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錦林多摩記
2006年1月
1月4日(水)
十二月五日 仏滅 軫 【官庁御用始め】
新年明けましておめでとうございます。今年も錦林亭をごひいきのほどお願いいたします。
12月29日からちょうど一週間、茨城の実家で羽を伸ばしてきました。従来ですと、この時期は鬱でピリピリ来ていたのですけれど、今年はだいぶ病気も回復したため、家族に迷惑をかけることもなく穏やかに過ごせました。それとも、風邪をひいていたお陰で毒気が抜けたのかもしれません(笑)
元旦には再び大根餅に挑戦しました。固まるように水を減らしました。今度はドロドロと言うことはなく、なんとか固形物になってくれました。ただしまだまだゆるゆる。仕方がないので油で揚げました。今度は固まりました。味は上々で、家族にも大好評でした。
翌日の二日にはインド風の野菜たっぷりチキンカレーを作りました。スパイスを自分で合わせて作ります。日本人の舌に合うように、量は控えめです。ほうれん草・人参・玉葱・さやえんどうを微塵切りにし、下味を付けた柏肉と一緒に煮込みます。脂や小麦粉は使わないのでさらさらしたスープになります。肉のローストや鮨といったご馳走にようやく飽きてきた舌を口直しし、もたれた胃腸を元気にするには丁度良い料理でした。これも売れました。
習作(ファッション雑誌の模写・・・ただし顔のデザインはマンガ風にしました)
夏服1・ロングヘア
サマーセーター・ショートヘア
水着セパレート・野球帽
水着ビキニ・ロングヘア
ここで、今年の抱負。三つあります。
(1)マンガを月10ページのペースで上げる
友人の勇者ロトさんの小説の漫画を月10ページのペースで上げます。
漫画を書く流れは掴めたので、これからは数をこなすのみです。
量がある域に達すると質の変化が起こります。それを信じて今年は漫画を書きまくります。
(2)漬け物をマスターする
料理では、今年はお漬け物に挑戦します。既に本も買ってきました。
浅漬け・味噌漬け・福神漬け・ピクルス等々
どうやら私は、酢の物や発酵食品を食べると酒の代わりになるらしく、酒への欲求が収まるのです。
健康のためともちろん食い道楽のために今年は漬け物です。
(3)和服を着る
礼服でなしに、普段着として和服を着たいです。
やっぱ「日本文化、日本文化」と言っている以上、生活の場で文化を守らなければ嘘でしょう。会社から帰ってから部屋着として、休みの日の外出着として和服を着たい。和服で外に出てみたい。そのためにはもちろん着物など持ってはいないので、まず買わなければいけません。それどころか呉服屋を探すところから始めなければ。八王子は織物の町だから探せばあるはずなのですが。
1月5日(木)
十二月六日 角 【小寒】【納め水天宮】
寒の入りです。12月は、ここ数十年で最低の気温であったそうです。会社も、まだ建物が暖まっておらず、床から冷気がくつを通して身体に上がってきて大変冷えました。実家の水道水は歯に染みるほど冷たかったです。気象庁によると小寒・大寒とこの寒さはさらに厳しくなるとのこと。零下になるとさすがに寒さでしんどくて疲れてきます。
新暦だと初水天宮ですが、正式には納め水天宮です。
最近近所で不審火が発生していますので、私も水天宮様にお祈りしとこうと思います。
MAGICARUさんから年賀状が届きました。
正確に言うと、お正月には届いていたのですが、寮の管理人さんが休み中の郵便物の仕分けを今日行ったので、今手元に届いたというわけです。
戌年なのでゾフィーちゃん、それにレインちゃんです。MAGICARUさんらしく愛らしい絵になっています。毒ッ気は0です(笑)私が見たソフィーちゃんのイラストの中ではこの年賀状の絵が一番素敵だと思います。
MAGICARUさん年賀状ありがとう
1月7日(土)
十二月八日 先勝 ともぼし 【上弦】【針供養】【旧事納め】
「ふしぎ星のふたご姫」
リオーネたんのアップ満載、今日は仕事をさせられましたが、総て吹っ飛びました。
はじけてましたね〜
リオーネがファイアーダンスで、ソフィーが傘回し、ミルロが水芸でした。シェードとブライトお前はいつの時代の人間だ(−−;ブーモの芸はマギーしんじだった・・・
タネタネプリンセスはバスケットの中にまとめて突っ込まれていました。どんどんとぞんざいに扱われるようになるタネタネプリンセスに密かに萌えです。
ボードラゴンは上方落語に出てくる悪擦れした旦那というやつですな。目が肥えすぎて普通の芸では受けなくなっているという。
最後のシーンは、夢ジェネでMAGICARUさんやこんが〜るさんとのチャットを見ていたかのようなサービスカット。前にも似たような事があったんだよな、この手のサイトで取材しているんでしょうか?だとしたら光栄です!
「ロックマンエグゼ・ストリーム」
パラレルワールドへ連れて行かれた熱斗君たち。この世界ではナビも外の世界に飛び出して活動できるのであった。熱斗君とロックマンの共演がこれで実現。なるほど、うまい設定だ!
個人的にはバレル大佐だけはパラレルワールドの住人ではなくて、デューオと旅に出て立ち寄った星で熱斗君達と再会する、という形にした方が劇的な展開になったのにと思いました。
おそらく最後にアイスマンが持っている通信機が役に立って、地球とビオンダードの間で通信ができるようになって帰る、という筋になるのでしょう。今回は構成が重層的ですね。
1月8日(日)
十二月九日 友引 房 【奈良若草山山焼き】
た、たいじゅうがーーーーー!!!
そ、そんなバカな
ダイエットしようorz
1月10日 火
十二月十一日 仏滅 尾
「直宮にこだわることのジレンマ」【政治・歴史】
堅い話題ですみませんが、また皇位継承問題についてです。歴史の愛好家としてはこの問題を等閑視することはできません。
そもそもことの発端は秋篠宮以来皇族には男子が40年間誕生していたいことにあります。秋篠宮の次に紀宮(黒田清子様)が生まれ、三笠宮崇仁親王のご子息である寛仁親王と高円宮にも合わせて5人の子供が誕生しましたが、いずれも女王でした。続いて秋篠宮に子供が生まれますが、2人とも内親王でした。皇太子が平成6年に結婚されますが、その後数年間皇太子は子供に恵まれませんでした。天皇陛下の次の次の世代には女性しかいないのです。そのため宮内庁は内々に皇位継承問題の研究会をスタートさせます。
平成13年には皇太子に敬宮が生まれました。しかしご存じの通り内親王(女性)でした。そこに平成14年11月に皇太子に次いで若い男子皇族であられる高円宮が急逝されました。この時点で子供を作れる男子皇族は皇太子と秋篠宮だけ。お妃のご年齢から、皇太子が作れる子供はあと1人、秋篠宮も2人。しかし皇太子妃は精神病の投薬治療中でした。精神病の薬を飲んでいる間は胎児に影響が出るので妊娠は危険です。子供が期待できるのは秋篠宮だけという状態に陥りました。
このような状況の中、平成15年に宮内庁長官が「秋篠宮に第3子を望む」旨の発言をしました。これに対し、平成16年5月に皇太子の「雅子の人格を否定する勢力がおり云々」という御発言があり、実質的に秋篠宮は皇太子を差し置いて第3子を作ることができなくなりました。秋篠宮が子供を作ることが皇太子への当てつけと同義になってしまうからです。秋篠宮とお妃の間には佳子様以来お子様が生まれていません。佳子様が生まれた年は皇太子がご結婚された年です。つまり、秋篠宮は皇太子に男子ができるまで子供を作ることを遠慮されていたのです。
皇太子の「雅子の人格を否定する勢力」発言は、当初皇族に無理解な宮内庁官僚への抗議として喝采を浴びましたが、今にして思うと、これは秋篠宮が第3子を作ることを封じるものであったことが分かります。皇太子と秋篠宮のご兄弟の間にどのような感情があるのかは分かりません。皇族といえども人間です、おそらく世間一般の兄弟と同じような情愛と確執があるのだと思います。皇族に理想の家族像を求めるのは皇族に無用の負担をかけるので、已めるべきだし、おそらく実際にそんなことはなくて、皇族も普通の家族並みに愛し合い、時には憎しみあっていると私は思っていますが、とりあえずこの話は措いておきます。
平成16年5月以降、皇太子妃のご病気が癒えるまで皇族に新しい子供が生まれることは期待できない状態に陥りました。皇太子妃の病気がすぐに癒えたとしても、産まれる可能性がある男子皇族は最大限3人。病気が長引くほど人数は減ります。このまま新たな皇族が生まれない場合、皇位継承は今上陛下ー皇太子ー秋篠宮と続いて、それでおしまいです。ここに日本は皇統断絶の危機に瀕しました。
これを受けて、平成17年1月に首相官邸に「皇室典範に関する有識者会議」が設立されました。皇位継承問題の解決を図るためです。これはおそらく先に宮内庁内部で研究された結論を権威づけるための会議と考えられます。官庁が、学者を集めて官庁の望む方向に政策提言をさせるのは、よく使われる手口です。これを私は「政策ロンダリング」と呼ぶことにしました。この有識者会議は「女帝承認、天皇・皇太子の第一子優先、女帝や内親王の子供も皇族とする」という驚くべき結論を出しました。これが日本の伝統からいかに逸脱したものであるかは、ここでも何度か述べた通りです。
ではなぜ宮内庁と首相官邸はこのような結論を出したのでしょうか?畏れ多いことですが、陛下はご高齢です。数年以内に薨去されてもなんの不思議もありません。その場合、当然皇太子が践祚されます。その時の皇太子は秋篠宮となります。皇太子は40代ですから、新帝の治世は少なくとも30年続くでしょう。皇太子と秋篠宮の子供は現在の3人だけと仮定します。新帝の治世の間に、敬宮、そして新皇太子の内親王である眞子様と佳子様は成人されます。当然結婚しなければなりません。皇室典範を持ち出すまでもなく、これまでの伝統では皇族以外の男子(つまり臣下)と結婚した内親王は皇族を離脱して臣籍に入ります。敬宮、眞子様、佳子様は生涯独身を通すか、結婚して皇族を已めなければなりません。そうすれば、皇族はいなくなってしまい、皇統は断絶します。
政府が国民の過半に迎合するのであれば、敬宮に皇太子の次か、あるいは次の次に女帝として践祚して頂くことになるでしょう。ここで男系を維持しようとすると昭和22年に皇籍を離脱した旧宮家に復帰して頂くしかありません。皇位継承は
今上帝ー皇太子ー秋篠宮(とばされる可能性あり)ー敬宮ー旧宮家・・・となります。
ここで問題は敬宮が結婚している場合です。百歩譲って、敬宮に結婚後も皇族でいて頂くことにすると、当然敬宮にも子供ができるでしょう。この子供は、女系ですので、皇族ではありません。どういうことかというと「敬宮皇太子の子供だけれど皇族ではない」という奇妙な身分の子供がここに発生します。子供にとってこれほど可哀想な話はないでしょう。もちろん世論は許しません。敬宮に皇位を継がせ、さらに結婚させる場合、敬宮の子供も皇族にしないと収まりがつかないのです。これが有識者会議が「内親王の子供も今後皇族として認める」、という結論を出した理由です。
しかし、「皇族」という身分は、皇族の男系子孫にしか継承されません。
このジレンマは、天皇という地位を「今現在の皇族(昭和天皇と三笠宮の子孫)の私有物」と私たち戦後生まれの人間が誤解していることによって生じています。皇位というのは、順序はあるとはいえ神武天皇の男系子孫全員に継承の権利があるものであり、昭和天皇と三笠宮の子孫の独占物ではないのです。寛仁親王もことあるごとにこれを提唱しています。現在の皇族も、寛仁親王同様に、自分たちの子孫だけで皇位を独占しようとは露ほども思っていないでしょう。年明け以来毎日新聞・文藝春秋に立て続けに寛仁親王が発言されて、それに対して他の皇族が全く異議を唱えていないことは、寛仁親王の見解が皇族の総意であることを示唆しています。
昭和天皇と三笠宮の子孫にだけしか皇位を継がせたくない、というのは皇位を一般人の私有物と同程度のものとみなす誤った見解から生じています。この誤った執念から女系天皇という国体を破壊する危険思想が生まれます。さらに女系天皇は皇族の望みからかけ離れています(少なくとも寛仁親王は反対)。
私情と公共への奉仕の峻別にもう一度私たちは思いを寄せる必要があるのではないでしょうか。
1月11日(水) 【鏡開き】
12月12日 大安 箕
「孤独な今上帝」【皇室】
昭和21年に日本国憲法が施行され、華族制度はなくなりました。平等で民主的な世の中となりました。皇族も「親しみやすい皇族」をモットーに戦後60年を過ごしてきました。いまだ前時代の威厳ある君主の風貌を残していた昭和天皇と異なり、今上帝は初めて民間からお妃を娶り、子供も自分の手で育て、また語り口も優しく、まさに「親しみやすい皇室」を体現されているような方です。
そんな陛下には、気を許してなんでも相談できる側近がいるのでしょうか。残念ながら否といわざるを得ません。それはなぜか、伏見宮系の宮家及び華族を廃止してしまったため、日本には昭和天皇と三笠宮の子孫のみという縮小された皇族と国民という二つの身分だけが残されました。実権はないとはいえ、最高の貴賓であらせられる皇族には強力なガードが付いています。宮内庁の官僚や警察のガードマンが、皇族に変な人間が近づいたりしないか、悪い友達はできないか恒に見張っています。
旧憲法の時代には皇族と国民の間に華族というクッションがありました。華族と皇族は、共通した生活文化を持ち、学校や成人してからのキャリアも共有していました。支配層としての責任感も共有していました。人間は共通の基盤を持たないと、心からのコミュニケーションは取れません。それに宮内省(戦前は省でした)の官僚も華族ならばということで華族が皇族に近づくことは止めません。そもそも、宮内省の人員は華族の子弟で占められていたのでした。
かくして、昭和天皇には、宮家の人間、元首相、摂関家、侍従、ご学友など、話題を共有できる側近を多く持っていました。彼等側近は必ずしも昭和天皇を最前の方向へリードしたとは言い切れませんが、責任感を共有できる人間がいると言うだけで、心強かったでしょう。華族制度が廃止された後も、まだ皇族も旧華族もその時代の記憶を持っていましたので、昭和天皇は全く孤独ではなかったのです。
華族制度が廃止されてから半世紀以上が経ちました。宮内庁の人員もいまやほとんどが他省庁からの出向で占められ、旧華族はごく少数のトップだけになってしまいました。今上帝にももちろんご学友や親友はいますが、今や彼等はただの国民の一人ですので、支配層としての責任感は陛下と共有できません。それに天皇の権能は全く无くなりましたから、政治家は天皇と人間関係を作らなくても政治ができるようになりました。陛下が責任感を共有できる側近は全く无くなってしまったのです。歴代これほど孤独を強いられた天皇もそうはいないでしょう。
今上帝が心を許せる相手は、皇后さましかいません。皇太子と秋篠宮は既に一家をなしていますから、大人としてそうも頼ることはできないでしょう。紀宮(黒田清子様)にも陛下は心許すことができたでしょうが、既に降嫁してしまいました。まさに身を切る思いで嫁に出したのであろうとご推察されます。
今上帝と皇后様は孤独です。残りの皇族も孤独です。我々が「親しみやすい皇族」を期待すれば期待するほど、皇族は孤独さをまします。
親しみやすい皇族
理想の家族
これが皇族を苦しめています。
元首は親しみやすい必要があるのでしょうか?
理想的な家族でなければ皇族を敬う気持ちになれませんか?
1月12日(水)
十二月十三日 赤口 斗
「藤原版万世一系」【歴史】
藤原鎌足ー不比等ー房前ー眞盾ー内麻呂ー冬嗣ーー長良ー基経ー忠平ー師輔ーーーーー
|ー良房 |
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|ー兼家ー道長ー頼通ー師実ー師通ー忠実ーーー
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ーー忠通ーー近衛基実ー基通ー家実ーー兼経ー13代ーー信尋(後陽成天皇皇子)ー2代ー家煕
| | |−久我家
| |ー鷹司兼平ー10代ー信房(二条晴良3男)
|ー九条兼実ー良経ー道家ーー教実
|ー二条良実ー11代ー晴良ー鷹司信房ーーーーー
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ーー信尚ー教平ーー鷹司房輔ーー兼煕ーー房煕ーー尚輔(近衛家煕3男)ー基輝ー輔平(直仁親王5男)
|ー九条兼春ーー九条輔実ーーーーーーー二条宗基ーーーーーーーーー
|ー二条綱平ー吉忠ー宗煕 |
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|ー治孝ーー二条斉信ーー斉敬ーー正麿ー弼基ー基敬ー孝基
|ー九条尚忠ー二条基弘
|ー二条隆温
鎌足からの万世一系は二条家と久我家に今受け継がれているようです。
藤原氏の宗家は近衛と鷹司です。宗家に二条・九条という傍系から養子が入っているのは、二条・九条が鎌足からの男系継承を守っていたからです。皇族と母系ではいくらでも血がつながっている藤原氏といえども、江戸時代になるまでは男系継承を頑なに守り続けました。
江戸時代になって宗家の近衛と鷹司に皇族から養子が入った時点で、藤原氏宗家は家系の男系継承を放棄したといえるでしょう。
1月13日(金)
十二月十四日 先勝 牛
昨日の話の補足です。
参考1【近衛信尋の出自】
近衛前久ーー近衛信尹
|ー近衛前子
||ーーー近衛信尋
後陽成院
近衛家の分家に久我家がありましたが、当時の久我家には養子に出せる子供がいませんでした。今さらライバルの鷹司・九条から養子を迎えるのはプライドが許さなかったのだと思います。それに当時は織田・豊臣・徳川と権力者がめまぐるしく代わり、摂関家も生き残りに細心の注意を図らなければなりませんでした。後陽成院というのは元気で頼りがいのある天皇でしたから、男系継承を守るよりは、皇子を養子として迎えた方が、近衛一家としては得だと判断したのでしょう。ややこしくなるのでもう書きませんが、久我系統の男系継承も守られています。
※さらに付け足しです。久我家は賜姓源氏(村上源氏)でした。ただし、戦国時代に近衛家から養子が入っています。源師房は御堂関白道長の猶子であったと思います。ですから久我家は賜姓源氏ですが、準藤原家の扱いを受けていました。足利義満の代までは淳和院・奨学院の別当を勤める源氏の長者でした。本来は足利や徳川なんかよりも久我の方が源氏としては格が上なんですね。藤原氏と源氏では姓が異なりますから、血縁とはいえ、久我家から養子を迎えるのは抵抗があったのかもしれません。どうせ源氏を入れるのなら、もっと格上である皇子を迎えた方が箔が付いて得である、という判断が働いたのかもしれません。
参考2【日本の名家略図】
神武天皇・・・・・光厳天皇・・・後花園天皇・・・・・・・・・・・・・・・現皇族
・ ・ ・・・徳大寺家・住友家
・ ・・・・・・・・・近衛家・細川家
・
・・・伏見宮・・・・・・・・・・・・・・・離脱宮家
藤原鎌足・・・忠通・・・近衛家・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・久我家
・ ・・九条家・・二条・・鷹司・・・・・・・・・・九条・二条家
・ ・・鷹司松平家・・・・・鷹司家
・
・・・・御子左・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・冷泉家・入江家
参考3【鷹司松平家】
鷹司信房の娘の孝子が徳川家光の正室となったため(本理院)、本理院の弟の信平は松平姓を賜り、上野吉井藩を開いた。家格は御三家同等。明治まで存続。現在の鷹司家にはこの松平家から養子が入っている。しかし松平家の方は最近になって断絶した(wikipediaより)
面白い家ですね。
鷹司松平家と細川家は、男系ではなくて女系で先祖とつながっていた可能性もあります。この点線の図はあくまで略図です。住友家というのは、あの住友財閥の住友家です。細川家は、細川首相の細川家。細川首相の父君が、近衛文麿首相の親友でした。細川首相の父君というのがこれまた長生きで、戦争中に活躍した人であるのに、なくなったのはなんと去年でした。冷泉家と入江家は学者の家です。冷泉家の邸宅は京都烏丸今出川の同志社大学の中にあり、冷泉家では今でも王朝時代の伝統を頑なに守っています。生きた文化遺産です。入江家は明治以降、宮中の侍従・学者・外交官として活躍しています。NHKの人間大学に出てくる歴史の入江先生は末裔です。
1月14日(土)
十二月十五日 友引 女 【望】
先週の日曜日に自分の体重に衝撃を受けてから低インシュリンダイエットを心がけています。白米・食パン・うどん・芋を避け、玄米・脱色していないパン、蕎麦、スパゲッティーがよいということなので、一日一パン一ご飯一麺にしました。うまい具合に、正月に親からもらった蕎麦がありますので、晩飯はこれを食ってます。お酒も糖分が多い日本酒とワインは避けて、焼酎にしました。
体重計も買ってきました。
その甲斐あってか、体重は最悪の状態を脱しました。やれやれ。
次の目標は70kgを切ることです。
頑張るぞ!
昼に「功名が辻」の第一回を見ました。
山内一豊なんて二流の武将じゃないか、と莫迦にしていたのですが、なかなか良くできています。山内一豊が冴えない武将であることは変わりませんが、当時の時代背景をよく研究している。意外なところで家人同士が顔見知りであるとか、木下籐吉郎(太閤さん)が尾張と美濃の国境を根城にする武装水運業者の川並集の力を借りて織田信長をサポートするところなど、最新の研究成果が出ています。首実検のシーンも良くできていました。
さらに、武術もリアルになってきました。
今までの時代劇のような道場剣法ではなく、剣術・体術を駆使した実戦的な戦いが再現されています。刀を受けながら、脇から小刀を出して相手の腹を刺すシーンなどびっくりしました。また上川隆也の槍術もなかなかのものです。上川さんは「大地の子」の時、中国語の台詞を、意味は考えずに全く音として記憶して演技したそうです、なまじ覚えるよりも真に迫っていました。今回も、槍の先生の演舞をそのままコピーしたのでしょう。特殊な才能を持った役者さんです。
脇役がよい。柄本明の籐吉郎はイメージにぴったりです。柄本さんは最近の時代劇には欠くことのできない役者さんですね。武田鉄矢が演じる一豊の従者も期待できそうです。武田鉄矢は「太平記」の時に楠木正成を熱演しました。金八先生なんかよりも、このような肩の力が抜けた役の方が性に合っていると思うのですが。
そうじて、脇役の年齢が高いですが、これは一豊が活躍するのが、織田信長や豊臣秀吉が歳を取って天下人になってからであるからです。館ひろしの信長が桶狭間をやるのは無理があると思いましたが、天下人になって精神の平衡を失ったあたりの信長にはぴったりとはまるのではないかと思います。去年兄貴分の渡哲也が最高の平清盛を演じましたから、頑張らないわけにはいかないでしょう。
というわけで、予想に反して当たり作になるかもしれない「功名が辻」皆様もご覧になってはいかがでしょうか?
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ニュースでは、自民党が皇室典範の党議拘束を外すとか、首相が「そんなのはダメだ」と言ったとか、でも今国会では時間が足りないとか、いろいろな飛ばし記事が流れています。日々めまぐるしく状況が変わりますが、社会の木鐸たるもの、こうも根拠なく記事を飛ばして良いのでしょうか?
構造改革や経済政策では小泉首相の応援団を自認する私も、皇室典範を女系容認の方向で改定することは反対ですので、その旨を剰らした年賀状に書き連ねて、選挙区の自民党議員、東京自民党、内閣官房広報室、そして首相(宛先は内閣官房広報室)に送りました。このようなことをしたのは生まれて初めてです。
最近はメールという便利なものもありますが、やはり有権者が手書きで意見を書き、例え50円でも自腹を切って議院に直接意見を郵送するのことには大変な効果があると聞いたことがあります。電話はダメです。相手の都合を無視しているので下品ですし、声は残りません。
一般市民として、今のところできることはやり尽くしました。
後世の日本人に恥じることのないように最善を尽くしたいものです。
1月15日【小正月】【小豆粥】
十二月十六日 先負 虚
皇位継承問題について今まで書いた文章にリンクを張っておきます。
「今まで皇位継承者が途絶えた時にどうしていたか」【歴史】
「父系と母系の違い」【歴史】
今日は堅い話はなしにして、
今日は、八王子へ行って呉服屋さんを探してきました。和服専門のお店はなかなか少ないですね。それでも八日町に4軒ほどありました。2軒は、できあいの着物はなくて、畳があって、反物が置いてあるだけ。正真正銘の呉服屋です。ひえ〜〜こういう格調高い店はまだレベルが足りないのでパスです。
もう一軒は女物しかなかったのでパス。言えば出してもらえたのかもしれないけれど、なんだか入るのが恥づかしい。
荒井呉服店というお店が開放的な雰囲気だったし、着物の種類が多かったので入りました。
お店のおばちゃんに「どこかに着ていくのではなくて着物を休みの日に普段着として着たいのだが、全く分からない」と言ったら、親切にいろいろ教えてもらえました。
私はてっきり下には袴をはくものだとばかり思っていたのですが、普段着用の着物は厚手の浴衣の裾が長いようなのを着るだけで袴を着ないんですね!そういえば、サザエさんの波平も時代劇のお侍も自分の家ではそんなのを着ていたような。
家に帰ってから調べてみたところ、江戸時代でも袴は仕事用のフォーマルな服だったそうです。私の着物のイメージは直垂(ひらたて)だったのですが、直垂は鎌倉時代には武士の普段着であったものの、室町時代には既に礼装になっていたとか。今では相撲の行司さんとか、神職の人とかしか着ないから、普通には売っていないらしい、直垂の方がかっこいいと思うのですが、まずは着流しと羽織で入門した方が良いみたいです。
下着として襦袢を着るそうです。なんと襦袢は着物のシャツであったのか!今日の今日まで私は襦袢とは股引の親戚、つまり着物のパンツだとばかり思っていました。歴史オタクとか言っておきながら恥ずかしい話です。
襦袢(下半身は股引)、着流し、羽織、外套
の順で今の時期は着るそうです。洋服でも肌着、ワイシャツ、トレーナー、コート
ですから、そんなものですね。
着物はピンからキリまでありますが、お店に置いてあるやつは全部で5万円くらいでした。これなら手が届く範囲です。DVD-BOXを一つ我慢すれば買えますね。来月のお給料で買おう!
1月17日 (火)
十二月十八日 大安 室 【土用】
いやはやひどい風邪でした。
日曜から少し調子が悪かったのですが、大丈夫だろうと八王子を歩き回っていたらそれが良くなかった。月曜には咳が止まらなくなり、目眩までしてきました。会社の診療所で体温を測ったら八度一分。こんな熱を出したのは3年ぶりです。必要最小限の仕事をして早退。今日は休みました。
お昼頃に汗をびっしょりかいて熱はひいたようです。
頭痛は残ったのですが、9時くらいまでには引きました。咳もだいぶ収まってきました。明日は会社へ行けそうです。
新しい部屋へ移ってからずっと風邪気味です。
陽が当たらないのが悪い。換気扇も不調で湿気はたまるし。
こんな部屋に住んでいたら殺されてしまいます。
寮を出る期限は来年の春ですが、予定を切り上げて外に部屋を探すことにしました。
1月19日(木)
十二月廿日 先勝 奎
鼻の頭をマスクから出して歩いていたら、がきんちょに「・・・ブタだ」と言われてしまった。
全く失礼な悪ガキじゃ、今度見かけたらとっちめてやる。
がきんちょどもの前で、偶然女の人を追い越したのですが、その女性がどうやらその子達の先生だったらしく「先生デート?」と訊かれていた、ちょっと気の毒でした(笑)
明日は大寒です。
1月20日(金)
十二月廿一日 友引 婁 【大寒】
1月21日(土)【初大師】【川崎身代わり不動尊開山日】
十二月廿二日 先負 胃
「皇籍復帰のシミュレーション」【皇室】
1.皇籍離脱時の生き残りの復帰によって、子孫も同時に復帰
【新東久邇宮家】
東久邇宮信彦王ーー征彦(31歳)
(日タイ協会常務理事)
【新竹田宮家】
竹田宮恒正王ーー恒貴(30歳未婚:大手商社勤務)
(元三菱商事)
【新竹田宮家2】(新しい宮号になるかもしれません)
竹田宮恒治王ーー恒昭(25歳未婚:電通)
|ー恒智(24歳未婚)
(伊藤忠商事)
【新久邇宮家】(男子がいないので、戻ると言うだけですぐ断絶すると考えられる)
久邇宮邦昭王ーー朝尊(45歳:大手商社勤務)
|ー邦晴(41歳:大手電機メーカー勤務)
(神社本庁統理)
【新久邇宮家2】(新しい宮号になるかもしれません)
久邇宮朝建王ーー朝俊(33歳:日本生命)
【新朝香宮家】
朝香宮誠彦王ーー明彦(31歳:大手損害保険会社勤務)
2.皇籍離脱後の出生であるが、両親ともに皇族であったので特例として復帰
【東久邇宮家2】
東久邇眞彦ーーー照彦(25歳:住宅資材商社勤務)−※男子(2004年生まれ)
|ー睦彦(24歳:自動車販売会社勤務)
※この男子は、敬宮のお婿さんになる可能性が高いと思われる。
3.現宮家に婿入りする形で復帰?
【賀陽宮家】(賀陽宮家が復帰するには、年齢から秋篠宮家と結婚するしか方法がない)
秋篠宮眞子内親王あるいは佳子内親王
||
賀陽宮章憲王(故人)ーー正憲ーーー男子(小学生が2人いる)
他に、(三笠宮)寛仁親王のご令嬢であらせられる彬子女王(24歳)と瑤子女王(22歳)が、竹田宮家、あるいは東久邇宮家のどなたかと結婚する可能性もあります。高円宮の三女王は、年齢が釣り合う方がいませんが、少し無理をすれば竹田宮か東久邇宮のどなたかと結婚することもあるかもしれません。
【竹田宮家3】(恒和氏は離脱後の生まれなのでそのままでは復帰が不可能)
竹田恒和ーーー恒泰(29歳:財団専務理事)=三笠宮系の女王?
|ー恒俊(24歳:放送局勤務)=三笠宮系の女王?
全部で10人。宮家へ婿入りの形を入れれば最大で13人。
あと週刊誌にありましたが、梨本宮(男系断絶)には養子として変な人物が入り込んでいるらしいですね、しかもこの男は宮家の子孫を売りにして支那で謝罪外交まがいのことをしているらしい。この人物を穏便に排除することがネックなのかもしれません。
1月22日 (日)
十二月廿三日 仏滅 昴
やっと「出雲国譲りの真相」第一話が脱稿したーーー!
去年の夏からですから半年かかりました。
原作者から漫画化権を戴いてからだともう足かけ4年も待たせてしまいました。
それでもまだ一話13ページに過ぎませんが。これは大いなる一歩だ!
今年はどんどんいくぜ!
機会がありましたら、こちらでもマンガを公開しようと思います。
1月24日 (火) 【初地蔵】
十二月廿五日 赤口 觜
「皇太子妃(雅子様)のご病状」【皇室】
いい加減皇室のことばっかで皆さん引いているでしょうが、まだまだ続けます。
わたしゃ天誅組の岡山県生まれで、尊王攘夷の水戸藩育ち、大学は京都しかも会津藩墓地の裏に住み、今住んでいる町は新撰組で有名な町です。これで会津若松か十津川村が加われば勤王ストレートフラッシュができてしまいます。これはもう勤王にならなきゃ嘘でしょう。
皇太子妃に対して、あらぬ噂が流れています。いろいろ書き立てている週刊誌もあります。私もこうまんちきな女と信じていた時期がありました。
しかし、皇居歌会始の皇太子妃のここ数年多歌を鑑賞して確信しました。この方は、権力とか陰謀とは無縁の方です。皇太子様と敬宮(愛子様)の御三人で慎ましく暮らすことしか願っていない、根は伝統的で、折れやすい繊細な心の持ち主です。帰国子女、ハーバード、外交官という絢爛豪華な経歴に目をくらまされてはいけません。
ではなぜ友達と遊ぶことはできるのに公務をさぼっているのか
私の推測ですが、皇太子妃は「パニック障害」なのではないかと思います。ちょっと緊張したりすると、急にパニック状態になってしまう病気です。
公務は大勢の人の目にさらされます。私も躁鬱病だから分かりますが(鬱病とパニック障害は近い病気)、鬱の時に人混みの中にはいると、どうしようもなく不安で気持ちが悪くなって、その場にいたたまれなくなります。人混みが怖くなるのです。また、緊張した場に堪えられず、奇怪なことを口走ったり、失神(私はそこまで行きませんが)したりします。
パニック障害の人が神事や公務をしたらどうなるでしょうか。国民の前で奇怪な言葉を口走ったり倒れたりしたら、大事な神事を最中で投げ出したりしたら、あるいは天皇陛下の目の前で失神して陛下を傷つけたりしたら、皇室の恥であることはもちろんのこと、皇太子妃は以後生きていくことはできないでしょう。
皇太子妃がパニック障害であるかどうかは分かりません。でも鬱病であることは公表されています。鬱であれば、多かれ少なかれ、上記のような症状が出ます。精神疾患は障碍(しょうがい)です。精神疾患を抱えた人に「前向きに生きろ」なんてことを言うのは、足が動かない人に「足があるのに何で歩かないんだ!」と責めるのと同じくらい残酷なことです。この感覚は、普段真面目で前向きな人ほど分からないんですよね。
鬱病やパニック障害やナルコレプシーの人は、自分のスケジュールで生活できないと苦しいです、皇族は究極の受け身のお仕事ですから、皇太子妃はさぞ苦しまれたことと思います。けれども外交官も似た面がありますから、あのまま外交官を続けていても、いずれ何らかの問題を起こしていた可能性が高い。皇室に入られたから不幸になった、ということはないと思います。むしろ、温かいご家族の支えと、最高の治療を受けられるようになったわけですから、良かったかもしれません。
皇太子妃は世上言われているような方ではないと思います。私は皇太子妃をこれから見守っていきたいです。そして、皇太子妃を支える皇太子を始めとする皇族の方々の温かい心を広く訴えていきたい。
1月26日(木)【文化財防火デー】
十二月廿七日 友引 井
「出雲国譲りの真相」マンガ版第一話です。
原作者のページで公開することにしました。
原作:勇者ロト、画:セラフィー
1〜3ページ(左から読んでください)
4〜6ページ(左から読んでください)
第一話は13ページ。7ページ以降も順次公開の予定です。
完全オリジナルです。マンガ版の著作権は勇者ロト、セラフィー両者にあります。
1月28日(土) 【初不動】
十二月二十九日 仏滅 柳
今日は旧暦で、平成乙酉年の終わりの日です。ただし、二十九日ですので大晦日とは言いません。
「ふしぎ星のふたご姫」
えっと、ケロロ軍曹の前はカレイドスターで、カレイドスターは残念ながら見なかったのですが、その主役は子供の頃にサーカスに憧れて、サーカス団に、お名前は苗木野そらさんですか、なっちやんけ!しかもなっちって、ケロロ軍曹の・・・三年越しの手の込んだオチですね、なかなかやってくれます。
空中ブランコに乗れない花形スターというネタは空モモにもあったと思います。もしかしたら映画に元ネタがあるのかもしれません。最後に木のツタで空中ブランコをやるシーンは感動的でした。ベタベタな展開だけどちょっとグッと来てしまった。
「出雲国譲りの真相」
7〜9ページ(左から読んでください)
10〜13ページ(左から読んでください)
できたら感想も聞かせてくださいね〜
「通い婚と嫡子の認知」【歴史】
皇位継承問題を突き詰めて考えると、家の継承とは何かという問題に行き着きます。また家の継承を考えるには、結婚や子育てが古来どういう意味を持っていたのかに触れざるを得ません。
古代は通い婚が主流でした。妻は実家で暮らしていて、夫が妻の家に通います。親公認で通ってくる場合も親に隠れてこそこそ通う場合も両方あったそうです。でもこれはなんだか家が父系継承されてきたことと矛盾するような気がしますね。
平安時代になると、天皇は後宮に公家の娘たちを集めて、そこで暮らすようになります。高位の公家から差し出された娘や、格別の寵愛を賜った女性は、部屋(局)を与えられます。天皇は、気が向いた時に妃がいる部屋に通うわけです。子供は元服するまでは母親と一緒に後宮で育ちます。また、御所が火事になって焼き出された時には天皇は后の実家に難を逃れたりしました。通い婚の名残が見られます。
公家では、通い婚が普通でした。ただし正妻は徐々に、夫の家の中で一室を与えられて常時そこに住むようになっていたらしいです。地方の豪族の家になるとよく分かりませんが、この頃は都でうだつが上がらなくなった傍系の王子や没落貴族などが、豪族に迎えられて、娘と結婚して、豪族の財産を継ぐ、というようなことが多く見受けられました。なぜこのようなことをしたのかというと、まず第一に高貴な血に対する信仰、第二に身分の高い男を家の当主にしておけば、箔がついて、国司のような都から派遣された官僚にいじめられなくて済むからです。
その後鎌倉時代後期から室町時代にかけて武家では徐々に嫁取り婚が主流になってきます。男の家に、女が入る形式の結婚です。同時に財産の相続が、均等相続から、惣領が親の財産を総取りする形式(惣領制という)に変わっていきます。現代でも問題になっていますが、均等相続を続けると、財産がどんどん細分化されます。今は会社で働けばいいので、財産が細分化されても困りませんが、昔の主要産業は農業ですから、財産が細分化されれば、収入はどんどん先細りします。それを防ぐために、武家は跡取りに総ての財産を相続させて、あぶれた兄弟は跡取りになった者をサポートする、あるいは外に出て行って自分で生計を立てる、このように世の中が変わってきます。嫁取り婚はこのように財産に対してシビアになった世相を反映しているのかもしれません。
嫁取り婚と父系継承は皆さんの頭の中でもすんなりとつながると思います。
問題は通い婚です。
父系継承なんて嘘だったんじゃないの、と決めつけるのは早計です。古事記でも「父系で受け継がれる家系」というものは意識されています。どういうことなのでしょうか?
こういうことであると思います。
男は、女の家に通って子供を作ります。子供は女の家で育てられます。昔は子供はすぐに死んでいました。男としても、生まれたばかりの子供を「これは俺の跡取りだ!」と決めつけてしまうのは得策ではありませんでした。子供が育つまでぢっと待ちます。
子供がそこそこ大きくなると、男は跡取りとして子供を引き取ります。この時初めて子供は社会的に「嫡子」として認知されるわけです。何度も言いますが、昔の主要産業は農業でしたので、家を継承するとは農業経営体(+自警団)を継承すると言うことです。家長とは社長であり、嫡子というのは次期社長という意味でした。
古代の人間の人生コースはこのようになっていたと考えられます。
母親の家で生まれる→母親の家で育てられる→嫡子として父親に認知される→父親の家を継ぐ
歴史を見ていけば、父親の財産を継いでいるのは一人に限りませんから、余裕のある家は、多目に認知して財産を分割していたのだと思います。
ではコースの途中で父親から認知されなかった場合はどうなるのか。こういう人も多かったと推測されます。おそらく、社会的には一人前扱いされなかったのだと思います。家を継いだ兄弟や甥のお手伝いをしたり、家を出て一人で生計を立てたりしていたのでしょう。家長を社長、嫡子を次期社長とすると、平社員みたいなもんですね。歴史を見ていくと、ずっと甥を助け続けた若い叔父さんとか、母親の身分が低かったので嫡子となった弟の裏方に回り続けた兄とか言うのが沢山登場します。また公家の家人(家来)に平とか源とか立派な名字を持った人が現れたりします。こういうのは、嫡子となれなかった人達なのでしょう。こういう嫡子となれなかった人にとっては、祖先の祭祀の継承とかにはあんまりこだわりもなかったと思います。
母親の家で生まれる→母親の家で育てられる→父親に嫡子として認知されない→兄弟の家来になる、あるいは外に出て自分の力で生きる
非民主的な弊風といってしまえばそれまでかもしれませんが、昔は生きていくのが厳しかったので、これは必要なことだったのだと思います。家の継承というシビアな現実を頭に入れないと、昔の歴史を正しく見ることはできないと思います。明日は、この通い婚と嫡子認知という補助線から、古代の女帝と皇太子制度がどのように説明されるかを見ていきます。
1月29日(日)
一月朔日 先勝 星 【旧正月】
平成丙戌年の元日です。皆様あけましておめでとうございます。
ニュースでは支那の旧正月が報道されていました。13年ぶりに爆竹が解禁されたそうです。共産党政権というのは無粋なことをします。
「ふたりはプリキュア・Max Heart」最終回
特にひねりはなく、プリキュアとジャアクキングが戦って戦いまくって、最後は巨大化したジャアクキングとクイーンが押し相撲をしてなんだかよく分からないうちに戦いは終わりました。
で、最後のあれは・・・仕方ないのかな、あのまま終わった方が文学的だったんだけどね。子供の心に無用な傷は作らない方がいいでしょう。終盤は少しだれたような気がしますが、面白い作品でした。スタッフの皆様ご苦労様でした。
第二弾はどうしようかな。ちょっとだけ味見しようと思います。
「功名が辻」
仲間由紀恵は時代劇をやるには顔の造形が大きすぎる。くちびる太すぎ。香川照之はありゃなんだ、ストーカーじゃねえか。
とまあ駄目出しはさておいて、稲葉山攻めの下り、司馬遼太郎先生の作品に忠実でした。最初から間道を使っても、相手に追い返されて、防備を強化されるだけで、ああいうのは敵方が弱って初めて役に立つ策略です。竹中半兵衛はこの機を待っていたのでした。
結婚式を前にはやる一豊の演技が面白かったです。
「通い婚と古代の女帝(1)」【歴史】
昨日は昔の子供というのは、元服するまでは母親の下で育てられ、父親に跡取りとして認知されて初めて、父方の家を継ぐ資格を与えられていたと説明したのでした。古代史を見ていると、どうやら一次的に天皇代行のような地位に着いていたと思われる女性が何人か存在します。
神功皇后(じんぐうこうごう:気長足姫尊)
・仲哀天皇の皇后で応神天皇の母。開化天皇の"父系の"5世の孫。ということでギリギリで皇族。
・筑紫において仲哀天皇が熊襲征伐の途中で神の怒りに触れて頓死する。緊急避難的に軍事指揮権を掌握。海を渡って新羅を征伐する。
・仲哀天皇が崩御された時、既に応神天皇を身ごもっていたが、腹に石を巻いて出産を押さえ?、応神天皇は神功皇后の母胎にいること一年半で生まれた。そのため当時の応神天皇のことを「胎中天皇」と呼んだ。(ということで遺伝的には応神天皇は本当に仲哀天皇の子供かどうか怪しい、まあ神話ですからね)
・江戸時代までは、天皇の一人として数えられていた。
飯豊天皇(いいとよてんのう:忍海飯豊青尊、忍海娘子)
・履中天皇の"父系の"孫。雄略天皇の従妹。
・仁徳天皇の孫の世代で皇位継承争いが発生して、めぼしい王子は死に絶えてしまいました。雄略天皇は息子に位を譲りますが(清寧天皇)、すぐに病死、群臣は困り果てて忍海娘子に一次的に政務を執ってもらうことにしました。
・正史は天皇扱いしていませんが、数年政務を執ったらしく、飯豊天皇という俗称があります。
・雄略天皇の刺客から逃れていた弟たちを見つけ出し位を譲ったそうです(顕宗天皇・仁賢天皇)
どうやら飛鳥時代の百年以上前から、皇族の父系の皇女であれば、天皇と同じ仕事をやっても良い、という考えが豪族の間にあったようです。古代において、娘が嫡子と同じように父親から認知されるという形をとっていたかどうかは、まだよく分かっていません。ただし後世伊勢の斎王という制度ができて、皇族の未婚の女王が天皇の安全を祈る仕事をしましたから、どうやら天皇の父系の女王には皇祖を祀る資格があったのだといえそうです。
皇位継承についてですが、応神天皇は、神功皇后の子供としてではなくて、父親の仲哀天皇の子供の資格で即位しています。神功皇后の子供というだけで即位出来るのなら(これは母系天皇ですが)、わざわざ「母親の胎内に一年半もいました」、という嘘をつく必要はありません。このような嘘をついて、仲哀天皇の子供、ということにしないと応神天皇は即位出来なかったのです。ここでもギリギリ?父系継承は維持されています。
飯豊天皇は、弟に位を譲りました。これは飛鳥時代の女帝と似たパターンです。
明日は、飛鳥・奈良時代の女帝を見ていきます。
1月31日(火)
一月三日 先負 翼 【庚申】
「出雲国譲りの真相」第2話の下書きに入りました。ここからアクションが多くなってきますので、また大変です。
「通い婚と古代の女帝(2)」
飛鳥時代に入る前にもう一人触れておく必要がある女性がいました。
手白香皇女(たしらかのひめみこ)
仁徳天皇の孫の代の皇位継承争いが祟り、応神天皇と仁徳天皇の子孫は、武烈天皇で途絶えてしまいました。そのため大和の王族は、越(北陸)から応神天皇の父系の五世の孫である男大迹(おとど)王を迎えることにしました。ただし、継体天皇は、なかなか大和盆地に入ることはできず、二十年ぐらい木津川の流域を行ったり来たりしています。まだ継体天皇を認めたくなかった豪族がいたからだろうと言われています。
継体天皇は、仁賢天皇の娘の手白香皇女と結婚し、入り婿の形で大和盆地に迎えられました。応神天皇の子孫というだけでは、突然皇位を継ぐには根拠が足りなかったことが分かります。大和の豪族としては、前の王朝とのつながりを確保するために、仁賢天皇が残した皇女との結婚を求めたのでした。「古事記」では手白香皇女のことを「大后」と記しています。皇后格ということです。継体天皇の後に安閑・宣化と継体天皇が越時代に生んだ子供が皇位を継ぎますが、この2人の子孫はその後皇位を継ぐことはありませんでした。
後世の天皇の共通の祖先となったのは継体天皇と手白香皇女の間に生まれた欽明天皇です。つまり大和の豪族は、手白香皇女の子孫しか天皇とは認めませんでした。ですからある意味手白香皇女の旦那は皇族の男子であれば誰でも良かったといえます。しかし皇族の男子でなければいけないことは自明でした。
安閑天皇と宣化天皇も、仁賢天皇の皇女と結婚していますが、王子女は生まれませんでした。
ちなみに、最初の女帝である推古天皇は欽明天皇の娘。聖徳太子は欽明天皇の孫です。
このようにしてみると、どうやら天皇・親王・王の娘には祖先を祀る資格があったのだといえそうです。
古代の皇族の女子は、皇族に嫁ぐことになっていました。ですから、皇族の女子と結婚した臣下が天皇の位を乗っ取る、というような危険性はありませんでした。この点は忘れないでください。
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