったらなあ、どうして僕が頼むか!これにはすべてが、僕の全未来 が、僕の全計画がかかっているんです」
 シモノフは金を取り出し、それを僕に放りつけるようにした。
 「取れよ、君がそんなに厚かましいなら!」と冷酷に言い放つと、彼は彼らを追って走りだした。
 僕はちょっとの間、一人で残った。散らかった部屋、残り物、床に壊れたワイングラス、こぼれたワイン、タバ コの吸殻、酔って錯乱した頭、苦しい胸の憂愁、そして仕上げには、すべてを見、すべてを聞き、好奇 の目で僕の顔を覗き込むボーイたち。
 「あそこがある!」と僕は叫んだ。「彼らみんなが跪き、僕の足を掻き抱きながら、僕の友情を請い求めるか、 さもなければ・・・さもなければ僕は、ズヴェルコフに平手打ちだ!」
 

「そうだこれで、そうだこれでやっと現実との衝突ってもんだ」階段を大慌てで駆け下りな がら、僕はぶつぶつ言った。「もうとんでもないやこれは、ローマを離れてブラジルへ行く教皇なんて。 もうとんでもないやこれは、コモ湖畔の舞踏会なんか!」
 『卑劣なやつだぞお前は!』僕の頭にひらめいた。『今それを笑うなら』
 「いいさ!」と僕は自分に答えて叫んだ。「今となってはもう何もかも失われてしまった!」
 彼らはもう跡形もなかった。だがかまうことはない。僕は彼らの行き先を知っていた。
 玄関には終夜の御者が一人で、粗末なコートを着て、いまだ降りしきる湿った、いわば温かい雪で全身 真っ白になって立っていた。むっとして息苦しかった。小さくて毛むくじゃらの、ぶちの馬もやはり 全身真っ白になって咳をしていた。僕はこれをよく覚えている。僕はヘぎ板の橇に突進した。だが席につこうと 足を踏み入れるやいなや、今のシモノフの六ルーブリのくれ様を思い出し、それで僕 はがっくりと、ずだ袋のように橇に倒れこんだ。
 「だめだ!これを全部挽回するには多くのことをしなければ!」僕は叫んだ。 「だが僕は挽回する、でなけりゃ今夜のうち、すぐにも死んでやる。行け!」
 僕たちは動き出した。頭の中いっぱいに旋風が渦巻いていた。
 『跪いて僕の友情を請い求める、なんて彼らはしやしない。それは蜃気楼だ、浅はかな蜃気楼だ、胸の悪く なるような、ロマンチックな、空想的な。コモ湖畔の舞踏会とおんなじだ。となれば、ズヴェルコフに びんたを食らわさなきゃ!僕にはそうする義務がある。これで決まりだ。僕は今、あいつにびんたを 食らわしに飛んでいくんだ』「とばせ!」
 御者が手綱を引いた。
 『入ったら、そこで食らわす。びんたの前に前置きとして一言必要だろうか?いや!ただ入って、食ら わす。彼らはみんな応接間に座っているだろう、そしてあいつはオリンピアとソファだ。くそ、オリンピア! あの女、一度僕の顔を笑い、僕を断った。オリンピアの髪の毛を引っ張ってやれ、ズヴェルコフは両耳だ! いや、耳は片方がいい、耳をつかんで部屋中引きずりまわすんだ。あいつらはたぶん、みんなで僕を殴り にかかってつまみ出すだろう。きっとそうだとも。いいさ!それにしたって僕がまずびんたを食らわすんだ。 僕の先手というわけだ。そして名誉の掟によればこれがすべてだ。あいつはもう烙印を押され、どんなに殴っ ても受けたびんたを拭えはしない、決闘によらずばな。戦わざるをえなくなる。だから今日はあいつ らに殴らせよう。やりやがれ、卑しいやつらめ!中でもトゥルドリューボフが殴るだろう。あいつはそりゃあ屈 強だから。フェルフィチキンは横にくっついてきっと髪の毛をつかむ、確かだぞ。だがいい、いいさ! それならそれで。連中の羊頭でも最後にはすっかり探り当てずにはいられないだろう、この悲劇を! 連中は僕をドアへと引きずり、その時僕はあいつらに叫ぶ、実際あいつらなんか僕の小指一本にも値しない、と』 「急げ、御者、急げ!」と僕は大声を上げた。御者がびっくりして飛び上がって鞭を振るった ほどだった。まったく僕の叫び声は実に野蛮だった。
 『夜明けに戦う、それはもう決まりだ。役所も終わりだ。フェルフィチキンはさっき官庁と言わずにた ん庁と言ったな。だがどこでピストルを手に入れる?ばかばかしい!給料を前借して買うんだ。それで火薬は、 それで弾は?これは介添え人のすることだ。じゃ、どうやってこういうことをみんな夜明けまでにやって のける?で、どこで介添え人を見つける?僕には知り合いもないし・・・』「ばかばかしい!」僕はます ます自らを煽り立てながら叫んだ、「ばかばかしい!」『最初に道で会った人が、僕が頼んだら、介添え人 になる義務があるんだ、溺れている人間を水から引っ張り出すのとまったく一緒だ。極端な奇行も許 されるべし。たとえ僕が、明日、長官その人に介添え人を頼んだとしたって、その時は騎士的感情一つだけでも承 知して秘密を守らなければならないはずだ!アントン・アントヌイチ・・・』
 ありていに言えば、まさしくこの瞬間、僕には、世界中の誰よりもはっきりと、鮮やかに、僕の仮説の下 劣きわまるばかばかしさがすっかり、メダルの裏側が余すところなく、見えていたのだが、・・・
 「急げ、御者、急げ、悪党、急げ!」
 「へえ、だんな!」と田吾作は言った。
 僕は不意に寒さを感じた。
 『だがよくはないかな・・・よくはないかな・・・今のところまっすぐ家に帰った方が?ああ!何で、 何で僕は昨日申し出たりしたんだ、あの食事会!だがだめだ、不可能だ!それでいったいテーブルから ペチカまでの三時間の散歩は?いや、あいつらだ、他の誰でもないあいつらがあの散歩の罰を受けなければ ならないんだ!あいつらがこの屈辱を洗い落とさなければならないんだ!』「急げ!」
 『でもどうする、あいつらが僕を警察に突き出したら?あえてするまい!スキャンダルは恐れている。 でもどうする、ズヴェルコフが軽蔑から決闘を拒否したら?きっとそうだぞ。だがその時は僕が彼らに 目に物見せてやる・・・明日、彼が出発するというその時に僕は駅構内に突進して、彼が馬車に乗り込むと いう時に彼の足をつかみ、彼のオーバーを剥ぎ取ってやる。僕は彼の手に歯を立て、僕は彼を噛んでやる。 《気をつけろよ、やけくその人間を追い込むとどうなるか!》いいさ、あいつが僕の頭を殴る、あいつら みんなで後ろから、としたって。僕は聴衆全員に向かって叫ぶ。《注目、このほやほやの青二才、 顔には私のつばをつけ、チェルケス女を誘惑の旅に出まあす!》
 もちろんそうなればもう何もかも終わりだ!役所は地上から消え去る。僕はつかまり、僕は裁判にかけ られ、僕は職場を追われ、拘置所に入れられ、シベリア送り、流刑だ。なんでもないさ!十五年 後、監獄から出された時僕は、ぼろを着て、乞食として、彼を追跡する。僕はどこかの地方都市で彼を見つ ける。彼は結婚して幸せにしているだろう。彼には大きな娘がいる・・・僕は言う。《見ろ、冷血鬼、見ろ、 僕の落ち窪んだ頬とぼろ着を!僕はすべてを失った−経歴、幸福、芸術、科学、愛する女、 すべてをお前のせいで。ここにピストルがある。僕はピストルを発射しに来た、そして・・・そ してお前を許す》そこで僕は空中に発砲し、僕の消息はまったく聞かれなくなる・・・』
 僕は泣き出さないばかりだったが、そのくせ、まさしくその瞬間にもこれがみんなシルヴィオから、レール モントフの仮面舞踏会からとったものだと完全に、正確に承知していた。そして突然僕はひどく恥ずかし くなり、恥ずかしさに馬を止め、橇から降り、雪降る通りの真ん中に立った。御者はびっくりしてため 息をつきながら僕を見た。
 どうすりゃよかったんだ?あそこへ行けるはずがなかった−ばかげたことになった。うっちゃっておく わけにもいかない、だってもうそれではもっと・・・ああ!いったいどうしてこれがうっちゃっておける ものか?あんな侮辱を受けたのに!いや!と僕は再び橇に身を投げながら叫びを発した。これはそうと定めら れているんだ、これは運命だ!急げ、急げ、あそこへ!
 苛立つ僕は御者の首をこぶしで殴った。
 「いや何をおめえ、何をやるだ?」と百姓は叫んだが、それでもやせ馬に鞭を入れたので、そいつは 後ろ足で蹴り始めた。
 ぼた雪がふわふわと落ちていた。が、そんなことは何でもない、僕はコートをはだけた。びんたを食ら わすと最後の決意を固め、恐怖心とともに、それはとにかくもう間違いなくすぐに、 今、起こるのだ、そしてもういかなる力も止めることはできない、と 感じているからには、他のことなど何一つ僕は顧みなかった。寂しい街灯りが雪舞うかすみの中で葬儀の たいまつのように陰鬱にきらめいていた。雪はオーバーの下、フロック コートの下、ネクタイの下へ押し入り、そこで溶けていた。僕は閉じなかった。だってもうどう せ何もかもなくしたんだ!とうとう僕たちは到着した。僕はほとんど意識もなく飛び降り、階段を駆け上が り、ドアを両手両足で叩き始めた。特に足が、両膝が、僕はひどく弱っていた。なんだかすぐに開い た。僕の来るのを知っていたかのようだった。(実際、シモノフがもしかしたらもう一人来るかもしれな いと前もって知らせていたし、それにここは、あらかじめ知らせたり、一般的に警戒したりする必要があった。 それは、今ではもう警察に根絶やしにされて久しい、あの当時の『モードショップ』の一つだった。昼間は本当に 店だった。が、夕暮れには推薦状を持って訪ねることができたのだ)僕は急ぎ足で暗い店を抜け、一本だ けろうそくの灯った勝手知ったる応接間へ通ったが、当惑して立ち止まった。誰もいなかったのだ。
 「彼らはいったいどこだ?」と僕は誰だかに尋ねた。
 だが彼らには、もちろん、既に散り散りになるだけの時間があった・・・
 僕の前には愚かな笑みを浮かべた一人の人物、少しは僕を知っているマダムその人が立っていた。少し してドアが開き、別の人物が入ってきた。
 何をかまうこともなく僕は部屋を闊歩し、そしてどうやら独り言を言っていたようだ。僕はまるで死 から救われたかのように、自分の全存在をあげて喜びながら想像した。僕はびんたを食らわしただろうになあ、 僕は、きっと、きっとびんたを食らわしただろうに!だが今や彼らはいないし・・・すべてが消え、すべ てが変わった!・・・僕は周囲を見回した。僕はまだ飲み込めなかった。機械的に僕は入ってきた娘に目をやった。 僕の前をさっと過ぎたのは、まっすぐな黒い眉、真面目でややびっくりしたような目つきの、生き 生きとして、若く、やや青白い顔だった。僕はその顔がすぐに気にいった。もしも彼女が笑みを浮かべて いたら、僕は彼女を憎んだだろう。僕は一心に、いわば努めて(思いは依然、すっかりまとまってはいなか ったので)、じっと見つめだした。その顔には何か単純で善良なものがあったが、なぜか奇妙なほどの真 面目さもあった。僕は確信した、だから彼女はここで遊んでいる、あのばかどもめ、誰も彼女に気がつかな かったのだ、と。しかし、彼女は背が高く、丈夫で、立派な体格だったけれども、美人とは呼べなかった。 身なりはきわめて質素だった。何か下劣なものが僕を刺した。僕はまっすぐ彼女に近づいた・・・
 僕は偶然に鏡を見た。興奮した僕の顔は極度にいやなものに見えた。髪の毛はくしゃくしゃで、青白い、 意地悪な、下品な顔だった。『これで結構、これが僕は嬉しい』と僕は思った。『まったく嬉しいや、彼 女にいやなやつに見えるのが。僕にはそれが気持ちいい・・・』
 

・・・どこか仕切りの向こうで、なんだか強く抑えつけられたかのように、誰かに息を止められたか のように、時計がゼーゼー鳴った。不自然なほど長くゼーゼー言う音に続いて、か細く、不快な、な ぜか意外にすばやい響きが後を追った−まるで誰かが突然前に飛び出したかのように。二時だった。 僕は我に返った、といっても寝ていたのではなく、半意識状態で横になっていただけだったが。
 部屋の中は狭く、低く、窮屈で、大きな洋服ダンスにふさがれ、ボール紙の箱やらぼろ服やらあらゆる身に つけるがらくたやらいっぱいで、ほとんど真っ暗だった。部屋の端のテーブルの上に灯るろうそくは、時々 ほんの少し燃え上がるばかりで、すっかり燃え尽きていた。数分後には完全な暗闇となるにちがいなかった。
 僕の意識はすぐにはっきりした。すべてが同時に、苦もなく、直ちに蘇り、それはまるで再び襲い掛か ろうと僕を見守ってでもいたかのようだった。まったく意識朦朧たる状態といってもやはり決して忘れら れずに常に記憶に残っている、いわばある一点があって、僕の半睡の夢想はその周りを重苦しく うごめいていたのだった。だが不思議なことに、すべて、この日僕に起こったことが今、目が覚めた途端に もう遠い遠い過去のように思え、まるで僕はもう遠い遠い昔にこんなことはすべて追い払ってしまったか のようだった。
 頭の中は沸き立っていた。何かが僕の上を飛び交うかのようにして僕に触れ、僕をかき立て、かき乱した。 憂鬱と癇癪が新たに沸騰し、出口を求めていた。突然近くに、もの珍しそうに、執拗に僕を眺めている 二つの見開いた目を見た。冷たく感情のない、陰気な、まったくよそ者を見るような視線だった。 みじめにさせるものだった。
 陰鬱な思いが僕の頭に生じ、湿ってかび臭い地下室に入った時に似た、一種厭な感覚が全身を 通り抜けた。なんとも不自然だ、まったくこの時だけこの二つの目が僕をじろじろ見てやろうという気を 起こすなんて。僕はまた、二時間の間僕がこの人間と一言も言葉を交わさなかったこと、 まったくその必要があると考えなかったことも思い出した。 なんと僕はなぜかさっきまでそれでいいと思っていた。ところが今、突然はっきりと見えてきたのだ、 愛もなく、野蛮に、恥知らずに、真実の愛の頂点となるところからいきなり始める、性を買う行為のばかげ た、蜘蛛のように忌まわしい意味が。僕たちは長い間そうして互い を見ていたが、彼女がその目を僕の目を前にして伏せないし、その目つきを変えないので、最後には、僕 はなぜか恐ろしくなった。
 「君、名前は?」早く終らせようと、僕はぶっきらぼうに尋ねた。
 「リーザ」と彼女はほとんどささやくように答えたが、なんだかまったく無愛想にわきを向いた。
 僕は少し黙っていた。
 「このごろの天気は・・・雪で・・・いやだな!」僕はのろくさと頭の後ろに手を回し、天井を見ながら、 独り言のようにして言った。彼女は答えなかった。まったくけしからんことだった。
 「君は土地っ子?」一分後、僕はほとんど癇癪をおこし、わずかに彼女の方へ頭を向け、尋ねた。
 「いいえ」
 「どこから?」
 「リガから」と彼女はしぶしぶ言った。
 「ドイツ人?」
 「ロシア人」
 「ここには長く?」
 「どこに?」
 「ここんち」
 「二週間」彼女はますますもってぶっきらぼうに言った。ろうそくは完全に消えた。僕にはもう彼女の顔を見分 けることもできなかった。
 「お父さん、お母さんはいる?」
 「ええ・・・いえ・・・いるわ」
 「どこに?」
 「あっち・・・リガに」
 「何をしてる?」
 「そうね・・・」
 「どうそうねさ?何者、肩書きは?」
 「ただの市民」
 「君はずっと一緒に住んでた?」
 「ええ」
 「君はいくつ?」
 「二十歳」
 「いったいなぜ君は置いて出てきたの?」
 「そうね」
 このそうねの意味は、ほっといて、むかむかする、だ。僕たちは話をやめた。
 僕がなぜ立ち去らなかったのか、なんて知るものか。僕自身もだんだんむかむか、鬱々としてきた。過 ぎた一日のあらゆる心象がなんだかひとりでに、僕の意志とは別に、ごたごたと僕の記憶に蘇ってきた。 僕は突然、今朝、うわの空で仕事に急ぐ道で見たあるシーンを思い出した。
 「今日お棺を運び出していて危うく落とすところだったな」と、突然僕は、ちっとも話など始めたくな いのに、まるで降って湧いたかのように、大きな声を出した。
 「お棺?」
 「そう、センナヤで。地下から運び出していた」
 「地下から?」
 「地下からじゃなくて、地下のフロアから・・・なに、知ってるだろ、下にある・・・よからぬ家からだ ・・・まわりのそりゃあ汚いこと・・・殻、ごみくず・・・臭いはする・・・むかむかしたよ」
 沈黙。
 「いやだなあ、今日埋葬するなんて!」僕は、ただ黙っているのを避けるためだけにまた始めた。
 「何でいやなの?」
 「雪だし、濡れるし・・・」(僕はあくびをした。)
 「どうでもいいことだわ」と、短い沈黙の後、突然彼女は言った。
 「いや、不快だ・・・(僕はまたあくびをした)。墓堀はきっと悪態をつく、雪でずぶぬれになる から。それに墓ん中はきっと水浸しだ」
 「どうして墓の中に水よ?」彼女は一種の好奇心から尋ねたが、前よりさらに乱暴で、引っちぎったよ うな言い方だった。突然僕をけしかける何かが頭をもたげた。
 「そうさね、水は、底に、六ヴェルショークかな。あそこでは、ヴォルコヴォでは乾いた墓は一つも掘れないんだ」
 「どうして?」
 「どうしてって?そんなふうに水浸しの場所なのさ。ここらはどこも湿地だから。それで水の中に 置くんだ。僕は自分で見た・・・何度もさ・・・」
 (一度も僕は見たことがないし、その上ヴォルコヴォへも決して行ったことはなく、ただ話に聞いただけだ。)
 「ほんとにどうでもいいのかな、死ぬってのに?」
 「でもなんであたしが死ぬの?」彼女は身を守るかのように答えた。
 「いつかはそりゃあ死ぬってことさ、ちょうどさっきの死んだ女、あれとすっかり同じように死ぬんだ。あ れもまた・・・やはり娘で・・・肺病で死んだんだ」
 「女の子は病院で死ぬでしょう・・・」(彼女はもうそれを知ってるんだ、と僕は思った、それで言った んだ、娘でなくって女の子と。)
 「彼女はマダムに借りがあったんだ」と僕は、この論争にますますけしかけられるようにして言い返した。 「それでまったくほとんど最後まで、肺病だというのに働いていたんだ。周りにいた御者たちが兵士たち と話をしてそう言ってたよ。きっと前になじみだったんだ。笑っていたよ。それに酒場でも集まって彼女 の話になってたよ」(僕はまたここでつまらない嘘をたくさんついた。)
 沈黙、深い沈黙が続いた。彼女は身動きもしなかった。
 「で、病院だったらましかな、ひょっとして、死ぬのに?」
 「どうでも一緒じゃない?・・・だけど何であたしが死ぬの?」と彼女はいらだって付け加えた。
 「今でなく、後でもそうかな?」
 「それは後だって・・・」
 「とんでもない!今はほら、君は若くて、きれいで、生き生きしてる、で、君にはそれだけの価値があ る。だがこの生活で一年したら、君ももうそうじゃなくなる、しおれるさ」
 「一年で?」
 「どうしたって一年で君の価値は下がる」僕は意地の悪い喜びとともに続けた。「君はここからどこ か下級の、別のうちに移る。さらに一年で三番目の家だ、ますます下へ下へとね、で、七年のうちにセン ナヤの地下に行き着くんだ。これはまだ結構だろう。だってほら面倒だよ、もしも君が、その上にさ、何か 病気にでもなったら、なに、そこで胸をわるくするとか・・・風邪をひくとか、なにかさ。そういう生活では病気は治 りにくいし。とりつかれる、するとたぶん、離れていかない。そうして死ぬんだ」
 「じゃあ死ぬわ」と、完全にもう憎々しげに答え、彼女はすばやく身を動かした。
 「だけどさあ、かわいそうだ」
 「誰が?」
 「命がかわいそうだ」
 沈黙。
 「君に求婚した人は?え?」
 「それがあなたに何なの?」
 「でも僕は君から聞きだそうとしてるんじゃないんだ。僕に何って。何で君怒るんだ?君は君でもちろ ん、困ったこともあったんだろう。僕には何にも。でも実際、かわいそうだ」
 「誰が?」
 「君がかわいそうだ」
 「余計だわ・・・」ほとんど聞こえぬささやきとともに彼女はまた身を動かした。
 僕はこれにすぐ腹を立てた。何だよ!僕がこうやって優しくしているのに、彼女は・・・
 「でも君はどう思うのさ?いいのか、この道で、ええ?」
 「何もあたしは考えない」
 「それがよくない、考えないのが。目を覚ますんだ、時間のあるうちに。時間ならある。君はまだ若い し、美人だ。恋もできるし、結婚もできるし、幸せにもなれる・・・」
 「結婚ったってみんなが幸せじゃないわ」と彼女はさっきの乱暴な早口でピシャリと言った。
 「みんなじゃないさ、もちろん、でもそれだってずっといいよ、ここより。はるかにいいよ。だって愛 があって幸福がないのは生きていける。悲しい人生もいい、この世を生きるのはいい、どんな生き方だっ て。だがここに何がある・・・悪臭のほかに。フュー!」
 僕は厭わしげに顔をそむけた。僕はもう熱のない議論をしているのではなかった。話していることが 僕自身の感じるところとなり始め、僕は興奮していた。僕はもう、僕の隅っこで生き残った大事な考えを 披瀝したくてたまらなかった。突然、僕の中の何かに火がつき、ある目的が『立ち現れた』。
 「君は僕を真似しちゃだめだ、僕がここにいるからって、僕は君の手本じゃない。僕は、もしかしたら、 君よりもっと悪いのかもしれない。しかし僕は酔っ払ってひょっこりここに来たんだからね」やはり僕は急いで 自分を正当化した。「そのうえ男は女にとってまったく例にならない。問題が別なんだ。僕が自分を汚し、 泥を塗っているとしても、その一方、僕は誰の奴隷でもない。来るも来ないも僕の勝手だ。 この身から振り払えば元通り、きれいさっぱりさ。でも君は何より初めっから奴隷、ってことだ。そうと も、奴隷だ!君はすべてを、すべての自由を与えてしまった。そして後になってこの鎖を断ち切りたいと 思う、だがもうだめだ。ますますきつく、きつく君は絡みとられていく。こいつはもう、そういう呪わし い鎖なんだ。僕はそれを知ってる。もう他の事は言わないよ、君にわかりもしないしね、たぶん、でもほら、 言ってみな、ねえ、君はきっと、マダムに借りがあるんだろ?ああ、ほらね!」と僕は付け加えた、とい っても彼女は僕に答えなかったのだが、ただ黙って、全身全霊を傾けて聞いていた。「そこに君の鎖があ るんだ!もう決して払い終えることはない。連中はそういうふうにするのさ。まったくそれじゃ悪魔に魂 を・・・
 ・・・その上僕だって・・・もしかしたら同じように不幸で、君にはわかるまいが、わざと汚辱に浸る んだ、気もふさぐから。だって憂さを晴らしに飲むじゃないか。ま、それで僕はここさ、憂さ晴らしにね。 さあ、言ってくれ、じゃあここのどこがいい。ここで君と僕とは・・・求めあった・・・さっき、それ で僕らはその間ずっと互いに一言もしゃべらず、それに君は僕を野蛮人みたいに終った後じろじろ見 ていたじゃないか。それに僕も君を、ね。こんなふうに愛するだろうか?人間と人間がこんなやり方で求め合わなければな らないのか?これは醜悪なだけだ、そのものだ!」
 「そうだわ!」鋭く、せきこんで彼女は僕に同意した。このそうだわの性急さ は僕をびっくりさせるほどだった。ということは、さっき僕をじっと見ていたとき、まったく同じ考えが もしかしたら、彼女の頭の中を巡っていたのではないか?ということは、彼女ももう、ある種のことを考 えることができるのか?・・・『えいくそ、これはおもしろい、これは同じ種族だ』と僕は思った−いやもう手 をこすり合わせないばかりにして。『それならこんな若い心、どうにかできないかな?』
 何よりも僕はお芝居に心を奪われた。
 彼女は僕の方に頭を近づけ、暗闇の中、肘をついていたらしい。もしかしたら僕をじっと見 ていたのだろう。彼女の目を見分けることができないのが僕はなんとも残念だった。僕は彼女の深い呼吸音を聞い た。
 「なぜ君はここへ来てしまったんだ?」僕はいささか偉そうに始めてしまった。
 「そうね・・・」
 「だってさあ、お父さんのとこで家にいた方がどんなによかったか!温かく、自由で。自分の巣だ」
 「でもそんなによくなかったら?」
 『的をはずしちゃいけない』僕の中でひらめいた。『たぶん感傷なんかでは多くは望めないな』
 とはいえ、これはそんなふうにただひらめいただけだった。確かに、彼女は実際、僕の興味を惹いた。 そのうえ僕はなんだか気弱に、そんな気分になっていた。それにまた結局、ペテンと感情はたやすく折り合う ものだ。
 「誰がそんなことを!」急いで僕は答えた。「何だってありうるし。とにかく僕は確信してるんだ、誰かが君 に悪いことをした、罪があるのはむしろ君に対してであって、君が彼らに、じゃないと。とにかく僕は君 の身の上はなんにも知らない、だけど君のような娘はさ、きっとさ、自分から望んでここへ来ること になっちゃったんじゃないし・・・」
 「あたしのようなってどんな娘?」彼女のささやきはほとんど聞こえなかった。だが僕は聞き取っ た。
 『えいくそ、おまけに彼女におもねてる。これは下劣だ。でもひょっとして、それもいい・・・』彼女 は黙っていた。
 「ねえ、リーザ、僕、自分のことを言おう!子供の頃から僕に家族があったら、僕は今みたいなふうに なってなかったろう。僕はこのことをよく考えるんだ。だってどんなに家族仲が悪くっても、それでもお 父さんとお母さんだ、敵じゃないし、他人じゃない。少なくとも年に一度は愛情を示してくれる。何にせ よ自分の家にいるってことを知っている。僕は家族なしに育った。それが理由で、きっと、こんなふうに なった・・・無感覚に」
 僕は再び待ってみた。
 『たぶん、わからないな』と僕は思った。『それにまた滑稽だ、道徳は』
 「もしも僕が父親で自分の娘がいたら、僕は息子たちより娘の方をより愛したろうと思うんだ、ほんと さ」僕は側面から、ご機嫌取りと思われないように、始めた。実を言うと、僕は赤くなっていた。
 「それはなぜ?」と彼女が尋ねた。
 あ、それじゃ、聞いてるんだ!
 「そうさね。わからないよ、リーザ。ねえ、僕の知っているある父親は厳しくて怖い人だったけれど、 娘の前では膝をついて立ち続ける、彼女の手足にキスする、いくら賛美してもあきたりない、いや ほんとさ。娘が夜会で踊る、と彼は五時間でも一つ所に立って、娘から目を離そうとしない。娘 に夢中なんだ。僕はそれがわかる。夜、彼女が疲れて眠る、と、彼は起きだして眠っている彼女にキスして十字を切 りに行く。自分は油染みたフロックコートでいて、誰に対してもけちで、ところが彼女には財布の 底をはたく、高価なものをプレゼントする、プレゼントを喜んでくれたらそれでもう嬉しいのさ。父親はいつだって母 親より娘を愛するものだ。家で暮らすのが楽しい娘もいるのさ!僕なら自分の娘は嫁に出さないだろう なあ」
 「あらどうして?」彼女はほんのかすかに笑いながら尋ねた。
 「絶対やきもちを焼くんだ。いや、どうする、娘が他のやつとキスするようになったら?父親よ り他人を愛したら?想像するのもつらいよ。もちろん、これはみんなナンセンスだ。もちろん、誰だって 結局は正気に戻る。でも僕だったら嫁にやる前に、もう心配で疲れ果ててしまうだろうなあ。花婿候補は あらを探して皆却下さ。それでも最後はやっぱり娘が自分で好きになったところへやるんだろうなあ。 いや、娘が自分で好きになるそいつがさ、いつだって父親には最悪に見えるんだ。それはもうそうなってるん だ。そこから家族の間によくないことがたくさん起こるんだ」
 「そうかと思うと娘を喜んで売るのもいる、立派に嫁にやるんでなく」と彼女が不意に言った。
 ああ!そうだったか!
 「それはリーザ、神もない、愛もない、呪うべき家庭のことだ」僕は熱をこめて続けた。「そして 愛のないところには理性もまたない。そんな家族もあるさ、実際、でも僕が言うのはそういうのじゃない。 君はどうやら家族に囲まれていいことがなかったんだね、そんなことを言うなんて。ほんとに不幸だな、 君はある意味。ふむ・・・多くはいつも貧乏のせいでそうなる」
 「じゃあ上流階級ならいい、そうかしら?貧乏でも実直な人たちはちゃんと暮らしてるわ」
 「ふむ・・・そうだ。たぶんね。もとい、ねえリーザ、人は自分の悲しみばかり好んで数え、自分の 幸せは数えないものだ。数えたらわかるにちがいない、どんな運命にも幸せが用意されているって。 ほら、どうだろうね、家庭内の何もかもうまくいって、神も祝福する、夫はいい人で、君を愛し、 君を大事にし、決して君と離れないと言ったら!いいだろうそんな家庭は!時には不幸と半分半分だってい い。それに不幸のないところなんかあるかい?結婚したら、たぶん、自分でわかる。 しかし愛する人と結婚した最初の頃のことだけ考えてもさ、幸福、幸福がどのくらいやってくることか! それもしょっちゅうだよ。最初の頃は夫とけんかしたってうまくおさまるんだ。愛すれば愛するほど夫と けんかを始めてしまうのもいる。ほんとさ。知り合いにこんなのがいた。『ねえほら、愛してる、とても、 それで愛してるから困らせるの、ね、わかってね』と言うんだ。わかるかい、愛しているからってわざと人を困 らせることもあるんだよ。女の人が多い。で、自分ではこう思ってる。『見返りに後でもうたっぷりと愛する の、息もつけないほど愛撫するの、だから今苦しめるのも罪ではないの』とね。家でもみんなそれを喜ん でいる、そして申し分なく、陽気で、平和で、正直で・・・嫉妬深いのもまたいるな。彼がどこかへ出か ける、−いや僕は一人知ってるんだ、−我慢できない、そして夜中に飛び出す、そしてひそかに見張って やろうと駆け回る。あそこじゃないか、あの家じゃないか、あの女とじゃないか?ってね。これはも ういけない。自分でもわかってるんだ、いけないって、それに心臓は止まりそうだし苦しいし、でもねえ 愛してる、すべて愛してるからなんだ。でもけんかの後の仲直りのすばらしいこと、自分から彼に告白したり 許したり!二人ともすごく愉快に、突然すごく愉快になる、まるで二人新たに出会い、新たに結婚し、 新たに二人に愛が生まれたかのように。そして互いに愛し合っている夫婦の間のことは、それこそ誰にも、 だあれにもわからないだろう。どんなけんかになろうと、実の母親にだって裁きを頼むべきじゃないし、 他人に一言も話すべきじゃないんだ。自分で自分を裁くんだ。愛は神の秘密であり、何があろうと、 一切の他人の目から遮断されていなければならない。それによってより神聖に、よりよいものになる。互 いにますます尊敬し、尊敬を基礎として多くのことが築かれる。そして一度愛が確かめられたなら、愛しあって結婚し たなら、どうして愛が終ったりするものか!愛し続けることができないなんてありうるだろうか?愛し続けることがで きない場合なんてめったにない。ほら、幸い夫が優しく正直なら、どうして愛が消えるだろうか?確かに新 婚の頃の愛は消えるにしても、そこにさらによりよい愛が生まれるんだ。その時は心で結ばれて、あらゆることが二 人の共通の問題となる。秘密は互いの間に存在しなくなるんだ。そして子供たちが生まれる、そうすると いつでも、とてもつらい時でも、幸福に思える。ただ愛しあい、勇敢であれば。そうすると仕事も楽しい、そう すると食事だって時には子供たちのために自分たちは我慢する、それがまた楽しいんだ。何しろそうすれば後にな って子供たちが愛してくれる。つまり自分自身のため、結局、蓄えることになる。子供たちの成長を見て、自 分が彼らの手本である、自分が彼らの支えである、と感じる。そして死んでも、彼らは生涯、親の気持ち や考えを抱いていくだろう、なぜなら親から受け取るのだから、親の外見や似たところを受け継ぐのだか ら。だからね、これは大変な義務なんだ。どうしてそれで父と母が固く結ばれないだろう?ほら、子供は 苦労の種だなんて言うね。何でそんなことを言うんだ?それは天上の幸福だ!君、小さな子供は好きか い、リーザ?僕はとても好きなんだ。ねえ、ばら色をした小さな男の子が君のおっぱいを吸っている、そ の、わが子といる妻の姿を眺めたら、どんな夫の心も妻に引きつけられるよ。ばら色の、まるまる太った 幼子が大の字になってのんびりしている。手足はふっくらして、つめはきれいで、ちっちゃくて、見ると おかしくなるほどちっちゃくて、目は、まるでもう、何もかもわかってるかのよう。君のおっぱいを吸っ たり、おててでいじって遊んだりする。父親が近づくと、おっぱいをやめて、思い切り反り返って、父親 を見て、笑い出す、−それこそもうそんなにおかしいことはないといったふうに、−それからまた、また 吸い付くんだ。そうしてまた、もう歯が生えてくるというと、母親のおっぱいを噛む、そのかわいい目は 彼女を横目に見て『見て、噛んだよ!』って。ああ、どんなことだって幸せなんじゃないかな、彼ら三人、 夫と妻と子供が一緒なら?こういう瞬間のために多くを許すことができる。いや、リーザ、どうやらまず 第一に生きることを学ばなければならないんで、もう他人を攻めるのはその後だ!」
 『絵だ、こんな時はこういう絵でいかなくちゃ!』僕は誓って感情を込めて話したくせに、そんなふうに考え、 突然、赤くなった。『だがもしも、彼女が突然どっと笑い出 したら、その時僕はどうするんだ?』この考えに僕はかっとなった。話の終わりごろには本当に興 奮してしまい、今はなんだか自尊心が傷ついていた。沈黙が続いた。彼女を小突きたいと思うまでになっ た。
 「何だかあなた・・・」と彼女は突然言いかけてやめた。
 だが僕はこの時すべてを理解した。彼女の声にはもう何か別のものが震え、さっきのようにとげとげしくもぞんざいで も反抗的でもなく、何やら穏やかで恥ずかしげで、あまり恥ずかしそうで、 なぜか僕自身、突然彼女に対して恥ずかしくなり、やましい気持ちになった。
 「何?」と僕は優しい好奇の心で尋ねた。
 「でもあなた・・・」
 「何?」
 「何だかあなた・・・まるで本を読んでるみたい・・・」と彼女は言ったが、突然また、何やらいわば 皮肉が、その声の中に感じられた。
 これは痛烈で我に返らせる言葉だった。僕はそんなことを予期していなかった。
 僕にはわからなかった、彼女がわざと冷笑の仮面をつけたことが。これが、乱暴にずかずかと心の中に 入り込まれても最後の瞬間まで自尊心から屈服することなく、人前で自分の感情をあらわにするのを恐れる 内気で純な心情の持ち主がよく見せる最後のごまかしであることがわからなかったのだ。彼女が人を冷 やかすのに何度も言いかけて、最後にやっと思い切って口に出した、あの気後れからも、僕は見当をつけ ていなければならなかった。だが僕には思いもつかず、意地悪な気持ちに僕は包まれた。
 『見てろよ』と僕は思った。
 

「ええ、やめろよ、リーザ、この際何が本だよ、部外者の僕にも汚らわしいという のに。それに部外者でもない。これはみんな今、僕の心に呼び覚まされたことだ・・・ほんとに、ほんと に君自身、ここが汚らわしくないのか?いや、どうやら、慣れが物を言うんだ!慣れによって人間はどう なってしまうかわからない。だがまさか君、決して年をとらないし永遠にきれいなままだろう、 永久にここに置いてもらえるだろう、と本気で思ってやしないよね?僕はもう言わないよ、ここだって汚辱だなんて・・ ・いや、だけど僕はこの際、君にそのことについて話そう、今現在の君の生活について。ほら、君 は今、若いし、顔立ちはいいし、きれいだし、心もあるし、感情もあるけれども、でもねえ、わかるかな、 僕はね、さっき目を覚ますやいなや、とたんに君とここにいることにぞっとしたんだ!酔っ払ってなく ちゃねえ、ここへは乗り込めたもんじゃない。だが君が他のところで、まっとうな人たちのように生きて いたら、僕は、もしかしたら、君を追っかけまわすだけじゃない、訳なく君に恋をして、言葉なんかなく ても、君に見つめられるのが嬉しいかもしれない。門のところで君を待ち伏せし、君の前にひざ まずくだろう。自分の婚約者のように君を見て、その上それを名誉とするだろう。君のことで不 純なことなど考える勇気もないだろう。だがここではどうだい、なに、僕は口笛を吹くだけさ、する と君は、否応なしに僕に従う、僕はもう君の意志はどうかとお伺いを立てやしない、が、君の方は僕次 第だ。水飲百姓は農場で働く、それだって何から何まで奴隷というのじゃない、それにまた自分には期 限があることも知っている。だが君に期限があるのか?ちょっと考えてごらんよ、君はここに何を差し出 した?何を奴隷にした?心だよ、心、そんな権利もないのに、君はそれをからだと一緒に奴隷にしたんだ!自分 の愛を冒涜せよと誰ともわからぬ酔っ払い相手に差し出したんだ!愛!ああ、それがすべて、ああ、それ がダイヤモンド、乙女の宝だ、愛こそ!だってこの愛に値せんがために、喜んで魂を捧げ、死へ赴く者も ある。だが今や君の愛は何に値する?君は何から何まで、全部ひっくるめて買われちまって、となるとここ ではもう愛がなくても何でもできるのに、何のために愛を勝ち得ようとするもんか。そりゃあ娘にとって それ以上の侮辱はない、わかるね?ほら、僕は聞いたよ、君たち間抜けを喜ばせようってんで、ここで 恋人を持つことが許されてるんだってね。なに、それはただのごまかし、ただのペテン、ただ君たちを笑っ てるだけなのに、君たちは信じたりして。どうして彼が、本当に、ええ、君を愛するもんか、 その恋人がさ?そんなばかな。どういうわけで愛するようになる、今にも呼ばれて人を置いていく君と わかってて?それでもというなら恥知らずさ!そいつは君をちっとでも尊敬するだろうか?何かそいつと共通する ものが君にあるのか?君をあざけり、君から奪う、それがその愛のすべてだ!ぶたれなけりゃましだよ。 だがたぶん、ぶつさ。ちょっと訊いてみな、もし君にそんな男がいたら。君と結婚するかって。で も君は面と向かって大笑いされるよ、つばをかけられたりぶたれたりしないとしてもね。それでいてその男自 身は、おそらくまるっきり何の値打ちもないとくる。何のために、ねえ、君はここで自分の人生を破滅さ せてしまったと思う?なぜ君にコーヒーを飲ませ、たっぷり食べさせる?ねえ何のために食べさせたり する?他の娘なら、正しい娘なら、そんなものは一口ものどを通らない、何のために食べさせるか知って るからね。君はここに借りがある、なあにいつもいつも借りがあるだろうし、最後の最後まで借りがある だろうさ、客が君に怖気をふるうようになる、その時までね。でもそれはすぐにやってくる、若さは当て にならないね。ここではねえ、それがいつだって郵便のように飛んでくるんだ。君はそれで放り出される。 それもただ放り出すだけじゃない、だいぶ前からまずはあら捜しにかかる、咎めだす、ののしりだす、− 言ってみれば君が自分の健康をマダムに捧げ、若さや心を彼女のためにむなしく荒廃させたのではなく、ま るで君の方が彼女を零落させ、貧乏にし、略奪したかのように。支え合いを期待しちゃいけないよ。仲間 といってもほかの連中は彼女のご機嫌をとるためにやっぱり君を攻撃する、だってここではみんな奴隷状態で、良 心も同情もずっと前に失くしてしまってるんだからね。次から次へと、もう彼らの悪態より汚らわしくて 卑劣で厭なものは地上に存在しない。そして何もかも君はここになげうつんだ、すべてを、無条件に、− 健康も、若さも、美しさも、希望も、そして二十二の年には三十五歳のように見えるだろう、それでもまだ いい、病気でなければね、それを神に祈るんだね。おそらく君は今思っているにちがいない、仕事もせず に遊んでられるって!でもこれよりつらく耐え難い仕事はこの世にないし、かって存在したこともない。 心一つとっても、涙に溶けて消えてしまうようだろう。それにここから追い出される時だって、君は一 言も、ほんの一言もあえて口にせず、悪いことでもしたように出て行くんだ。君は他の場所へ移る、それ から三番目、それからさらにどこかへ、そして最後にセンナヤへたどり着く。と、あそこじゃもう何とは なしにぶたれるようになる。それがああいうところの礼儀なんだ。あそこじゃ客がかわいがるにも殴らなく っちゃすまないのさ。君は信じないかい、あそこはそんなぞっとするところなんだぜ?行って見てみるんだね、 いつか、自分の目で確かめられるよ。僕は一度新年にあそこへ出かけて戸口にいるのを一人見たよ。いやもう その女、ひどくわめくもんだから、ちょっと寒気にさらしてやろうってんで仲間があざけり半分に放り 出して、戸を彼女の後ろで閉めちまった。朝のちょうど九時、彼女はもうすっかり酔っ払い、髪を振り乱 し、半裸で、全身無残に殴られていた。白塗りにしているが、目の周りは真っ黒だ。鼻からも歯ぐきから も血が流れている。御者かなんかにたった今焼きを入れられたんだ。彼女は石段に座り、手に魚の塩漬けの ようなものを持っていた。彼女はわめき、何か自分の《うんめ》のことを嘆き悲しんでは、魚で階段を叩い ていた。そして玄関には御者やら酔っ払った兵隊やらが群がって彼女をからかっていた。君は信じないか な、今に君もまったくそんなふうになるなんて?僕も信じたくはない、でもわからないじゃないか、もし かしたら十年、八年前には、その女、その塩漬けの魚を持ったのだけどさ、どっかからここへ来た時には ケルビムのように生き生きして、純潔で、穢れなかったかもしれないよ。悪いことは知らず、一言言っては 赤くなってさ。あるいは、ちょうど君と同じで、誇り高く、怒りっぽく、人とは違っていて、王女様の ようで、彼女を愛し、彼女に愛される男を完全な幸福が待ち受けていることを知って いたかもしれない。ね、結局どうなった?それにどうだろう、ちょうどあの瞬間、彼女が酔っ払って髪を振 り乱し、あの魚で汚い階段を叩いていた時、どうだろう、あの瞬間の彼女が、かっての穢れない、父 親の家にいた頃を思い出していたのだったら。それはまだ彼女が学校に行っていて、隣の息子が道で彼女を待 ち伏せして、生涯彼女を愛する、自分の運命は彼女に定められていると誓った頃であり、彼 ら二人で、互いを永遠に愛し、大きくなったらすぐに結婚すると定めた頃さ!いや、リーザ、幸福だ、君 は幸福だ、どこかあそこらで、隅っこで、地下で、さっきの子のように、肺病で早いとこ死ぬんなら。病院で、 って言う?連れてけば結構、だが君がまだマダムに必要だったら?肺病はそういう病気だ。熱病じゃあないから。 そうなると最後の瞬間まで人は希望を抱いて健康だって言う。自分自身を慰めるんだ。それにマダム にとっても好都合だ。くよくよしないことだ、これはそうなんだから。心は、そう、やっちまった、その うえ金を借りている、となると文句を言えるはずもない。死ぬとなったら、みんなが君を放り出す、 みんなが知らんぷりだ、だってそうなったら君から何が得られる?いや、その上、君を責める、ただで場所 をふさいでる、さっさと死ねばいいのにってね。水をもらおうにも、呪いの言葉とともに 与えられるんだ。『やい、いつになったら、この下種女、くたばるんだ。寝ようにも邪魔してうなるし、 お客が気味悪がるよ』これは確かだ。僕は自分でそんな言葉をふと耳にしたんだ。くたばりかけた君を押し 込む、地下の悪臭のいちばんひどい隅へ、−−暗闇、じめじめ。その時君は、一人でそこに横たわりながら、何か 考えを変えるだろうか?死ぬ、とあわてて集まる、が、いらいらしてぶつぶつ不平を言う見知らぬ人の 手が、−−誰一人君を祝福せず、誰一人君を惜しんでため息もつかず、−−たださっさと君をおっぽってお疲れさん だ。桶を買い、今日のあの、哀れな娘を運び出したのと同じように、運び出し、居酒屋へ祈りに行く。 墓の中にはぬかるみ、くず、ぼた雪、−−いったい君のために儀式が必要だろうか?『おろそうかい、 ワニューハ。見ろや、ええ、《うんめ》だぜ、ここでもまっさかさまだあ、そういう女だあな。その縄縮めろや、 でれすけ』『オーケーだぜ、これだって』『なあにがオーケーだあ?見ろや横倒しだぞ。やっぱり人間だった んじゃねえのか?だがまあオーケーか、埋めろ』罵り合うったって君のためじゃ長くはしたくないってさ。 さっさと湿って黒ずんだ青土をまいて、すたこらと居酒屋さ・・・これが地上における君の思い出の終わり だ。他の人は子供たちが墓参りする、父親、だんなも、だが君には、涙も、ため息も、追憶もなく、誰 一人、この世界の誰一人として、決して君のところへは来ない。君の名は地表から消えうせる、まるでま ったく君など存在したことさえ、生まれたことさえなかったかのように!泥と沼、せめてそこで夜になったら、死人の起き る頃、棺の屋根でも叩くんだね。『どうかご親切な方々、地上で暮らさせて!あたしは生きた−−人生 を見ずに、あたしのはぼろ雑巾の人生になっちゃった。センナヤの酒場であたしの人生を飲んじまいやが った。どうか、ご親切な方々、もう一度地上で暮らさせて!・・・』」
 僕は熱中のあまり、自分でものどが痙攣を起こしそうになっていて、そして・・・突然僕は中断して、 ぎょっとして身を起こし、恐る恐る頭を傾け、胸をどきどきさせながらじっと聞き耳を立て始めた。 あることで狼狽してしまったのだ。
 すでにだいぶ前から、彼女の心をすっかり転倒させ、胸を引き裂いてしまったことを、僕は予感していた が、それで、そのことを確かめるほどに、なおさら早いとこ、できるだけ強烈に目的を達成したいと望ん でいた。お芝居、お芝居が僕を夢中にした。それでも、お芝居だけではなく・・・
 僕の話し振りが不自然で、とってつけたようで、読み物めいてさえいて、要するに、僕には『まるで本を 読む』ようにしかできないのはわかっていた。だがそれでまごつくことはなかった。とにかく僕にはわか っていた、予感があった、僕は理解されている、まったくこの読み物めいたところがなおさら事をうまく 運ぶかもしれない、と。だが効果を得た今、僕は突然怖くなった。ああ、今まで一度だって、一度だってあのよう な絶望の目撃者になったことはない!彼女は顔を枕に強く押し付け、両手でつかみ、うつぶせになって いた。彼女は胸も張り裂ける思いだった。彼女の若い体は全身、痙攣するように震えていた。胸にこみあ げるむせび泣きが彼女を押しつぶし、引き裂き、突然わめき声、叫び声となって外へ解き放たれた。 その時彼女はなおさら強く枕に自らを押し付けた。彼女はここの誰にも、一人の人間にも、その 苦しみ、涙を知られたくなかったのだ。彼女は枕を噛み、自分の手を血が出るほど噛み(僕はそれを後で 見た)、また指で髪をほどいてはつかみながら、そのまま息を殺し、歯を食いしばって懸命にじっとこらえて いた。僕は彼女に何か言って、気を落ち着けてもらいたかったが、とてもできないと感じ、突然自分も、 なんだかすっかり寒気がして、ほとんどもう恐ろしくなって、あわをくって何でもいいから手当たり次第に、帰る身支度に取り 掛かった。暗かった。それでどんなにがんばってもすぐには終えられなかった。不意に僕はマッチ箱とま るまる使ってないろうそくのついた燭台に触れた。明かりが部屋を照らすやいなや、リーザはいきなり飛び上 がり、座って何だかゆがんだ顔に半分気が違ったような笑みを浮かべ、ほとんどうつろに僕を眺 めた。僕は彼女の横に座って彼女の手を取った。彼女は正気に返り、僕に身を投げかけ、僕を抱きしめた いと思ったのだが、勇気がなく、黙って僕の前に頭を垂れた。
 「リーザ、ねえ君、僕はわけもなく・・・ごめんよ」と僕は言いかけた、が、僕の手を締め付ける彼女の指の 力強さに、これは違うな、と察し、やめた。
 「これが僕の住所だ、リーザ、訪ねてきてくれ」
 「行くわ・・・」とささやいた彼女の声は決然としていたが、それでも顔を上げなかった。
 「それじゃ、僕は行くよ、さよなら・・・またね」
 僕が立ち上がり、彼女も立ち上がって不意にすっかり赤くなって、びくっとして、椅子の上にあったシ ョールをつかみ、肩に引っ掛けてあごまで覆った。そうした後、彼女はもう一度なんだか病的に微笑み、 赤くなって僕を奇妙な目で見た。僕には苦痛だった。僕は立ち去ろう、消えよう、と急いだ。
 「待って」と、もう玄関のドアというところで突然彼女はオーバーに手をかけて僕を引き止めながら言い、 あたふたとろうそくを置いて走り去った−どうやら何か思い出し、持ってきて僕に見せたかったのだ。走 り去る彼女はすっかり真っ赤になり、目を輝かせ、口元に笑みを浮かべていた、−いったいどうしたという んだ?僕は仕方なく待っていた。と、彼女は一分後、何か許しを請うような目つきをして戻ってきた。そ れはまったくもう、さっきの、むっつりした、疑り深い、強情なあの顔つき、あの目つきではなかった。 今の彼女はすがるような、おとなしい、と同時に信じやすい、優しい、はにかんだ目つきをしていた。子供 が大好きな人を、何かお願いしようとする人を見るように。彼女の目は明るい茶色で、美しい、生き生き した、愛も、陰鬱な憎悪も映し出すことのできる目だった。
 僕に何も説明することなく、−まるで僕が、何かより高等な存在のごとく、説明なしですべてを知らなけ ればならないかのように、−彼女は僕に紙を差し出した。彼女の顔全体はその瞬間、まったく純真な、ほ とんど子供のような得意の色にそれはそれは輝いていた。僕は開いた。それは医学生だかなんだかそんなものからの 彼女への手紙で、非常に大げさで華麗だが、きわめて敬意に満ちた愛の告白だった。一つ一つの表現は 今思い出せないが、上ずった文体を通して偽りならぬ真実の感情が感じられたことはとてもよく覚えている。 読み終えた僕は、僕を見る彼女の熱っぽい、好奇心に満ち、子供のようにじりじりする目に出会った。彼 女は目を僕の顔にくぎづけにしてじりじりしながら僕が何を言うか、待っていた。言葉少なに、せきこん で、けれども嬉しそうに、いかにも誇らしげに、彼女は僕に説明した、どこかの舞踏会へ行ったことを、 ある家庭で、それはもう『とってもとってもいい人たちがいて、家族の人たち がいて、そこではまだ何も知らなくて、まったく何も』−というのも彼女がこ こに来たのだってまだほんの最近で、ほんのそれは・・・・・それに決してまだとどまると決めたわけじゃないし、 借金を払ったらすぐ、間違いなく出て行くんだし・・・・・『それでそこにこの学生がいて、一晩中踊って、 彼女と話をして、それでわかったのが、彼がまだリガにいた、まだ子供の頃彼女と知り合いで、一緒に遊 んだってこと、ただもうずっと前のことだけど、−そして彼女の両親のことも知っているけど、 このことについてはなんにもなんにもなんにも知らないし、疑ってもいない! それでここに、ダンスの翌日(三日前のこと)彼は、彼女がパーティーに一緒に出かけた女友達を通して この手紙を送ってよこした・・・・・それで・・・・・ええとそれで全部』
 話し終えた彼女は何か恥ずかしそうにそのきらきら光る目を伏せた。
 かわいそうに、彼女はこの学生からの手紙を宝物のようにしまっておいたのだ。そして彼女も誠実に、 心から愛されていることを、彼女だって敬意を持って話しかけられることを知らずに僕が立ち去ってしま うのがいやで、このたった一つの自分の宝物のために走ったのだ。おそらくこの手紙は何事もなくそうし て箱の中で眠っているはずだった。だがまったく同じことだ。彼女が生涯それを宝物のように、自らの誇り、 自らに罪のない印としてしまっておいただろうことは間違いないと思う。それで今、こういう瞬間に、単 純に僕を前にして自慢し、自分に対する僕の考えを新たにさせるために、僕にも見せるために、僕にも褒め てもらうために、この手紙のことを思い出して持ってきたのだ。僕は何も言わず、彼女の手を握り、外へ出た。 僕はまったく逃げ出したかったのだ・・・・・僕は道中ずっと歩いた、なおもぼた雪がやむことなくはら はらと落ちていたけれども。僕は疲れ果て、押しひしがれ、当惑していた。だが真実はもう当惑の陰から 光りを放っていた。忌まわしい真実が!
 

しかし、僕はこの真実をすぐに認めようとはしなかった。
 翌朝、数時間の深い、鉛のような眠りの後目覚め、直ちに昨日のすべてを把握した僕は、昨日のリーザと の感傷に、あの『昨日の恐怖と同情』すべてに一驚を喫したほどだった。『一種、めめしい神経の不調に 襲われたってことじゃないか、へっ!』と僕は決めつけた。『それに何のために所書きを彼女に握らせた りしたんだ?どうするんだよ、彼女がやってきたら?だがしかし、あるいは、来るがいいんだ、かまわな いさ・・・・・』だが明らかに、今日の主なる、そして一番重要なことはそれじゃない。何としても早い ところズヴェルコフやシモノフに対して僕の面目を救い出すために急がなければならなかった。そこが肝心なと ころだった。その朝、僕はてんてこ舞いで、リーザのことはすっかり忘れていたぐらいだ。
 まず第一に、早速シモノフに昨日の借りを返さなければならなかった。僕は捨て鉢の手段をとる決心を した。まるまる十五ルーブリをアントン・アントノヌイチに借りるのだ。運よくこの朝彼は最高に上機嫌で、 最初の無心に応じてすぐさま貸してくれた。これですっかり嬉しくなった僕は、借用証に署名しながら、 なんだか勢い込んで、不用意に、彼に報告を始めた、昨日『オテル・ド・パリで友人と騒いじゃって。仲 間、というか、子供の頃の、と言ってもいい友達の送別で、それがね、ひどい道楽者なんですよそいつが、 甘やかされて、いや、もちろん、家柄はいいし、財産は相当で輝かしい経歴、機知に富んで、魅力的で、 ご婦人たちの関心を呼ぶ、おわかりでしょ。余分な《半ダース》を飲んじまってそれで・・・・・』まあ それもいいさ。これがみんなまったく軽々しく、気安く、ひとりよがりに出てくるんだからねえ。
 家に着くと僕は直ちにシモノフに手紙を書いた。
 僕の手紙は実に紳士的で人のよい、率直な調子で、思い出すと今でもほれぼれとする。巧みで高潔、そ して、何よりも、余分な言葉を一切はぶき、僕はすべてにおいて自分を責めた。僕は、『ただ弁明することがい まだ許されているなら』、として、酒にはまったく不慣れなため、最初の一杯から酔ってしまった、それもあの前 に、オテル・ド・パリで五時から六時まで彼らを待つ間に飲っちまったと(いうことにして)弁明した。 僕は先ずは以ってシモノフに謝罪した。彼には他のみんなにも、とりわけ『夢の中のような記憶では』僕がどうも 侮辱したらしいズヴェルコフに、僕の釈明を伝えてくれと頼んだ。自分でも皆の所へ出かけるところなのだ が、頭は痛いし、何より恥ずかしい、と付け加えた。特に僕が満足していたのはその『ある種の軽さ』、 ほとんど無頓着とさえいえる(それでいてまったく上品な)ところで、それは僕の筆先にいきなり響 き渡り、どんな言い分を並べるよりも、僕が『あの昨日の恥ずべき行為一切』に対してまったく独自な見 方をしていることを直ちに彼らに理解せしめるものだった。すなわち、それはもうちっとも、全然、諸 君、君たちが、おそらく、思っているような即死状態ではなく、いやとんでもない、誇りある紳士なら冷 静にこれを見るであろう、そのように僕は見ている、ということだ。『好漢にとって事実は恥辱にならない』 というわけだ。
 「侯爵の遊び心のようなところさえあるんじゃないかな?」手紙を読み返しながら僕はほれぼれとした。 「そしてすべて然らしむるところ、知的で教養ある人間だ!他の連中が僕の立場だったらどう切り抜けた ものかわかるまい、ところが僕はこうしてすり抜けて改めて笑い飛ばす、そしてすべてそれは『現代の教 養ある知的人間』だからだ。その上、本当に、あるいは、昨日のことはすべて酒から起きたことかもしれ ない。フム・・・いや、なに、酒からじゃない。ウォッカなんか一滴も、あの五時から六時まで、彼らを 待つ間、僕は飲まなかった。シモノフには嘘をついた。厚かましく嘘をついた。その上今また恥ずかしげ もなく・・・・・」
 だがしかし、かまうもんか!大事なのは、逃れ出たってことだ。
 僕は手紙に六ルーブリ入れ、封をして、シモノフのところへ持っていくようアポロンに頼んだ。手紙に 金が入っていることを知ると、アポロンは慇懃になり、出かけることを承知した。夕方近く、僕は散歩に 出た。昨日のことでまだ頭は痛み、めまいがしていた。しかし夜が近づくほどに、たそがれが深まるほど に、僕の印象、それに続いて思考も、大きく変わり、混乱していった。何かが僕の内部で、胸と良心の奥 底で消えずにいた、消えようとせずに激しい憂愁とともに見え隠れするのだった。僕はだいたい、最も込み合った労働者 の街、メシチャンスカヤ、サドーヴァヤを通り、ユスポフ公園のそばをぶらぶらした。僕はいつもた そがれ時にこれらの通りを歩くのが殊に好きだった。その頃にはそこは、日々の稼ぎから家へと散ってい く、不安を抱えて意地悪な顔のあらゆる種類の通行人、労働者や商人の群れで込み合うのだ。僕はまっ たくこの安っぽいざわめき、この厚かましげな散文調が好きだった。この時はこの通りの雑踏全体が余計 に僕をいらだたせた。僕はどうしても自らを処してけりをつけることができなかった。何かが絶えず心 の中に湧き上がってくる、痛みを伴って湧き上がってくる、そして静まろうとしないのだった。すっかり 心を乱して僕は家へ帰った。それこそまるで僕の魂が何かの罪を抱え込んでいるようだった。
 僕を苦しめたのはリーザが来る、という考えだった。不思議に思われたのは、あの昨日の記憶すべて のうちで、彼女に関する記憶がなぜか特別に、なぜかまったく別個に僕を苦しめていることだった。 他の事ならすべて、夕方頃にはもうすっかりうまいこと忘れてしまったし、あきらめてしまったし、シモ ノフヘの手紙には依然、すっかり満足していた。だがこのとき僕にはなぜかもう満足感がなかった。それ こそまるでリーザだけが僕を苦しめているようだった。どうする、もし彼女が来たら?と僕はひっきりなしに考え た。なに、かまわん、来るがいい。フム。確かにまずいけどな、彼女に見られるのは、ほら、こんな暮 らしだって。昨日の僕は彼女の前であんなふうに見せて・・・英雄に・・・ところが今日は、フム!こりゃあ、しか し、まずいや、こんなに僕は落ちぶれて。まったく乞食のアパートだ。それに昨日はあんな洋服でディナ ーに出かけるとは、思い切ったもんだ!それにオイルクロスのソファ、ぼろ布が飛び出しているじゃないか! それに部屋着なんか合わさりもしない!なんてぼろぼろに・・・そして彼女がこれをみんな見る。それから アポロンも見る。あんちくしょうめ、きっと彼女を侮辱する。あいつは彼女にけちをつける、それも僕に 無礼を働くためだ。ところが僕は、もちろんもう、例によって、びくびくする、彼女の前をちょこちょこ歩き 始める、部屋着のすそを閉じては笑ったりし始める、嘘をつき始める。うう、いやだ!それでもいっちば んいやなのはそれじゃない!もっと本筋の、もっと汚らわしい、もっと下劣なことがある!そうだ、もっ と下劣なことだ!そしてまた、また、あの恥ずべき偽りの仮面を着けるんだ!・・・
 その考えに行き着くと僕はなおかっとなった。
 「なんで恥ずべきだ?どこが恥ずべきだ?僕は昨日誠実に話した。僕にも真実の感情があったことを覚 えている。僕は彼女のうちに気高い感情を呼び起こしたかったんじゃないか・・・彼女が泣いたって、それ はいいこと、それはためになる・・・」
 だがそれにしても、僕はどうしても気を静めることはできなかった。
 その晩ずっと、もう家に帰ってからも、もう九時を過ぎて考えたらどうしたってリーザが来るはずが ない時になっても、僕はやはり彼女を思い浮かべ、それもとりわけ、いつもある同じ状況を思い起こすの だった。すなわち昨日の一切の中から一つの瞬間が特にはっきりと現れるのだ。それは僕がマッチで部屋を照 らし、彼女の、殉教者の目をした、青ざめてゆがんだ顔を見たときだ。そしてあの瞬間の彼女の微笑の、何と哀 れで、何と不自然で、何とゆがんでいたことか!だがその時僕はまだ、十五年過ぎてなお、あの瞬間彼女に 浮かんだ、あの哀れな、ゆがんだ、不必要な微笑みとともにリーザを思い浮かべることになるのを知らなかっ た。
 翌日にはもう僕はこんなことは皆ばかげたことであり、暴れる神経であり、それに何より、誇張 であると考えようという気にまたもやなっていた。僕は常に自分のこの弱点を意識し、時にはそれを非常に 恐れた。『何でもかでも誇張するからまずいことになる』と絶えず僕は繰り返し自分に言い聞かせた。だが、 それでも、『それでも、やっぱりリーザは、来るにちがいない』−このリフレインをもって、その時の僕の議 論はいつも終るのだった。不安のあまり僕は時々かっとなった。『来る、きっと来る』−僕は部屋を駆け回 りながら叫んだ−『今日じゃなければ明日来る、いや確かに見つける!それにああいう連中の純粋な心 の呪われたロマンチシズムときたら!ああ、あの《汚れた感傷的な精神》の忌まわしさ、愚かしさ、偏狭 さ!いや、どうしてわからないんだ、どうしてわからないはずがあるんだろう?・・・』だがここで僕は、 実のところひどく当惑して動きを止めた。
 何とまあわずかな、−ついでのことに僕は考えたのだ、−何とまあわずかな言葉ですむことか、なんとまあ わずかな牧歌ですむことか(その牧歌だって偽りの、本の中の、書き物のようなものだ)、それであっと 言う間に人を魂からすっかり意のままに変えられるんだ。それこそ処女性ってもんだ!それこそ清新な土壌 ってもんだ!
 時々僕の心に、自分から彼女のところへ行き、『何もかも彼女に話し』て僕のところへ来ないように彼 女にお願いしようという考えが浮かんだ。だがそこで、この考えとともに、もし彼女が突然そばに現れたら、 あの『呪わしい』リーザを押しつぶしてしまうだろうと思われるほどの激しい怒りが湧き起こった、 いや、彼女を侮辱し、つばを吐きかけ、たたき出し、打ち据えたことだろう!
 けれども一日、二日、三日と過ぎ、彼女は来ない、それで僕の気も静まってきた。特に九時を過ぎると 僕は元気づいて浮かれ出し、時にはまったく甘い夢を見始めることさえあった。『たとえば僕が彼女 を救う、すなわち彼女が僕のところへ来る、そして僕が彼女に話をする・・・僕が彼女を発達させ、作り あげる。ついに、僕は気づく、彼女が僕を愛している、激しく愛していることに。僕はわからないふりを する(しかし何のためにふりをするのかは知らない、そう、光彩を添えるためかな、たぶん)。ついに彼女が、 ひどく恥ずかしそうな美しい女が、震え、涙に咽びながら僕の足下に身を投げ、そして言う、僕は彼女の救 い主だ、彼女はこの世の何よりも僕を愛している、と。僕はびっくりする、だが・・・『リーザ−と僕は 言う−君は僕が君の愛情に気がつかなかったと思ってるんじゃないよね?僕は何もかも気づいていたよ、 見抜いていたんだ、だが僕から先にあえて君の心に踏み入ることはしなかった、なぜなら、君に対して勢 力を持っていたし、君が、感謝の念から、わざと無理をして僕の愛に応えることを、自ら強いて心の中に 感情、もしかしたらありもしないものを呼び起こすことを恐れたんだ、そう、僕はそれは望まない、だっ てそれは・・・圧制だ・・・それでは思いやりがない(なに、要するに、僕はここで何というかあのヨー ロッパの、ジョルジュ・サンド風の、なんともいえぬ高潔な、微妙なところに取り掛かる・・・)。だ が今は、今は、君は僕のものだ、君は僕の作品だ、君は清純で、美しい、君は僕の美しい妻だ。

 そして我が家へ、大胆に、自由に
 さあ中へ、君こそ女主人だ

 それから僕たちは生活し、暮らしていくようになり、外国へ行って、そして、そして』。要するに、 我ながらさもしいことになり、最後は自分で舌を出して冷やかしたのだ。
 『それに出してもらえないんだ、《卑しい女》は!−と僕は考えた。−何せ連中は散歩だってあま りさせてもらえないらしいし、宵のうちはなおさらだ(僕にはなぜか彼女が晩の、それもちょうど七時に 来るに違いないという気がしてならなかった)。でもしかし、彼女が言ったっけ、まだすっかりあそこ に縛り付けられてはいない、特別な権利があるって。となると、フム!えいくそ、来るぞ、きっと来る!』
 まだしもよかったのは、その時アポロンが独特の不作法により僕の気を紛らしてくれたことだ。我慢の限界を超えたのだ! これが僕の潰瘍であり、天帝が僕に遣わした鞭だった。僕たちは数年の間、しじゅうけんかしていたし、 僕は彼を憎んでいた。ああ、どんなに僕が彼を憎んだことか!僕はまだ生涯、あれほど、彼ほど、特にあ る瞬間の彼ほど、誰かを憎んだことはないように思う。彼は年配の、尊大な、いくらか仕立てなどもやる 男だった。だがなぜかわからないが、彼は僕をまったく計り知れないくらいに軽蔑し、僕を我慢できない ほど傲慢な目で見ていた。もっとも彼は誰も彼もを傲慢に見下していた。あの亜麻色の髪をつやつやになで つけた頭、自分で額のところにふくらみをつけて植物油を塗ったあの髪形、いつもV字型を した堅固なあの口元、これらを一目見れば、目の前にいるのは自分を決して疑うことのない存在であると 感じるにちがいなかった。これは極度の知ったかぶり、僕が地上で会った中でもずばぬけて知ったか ぶりだった。そこへもってきてマケドニアのアレキサンダーにこそ相応しい自尊心を持っていた。彼は自 分のボタンの一つ一つ、自分の爪の一つ一つに恋していた−確かに恋している、そう見えた。僕を扱うにも まったく横暴で、僕と話をすることもきわめてまれだったが、ひょっとして僕を見るとなれば、ゆるぎな い、堂々たる自信に満ちた、そしていつも皮肉っぽい目つきで見たもので、それが僕を時々かっとさせた。 自分の務めを果たすにも、彼はまるでこの上ない親切を僕に施すかのような様子だった。もっとも、彼が 僕のためにすることなどほとんど何もないに等しく、自分に何かする義務があるとさえ少しも 思っていなかった。疑う余地なく、彼は僕を世界中で最低の愚か者とみなし、『僕をそばにおいている』としても、 それはただ、僕から月々給料を受け取ることができるからというだけのことだった。 彼は月七ルーブリで、僕のところで『何もしない』ことを承知したのだ。僕は彼のために多くの罪を許さ れる。時には憎悪のあまり、彼の歩き方一つでひきつけを起こしかねないこともあった。だがとりわけい やなのは彼の舌もつれだった。彼の舌が程合いよりいくらか長いんだかなんだかそんなことで、彼はいつ も舌をもつれさせてシューシュー言わせ、それによって驚くほど威厳が付け加わると思い、それをひどく誇 りにしているらしかった。話をする時は静かに、ゆっくり整然として、両手を背に、目は地面に落としていた。特 に僕を憤激させたのは、彼がいつも仕切りの向こうの自分のところで詩篇を読み始める、そんな時だった。 この読書のことで僕はずいぶん戦った。だが彼は夜、低い、一様な声で、歌うように、まるで死者に対 するように読むのがひどく好きだった。おもしろいことに、それが彼の行き着くところとなった。彼は今死者に詩篇を読む 仕事についている、また同時にネズミを退治し、靴墨を作っている。だがその当時、彼はまるで僕の存在と化学的に 溶け合うかのようであり、僕は彼を追い出せなかった。そのうえ彼が自分からむざむざ僕のところから出 て行くことを承知するはずはなかった。僕には家具つきの下宿に住むのは無理だった。僕の住まいは僕の 私室、僕の殻、僕の箱、全人類から僕が隠れる場所であり、アポロンはといえば、なぜかわからないが僕 にはこの住まいに属するもののように思われ、まる七年、彼を追い出すことができなかった。
 たとえば、二日や三日といえども彼の給料を遅らすことは不可能だった。彼は面倒を引き起こす、それで 僕はどうしていいかわからなくなったろう。だがその時の僕はすべてにむかっ腹を立て、それで、 どういうわけか、何のためだかアポロンをこらしめ、あと二週間給料を渡すま いと決意したのだった。僕はもう長いこと、二年も、そうしてやろうと思っていた、それもただ、彼がも う僕に対してそんなに偉そうに気取っていられやしないこと、僕がそう思ったらいつだって彼に給料をや らずにいられるってことを証明するためだった。僕はこの件で彼に話を切り出したりせず、いや、わざとだんま りでいてやった。それは彼の誇りを打ち砕いて、いやでも彼に自分から先に給料のことを言ってこさせようがため だった。その時には僕は七ルーブリ全額を引き出しから取り出して、彼に見せ付けてやるんだ、それは僕のと ころにあってわざわざよけてあるってことを、だが僕は『やりたくない、やりたくない、ただただ彼には給料を払って やりたくない、やりたくない、というのはそうしたいから』であり、そこ に『主人たる僕の意志』があるからであり、彼が無礼者だからであり、不作法者だからである、ってことを。 だがもし彼がうやうやしく懇願したら、僕だってあるいは、軟化して渡すだろうってことも。でなけりゃあと 二週間待つんだな、三週間、一月だって待つんだ・・・
 だが僕がどんなに意地悪になってみても、やっぱり彼が勝利を得た。僕は四日と持ちこたえなかった。彼はそんな 場合にいつも着手するところから始めた、というのもそんな場合はすでにあったのだ、試したことがある のだ(そして、認めよう、僕はこんなことは皆前もってわかっていた、彼の下劣な戦術を僕はそらで知っ ていた)。すなわち、彼は手始めに、決まって、僕に極端に厳しい視線を向け、それをそのまま数分間そらさない、 とりわけ僕を出迎えたり家から見送ったりしながらそうするのだ。もしも、たとえば、 僕が持ちこたえてその視線に気づかないふりをしたら、彼は、例によって黙ったまま、さらなる拷問に取り 掛かる。突然、藪から棒に、僕が歩いたり、本を読んだりしていると、僕の部屋に音もなくするすると 入り込み、ドアのところにじっと立ち、片手を背に、片足は脇にして、僕にその目を、もうあの厳しいや つではなく、人をばかにした目を向けるのだった。もしも僕がいきなり、何か用か?と尋ねると、彼は何も答 えず、なお数秒間じっと僕を見続け、それから、なにやら特別に唇をかたく結び、意味ありげな様子で、 ゆっくりとその場で踝を返し、ゆっくりと自分の部屋へと立ち去る。二時間たつと不意にまた出てきてま た同じように僕の前に現れる。ひょっとすると、僕もかっとなって、何の用か?と彼にもう尋ねもせず、 ただこちらも厳しく、断固として頭を上げ、やはりじっと彼を睨みだす、ということもあった。そうやっ て二分間、互いに目を据えていたものだ。結局、彼はゆっくりともったいぶって踝を返し、また二時間だけ 立ち去るのだった。
 これでもなお僕が聞き分けなく、反乱を続けると、彼は不意にため息をつき始める、僕をじっと見なが ら、長々と、深くため息をつく、このため息一つで僕の道徳的堕落の深刻さを測りつくすかのように、そして、 もちろん、最後には彼が完全に打ち勝って終わりを告げる。僕は憤激する、叫ぶ、しかしそれでも、する べきことについては、やはり履行せざるをえなかった。
 だがこの時はいつもの『厳しい視線』作戦が始まるやいなや、それこそあっという間に僕は我を忘れ、か っとなって彼を襲った。それでなくてもあまりにもう僕はいらいらしていた。
 「待て!」僕は逆上して叫んだ。彼が片手を背に、ゆっくりと無言で、自分の部屋へ引き上げるために 踝を返した時だ。「待て!戻れ、戻れ、僕はお前に言ってるんだ!」そして、僕は異常な怒鳴り方を したにちがいない、それで彼は向きを変え、いやいささか驚いて僕をつくづく眺め始めたほどだった。し かし、無言の行は続き、これがまた僕をかっとさせた。
 「なぜ無断で僕んとこヘ入ってそんなふうに僕を見るんだ、ずうずうしく?答えろ!」
 だが三十秒間静かに僕を眺めて、彼は改めて踝を返し始めた。
 「止まれ!」僕は彼の方へ駆け寄りながら怒鳴りたてた。「動くな!そうだ。さあ答えろ。何を来て 見てるんだ?」
 「もし今何か私にお指図がありましたら、それを果たすのが私の仕事でございます」彼はまたもやしばらく 無言の後、低く、一様にシューシューと音をたてながら、眉を上げ、一方の肩から他方へと静かに首を曲 げ、そう言った。それにその間ずっと恐ろしく沈着なのだった。
 「そうじゃない、そうじゃないだろ僕がお前に聞いてるのは、首斬り!」僕は怒りに震えながら叫んだ。 「僕が自分で言ってやる、首斬りめ、なぜお前がここに来るのか、いいか、僕が給料をやらない、といっ て自尊心が邪魔して自分から頭を下げて頼みたくない、それでそのばかな目つきで僕をこらしめに、苦し めに来る、それにおもおぉいもしないんだ、首斬りめ、それがどんなにばかなことか、ばかな、ばかな、 ばかな、ばかな!」
 彼は黙ってまた踝を返し始めたが、僕は彼をひっつかんだ。
 「聞くんだ」僕は叫んだ。「ここに金がある、見ろ、ほら金!(僕はそれを机から引き出した)七ルー ブリすっかり、だがお前はこいつを受け取れない、受け取れまっせーんよ、敬意をあらわし、罪を悟って、 僕に許しを請わないかぎりな。わかったな!」
 「それはありえません!」彼は何か異常な自信をもって答えた。
 「そうなるんだ!」僕は叫んだ。「誓って、そうしてやる!」
 「それに何も私にはあなたに許しを請うことはありません」彼は僕の叫び声にまるで気づかぬように続 けた。「だってあなたこそ私を『首斬り』とお呼びになる、これについちゃわたしはいつだってあたたを 侮辱ということで地区警察へお願いできますです」
 「行け!訴えろ!」僕は吠え立てた。「さあ行くんだ、今行くんだ、すぐに行くんだ!だがどっちにし たってお前は首斬りだ!首斬り!首斬り!」だが彼はただ僕を見やっただけで、それから踝を返し、そし てもう僕の呼び叫ぶ声を聞きもせず、振り向くことなくするすると自分の所へ行ってしまった。
 『リーザがなかったら、こんなことにはならなかったろうが!』僕はひそかに決意した。それから、一分待 って、ものものしくもったいぶり、とはいえ心臓はゆっくりと強く打っていたが、僕は自分で仕切りの 向こうの彼のところへ出かけていった。
 「アポロン!」僕は静かに急ぐことなく、だが息を詰まらせながら言った。「今すぐに、ぐずぐずせずに、警部を 呼んでこい!」
  彼はその間にもう自分の卓を前に座り、メガネをかけて何か縫い物を取り上げていた。しかし、僕の 命令を聞き、いきなり鼻でせせら笑った。
 「今、すぐに行くんだ!行け、でないと思いもつかないことになるからな!」
 「ほんとに気が違ってしまわれましたか」彼は頭さえ上げず、糸通しを続けながら相変わらずゆっくり とシューシュー音をたてて言った。「それに自分で自分をお上に突き出す人がどこにございますか? 脅かすにもねえ、ただむやみにりきんで、ですから、何にもなりませんですよ」
 「行け!」僕は彼の肩をつかんでわめいた。僕は今にも彼を殴ってしまう、と感じた。
 しかし僕には聞こえなかったのだが、この瞬間、不意に玄関でドアが静かに、ゆっくりと開き、ある人 影が中に入り、立ち止まって当惑しながら僕たちを見つめ始めたのだった。僕は一目見て、恥ずかしさに 気が遠くなり、自分の部屋へ駆け込んだ。その場で、両手で髪の毛をつかむと、僕は壁に頭をもたせかけ、そ の姿勢でじっとしていた。
 二分後、アポロンのゆっくりとした足音が聞こえた。
 「こちらにどなただかあなたを訪ねてみえてます」と彼は言って、特別厳しい目で僕を見、それから わきへ寄って、通した−リーザを。彼は出て行こうとせず、あざ笑うように僕らをじろじろ見ていた。
 「出ていけ!出て行け!」僕は度を失いつつ彼に命じた。その時僕の時計が力をこめ、シュッとい い、七時を打った。
 


そして我が家へ、大胆に、自由に
さあ中へ、君こそ女主人だ!
     例の詩より

 僕は彼女の前に打ちひしがれ、名誉を傷つけられ、いやになるほどまごつきながら立ち、どうやら、 必死になって僕のくしゃくしゃの綿の部屋着のすそを合わせようと努めながら微笑んでいたようだ、なに、 まさしくほんの少し前、意気消沈しつつ想像した通りだった。アポロンは二分間僕らのところに立ってい て立ち去ったが、それでも僕は楽にならなかった。何よりまずいのは彼女もやはり不意にまごついてしま って、それが、僕も思いもかけないほどだったことだ。僕を見れば、当然だ。
 「座って」と僕は機械的に言い、彼女にと椅子をテーブルのそばに引き寄せ、自分はソファに座った。 彼女は目を見開いて僕を見ながら、そして明らかに、今すぐ何かをと僕に期待しながら、すぐに従順に腰 をかけた。こういった期待の素朴さがまた僕を憤激させたが、僕は自分を抑えた。
 ここはまさしく、何もかも普通だなというように、何一つ気づかずにいるべきなのに、 彼女は・・・・・それで僕はこの一切のために彼女は僕に高価な償いをする んだ、とぼんやり感じていた。
 「君は妙なとこを見つけちゃったね、リーザ」僕はつかえながら、そしてそれこそそんなふうに始めて はいけないと知りながら始めた。
 「だめだよだめ、何を考えてるんだ!」僕は彼女が不意に赤くなったのを見て声を上げた。「僕は自 分の貧乏を恥じてやしない・・・それどころか、僕は自分の貧乏を誇りを持って見ている。僕は貧しい、 だが潔白だ・・・貧乏でも潔白でいられる」と僕はつぶやいていた。「しかし・・・お茶はどう?」
 「いいえ・・・」と彼女は言いかけた。
 「待ってて」
 僕は躍り上がってアポロンのところへ走った。どこでもいい、姿を隠さずにいられなかったのだ。
 「アポロン、」僕はその間ずっと握りこぶしの中にあった七ルーブリを彼の前に投げ出し、熱病のようになって 早口に囁いた。「ほらお前の給料だ。いいか、やるぞ。だがその代わりお前は僕を救わなければならない。 すぐに料理屋から茶とラスクを十個運んでくるんだ。行きたくないなんていったらお前は人間一人不幸にするんだ! お前は知らないんだ、あれがどんな女か・・・あれはすべてなんだ!お前、もしかして、何か思ったりし て・・・だがお前は知らないんだ、あれがどんな女か!・・・」
 すでに仕事の席に着き、すでに再びメガネをかけたアポロンは初め、針も置かずに黙って横目に金を 見やった。それから、僕には一切注意を向けず、僕に何も答えず、まだ糸を通そうと没頭し続けていた。 僕は三分間、ナポレオン式に腕を組み、彼の前に立って待っていた。僕のこめかみは汗に濡れていた。我 ながら青ざめている、僕はそれを感じた。だが、ありがたや、おそらく彼は僕を見て哀れに思ったのだろ う。糸を終えると、彼はゆっくりとその場から腰を浮かせ、ゆっくりと椅子をわきに動かし、ゆっくりと メガネをはずし、ゆっくりと金を数えなおし、そして最後に、まるまる一人前持ってくるのか?と肩越しに僕に 尋ね、ゆっくりと部屋を出た。リーザのところへ戻る時、途中で考えが浮かんだ。逃げ出したらどうだ、 このまま、部屋着で、運にまかせて、後はどうなろうとも。
 僕は再び腰をかけた。彼女は不安気に僕を見ていた。数分間、僕たちは無言でいた。
 「あいつを殺してやる!」僕は突然大声を上げ、インク入れからインクが飛び散るほど、握りこぶしで 強くテーブルを叩いた。
 「ああ、あなたは何を!」彼女はびくっとして叫んだ。
 「僕はあいつを殺す、あいつを殺してやる!」僕は金切り声で叫んだ。テーブルを叩き、完全に 逆上していたが、同時にそんなに逆上するのがどれほどばかげているかを完全に理解していた。
 「君は知らないんだ、リーザ、あの首斬りが僕にとってどんなしろものか。あいつは僕の死刑執行人で・・・あ いつは今ラスクを買いに行った。あいつは・・・」
 そして突然僕はわっと泣き出した。これは発作だった。しゃくり上げる間のその恥ずかしさといったら。 だが僕はもうそれを抑えられなかった。
 彼女はおびえあがった。「あなたどうしたの!いったいどうしたの!」と彼女は僕のそばではらはらしながら叫 んだ。
 「水、水をくれ、あそこだ!」と僕は弱々しい声でつぶやいたが、内心では、まったくのところ 水なしで何とでもなるし弱々しい声でつぶやかなくてもいいと気づいていた。だが僕は体面を保つために、 いわばふりをしたのだ。もっとも発作は本物だったが。
 彼女は困ったように僕を見ながら水をくれた。この時アポロンが茶を持ってきた。不意に僕にはこの平 凡で無味乾燥な茶が、あったことすべてを考えるとひどく不作法でみじめなものに思え、僕は赤くなった。 リーザは恐怖さえ抱いてアポロンを見た。彼は僕たちに目もくれずに出て行った。
 「リーザ、君は僕を軽蔑する?」僕は、彼女が考えていることを知りたい焦燥に震えながら、 じっと彼女に目を据えて言った。
 彼女はまごついてしまって何も答えられなかった。
 「お茶を飲みなよ!」僕は意地悪く言った。僕は自分に腹を立てたのだが、もちろん、それで苦しまな ければならないのは彼女だった。彼女に対する恐ろしい悪意が突然僕の胸にたぎり始めた。彼女を殺して しまうのじゃないか、という感じがした。彼女に復讐するために、僕はずうっと一言もしゃべるまいと内 心誓った。『彼女こそすべての原因だ』と僕は思った。
 僕たちの沈黙は既に五分続いていた。茶はテーブルの上にあった。僕たちはそれに手をつけなかった。 挙句の果て僕は、彼女だって自分から始めるのはきまり悪いだろう、そうやってなおさら彼女を苦しめる んだ、だから、わざと口をつけてやるまいと思っていた。幾度か彼女は悲しそうな当惑の顔で僕 を見やった。僕は強情に黙っていた。主なる受難者はもちろん僕自身で、というのも自分の意地の悪い愚 行のどこまでもむかつくような卑劣さを完全に承知し、同時にどうしても自分を抑えられなかったからだ。
 「あたしあそこから・・・・・すっかり出て・・・・・行きたいの」彼女はどうにかして沈黙を破ろうと、 切り出しかけた、だが、かわいそうに!まったくこれこそあんな、それでなくてもばかげた瞬間に、ああい う、それでなくてもばかげた、僕のような人間に、話し始めるべきことではなかった。さすがに僕も彼女 の不器用さ、無益なまっすぐさが哀れでひどく胸が痛んだ。だが何か醜いものがすぐに僕の哀れみをすっかり押しつぶした。 それどころかなおさら僕をけしかけたものだ。何もかも消えてなくなれ!さらに五分過ぎた。
 「お邪魔したんじゃないかしら、あたし?」彼女はおずおずと、聞き取れないほどの声で切り出し、立 ち上がりかけた。
 だがこの傷つけられた尊厳の最初のひらめきを見たとたん、僕は怒りに震えだし、たちまち爆発 した。
 「何のために君は僕んとこへ来た、どうか聞かしてもらおう」と僕は、息を詰まらせながら自分の言葉 の論理的連鎖さえ顧みずに始めた。僕はすべてを一息に、一遍に言っちまいたかった。何から始めるかな んて僕は注意もしなかった。
 「なぜ君は来た?答えて!答えて!」僕はほとんど我を忘れて叫んだ。「僕が言ってやろう、おっかさ ん、なぜ君が来たか。君が来たのは、あの時僕が君に哀れを催す言葉をかけた からだ。なに、それで君は気が和らぎ、それでまた『哀れを催す言葉』が欲しくなったんだ。それじゃ 言わせてもらうけどね、いいかい、僕はあの時君のことを笑ってたんだ。今も笑ってるんだ。何を君は震 える?そうさ、笑ったんだ!僕はあの前に侮辱されたんだ、食事の席で、ほらあの時僕の前に着いた奴ら に。僕が君んとこへ行ったのは奴らの一人、将校をぶちのめすためだったんだ。だがやりそこねた、見つ からなかった。で、侮辱された腹いせに誰かに八つ当たりしなければすまない、というところへ、君が現 れた、僕は君に邪悪を注ぎ込み、あざ笑ったんだ。僕は恥をかかされた、そこで僕も恥をかかせてやりたかっ た。僕はぼろ布の中に押しこまれた、そこで僕も力を見せつけたかった・・・・・そういうわけだ、なのに 君は思ったんだろ、僕があの時わざわざ君を救いにやってきたと、だろ?君はそう思ったね?君はそう思 ったね?」
 彼女がおそらく混乱してしまって細かいことは理解できないだろうということは僕もわかっていた。 だが彼女が本質は完全に理解するだろうこともまた、わかっていた。はたしてそうだった。彼女はハンカ チのように青ざめ、何かを言おうとして、その唇が苦しげにゆがんだ。だが斧で薙がれたかのように、椅 子に崩折れた。そしてその後ずっと口を開け、目を瞠り、激しい恐怖に震えながら僕の言うことを聞いていた。 冷笑、冷笑的な僕の言葉が彼女を押しつぶした・・・
 「救う!」僕は椅子から躍り上がり、彼女の前を部屋中あちこち駆けながら続けた。「何から救う!で も僕は、自分自身、君よりひどいかもしれない。なぜ君はあの時僕を責めなかった、僕が君に説教をして いる時さ。『でもあんた、ねえ、自分は何のためにあたしたちんとこへ寄ったの?ま さかねえ、説教をしに?』って。力、あの時僕には力が必要だった、芝居が必要だった、君の涙を得る必 要があった、君の屈辱、ヒステリー−−それがあの時僕が必要としたものだ!なにしろあの時の僕は自分自身も 耐えられないで、いや僕がくずだからさ、それでおびえちまって、何のためとも知らず愚かにも君に所書きをやっ ちまった。そうしてから僕は、まだ家に着かないというのに、その所書きのことでもう君をこっぴどくの のしったもんだ。僕はもう君を憎んでいた、それというのも僕があの時君に嘘をついたからだ。それというのも 僕は言葉遊びをする、頭の中で夢想するだけだからだ、ところが本当に僕に必要なのは、いいかい、君たちなんかだめ になっちまうこと、そういうことだ!僕に必要なのは静穏だ。そうだ、僕は邪魔をしないでくれるならた った今全世界を一コペイカで売っちまうさ。世界が崩壊する、さもなければ僕が茶を飲めなくなる?僕 とすれば、いつでも僕が茶を飲めるよう、世界に崩壊してもらおう。君はこれを知ってた、それとも知ら なかった?なあに僕にはわかっていた、僕は悪党で卑劣漢でエゴイストで怠け者だって。僕はここでこの 三日、君が来るのが恐ろしくて震えていたんだ。でも知ってるかい、この三日間というもの僕がとりわけ どんなことにくよくよしていたか?それはね、あの時君の前であんな英雄を気取っていたのに、ここでほ ら、君がいきなりこの破れた部屋着の僕を見るってことだ、こじきのような、むかつく姿を。さっき君に 言ったろう、僕は自分の貧乏を恥じてないって。今こそ知ってもらおう、恥じている、何よりも恥じてる んだ、何よりひどく、泥棒になるよりひどく恐れているんだ、だって僕は虚栄心が強くて、それも皮を剥 かれたように、それこそ空気があたるだけで痛むからなんだ。ほんとに君は今になってもまだ見当がつかないのか、こ んな部屋着を着て、たちの悪い野良犬のようにアポロンに飛びかかっている僕のことを見つけちまった君を僕が決し て許さないってことに。あの蘇らせてくれた人、あのかっての英雄が、疥癬にかかったもじゃもじゃの毛む くじゃらの雑種のように、自分の召使に飛びかかって、それもそいつがその人を笑ってる!それからさっ きの涙、君の前で、恥をかかされた女のように、抑えることもできなかった涙のことでも決して君を許さない!そ れから今、君に告白している言葉についても、やはり決して君を許さない! そうだ、君、君一人がこの一切の責任を負うべきだ、だって君がそんなふうに現れたんだし、だって僕は 悪党だし、だって僕は地上のすべての虫けらの中で誰より嫌な、誰より滑稽な、誰より気の狭い、誰より 愚かな、誰より嫉妬深いやつだし、その虫けらたちなんかちっとも僕よかましでもないくせに、なぜか知 らないけど、決してきまり悪がったりしないんだからね。でもそうなると僕は一生、あらゆるシラミ連中から 小突かれどうしになる、そしてそれが僕の特徴なんだ!でも僕はかまわないんだからね、君がこれを 一つも理解しなくっても!それに何を、ああ何を、何をかまうもんか君なんか、君があそこで朽ち果 てようとどうしようと。だがわかるかい、僕が今、君にこういう話をして、君がここにいて聞いていた ことでどれほど君を憎むことになるか?だって人間、こんなふうに話すのは一生に一度だけ、それもヒス テリーの時だ!・・・いったいこの上何なんだよ君は?いったい何で君は、こうしてすっかり言ったのに、 まだ僕の前に突っ立って、僕を苦しめ、出て行かないんだ?」
 だがこのとき奇妙な状況が突発した。
 僕は何でも本を通して考え、想像し、世の中のすべてをかって自分が夢の中で描き上げたそのままに 空想することに慣れていたので、まったくその時すぐにはその奇妙な状況を理解しなかった。さてどうな ったかというと、僕に傷つけられ、踏みにじられたリーザが僕の思っていたよりもはるかによく理解してい たのである。彼女はこの一切の中から、女が、心から愛する時、いつでも何より先に理解することを理解し た、すなわち、僕自身が不幸であることを。
 彼女の顔に現れたおびえ、傷つけられた思いはまず悲しげな驚きに場所を譲った。僕が自分を卑劣漢、 悪党と呼び、僕の涙があふれだしたその時(僕はずっと涙を流しながらこの長広舌をふるっていた)、彼女の 顔全体が一種の痙攣にゆがめられた。彼女はもう少しで立ち上がって僕を止めようとするところだった。 僕が終えた時、彼女が注意を向けたのは、『なぜ君はここに、なぜ出て行かない!』という僕の叫びにで はなく、こんなことをすっかり言ってのけるのは僕自身にとって非常につらいにちがいないということにだった。 その上彼女はあんなに虐げられた、哀れな女だ。彼女は自分が僕より限りなく劣るものと思ってい た。どうして彼女が腹を立てる、怒るはずがあったろう?彼女は突然、何か抑えがたい衝動にかられて椅 子から躍り上がり、全身で僕を求めながら、それでもまだおどおどして、その場から動く勇気がなく、僕 の方へ両手を伸ばした・・・・・と、僕の心もひっくり返った。その時彼女が突然身を投げ出し、僕の首を 両手で抱き、泣き出した。僕もまたこらえきれず、いまだかってないほどしゃくり上げ始めた・・・
 「僕はしてもらえなかった・・・僕はなれないんだ・・・善良に!」と僕はやっと言い、それからソファ まで行き、そこにうつぶせに倒れこみ、十五分も本当にヒステリーを起こしてすすり泣いていた。彼女は 僕に身体を押しつけ、僕を抱きしめ、その抱擁に没するかのようだった。
 だがそうかといって、ヒステリーは過ぎ去るべきものであって、そこが問題だった。そこで、(僕は忌まわ しい真実を書くんだから)、ソファにうつぶせに、しがみつくように横になって、みすぼらしい革のクッ ションに顔を埋めた僕に、少しずつ、遠くから、知らず知らずに、それでいて制しがたい思いが湧き始め た、今となっては頭を上げてリーザの目を直視するのはきまりが悪いじゃないか。何を僕は恥じたのか? −わからない、だが僕は恥ずかしかった。また僕の動揺した心に浮かんできたものは、役回りが今となっては 決定的に変わったこと、今や彼女がヒロインであり、僕はちょうどあの夜の、そう、四日前の僕を前にした彼女 と同じような、傷つけられ打ちひしがれたものだということ・・・こんなことがみんな ソファにうつぶせになっていたあの数分の間に浮かんできたのだ!
 ああ!だがあの時僕は彼女をうらやんでなんかいたのか?
 わからない、今日まで解決できない、そしてあの時は、もちろん、これを理解するところは今よりさら に少なかった。誰かに対する権力と暴虐がなければ僕ときたら生きていけない・・・だが・・・だがねえ 論理などでは何も説明されやしない、だからして、論理的に考えてもしょうがない。
 僕は、しかしながらだ、自分に打ち勝ち、頭を上げた。いつかは上げなければならなかった・・・ そして今度は、僕の今日まで確信するところ、まさしく僕が彼女を見るのが恥ずかしかったそれゆえに、僕の 心の中でその時突然、別の感情に火がつき、燃え上がった・・・支配と所有の感情だ。僕の目は情欲にき らめき、僕は彼女の両手を固く握りしめた。この瞬間僕がどんなに彼女を憎み、どんなに彼女に惹きつけ られたことか!一方の感情が他方を増幅した。これは復讐に似ていると言っていいくらいだった!彼女の 顔には初め当惑のようなもの、恐怖のようなものさえ現れたが、一瞬だけのことだった。彼女は狂喜して 熱く僕を抱きしめた。
 

十五分の後、僕は凶暴な苛立ちに部屋中あちこちを駆け回り、絶えず仕切りに近づいては隙間からリ ーザを覗いていた。彼女は床に座って頭をベッドにもたせかけ、泣いているらしかった。だが彼女は出て 行こうとせず、それがそう、僕をいらいらさせたのだ。この時にはもうすっかり彼女はわかっていた。僕 は彼女を決定的に侮辱した、だが・・・言ってもしょうがない。彼女は感づいてしまった、僕の情欲の突 発はまさに復讐であり、彼女にとって新たな屈辱であり、さっきの僕のどこに向けるでもないような 憎悪に、今ではもう彼女に対する個人的な、妬み深い憎悪が加わったことに・・・ でもしかし、彼女がこれをすべて明確に理解したと断言はしない。だがその代わり彼女は完全に理解した、 僕は下劣な人間であり、第一、彼女を愛することができないのだ。
 僕はわかっている、人は言うだろう、これは信じられない、僕のような意地悪で愚かなものがいるなんて信じ られない。おそらく、さらに付け加えるなら、彼女を愛するようにならない、あるいは少なくともその愛の価値を 認めないとは信じられない。いったいなぜ信じられない?第一に、僕は本当に人を好きになることもでき ないのだ。なぜならば、繰り返しになるが、愛するとは僕にとって暴虐をふるうこと、そして精神的に優位に立 つことだ。僕は生涯、他の愛など想像することさえできなかったし、今では時々、愛というものは愛する 対象から自発的に与えられたその対象に暴虐をふるう権利に存する、と思うまでに至った。我が地下室の 夢の中でも僕の想像する愛とは闘争に他ならず、それはいつも憎悪に始まり、精神的征服に終るのだが、 事後はもう、征服した対象をどうするのか、想像もつかないのだ。それにこの際何が信じられないのか、 僕が見事にもう自分を精神的に堕落させてしまったあげく、『生きた生活』を断ち切ってしまったあげく、僕のところへ『哀れ を誘う言葉』を聞きにきたなんて言って、さっき彼女を咎め、辱めてやろうという気を起こしたところ じゃないか。それに思いもつかなかったことだが、彼女がやってきたのは決して哀れを誘う言葉を聞くためじゃ なく、僕を愛するためだ、なぜなら女にとって愛のうちにこそ復活のすべてが、いかなる破滅の淵にあろうとも 救済のすべてが、再生のすべてが存するのであり、だからそれを示すことしかできないのだ。し かし、部屋を駆け、隙間から仕切りの向こうを覗いていた時、僕はもうそれほどひどく彼女を憎んではい なかった。僕にはただ彼女がそこにいることが耐えがたく苦痛なだけだった。僕は彼女が消えてしまえば いいと思った。『静穏』が僕の願いであり、地下室で一人にしておいて欲しいと願った。慣れない『生き た生活』が僕を圧迫し、息もできないほどになっていた。
 だが、さらに数分が過ぎてもなお彼女は身を起こさず、意識を失ったかのようだった。僕は無神経にもそ っと仕切りを叩き、彼女に気づかせようとした・・・彼女は不意にびくっとして、その場からもがれるようにして、自 分のショール、自分の帽子、毛皮のコートをあわてて捜し、まるで僕から逃げてどこかへと・・・ 二分後、彼女はゆっくりと仕切りの陰から出て、重苦しく僕を見た。僕は意地悪くニヤッと笑ったが、で もそれは無理やりで、体面上であり、彼女の視線から顔をそむけてしま った。
 「さよなら」彼女はドアへ向かいながら言った。
 僕はいきなり彼女に駆け寄り、彼女の手をつかみ、それを広げ、突っ込んで・・・それからまた握りしめた。 それからすぐに顔をそむけて急いで反対の隅へ飛びのき、とにかく見ないようにとしていた・・・
 僕は今この瞬間も危うく嘘をつくところだった−書こうとした、僕がこんなことをしたのは思いつきで あり、自分でもわからずに、度を失って、ばかなまねをしたと。だが僕は嘘をつきたくない、だから包み 隠さず言おう、僕が彼女の手を広げ、中に入れたのは・・・悪意からだ。僕が部屋中あちこち駆け回り、 彼女が仕切りの向こうに座っていた時にこんなことをしてやろうという考えが僕に浮かんだのだ。だがこ こでこう言えるのも確かだ。僕がこんな残酷なことをしたのは、わざととはいえ、心からではなく、邪悪 な頭からのことである。この残酷さは虚偽であるから、頭によって、わざと考え出された、 読み物のようなものであるから、結局僕自身一分と耐えられず、初め見ないようにと 隅に飛びのいたものの、その後羞恥と絶望にリーザを追って駆け出したのだった。僕は玄関のドアを開け、 耳を澄まして聞き始めた。
 「リーザ!リーザ!」僕は叫んだ、階段に向かって、が、おずおずと、低い声で・・・
 答えはなかったが、僕は下の方の段に彼女の足音を聞いたように思った。
 「リーザ!」僕は声を大きくして叫んだ。
 答えはなかった。だがその瞬間僕は聞いた、下で、重そうにきしんで、外の通りへ出るきちきちした ガラス戸が開き、きちきちしながらバタンといった。うなりが階段を上がってきた。
 彼女は行ってしまった。僕は考え込みながら部屋へ戻った。僕はひどく気がふさいだ。
 僕は彼女が座った椅子のそばのテーブルのところにじっと立ち、ぼんやり目の前を見ていた。一分が過ぎ、不意に僕の全 身に驚きが走った。まっすぐ目の前、テーブルの上に、僕は見た・・・つまり、僕はしわくちゃになった青 い五ルーブリ札、ほかならぬ、一分前に彼女の手に握らせたあれを見た。これはあの 札だった。他にありようがなかった。他には家になかった。とすると彼女は、僕が反対の隅へ飛びの いたあの瞬間をとらえ、手の札をテーブルに投げ出したのだ。
 どうなんだ?僕は彼女がそうすると予期したはずだ。予期できたか?いや。僕はあまりにエゴイストで あり、実際、人を尊重しないことはなはだしく、彼女もそんなことをするなんて想像さえできなかった。 こんなことは我慢できなかった。一瞬の後、僕は狂ったように、急いで服を着て、あわてて間に合うもの を引っ掛け、前後も忘れ、彼女を追って走り出た。僕が通りへ飛び出した時、彼女はまだやっと二百歩も 先を行っていなかった。
 ひっそりとして、雪が降り、ほとんど垂直に落ち、舗道に、人のいない街路にクッションを広げていた。 誰も通るものはなく、物音はまったく聞こえなかった。陰鬱に、無用な街灯はきらめいていた。僕は十字 路まで二百歩走って立ち止まった。「彼女はどこへ行った?それに何のために僕は彼女を追って走る?」
 何のため?彼女の前にひざまずき、悔恨の涙を流し、彼女の足にキスし、許しを願う!僕はそうしたかった。 僕の胸はずたずたに引き裂かれ、この瞬間を思い起こすと絶対に、絶対に、冷淡ではいられない。だが、 何のために?と僕は思った。ことによると、明日あたり、今日彼女の足にキスしたことで彼女を憎むよう になるんじゃないか?僕が彼女を幸せにできるのか?僕は今日また、もう何十回、何百回めだか、自分の 価値を思い知らされたのじゃないか?それに彼女を苦しめないことか!
 僕は雪の中に佇み、濁った霧の中をじっと見ながら、それを考えていた。
 「それによかったんじゃないか、よかったことになるんじゃないだろうか」もう家に帰ってから、後で、僕は空想にふけった。空想 により、生きている心の痛みをやわらげながら。「よかったことになるんじゃないだろうか、彼女が今、永遠に屈辱を抱いてい ったとすれば。屈辱、何といってもそれは浄化だ。それはきわめて苛性の、苦しい意識だ!明日にも僕のことだ、 彼女の魂を汚し、彼女の心を疲弊させたことだろう。だが屈辱は、今や決して彼女の中で消えていくこと はない、そして彼女を待つ汚濁がどれほどいやなものであっても、−屈辱は彼女を高め、浄化する・・・ 憎しみによって・・・フム・・・あるいは、許すことによっても・・・だが、しかし、こうしたことすべ てによって彼女は楽になるだろうか?」
 さて、現実問題。ここで僕は、こちらから現在のこととして一つ無益な質問をしよう。どちらがいい?−安価な幸 福か、高遠な苦悩か。さあさあ、どちらがいい?
 あの夜僕は自分の家で、心の痛みにほとんど死んだようになって、そんなことを思っていた。かってあれ ほどの苦悩、悔恨に耐えたことはなかった。だが僕が住まいから走り出た時、途中で家に戻るのではない かという疑いが少しでもありうるものだっだろうか?僕はもう二度と彼女に会っていないし彼女について 何も聞いていない。またつけ加えるなら、僕は長いこと、屈辱と憎しみがもたらす利益という一句 に満足していたものだ。自分がその頃、憂愁から病気になりそうだったのに。
 多くの年月が過ぎた今でさえ、これがすっかり思い出されるとなんだかあまりにも不快 になる。今思い出して不快なことはたくさんある、だが・・・もうここで『手記』は終わりにしないか? どうやらこれを書き始めたのが間違いだったらしい。少なくともこのお話 を書いている間ずっと、僕は恥ずかしかった。従って、これはもう文学ではなく、懲らしめの罰だ。いや はや、たとえばの話が、道徳的堕落の片隅、欠乏した環境、生きることからの乖離、虚栄に満ちた悪 意の地下室、こういうことによって僕が自分の人生をいかにないがしろにしてきたか、について語る長い 話など、まったくのところ、おもしろくはない。小説にはヒーローが必要だが、ここには わざとのようにアンチヒーローのあらゆる特徴が集められていて、それに何 より、これがみんな非常に不快な印象をもたらすのだ。なぜなら、僕たちは皆、誰だって、多かれ少なかれ、 生から乖離し、皆、不自由な歩き方をしているからだ。乖離のあげく、時々真の『生きた生活』 に一種の嫌悪を感じ、それゆえ、それを思い出すと耐えられないのだ。なにしろ僕たちは真の『生きた生活』 をほとんど労働と、任務も同然とみなすまでになってしまったし、僕たちはみんな書き物に従った方がいいこ とに内心同意している。それではなぜ、僕たちは時として這い回る、なぜ気まぐれを起こす、なぜ願いをかけ る?自分でもなぜかわからない。僕たちの気まぐれな願いがかなったら、僕たちにとってまずいことになるだ ろう。ねえ、試してみたまえ、ねえ、僕たちにたとえば、あとほんのちょっと独立を与えたまえ、僕たち の手を自由にしたまえ、活動の輪を広げたまえ、監視を緩めたまえ、そうしたら僕たちは・・・そ うさ、僕は君たちに請合うがね、僕たちは直ちにまた元通りに監督を求めるぜ。わかってるよ、君たちは たぶん、こう言うと僕に腹を立て、叫び声を上げ、地団太を踏むね。いわく、『自分一人のこと、君のみじ めな地下室のことと言いたまえ、ずうずうしく言うんじゃない、《僕たちみんな》だなんて』。 いいじゃないか、諸君、僕はこのみんなってことで自分を正当化しやしない からね。僕に関して正確なところを言えば、いいかな、僕はね、君たちが半分までも進める勇気がなかっ たことを僕の人生において極端にまで持っていっただけだ。いやもう君たちは臆病を分別とみなし、それで自分自身 を欺いて慰めてるんだから。従って僕の方が、もしかすると、君たちよりよほど『生きている』ことになる かもしれない。さあ目を凝らして見てみたまえ!僕たちは知りもしないじゃないか、その生きているものって のは今どこに生きているんだ、それはどんなもので、何と呼ばれてる?僕たちを一人で、本もなしで放り出 してみたまえ、僕たちはすぐに混乱し、あわててしまう、そしてわからなくなるだろう、どこに参加す るか、何を支えとするか、何を愛し何を憎むか、何を尊敬し何を軽蔑するか?僕たちは人間であることさ え重荷に感じている。すなわち、真の、自分自身の肉体と血液を持った人間であるこ とを。それを恥じ、不名誉とみなし、何というか前例のない人間一般であろうと努めている。僕たちは死 産児であり、その上、生まれるのだってもうずいぶん前から生きた父親からではなく、そしてそれがいよ いよ気にいっているのだ。嬉しくなりだしたのだ。すぐに、どうにかして観念から生まれ出ることだって考えつ くさ。だがたくさんだ。僕はこれ以上『地下室から』書きたくはない・・・・・

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 しかしながら、この逆説家の『手記』はここではまだ終らない。彼はこらえきれずにさらに続けたので ある。しかし私たちはここでやめてもいいように思われる。


原題:Записки из подполья
著者:Ф.М.Достоевский
訳者:coderati[coderati@msn.com]
2005年2月第一部公開;2006年5月第二部公開;

<版権表示>
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プロジェクト杉田玄白正式参加作品


訳注

第二部の一  この将校は身長が十ヴェルショークもあった。−−− 二アルシン 十ヴェルショークの二アルシンを省略した言い方。一アルシンは約70センチ、一ヴェルショークは約4.5センチで、 約186センチの身長ということになる。

  地下室の本棚