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第7回

次の日,長皇子は,いつものように治部省へ出向いて,事務の手伝いをしていた。しかし,今日は何やら役所の中が騒がしい。

「長官どの,今日はいったいどうかしたのか」
「ああ,皇子」
治部大輔は心ここにあらずといったように左右をきょろきょろと見ている。
「実は不比等様が突然こちらを視察なさるそうで,その準備に終われているのです」
「そうか,大変だな」
「皇子はどうなさいますか」
「どうって,いつものように,お手伝いをさせてもらうだけさ」

治部大輔はなにか言いたそうだったが,役人に呼ばれて奥の方へ走っていった。


いつもの数倍引き締まった空気の中で,長皇子は仕事を片付けていた。
横で役人がひそひそと話をしている。
「どうしてまた不比等様はうちみたいな暇な役所をおたづねに」
「さあ,都を遷る準備ではないのか」
次の瞬間,部屋の中の空気が固まったような感覚を長皇子はおぼえた。藤原不比等が入ってきたのだ。役人達は彼を見たわけでもないのに,その存在に怯えるかのように静かになってしまった。長皇子は,その変化に驚いてしまった。

不比等は治部大輔(治部省の長官)の説明を聞きながら役所の中をゆっくりと見て回った。役人達はだれも顔を上げない。長皇子はいつものように仕事をするふりをして,この有様をじっくり見ていた。これが権力と言うものなのだろうか…

ひとしきり見て回った不比等は出口に向った,と,治部大輔の話を聞いて不比等は長皇子の方を振りかえった。そして,こちらへ向ってきた。

不比等は長皇子の前で止まり,ひざまづいてふかぶかと頭を下げた。
「これは,知らぬこととはいえ失礼しました。まさか長皇子がここへおいでとは」
長皇子はあっけに取られて,言葉も出ない。
不比等はまだ頭を下げたままである。部屋中の目が長皇子と不比等に注がれていた。長皇子は立ちあがり,声をかけた。
「不比等どの,どうか立ってください」
不比等はまだ頭を下げたままである。長皇子に三回うながされてやっと立ちあがった。

不比等は肩幅が広くがっちりとした体格であった。背は長皇子より少し高いくらいであった,その存在感ゆえか,長皇子は彼が自分と同じくらいの背とは到底思えなかった。紫色の服が彼の威厳を増していた。細い目は全てを見通すかのように長皇子を見つめていた。常人ならば彼の目を十秒と直視することはできないであろう。長皇子は不比等の目を見ているだけで気が遠くなりそうな感じにおそわれた。

「不比等は私を試している」
皇子はなぜかそう感じた。必死になって不比等の目を見つづけた。

どのくらい時間がたっただろう。でも本当は一分もたっていなかったのかもしれない。
急に不比等の目が柔らかくなった。
「皇子はなぜこちらに」

長皇子は,冷や汗と,体が天井にぶつかりそうな気持ちを感じながら声を出した。
「私のような卑賎な王族は,今のような世では官人としての能力を身に付けることが生きる道と考えて,治部大輔様に頼み込んで,ここの手伝いをさせてもらっております

「そうですか,なにかお困りのことがあれば是非わたくしめにお申し付け下さい」
不比等は再び頭を下げ、そしてまた出口の方へ進んでいった。治部大輔が慌ててついていった。今気がついたが,もう一人若い童子が不比等についていった。



不比等は門を出た。横にいる童子が不比等に声をかけた。
「父上,なにか嬉しそうですね」
「そう見えるか,武智麻呂よ」
不比等は長皇子のことを考えていた。
「あの皇子は見所がある」
他の皇子が狩りや恋などで遊んでいる中で,律令制度の中で生きようとしているのは長皇子だけかもしれない,不比等はそう思った。




(2002/10/20)

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