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第10回

 大きく叫んだ紀皇女は深く息を吸った、だがそのまま固まってしまうのだった。下では三人の男女があっけにとられたかのように彼女の方を見ているではないか。


 「いけない、はしたないところを見られてしまった」

 紀皇女の頭の中は真っ白である。だが不思議と風景だけは鮮明に見える。これほど遠くのものまで細かくきれいに見えたことはないぐらいだった。三人の顔もよく見える、まつげを一本一本数えることが出来るくらいだ。

 「あれは笠娘女だ、その横にいる人は誰だろう、舎人だろうか・・・」

 やがて紀皇女は一人強い視線を向けている男がいることに気がついた。初夏の山のように鮮やかな鴨の羽色の着物を着ていた、生地には薄い唐草文があしらってあって、一見して高貴の者であることがわかる。髪は少しほつれていた、だが印象的なのはその意志の強そうな目である。まだ少しあどけなさが残る顔立ちに対して、瞳は壮年の男のような深みを持っていた。

 「ひめみこ・・・」

 その青年が唇を動かした、紀皇女は我に返り、倉庫の中へ入って急いで扉を閉めた。手のひらと背中をぴったりと扉に押しつけた、そうしなければ体が崩れてしまいそうな気がした。

 あの方は誰だったのだろう。そうだ、弓削皇子様に違いない。あの、しっかりとした体つき、意志の強そうな目、いつも夢に描いていた通りの人だ。でも、とんでもない姿を見られてしまった。もうだめだ、こんなはしたない娘のことなど、一瞬で嫌気がさしてしまったに違いない。まだ言葉も交わしていないのに、初めての恋がこんな形で終わるだなんて、もう何もかも嫌だ、このまま外に出たくない、消えてしまいたい。

 板のきしむ音と振動が伝わって紀皇女はびくっとした。誰かが階段を上がってくる。

 「紀皇女様お出でになってください」

 扉の向こうから男の声が聞こえる。すぐ背中でしている声であるはずなのに、ひどく遠くにきこえた。大きな金堂で声を上げたときのように、頭の中でがらがらと響く。頭の中にもう一人自分がいて、頭の中で響く声を聴いているような不思議な感じがする。

 「困りましたね」
 「どうしても出てきてくれないようですね」
 「私がすべて悪いのです、姫様ですからどうかおいでください」

 紀皇女は出たくなかった。とにかく今は人の目に触れることが恥ずかしくてならない。

 十分くらい経っただろうか、あわてふためく三人の声にひょうひょうとした年寄りの声が割って入った。

 「天の岩戸ですかな」

 「あ、先生」
 「女神様を何か怒らせるようなことを君たちはしたのかね」
 「いいえ、そういうわけでは」
 「こうやって、みんなで押しかけても姫君は出てきてはくれないぞ。皇子、娘は優しく扱って安心させてあげねばならん」

 そうやって、柿本人麻呂は三人を倉庫からおろした。

 「岩戸に籠もったのなら、宴を催して媛の注意をひかなければならないね」

 「どんなことをするんですか」
 笠娘子が尋ねた。彼女は自分の失敗ですべてがぶちこわしになり、あまつさえこれが両家の間に何か悪い関係でももたらしはしないかともう気が気でない。わらにでもすがりたい気分である。

 「おお、お美しい娘さんや、天照大神が岩戸にお隠れになった際には、あなたのようなきれいな娘がこのように踊って気を引いたのじゃ」

 そういうと、柿本人麻呂は、少し卑猥な格好でおもしろおかしく踊り始めた。三人は急に緊張がとれて、どっと笑ってしまった。笠娘子などは涙まで流して笑っている。

 「なんだろう、外は楽しそう」

 私がこんなにつらい思いをしているのに、みんなで笑っているなんてずるい。紀皇女は扉を少し開けた。すると老人が踊っている。紀皇女も思わずふふふと笑った。

 「どうやら媛がお出ましになられたようです」



(2004/7/4)

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