動乱の皇子(どうらんのみこ) 第三話
「今晩が山でしょう、ただしこの場を持ちこらえたとしても太田皇女様のお体はかなり病んでおられます、もっても半年かと・・・」
「お医者様でしょ、何とかして姉を助けてください、たった一人きりの姉なんです。なんでもいたします」
「船旅がいけなかったのです。身重な体で、しかも戦に出向かれる皇子様を案じながらの旅が太田皇女様の体をむしばみました。本来であるならば、お腹の子が流れるであろうに、良く耐えました、これほどの体になってもあんなに元気なお子様をお産みになられるとは。しかし、それが皇女様の体を傷めたのです。」
鵜野皇女は医者を館の外まで見送った。振り替えると采女達が心配そうな顔で彼女を見つめている。本当のことをいってしまおうか?いやいけない。もうこの家の奥は私が切り盛りしなければならないのだ。お姉様の命が短いのだとしたら、それをこの者達に打ち明けたところでどうなるというのだ。あの姉のことだ、真実を伝えれば素直にお母様の下へ行ってしまいかねない。むしろ、みなで姉の無事を信じれば、姉の体も持ち直すかもしれない。
「みんな、なんて顔をしているの、お姉様は大丈夫ですって、さあ大海人皇子様がそろそろ参られます。みんなで盛大に可愛い男の子が生まれたことをお祝いしましょう」
采女達は一様に顔をほころばせた。彼女の言葉にはどんなに落ち込んだ人でも勇気づける不思議な力があった。この力が、やがてこの国を大きく動かすことになる。
「兄上、それだけはなりません!」
堂内に大海人皇子の野太い声が響いた。反響で影がしばらく揺れた。
「不満があるのか、大海人よ」
「不満ではありません、これは兵法の常道です。唐と新羅の軍勢は我が軍の数倍は下りません。数が多い敵に兵を分けて当たるなど死にに赴くも同じです、そのくらいならばむしろ全軍を水軍に振り向けさせてください」
中大兄皇子は刺すような視線を大海人皇子へ振り向けた、しかし大海人皇子はたじろがなかった。外を吹きすさぶ風音が中にまで入ってくる。中大兄皇子はゆっくりと息を吸ってつぶやいた。
「それほどまでして兵権を握りたいか」
その場にいる全員の背筋が凍り付いた。中大兄皇子はこの戦いの勝利よりも、大海人皇子との間の暗闘に勝つことを優先しているのだ。これ以上の抗命は謀叛となるだろう。その場にいる全ての将軍が、軍の統帥を握る中大兄皇子の作戦に反対であった。それだけに、ここで総大将の大海人皇子が反対することは、大和の全ての兵が中大兄皇子に反抗することを意味していた。
「わかりました、すめらみことの仰せのままに従いまする」
その後、全軍を三つにわけ、上軍と中軍が加羅に別々に上陸して熊津を目指すこと、兵力の半数を水軍の下軍に振り分け、下軍は漢江に集まるであろう唐の軍に決戦を挑むことが決まった。総大将の大海人皇子の指揮下に上軍と中軍が、下軍は独立して阿倍比羅夫が率いることとなった。
最早軍議の細部は大海人皇子の頭に入らなかった。陸で唐に負ければ上軍と中軍は討ち死にする。陸で勝っても、海で下軍が負ければ上軍と中軍は帰ることができずにやがて敗北する。たとえ、一時的に唐に勝ちを収めたとしても、このように軍が分裂していては戦線の維持ができない。本拠地と地繋がりの新羅や唐にじわじわと殺されるのを待つだけだ。
「兄上がそこまで私を憎んでいたとは・・・いいやあの少年が兄上を狂わせたのだ」
女に狂うよりも男に狂う方がもたらす害が激しいのかもしれない。しかし、つまらぬ王家の争いに巻き込まれて異国に屍を晒すことになる兵が哀れでならない。自分の役目はこの者達を一人でも多く大和へ連れて帰ることなのかもしれない。そのためには、まだ負けるわけにはいかない。
「そういえば、太田皇女の出産は無事に済んだのえあろうか」
大海人皇子は那大津に来て初めて家族に恋しさを感じた。
(2007/05/20)
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