沙羅羅ー少女編1−
「沙羅羅、沙羅羅はどこだ」
野太い声が屋敷にこだました。奥の部屋から明るい声で返事が戻ってきた。
「私はこちらですわ、おじ様。」
部屋から美しい少女が出てきた。長い髪を編み上げて、後ろのほうできれいにまとめ、服は淡い赤紫色で、彼女の赤い健康的な肌を引き立てていた。
「おお、探したぞ、あのな今日」
といいかけたところを沙羅羅はさえぎって口を挟んだ
「おじ様、私をそんな子供みたいな名前で呼ぶのはよしてくださいな、私には
鵜野皇女
という立派な大人の名前があるのですから」
向くれっ面で沙羅羅がまくし立てた。
「よいではないか、わしはこの名前が好きだぞ。そなたにぴったりだ。それに名前後時ですぐに膨れるところがまだ子供だというのだよ。」
沙羅羅はますます顔を膨らませた。大海人皇子
ははっと本題を思い出した。
「そんな話をするためにお前を呼んだのではなかった。そうそう、今日は*新羅
の金春秋
どのが屋敷にいらっしゃる、きれいな格好をして待っていてくれ。春秋どのはそなたをえらく気に入っているようだから」
「もちろんよ、おじ様。いろいろな方をおもてなしするのも王家の人間の大切なお仕事ですもの」
「そのとおりだ、沙羅羅。春秋どのは昼過ぎにいらっしゃる。ではわしは仕事に出かけてくる。」
大海人皇子はまた表のほうへ歩いていった。
沙羅羅は姉の部屋に入った。
「お姉さま、あの服をとっておいてくれた?」
大田皇女は困ったような顔をした。
「沙羅羅、またあの格好をして屋敷を抜け出すの?」
「あらいいじゃないの、お姉さまみたいにずっと家の中にいたら、わたし息がつまって死んでしまうわ」
そういって、沙羅羅は籠の中から采女(使用人)の服を取り出した。沙羅羅は采女の格好をして外に出歩いていた。しかしそれが屋敷の者にばれてしまい、服を自分の部屋に置くことができなくなった。そこで姉の部屋に隠すことにした。姉はおしとやかで屋敷の者に信用されているので、姉の部屋までは探しには来ないだろう。
「ありがとう、お姉さま」
そういって沙羅羅はするするっと木を登って屋敷の外へ出てしまった。
「まったくもう、しょうのない子」
そうつぶやく大田皇女の目は、しかし優しそうに妹のほうを見つめていた。
「さてと、今日は昼には帰らないとね。」
歩きながら、沙羅羅は金春秋のことを考えていた。
金春秋は韓
(朝鮮半島)の東の国、新羅の王族で大和の朝廷に人質に来ている。人質といっても冷遇されているわけではない。その当時の人質は外交官の役目もかねていた。やはり大和へ人質で来ている百済の王子が、皇太子の中大兄皇子(沙羅羅の父)に近づいているので、春秋はその弟の大海人皇子に近づいていた。
「あの人、頭も良くてきれいなんだけれど、今ひとつときめかないなあ」
そういいながら沙羅羅は父の中大兄皇子を思い出した。皇子は皇太子というこの国で二番目に高い身分にあり、美しく、頭も切れ、気前よく沙羅羅にきれいな髪飾りや高価な玩具を与えてくれた。しかし、その父が沙羅羅に何をしてくれたというのだろうか。祖父を殺し、母を苦しめた、母はとうとう狂ったまま死んでしまった。父が殺したも同然である。それなのに父は一度も謝りにも来ない。沙羅羅と大田皇女を忘れてしまったかのようである。
それどころか、中大兄皇子は孝徳天皇と仲たがいして、難波の都から飛鳥に百官を率いて出て行ってしまった。巷では、天皇と皇子がいくさになるのではないかといううわさで持ちきりである。
「身分や、美しさや、きれいな髪飾りが何になるというのだろう」
沙羅羅は異国の王族で美しいというだけで金春秋に心を動かされなかった。
岡の上に沙羅羅は一人の男が立っているのを見つけた。何か書き物をしているようだった。
近づいてみたところ、その男は一心に考え事をしていた。長い髪はぼさぼさで、緑色の服を着ていたけれど、着崩れていた。困ったような顔をしていて、お世辞にも立派な風体ではなかった。
「よし今日は、この人とお話をしよっと」沙羅羅はすましてこのさえない男に近づいた。沙羅羅は自分の容姿には少し自信があった。たいていの男は彼女を見ると驚くような顔をしてボーっと見つめ、いろいろと話しかけて気を引こうとする。大人になりかけの沙羅羅にはそれが面白くてたまらなかった。
しかし、この男は、沙羅羅が何度目の前を行ったりきたりしても紙とにらめっこしてうなり続けている。なんと失礼なのかしら、そう思った沙羅羅は声をかけてみた。
「何を考え込んでいらっしゃるの」
「あれ、あなたいつからそこにいらっしゃったのですか」
沙羅羅はあきれた。変な人もいたものだ。しかし興味を感じた。
「これは何?勉強しているの?」
沙羅羅は紙を覗き込んだ。神には「天地分時・・・」と書かれてあった。
「わたし文が読めるのよ。待ってて、読んでみるから、何々地が天して時が分かれる・・・この文章変だわ」
「これはこう読むのです『天地の分かれし時ゆ(天地が分かれたときから)』」
「そのままの順番で大和言葉みたいな読み方をするの!」
沙羅羅はびっくりした。この時代、文といえば中国の言葉の文章しかなかった。中国の言葉は日本とは順番が違う。しかしこの青年は日本の言葉を文にしている。
「すごいわ、これあなたが発明したの?」
沙羅羅は大きな目をさらに大きく丸くして叫んだ。
「ええ、まあそうです。でもそんな風にいってくれたのはあなたが初めてですよ。」
「そうなの?でもすごいじゃないあなた天才よ」
「ほとんどの人は文字は漢(中国)の言葉のためのものだとか、そんなことをする暇があったら勉強をしろというのです。」
「あら、ほかの人の言うことなんか当てにならないわよ、わたしはすごいことだと思う。で、これはなにを書いているの」
「歌です。この春の景色を読み込もうと思うのですが、良い言葉が思い浮かばなくて・・・」
沙羅羅と青年は話し込んだ。あっという間に時間が過ぎていった。
「いけない、もう帰らなくては、そうだ、あなたのお名前は」
「柿本人麻呂
といいます。あなたは」
「さ・・・(おっといけない、本当の名前を言っちゃ)うのさららと言います。」
「ほう、かわったおなまえですね」
「みんなそういいますのよ、ほほほほ・・・」
沙羅羅はごまかした。
*新羅・・・ふつうは「しらぎ」と読むが、これは蔑称らしい。本来の読みは「シンラ」。なぜ「しらぎ」と言う読みが定着したかは、この後「沙羅羅」で出てきますので、お楽しみに。
(2003/3/25)
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