第1回
動乱の皇子(どうらんのみこ)
那大津(博多)には数多くの軍船が所狭しとひしめき、出航の命令を待つばかりになっていた。新羅を征伐し、今は亡き百済を復興するために西国を空にしてまで集められた軍勢である。神功皇后の三韓征伐以来、これほどの軍勢が大和で集められたことはなかった。いや神功皇后の時でさえ、これほどの軍勢が集められはしなかったろう。まさに前代未聞の光景であった。
百済に国都まで攻められ、絶体絶命の淵に陥った新羅に新星が現れた。大和から飛び戻った金春秋は新羅の青年貴族達を集めてクーデタを起こし、新羅の実権を握った。少数精鋭のみを集めた機動部隊で百済軍に突撃して、これを追い払った。しかし多勢に無勢であり、このままではいずれ新羅は百済に滅ぼされてしまうことは目に見えていた。
その時、金春秋は信じられない行為にでた。彼は唐に使節を送って臣従を誓い、その見返りに百済を滅ぼすよう要請した。
これは危険な賭であった。韓の地には前漢の頃に一度楽浪郡が置かれて、漢の一部になりかけた時期がある。高句麗と三韓(百済と新羅の前身)は三百年かけてそれを燕(北京周辺部)まで押し戻したはずであった。今、その苦労を無にして五百年前の時代にまで金春秋は戻そうというのか。宮廷でもこの方針に反対する者は多かった。しかし、金春秋は言った。
「このままでは、新羅は滅びる。それに百済と高句麗と新羅が何時までも戦いを続けていてはいずれ韓全体が唐に滅ぼされるだろう。唐の力を借りて、二国を滅ぼし、その上で唐と戦って我らが韓を統一する。それしか新羅、ひいては韓を救う道はない」
新羅攻めにすべての軍勢を集めていた百済は、背後から唐の大軍に攻め込まれてあっけなく崩壊した。さらに、義慈王の強引な方針に嫌気がさしていた貴族達は、百済王家を助けようとはしなかった。生き残った少数の王家の腹心は大和に助けを求めたのだった。
まだ春になって間もないので、那大津には北風が吹きすさんでいた。風が吹くたびに、軍船の隊列は乱れ、周りの船とぶつかっては沈んでいた。急遽駆り集められた軍勢であるため、訓練が足りないのだ。この遠征の行く末を危ぶむ者は、特に軍事を取り扱う豪族達に多かった。
悲鳴を上げる将軍達を中大兄皇子は叱りつけるだけだった。毎日兵から不平を言われ、幕営へ赴けば叱りつけられ、早くも将軍達の間には厭戦気分が広がろうとしていた。
那大津に充ちる怨嗟を一身に集める中大兄皇子の傍らには、常に歳のころ十六くらいの青年が影のように寄り添っていた。彼の名は大友皇子。
それは二年前のことである。
皇太子の唯一の男子である建皇子を失って、宮廷は悲しみに沈んでいた、そこへ伊賀の国から来た若い母子が訪ねてきた。なんと、その女は中大兄皇子の落とし胤を連れてきたという。宮廷は騒然とした。もし本当であれば、王族の間の力関係は根本からひっくり返ってしまう。どうせ嘘に違いないから、取り上げるまでもない。そのような不届き者は斬ってしまえと声を荒げる人もいた。
「伊賀・・・」
中大兄皇子はつぶやいた。
「そう言えば十年くらい前にあのあたりで狩りに夢中になったことがあった。その時に宿にしていた豪族の館の娘だろうか。だとしたら今頃十三くらいになっているはず」
「わかった、その母子を連れてこい」
中大兄皇子は命じた。
居並ぶ王族と臣下の前に二人は連れ出された。みな、嘘を暴いてやろうと手ぐすねを引いていた。しかし、その場にいた全員が息を呑んだ。
連れてこられた少年は、若い頃の中大兄皇子に生き写しだったのだ
その日以来誰も文句を差し挟む者はいなくなった。それどころか、中大兄皇子は新しく現れた息子に夢中になった。どれだけ自分が頑張ろうと、その果実は弟の大海人皇子にさらわれてしまう、と空しい思いに駆られることが多かったが、それも消えた。私には業績を譲るべき息子がいる。
「大友のためにもこの遠征を成功させて、強く大きい国を残してやる必要があるのだ。」
中大兄皇子は強く念じていた。
(2004/12/04)
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