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沙羅羅ー少女編4−

夏の暑さも漸く和らぎ、時折涼しい風も吹くようになってきた。厳しい飛鳥の夏を吉野や宇陀の山中で避けてきた大宮人が山を下って戻ってくる。大田皇女は妹を心配そうにながめていた。いつもなら川のせせらぎに足を浸し、山の中を駆けずり回る沙羅羅が、この年は椅子に座って飛鳥のほうばかり眺めてはため息をつくのだった。大田皇女は采女に甘茶を持たせて沙羅羅の部屋をたづねた。采女を下がらせて姉妹二人になった。明日には飛鳥へ下る。なかなか二人きりで話すこともままならなくなる。

「ことしは・・・やけにおとなしいのね」
三彩の器を差し出しながら沙羅羅に話しかけた。
沙羅羅は器を両手で軽く持ち、中を見ている。しかし、目の前にあるものを見ているわけではないだろうことは大田皇女にもわかった。
「けさ奥の泉で汲んできた水で入れたの」
皇女はにっこりと微笑んだ。沙羅羅ははっと気づいたように顔を上げて姉を見た。そして一口すすった。そして器をおき、顔を右に向けた。
「私たちって、どんな方と結婚するんだろう」
ぽつりと沙羅羅が言った。
「そうね、父上がお決めになるでしょうけれど、有力な王族か、あるいは貴族か」
「お父様が・・・自分で決めることはできないのかしら」
「それは、無理だと思う。私たちの体は自分の思うままにはならないわ。それが、王家に生まれた人間の宿命だもの。」
大田皇女は立ち、妹の後ろに回ってやさしく肩に手をかけた。
「好きな人がいるのね」
沙羅羅は静かにうなづいた。
「私たちのことを忘れてしまったかのようなお父様に何事も決められるのはいや。お姉さまのことだってそうよ、もうとっくにどこかに婚してもいいはずなのに何の話もないじゃない」
「そうね」
しかし、大田皇女は大海人皇子を慕っていた。このまま皇子と妹の世話をしながら静かに暮らしていけるのならそれども十分幸せだと彼女は思っていた。
「恋は、できると思うわ、でもそれと結婚は別。慕い合って一緒になったからといってずっと幸せでいられるとは限らないし。」
大田皇女は妹を不憫に思いながらも、ここまで打ち込める人に出会えた妹をうらやましいとも感じるのであった。


吉野から下ってしばらくして、金春秋が大海人皇子の屋敷へ挨拶に来た。祖国から急の知らせが来たので急いで帰らなければならないという。いつも快活な笑顔を絶やさない金春秋が、今日は思いつめたような顔をしている。沙羅羅は大海人皇子と一緒にに春秋を迎えた。春秋は差し出された水をぐいっと飲み干した。

「残念ですが、新羅へ帰らなければならなくなりました。百済の兵が国都にまで迫りました。私がつくころには国都も陥ちていることでしょう。私は国を守るために自分の責を果たさなければならない。」
「何も助けることができなかった。申し訳ない・・・」
「いえ、良いのです皇子。この屋敷は唯一つの飛鳥での私の安らぎの場所だった。」

金春秋は真剣なまなざしで言った。
「これから、私は新羅を守るために最後の手段を使います。負ければ私は汚い豚と未来永劫にののしられることとなるでしょう。たとえ勝ったとしても、これからやることの罪を私はずっと背負っていかなければならない。しかし、祖国を守るために私はやらねばならぬのです。」

春秋から発せられる気配に押されて、沙羅羅は体が後ろに押し付けられるように感じた。沙羅羅や大海人皇子が、唐と韓と大和のこののち千年を決定付けることになる金春秋の決意の意味を知るのは数年後のことである。


同じころ、中大兄皇子は中臣鎌足と密議を重ねていた。大海人皇子と蘇我赤兄を加えた四人で話す時間よりも、この二人の密議のほうが長くなっていることを残りの二人はまだ知らない。

「いよいよだな、鎌足よ。大王は病が篤いと聞くが、冬までに薨ずる(貴人が亡くなること)ことがなければ難波に兵を進める。韓では百済と高句麗が新羅を滅ぼすであろう。我々はそこに兵を進めて任那を取り戻す。」
「百済王子の豊章様からの確約は取り付けました。全国に下知をすれば来年には韓へ攻め上ることができます。」
「おじうえは大王にしてやった恩も忘れて最後まで新羅攻めに反対して、出口の難波に居座りおった。もはや待つことはできない。これ以上待てば任那をすべて今度は百済に奪われてしまう。」

大和では大きな戦が百年以上なかった。大王や皇子が甲冑を着てまつろわぬものを平定したのはすでに伝説の時代のことになりつつある。しかしそのために大和は対外的には領地を失い続けた。今こそ失地を取り戻して神功皇后のときのように大和が韓の諸国の上に君臨するときが来たのである。そうしなければ、唐が混乱した韓を征してしまう。そうなってしまえば大和も危ない。なぜこの単純な理屈を大王も豪族も分からないのだ。中大兄皇子が無理をして国の制度を改めてきたのはそのためであった。

「さて、軍を指揮することになる大海人が反旗を翻すことはまずないとはいえ、もう一つあいつを確実につなぎとめるための手が必要だな。」
中大兄皇子は鎌足に答えを促した。が、すでにその手を皇子も考えている。自分の頭の中にある答えを誤ることなく言える鎌足の才気を皇子は愛していた。皇子にとって、自分と違う意見は諫言などではなく、ただの愚劣な意見に過ぎなかった。自分の深謀を理解できるのは鎌足だけである。

「皇太子様の姫君を嫁がせるのがよろしいでしょう」

「さて、だれを」

「ちょうど良い姫君が二人おられます」

「そうだな、あの二人も子供のときから世話になった大海人とこれからも暮らせるのなら本望であろう。それに、わしから二人も姫君をもらえるほどの栄誉はない。」

沙羅羅と大田皇女の運命が決まった。


人麻呂はしぶしぶながら軍事教練に出席していた。遊部とはいえ、貴族の末流に連なるものとしてはいざというときに干戈を握って戦わなければならない。いろいろ理由をつけて逃げていたのが、夏が終わるあたりからなにやら飛鳥と難波の間が殺気立ち、さすがにそうもいかなくなった。古代の甲冑は金属なので重く暑い。時折吹く秋の風が心地よかった。

整列した兵の間を馬と輿の列が通る。将軍の大海人皇子とその一行である。そのとき、風が吹いて輿の中が見えた。人麻呂は隣の兵に聴いた。

「今の姫君はいったい誰であろうか」
「ん、そんなことも知らんのか。お前は浮世離れがしているからなあ。あれは大海人皇子様の屋敷にいらっしゃる皇太子の姫君の大田皇女様と鵜野皇女様だろう。まあ、わしも見た目の歳から言ってそうだと思ったまで見たことはないから良く分からないがな」

人麻呂は呆然と立ち尽くした。その後教練で何が行われたか、上の空であった。


沙羅羅と大田皇女は中大兄皇子の屋敷に呼び出された。十年ぶりの再会であった。その場で突然大海人皇子への輿入れを言い渡された。沙羅羅は血の気が引いた。いつか来るとは思っていたが、こんなに早いなんて。まだ人麻呂にあのときの答えもしていない。

「私は、いやです!今まで抛っておいて、急に」
「この痴れ者が、輿入れのことで父に意見をする女子がいるものか!弟に娘を二人も嫁がせるなぞ前代未聞のことである。それもこれも、お前たちのことを思ってのことなのだぞ」

二人とも慶ぶとばかり思っていた中大兄皇子には沙羅羅の取り乱しようが信じられなかった。

「もう良い、沙羅羅下がれ。婚姻のことは言ったとおりに執り行うからな」
「大田皇女よ、お前はわしの気持ちがわかろうな、沙羅羅を説得しておけ」

全く腹立たしい。荒々しく立ち上がった皇子は大きな足音を立てながらその場から去った。


その晩沙羅羅は大田皇女がなだめてもすかしても泣き止まなかった。福や神をかきむしり、姉にそこら辺のものを投げたりさえした。
「沙羅羅、聴いてちょうだい、こんないいお話はないわ」
「何がいい話なもんよ、お父様はこうやって私たちの気持ちも考えずにすべて決めるんだわ、そうだ、もうお父様の言いなりにはならない。私あの方のもとへ今から行く。」

振り乱した髪の奥で沙羅羅の目が妖しく光った。大田皇女はぞっとした、妹なら本当にやりかねない。

「待ってちょうだい、沙羅羅。お父様の手からは絶対に逃れることはできない。あなたは、命まではとられないでしょうけれど、あなたのいい人はきっと殺される。」

しかし、沙羅羅はうつろな目で外に出る身支度を始めている。大田皇女は妹の脚にすがった。それでも沙羅羅は姉を引きずったままずんずんと歩いた。

「お願い、私を一人にしないで!」

姉の悲痛な声に沙羅羅は我に返った。

「私はもうあなたしか身内がいないのよ。あなたとおじ様と三人で暮らすことがそんなにいけないことなの」

沙羅羅はあのおとなしい姉が自分の感情をさらけ出すのを初めて見た。そうだ、姉を一人にすることはできない。

「お姉さま、わかったわ。でも、明日もう一度あの人に合わせて、大丈夫、決して逃げたりしないから」

いつの間にか沙羅羅が泣きじゃくる姉を慰めていた。


屋敷を抜け出た沙羅羅はいつも人麻呂とあっていた岡に登った。しばらくして人麻呂がやってきた。明るい顔を作り、精一杯声を出した。

「わたし、遠くへ行かなければならなくなったの」

「そうですか」

化粧をして隠そうとしているが、目の辺りが赤かった。

「今まで楽しかったわ、あなたも頑張ってね」

「あなたがどこへ行こうと、私はあなたのことを守り続けます。沙羅羅。」

「どうしてそれを」

「これ以上口に出してはいけません」

人麻呂は沙羅羅を抱き寄せた。山からあかねの群れが下りて大和のほうへ去っていった。





(2003/10/13)

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