第8回
「私行かない」
香具山へ行く前日,紀皇女が急に口をへの字にまげた。
「そんな,なんだって前の日になって。あんなに楽しみにしていらしたじゃありませんか」
笠娘子も必死である。これまでなんのために努力してきたのか。
「どうしたのです姫様」
紀皇女は壁に顔を向けてずっと下を見たまま黙りこくっている。笠娘子は首をかしげながら後ろに立っていた。しばらくして,紀皇女は顔を赤くしながらぽつりとつぶやいた。
「こわ…いの」
「私のことを一目見て好きになったなんて嘘。一度も話したこともないのに。そうよ,弓削皇子様は私を誰かと間違えているに違いないわ。そうでなければ,夢の中であった天女にでも恋をしているのよ。本当の私を見たらきっとがっかりするにちがいないわ。」
笠娘子は目を丸くした。自分にも覚えのある気持ちだ。それどころか,今でもその不安がある。何の変哲もない自分に土師秋篠が気付いて去ってしまう日がくるのではないか。でも蚕にしか興味がなかった紀皇女が,からだをちぢこませてそんなことを言う日がくるとは,笠娘子は嬉しいようなおかしいような気持ちになって思わずくすくすと吹き出した。
「なによ,笑うなんてひどいじゃない」
「もうしわけありません姫様,そうですね,わたくしにも覚えがありますわ」
「そうなの?」
「ええ,男の方々はあまり確かめもせずに少し見ただけで娘に恋したりすることがありますからね,面と向って顔をじっくりと見て逃げ出すような方もいるそうですから、勝手ですよね」
「でも,弓削皇子様はそんな方ではないと思いますよ。それにお会いしてみないと,弓削皇子様が本当に姫様のことをお好きなのかどうか分からないじゃありませんか,もしそうだったらもったいないでしょう。」
「でもでも」
「そんなに心配ならば,お会いする前に弓削皇子様をこっそり見られるように私が取り計らいましょう。それでどうするかお考えになっては?」
「そんなことできるのですか?」
「おまかせください」
ここまで努力したのに話しをつぶれさせてたまるものか、と笠娘子は思うのだった。
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