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沙羅羅

わたしこのおじさんきらい

沙羅羅 ( さらら ) は, 蘇我赤兄 ( そがのあかえ ) が伸ばした手から逃れて祖父の山田石川麻呂の影に隠れた。

「おやおや嫌われてしまったかな?」
赤兄は笑いながら頭を掻いた。しかしその目は笑っていないように沙羅羅には見えた。

「人見知りかな,ははは」
石川麻呂は沙羅羅の頭をなでた。

沙羅羅は石川麻呂の影から,くりくりと丸い目でじっとこの祖父の弟の赤兄をにらんでいた。おじい様はこんなに丸くて優しそうな顔をしているのに,弟のこの人はなんてとがった顔で冷たそうな目をしているのだろう。

「さ,おじさまにもごあいさつしなさい。」
母親の 遠智娘 ( とおちのいつらめ ) は,沙羅羅の小さい肩に手をかけて促した。母の横では,既に姉の大田皇女が行儀良く座っていた。

「おじさまようこそおいでくださいました。」

ちっちゃな沙羅羅はお辞儀をすると,そのまっすぐな髪が床についた。
沙羅羅はぴょこんと顔を挙げると,たたたたと外へ向って走って行った。

「本当おてんばで困ってしまいますわ,お姉ちゃんはこんなにおしとやかなのに。」
遠智娘は言ったが,愚痴ではなく,嬉しそうだった。

「あんぐらいでよいのだよ,うんうん」
山田石川麻呂がうなづいた。




長い間,王家を支えていた蘇我氏であったが, 蘇我蝦夷 ( そがのえみし ) 蘇我入鹿 ( そがのいるか ) は自分の家の繁栄ばかり考えていたために,王家を初めとするほかの氏族の反感をかった。当時の朝廷はまだ豪族の寄り合い所帯であった。しかしそれは,一つ一つの豪族にも言えることで,絶大な権力を誇るかに見えた蘇我氏もまた小さな豪族の寄り合い所帯であって,蘇我本宗家(本家)さえその代表に過ぎない。しかし,蝦夷・入鹿父子は其のことを忘れたため,蘇我氏の与党は,分家で人格者の山田石川麻呂のもとに集まり始めた。系図

王家を中心に据えた唐のように進んだ律令国家を造ろうと考えていた中大兄皇子は,山田石川麻呂に手を伸ばした。石川麻呂を仲間に引き込めば蘇我氏の力を弱めることができる。それに蘇我本宗家を滅ぼした後も,石川麻呂に蘇我氏をまとめさせれば良い。山田石川麻呂の説得に成功した中大兄皇子は,蘇我入鹿を朝廷で暗殺し,蘇我蝦夷を攻めて滅ぼした。世に言う 乙巳の変 ( いっしのへん ) である。

山田石川麻呂は,新しい権力者となった中大兄皇子とのつながりを強めるために,娘の遠智娘を差し出した。皇子は遠智娘を大変気に入り,二人の娘をなした。大田皇女と沙羅羅である。沙羅羅はこの時まだ三歳。いずれ自分が女帝となって強力に国を引っ張って行くことになろうとは夢にも思わない。小さな体でいつも走りまわって,母親を困らせるのであった。




「ここに来ると落ち着く」
中大兄皇子は遠智娘に言った。当時は妻問い婚なので,妻は実家の方に住んでいて,夫の方が妻の家に通う。遠智娘は嬉しそうに微笑んだ。
「お前たち,良い子にしていたか」
皇子は,娘たちに話しかけた。沙羅羅はまた嬉しそうに皇子の方へ駆けよって抱きついた。
「ほら土産だぞ」
皇子は娘たちに髪飾りを渡した。皇子はいつもなにか土産を持って現れる。一度気に入ったらまめに尽くすのはこの皇子の性格である。しかし飽きが来ると見向きもしない冷たい面もある。

「わあ,きれい,お父様ありがとう」
沙羅羅ははしゃいだ。沙羅羅はやさしい母と姉と美男でかっこいい父が大好きであった。この幸せがいつまでも続くと信じて疑わなかった……




ある秋の日,沙羅羅は柿の実を食べようと,壁際の柿の木に上っていた。そこに,馬に乗った大男が通りかかった。太い手足とぼさぼさの髪をしていた。お父様とはえらい違いだ,と沙羅羅は思った。大男は柿の木の前で止まって,沙羅羅を見た。

「こら坊主,柿の盗み食いはいかんぞ。」

坊主とはなんと失礼な。沙羅羅は顔を真っ赤にして大男をにらみつけた。

「お,よく見れば女の子ではないか,あんまりおてんばが過ぎると嫁のもらい手がなくなるぞ,わはははは」

ますます失礼な大男である。沙羅羅は下りて母親に言いつけてやろうと思った。と,高く上りすぎて下りることができない。

「どうした?」

うつむいた沙羅羅がぽつりとつぶやいた。
「おろ…して」

「しょうがないなどれどれ」
大男は手を伸ばして,沙羅羅を抱きかかえた。沙羅羅を軽がると持ち上げた大男は肩に沙羅羅を乗せた。沙羅羅は,祖父と父親以外の男の人の手に初めて触った。大男の手は乾いてごつごつしていて,父の細くて湿った手とはだいぶちがった感じがした。でも,その大男の手につかまっていると,なぜか安心するのだった。

「おてんば娘め,もらい手がなければわしの嫁にしてやっても良いぞ」

やはりこの大男は失礼だ,沙羅羅はぽかぽかと大男の頭をたたいた。

「いたいいたい」言いながらも大男はうれしそうであった。沙羅羅は門の前で降ろしもらった。大男は野原の方へ馬を駆けさせた。




平和だった沙羅羅の周辺に異変が起きはじめていた。

中大兄皇子の急な国家造りは,豪族達に反感を呼び起こした。しかし,皇子が反対者を厳しく罰することを知っていた彼等は,直接皇子に反対はせずに,山田石川麻呂に頼った。中大兄皇子に信頼されている石川麻呂ならば,うまく皇子に豪族達の意見を伝えてくれるのではないだろうか。

石川麻呂は,自邸にやってきた皇子にそれとなく豪族達の意見を伝えることが多くなった。その度に皇子は不機嫌な顔を見せた。そして,石川麻呂の家から足が遠のいた。

遠智娘が窓の外を見ながらため息をつくことが多くなった。

沙羅羅は姉と一緒に,母親を見守っていた。

「おねえさま,おとうさまはどうしておかあさまを慰めに来てくださらないのかしら」

「だいじょうぶよ,きっと」
大田皇女は沙羅羅をきゅっと抱きしめた。それは自分の不安を押さえるためでもあった。




中大兄皇子と山田石川麻呂の間が離れるのを,幸いと見ている者がいた。石川麻呂の弟の蘇我赤兄である。赤兄は,人格者の兄に人が集まるのを嫉妬していた。能力は間違いなく自分が上であるのに。

赤兄は皇子の気に入ることばかりを言って,皇子の気を引いた。そして自分の娘の常陸娘を皇子に差し出した。皇子はやがて赤兄を信頼するようになった。

「そろそろだな」
そう思った蘇我赤兄は,山田石川麻呂が謀反を起こして皇子を殺そうとしていると中大兄皇子に告げた。猜疑心が強い皇子はその気になって,石川麻呂の屋敷を兵で取り囲んだ。

石川麻呂の家の者は一ヶ所に集まって震えていた。戦うことをすすめる家来もいた。長い沈黙の後,石川麻呂が口を開いた。

「王家に弓を引くことはできない。」
「遠智娘よ,娘たちを連れてここを出なさい。皇子もお前たちには手をかけはしないだろう。」
「父上,私と一緒に行けば許してもらえるはずです。それに父上はなにもしていないのに」
「娘よ,皇子は一度でも疑った相手を決して許しはしない,それは知っているだろう。」

屋敷を出て,皇子の前に出た遠智娘は,皇子の裾にすがって石川麻呂の無実を訴えた。皇子はそれを振り払い,冷たい目で遠智娘を見下した。沙羅羅は震えが止まらなかった,これがあの優しかった父なのだろうか……

山田石川麻呂は自害した。沙羅羅たちは,中大兄皇子の母親の皇極上皇に預けられた。




遠智娘は床に伏すようになった。話しかけてもなにも答えず,食事にも手をつけようとはしない。この時,遠智娘は妊娠していたので,回りのものが無理矢理食べさせたが,遠智娘はやせ細っていき,腹だけが膨らんでいった。うつろな目で壁を眺める姿はさながら餓鬼のようであった。

沙羅羅は,祖母の上皇から母親の近くへはいかないように言われていた。ある日,侍女たちの目を盗んで,母親がいる離れの方へ沙羅羅は忍び込んだ。遠智娘はうつろな目で壁を見つめていた。

「おかあさま」

沙羅羅は恐る恐る声をかけた。

「あなたなぜ,ちちうえを」
「いやあああああ,,,,,,ふっふっふっふ,ほほほほほ,はああっはっはっは」

遠智娘は発狂していた。

恐ろしくなった沙羅羅は走って逃げた。




「もうだれもしんじない」
沙羅羅から快活さが消えた。誰かが近寄ると,上目がちに相手をにらみつけた。




遠智娘は男児を産んだ。未熟児であった。なによりも,この赤ん坊は泣こうとしなかった。 ( たける ) と名づけられたこの皇子は,六歳で死ぬまで一度も口をきくことがなかった。

初めての男児の誕生に中大兄皇子は喜んだ。しかし上皇はこの息子には赤ん坊を渡さなかった。妻の家を滅ぼして不幸に落としておいて,男児を産めば喜ぶとはなんと現金な。上皇はわが息子ながら呆れた。

「私が育てます」

しかし,困ったことがあった,上皇はもう歳で,子供を三人も面倒見ることはできない。

「どうしましょう」
上皇は横に座っている大男に話しかけた。

「あの娘たちのことですね。」

「中大兄に任せるわけにはいきません。」

「私がお預かりしてよろしいですか,母上」

「そうですね, 大海人 ( おおあま ) ,あなたにお願いしましょうか」




ある春の日に,大海人皇子は沙羅羅と姉を尋ねてきた。

いつかの失礼な大男だ。沙羅羅は思った。

「ほら,おてんば娘め,約束通り迎えに来てやったぞ。」
そういって,大海人皇子は二人をしっかりと抱きしめた。

あの,安心できる大きな手に包まれた沙羅羅は,全ての気持ちを吐き出すようにわんわん泣いた。姉の大田皇女も静かにしくしくと泣いた。大海人皇子は何時間もその二人を抱きしめつづけた。そして,沙羅羅を肩に乗せ,大田皇女の肩に手を当てて,自分の家へと二人を連れ帰っていった。山では桜の花が開き始めていた。





(2002/12/11)

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