第1回
「ますます窮屈になるなあ」
「ああ」
甘樫の丘に上りながら,
志貴皇子
と
長皇子
はつぶやきあった。ここに来れば飛鳥全体を見渡すことができる。しかし,
乙巳の変
でここに屋敷を構えていた蘇我氏が滅んで以来四十年,はばかられてここに屋敷を構える者はいない。だから宮廷人たちの格好の散歩道となっていた。もはや焼け跡にも木が生え,蘇我本宗家の栄華はしのぶべくもない。
「そういえばきみの弟はあれなんだって?」
「弓削のことかい?あいつは何事にも熱くなりやすいタイプだからなあ,でも彼女は右大臣の孫だぜ,ボクたちには高嶺の花だよ」
長皇子は双子の弟の
弓削皇子
のどことなく子供っぽい一途な顔を思い浮かべた。長皇子が周りに合わせて無理をしないように生きてきたのに対して,弓削皇子はいつも真直ぐと周囲にぶつかって行くのであった。自分達のような傍流の王族はこのようにして生きて行くのがかしこいと思っていた,だが弟のまっすぐさをどことなくうらやましく思うのも確かなのだ。
そろそろ頂上だ。志貴皇子と長皇子の後ろにけぶる飛鳥の地が見える。真下には
飛鳥浄御原宮
,北には建造中の都市があった。来年の遷都を目指して急ピッチで都城の建設が進められている。その都には何と「藤原京」という名が付けられるのではないかと噂に上っていた。不比等の名声はもはや誰も並ぶべくもない。宮廷人の中でその不満はくすぶっていたが,彼ほど有能な男もいないのもまた正直な話であった。彼が次々と繰り出す政策に追いつくのがやっとと言うのが実体だった。
二人は頂上の石にこしかけた。それは蘇我氏の屋敷の礎石だった。
志貴皇子はひとしきり北のほうを眺めてから,隣の長皇子に話かけた。長皇子は南の山をのぞんでいる。
「そういえばきみんとこの先生はどうだい?」
「えっ!?」
「あの老雄だよ」
「ああ,人麻呂先生ね。相変わらず
采女
とかに歌を作って贈っているよ。そろそろ歳を考えるべきだと思うけれど。」
日が天頂から少し傾いた。長皇子が言った。
「そろそろ屋敷へ帰ろうか。」
二人は腰を上げて山を下って行った…
目次へ戻る