第9回
「ここからならば,門からお入りになる弓削皇子様をこっそり眺めることができます。」
門の横の倉庫に隠れた笠娘子は,紀皇女に言った。
「ありがとう,でもちょっと埃っぽいわね,衣が汚れないかしら」
「そうですね,少々お待ちください」
笠娘子は厨子にかかっていた衣をとって,床を払った。埃の下から光る板敷きの床が現れた。紀皇女は衣の裾を汚れないように引っ張って払われた床の上に立ち,少し隙間を残して戸を閉めた。隙間から,こっそり弓削皇子を見ようという算段である。
「では,私は姫様がお寺の周りの花を見物に言ったと皆様にお話してきます。いいですか,私が来るまで決して外に出てはいけませんよ。」
そう言い聞かせて笠娘子は倉庫を立ち去った。
「弓削皇子様はどんなお顔をしているのかしら」
紀皇女は心臓が飛び出る思いで薄暗い中待っていた。
講堂のほうへ戻った笠娘子は,太筵娘(紀皇女の母親)に,紀皇女がしばらく寺の中を散歩に出たと説明した。
「あら,お客様がいらしたというのにしょうがないわね。」
お客様?ふと笠娘子が後ろを振り向くと,なんとそこにはもうすでに弓削皇子と土師秋篠の姿があるではないか。
「えっ,もうすこしあとで・・・」
といいかけて笠娘子は口をふさいだ。土師秋篠がすまなそうな顔で笠娘子を見ている。どうも段取りに狂いが生じたらしい。
「ほう,このお寺には何かきれいな花でも咲いているのでしょうか。」
弓削皇子が太筵娘にたずねた。
「ええ,蓮華草やつつじの花が」
「それはいいですね,私も少し散歩してきてもよろしいでしょうか」
「どうぞどうぞ,そうだ,笠あなた弓削皇子様をご案内しなさい。そして紀皇女も呼び戻してきなさい」
どうも話が妙な方向に進んできた。弓削皇子を連れたままで倉庫に立ち寄るなんてできるはずもない。笠娘子は秋篠に目配せした。秋篠はぎくりとしたような顔をした。
「では靴を整えます」
といって,笠娘子と秋篠は弓削皇子の前に出た。笠娘子がささやく
「どういうこと。」
「いや,その皇子様のほうも早く,紀皇女様にお会いしたいと言い出されて」
「あなたに言われた通りに倉庫の中に姫様をお隠ししたのにどうするのよ」
「うん,だからしばらく寺の中をご案内して,折を見ておまえに姫様を迎えに行かせるから,そこでお二人を会わせることにしよう」
笠娘子はため息をついた。どうも頼りないがこうなっては仕方がない。
笠娘子は門に立ち寄らないように,弓削皇子を案内した。早いところ立ち去ろうとするのだが,弓削皇子は好奇心旺盛で色々質問するので去るに去れない。いよいよ門の周りしか残った場所はなくなってしまった。
そのころ,紀皇女は待つのに飽きてきた。早く会いたいという気持ちが今度はいらいらした気持ちに変わってきた。一体いつになったら弓削皇子様はいらっしゃるのだろうか,何かあったのだろうか,でもだとしたらきっと笠娘子が知らせてくれるはずなのに・・・
「弓削皇子様,この橘の木なんか立派な枝ぶりだと思いませんか」
「うむ,しかしここはもう三回目ですよ,それに紀皇女様は一体どこにいらっしゃるのでしょうか」
ああ、もう、笠娘子は何がなんだかわからなくなってきた。
ふと弓削皇子が門のほうを眺めると,悪いことにきれいなつつじが咲き誇っていた。
「そうだ,そちらにはまだ行ってはいませんね」
「そ、そちらは・・・」
同じところを周るのに飽きてきた弓削皇子は笠娘子が止めるのも聞かずにすたすたと門のほうへ向かっていった。
紀皇女は倉庫の中であせっていた。もう待てない,それにそろそろお母様がご心配なさる。
「いったいいつになったらくるのよ」
と大声で言いながら紀皇女は戸を開けた。すぐ下に弓削皇子がいた。
(2003/2/21)
目次へ戻る