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第11回

 弓削皇子は高床の倉庫を見上げた。観音開きの扉が開かれて、小柄な姫君が中から現れた。橙色の短衣と白い裳の色の対比がまぶしい。山歩きの帰りであったので、軽装である。かろやかな衣が活発そうな皇女をますます引き立てていた。皇子は周りを明るくさせずにはおれないような不思議な魅力を感じないではいられなかった。

 夢にまで見た紀皇女が目の前にいる。皇女は岩籠りから出てきてくれた、今度は自分が答える番だ。しかし、いざ本人を前にすると足が前に出ない。何を言えばよいの全く思いつかない。

 そのとき弓削皇子は右肩をぐいっとつかまれた。振り向くと兄の長皇子がいるではないか。今まで気がつかなかったが、柿本人麻呂と一緒にこの寺へ来たところらしい。長皇子は、目で弓削皇子を促した。「どうしたんだ、行ってやれよ」と兄の目は語っていた。

 弓削皇子は、倉庫の方へ進み、扉の下でうずくまった。

 「紀皇女様、本日は近くへお出でとお聞きし、失礼かと存じますが、挨拶につかまつりました。」

 何の変哲もない挨拶であったが、二人にはこれで十分であった。それに、昔の人はどのような時にも形というのを忘れないものなのである。決められた形の中に万丈の思いがこもって、百の言葉よりも多くのことを伝えることがある。現代の人が忘れてしまった感覚である。

 紀皇女も、背筋を伸ばし、声色を作って答えた。

 「暑い中、わざわざありがとうございます。弓削皇子様、どうぞお立ちください」

 弓削皇子は立ち上がった、二人の目が合う、思い焦がれた人が今目の前にいた。しかし、さすがにここは若い二人、お互いのしゃちほこばったやりとりが急に可笑しくなって、くすくすと笑ってしまった。ひとしきり笑うことで二人はうち解けた気持ちになれた。弓削皇子は何年も知り合った相手に話すかのようにさりげなく優しく言った。

 「お会いしたいと思っていました」
 「わたくしもです」

 二人は連れだって倉庫を降りた。そしてみなで講堂の方へ戻った。そこでは紀皇女の母の太筵娘が待っていた。太筵娘は弓削皇子と長皇子の来訪を心から喜んでくれた。ともすれば女ばかりになりがちな後宮(*)生活が長かった彼女にとっては、若い人が来てくれただけでも嬉しい。弓削皇子の誠実な人柄は太筵娘に好感を持たれた。

 それから、弓削皇子は紀皇女の家に挨拶と称して月に一二度出入りすることが出来るようになった。こういう場合、弓削皇子が傍系の皇子だと言うことも幸いした。あまり権力の中心にいるもの同士が親密になると、周りからあらぬ疑いをもたれるものだが、その点弓削皇子は周りからも、そして紀皇女の家の者からも警戒はもたれなかった。それに、朝廷は新しい都の建設に忙殺されていて、宮廷の中は近年になく平穏であった。弓削皇子と紀皇女はこうして仲を深めていった。

 そして数ヶ月が経った。



 

「青丹よし・第一部」(完)





*後宮(こうきゅう):王のプライベートな空間。宮廷の表からは隔離されていて、后や王の子供達が住む。日本の場合、後宮のほとんどのことは女官によって取り仕切られる。



(2004/8/22)

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